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元婚約者がフリマで売られてた話

作者: しらたま
掲載日:2026/08/23

 辺境の春は短い。


 雪が解けて、街道の泥が乾き、山向こうから行商が上がってくるまでのほんの一月ほど。その一月に合わせて、うちの領地では市が立つ。


 名前を『フリューゲル・マーケット』


 通称、フリマという。


 誰でも、なんでも売っていい。壊れた鍋も、飼えなくなった山羊も、老婆の編んだ手袋も、いらなくなった恋文も。買い手がいると思ったならばなんでも並べていい。それがフリューゲル辺境伯領の春の顔だ。


 ただ、もちろん、決まりはある。


 人は売れないのだ。人を売るような奴隷商も人買いも来ないように、門には門番が立っている。奴隷の売買が頻繁に行われている北の国境が近いこの土地では、それは冗談で済む話ではないからだ。


——のだが。


「スカーレットお嬢様。また出ております」


 侍女のイリスが、帳簿を抱えたまま無表情で言った。


「また?」

「また、です」

「今度は誰が誰を」

「鍛冶屋のヨナスの倅が、幼馴染を『銅貨三枚、値下げ可』で」

「……銅貨三枚」

「値下げ可、が肝でございますね」

「肝じゃないわよ」


 私、伯爵家令嬢のスカーレット・フリューゲルは帳簿を受け取って、ざっと目を通した。


「昨日は?」

「パン屋の娘が、実妹を焼きたてパン一斤付きで」

「一斤」

「バターは別売りとのことらしいです」

「イリス。なに楽しんでるのよ」

「いえ、めっそうもございません」


 顔色ひとつ変えずに言うので、余計にたちが悪い。


 この市には、そういう悪ふざけがつきものだった。友達を売る。兄弟を売る。安く売って、買い戻して、げらげら笑って帰る。


 当人たちは遊びのつもりでも、法の上では危うい。北の国境では、今でも人が売り買いされている。だからこの領地の市には、王都から目が向いている。「フリューゲルの市で人が売られていた」と一度でも報告が上がれば、市そのものが取り潰されかねないのだ。


 この市場は一月で、うちの領民は一年分の現金を稼ぐ。行商が上がってこなければ、冬の塩も薬も買えなくなることになる。


 だから、私が直々に管理人として出向いて、いちいち注意して回る。


「行くわよ。案内して」

「かしこまりました。……ああ、それと、もう一件」

「まだあるの?」

「東の外れに、男が一人。こちらは、その、少々毛色が違うようで」

「毛色?」

「実際にご覧になったほうが早いかと」


 イリスは帳簿を閉じた。


 東の外れは、市でも一番人通りの少ない一角だ。鉄屑と古着ばかりが並ぶ、売れ残りの吹き溜まり。


 そこに、男が一人、座らされていた。


 両手を後ろで縛られ、口には布。上等だったろう仕立ての上着は、袖が裂けて泥がこびりついている。金の髪は艶を失って、前髪の隙間から、青い目がこちらを睨んでいた。


 その目が、私を見た。そして、見開かれた。


「——っ」


 私は、ひっくり返った。比喩ではなく、本当に、足がもつれて尻餅をついてしまった。


「お嬢様!」

「い、いいの。心配しないで」

「大丈夫な倒れ方ではございませんでしたが」

「大丈夫って言ってるでしょう」


 私は助けに入ったイリスを抑えて、自分の手を見た。震えている。


 そこに座らされていたのは、私の元婚約者。ハルディン伯爵家次期当主、アレン・ハルディンだった。


 ◇


 まだ先月のことだ。


 私は、王都の夜会で、公然と婚約を破棄された。アレンはとてもよく通る声で言った。


「——スカーレット・フリューゲル! 今ここで、貴様との婚約を解消させていただく!」


 広間中が息を呑んで、私はドレスの裾を掴んだまま、驚くことなく、平然と頷いた。


 だって、婚約破棄されることはわかっていたのだから。


 というよりも、本当は逆だ。少し前に、彼の浮気が理由で私の方から、とうに婚約解消を申し入れていた。使者を立てて、書面まで整えて、あとは署名だけという段階だった。


 なのに彼は、それを飲まなかった。


「女に切られたなんて、俺の家名に泥を塗る気か」


 書面を突き返しながら、彼は言った。


「切るなら俺が切る。お前は切られる側だ、スカーレット」


 そう言って、わざわざ人の目のある場所を選んで、自分から婚約破棄を迫ったという形を作った。私は渋々、それに乗ってやった。彼と言い争うよりも、さっさと辺境に帰った方がはやく済みそうだったから。


 ただ、それは別に好きにしてくれればよかった。私が本当に腹を立てていたのは、浮気そのものではないのだから。


 三年間、アレンが私にしてきたあの仕打ちだ。


 アレンは、私に嫌がらせをするのが好きだった。それも、ただ意地悪をするのではない。


 十七歳の誕生日に、私が長いこと探していた推し作家の初版本を、彼が見つけてきたことがあった。


「ほらよ」


 差し出された箱は、リボンまでかかっていて、とても丁寧な施しがされていた。


「探したぞ。古書街を三日、それから南の修道院まで足を延ばした」

「三日も探してくださったのですか?」

「ああ、お前が去年から言ってただろ。あの挿絵の版が違うから欲しいとか。正直、俺には何が違うのか分からんがな」


 私は嬉しくて、みっともないくらい喜んだ。ありがとう、と何度も彼に言った。彼はまんざらでもなさそうな顔をしていた。


 だが、箱を開けたら、中はビリビリに破られた初版本が無造作に入っていた。


「ハハッ!! いいぞ、スカーレット! とてもバカみたい顔だ!」


 彼は涙を流して笑っていた。


「なあスカーレット。何もしないで意地悪するより、こっちの方がずっと効くだろう。一回上げてから、落とす。その落差分だけ、感情が抉れるんだよ」

「……なんでですか」

「ふっ、その顔が見たかったんだよ。今回は傑作だな」


 それを、三年。


 迎えに来ると言って来なかったり、庇ってくれたと思ったら、そのまま笑い者にされたり。十八の誕生日に私のための夜会を開くと言われ、着飾って会場に行くと、誰もいなかったり。私の反応はとても純粋で、見ていて楽しいのだそうだ。


 だから私は、普通にブチギレた。


 辺境に帰る馬車の中で、私は大声で彼の愚痴をイリスに言いふらし、それきり、あの男のことを考えるのはやめた。


——やめた、はずだった。


 ◇


 アレンの首から値札が下がっていた。木の板に、炭で乱暴に書いてある。


『金貨一枚』


 伯爵家の次期当主にしては、ずいぶん安い値段設定。私は思わず笑いそうになって、こらえた。


「これは私が対処するわ。売人はどこ」

「へえ、あっしで」


 現れたのは、目つきの悪い痩せた男だった。北の訛りがある。


「お嬢さん。もしやこの市の?」

「管理人よ。はっきり言っておくけど、ここでは人は売れないの。知らなかったとは言わせないわ」

「ええ、ええ。わかっておりまっせ」

「なら、これもダメに決まってるわよね?」

「まあ、そりゃ、人ならね。証文がありやしてね」


 男は懐から紙を出した。


「借金のカタですわ。ハルディン伯爵家、先月付けで差し押さえ。家財いっさい、次期当主含む。この従属契約を買ってくれる方を探しておるだけで、人は売っておりまへん」

「……従属契約」

「ねっ? 人は売ってないでしょ?」

「いくら契約魔法を売ったとしても、その契約が人間を縛り付けるものなんだったら、ダメに決まっているじゃない」

「けど、そんなこと、この市場の規則には書いてない。違いねえでしょ?」


 男は気持ち悪く歯を見せて、私に笑った。


 差し出された紙を、もう一度見た。それから、男を見て、それから、縛られたアレンを見た。彼は口の布のせいで何も言えず、ただ、私を睨んでいた。屈辱でぐしゃぐしゃになった顔だった。


——そこで、なぜか。


 私の指は、財布の中の金貨を探り当てていて、気がつけば、それを売人の手のひらに乗せていた。


「……お、お嬢様?」


 イリスの声が遠かった。


「毎度どうも」


 売人は慣れた手つきで針を出した。


「指をお願いします」

「痛くしないでよ」

「痛いのは一瞬でさ」


 針が指先に刺さり、玉になった血を、男はアレンの額に押しつけた。


 低い声の詠唱に、風が少し吹き荒れる。


——従属契約。


 買った者の言葉に、買われた者は逆らえない。北の辺りに古くから残る、あまり品のいいとは言えない魔術だ。


 アレンの体がびくりと跳ねて、それから、力が抜けた。


「お嬢様……よろしいのですか? さんざん人には注意してきたのに」

「勿論、よくないわよ」

「では、なぜ」

「知らないわ。手が勝手に動いたの」

「手が……?」

「手が」


 その論理性に欠けた返事に、イリスは何も言わなかった。


 ◇


「……くそッ」


 口の布を取ってやると、アレンの第一声がそれだった。


「お礼くらい言ったら?」

「誰が礼なんか」

「金貨一枚出したのは私よ」

「関係ねえよ。それに、これで晴れて俺はお前の奴隷なんだろ?」


 私はアレンを連れて、市を出た。従属契約のせいで、彼は私から一定以上離れられない。イヤイヤという顔を隠しもせず、それでも彼は私の半歩後ろをついてきた。


「アレン、なんでこんなところにいるのよ」

「……お前には関係ねえよ」

「関係ない関係ないってうるさいわね。関係あるわよ、あんたの所有者だもの」

「その言い方はやめろ。あと、俺には敬語を使え」

「飼い主がペットに敬語使うなんて変じゃない」

「わ、わかったから、飼い主っていうのはやめてくれ……」


 しばらく歩いて、私は思い出したように聞いた。


「そういえば、あの浮気相手は? セレナだっけ? 彼女と一緒になったんじゃないの?」


 足音が止まった。


「あ、あいつは……」

「なによ」

「……いなくなった」

「いなくなった?」

「消えたんだよ、俺の前から」


 語尾が濁ったが、それで、だいたいの話は分かった。道々、少しずつ吐かせた話をまとめると、こうだ。


 婚約破棄のあと、アレンはその令嬢——セレナと正式に婚約した。彼女は明るく、如才なく、投資の話がとてもうまかった。


「うちの領地で銀霜草を育てる事業だ。証書も見せられた。父も乗り気だった」

「あなたも乗ったの?」

「乗った」

「銀霜草は、霜が降りないと蕾をつけない草よ」

「……」

「あんたの領地は常夏地域でしょ! そんなとこで、どうやって霜を降らせるのよ」

「うるせえって。もう十分わかったから」

 

 それから、他の事業にもどんどん参入していくと言われ、金を貸していたら、いつの間にか彼女は消え、半年も経たずに、ハルディン家の名義は借金の山に変わっていたのだという。アレンの父はショックで倒れ、家は取り潰され、彼自身は債権者の手に渡り——そして、この辺境の市に、金貨一枚の値札をつけて並べられた。


「はした金だな」


 アレンは自嘲した。


「金貨一枚が俺の値段だとよ」


 私は、彼の横顔を見た。三年間、私を面白がって笑っていた顔が、今は泥で汚れて、目の下に隈がある。


 正直に言えば、ここで、大層なざまぁをしてやろうと思っていた。あの初版本の話をして、三年分をそっくり返してやろうと。


 でも、こう不貞腐れたものを蹴っても、たぶん、いい音は鳴らない。


 そう考えるうちに、私はため息をついた。


「まあ、仕方ないわ」

「……」

「性根を叩き直すわよ」

「は?」

「そんな腐った顔で私の後ろを歩かれたら、うちの領民に示しがつかないもの」

「いや断る」

「断れないでしょう。契約したもの」


 彼は口を開けて、そして閉じた。


 ◇


 初日、私が彼を最初に連れて行ったのは、屋敷裏手の厩舎だった。


「なんだ、これは」

「なにって馬糞よ」

「見れば分かる。なぜここに連れてきた」

「掻き出すのよ。冬の間、雪で手が回らなかったから溜まってるの。かなり積もってるわよ」


 彼は本気で私を見返した。


「嘘だろ」

「馬房が十二あるから、順番にね。全部終わったら、床石を洗って、新しい藁を入れて」

「……本気で言ってるのか」

「本気じゃなきゃ、朝からこんな臭いところに立ってないわよ。ほら、動く動く」


 鋤を渡すと、彼は柄の握り方すら分からずに手のひらを滑らせた。三度目で、掬った糞を自分の脛にぶちまけた。


「ぐっ……」

「そんな持ち方じゃ腰が持たないわ。柄の端を持って、脇を締めて、膝で押すの」

「なぜ令嬢が糞の掻き方を知っている」

「辺境伯の娘だからよ。冬に人が減れば、私もしょっちゅう馬房に入るわ」


 アレンが手を止めたので、私は付け加えた。


「言っておくけど、今日中に三つ。終わらなかったら明日に持ち越し。持ち越した分は、その日の分に加算されるからね」

「奴隷労働だな」

「だってそうだもの」


 その日、彼が終えたのは一つ半だった。


 夕方、彼は厩舎の柱にもたれて動けなくなっていた。手のひらの皮が捲れて、爪の間に黒いものが詰まっていた。十二の馬房を掻き終えたのは、二週間後だった。


 十五日目は、アレンを屋敷の中に入れた。


「厨房の裏で、鍋を磨いてちょうだい」

「鍋?」

「大鍋が十四個あるの。冬の間ずっと煮炊きしてたから、底に炭がこびりついてるわ。砂と灰で落として」

「えっと、指が痛いんだが」

「知ってるわ。昨日、皮が捲れてたものね」

「知っていて言ってるのか」

「もちろん」


 彼は三時間かけて二つ磨き、四つ目で指の腹から血を出した。それでも私が「まだ十個あるわよ」と言うと、黙って砂を掴んだ。


 それからの三月ほどは、外の仕事だった。


 春先の街道は雪解けで抉れる。彼は石を運び、土を突き固めた。冬を越せなかった羊を、凍った地面を掘って埋めた。炭焼き小屋の灰を掻き出し、便所を汲んだ。


 どれも、私が一度も手本を見せなかった仕事だ。彼は毎回、村の誰かに教わって覚えた。

 

 ◇


 「なあ」


 汗で濡れた髪を掻き上げて、彼は言った。


「聞きたいことがあるんだが」

「なによ」

「これは——」


 彼は言葉を選ぶように、少し黙った。


「これは仕返しか」

「仕返し?」

「お前に酷いことをしたから、それを俺にそのまま返してるんじゃないのか」


 私は井戸の縁に腰かけた。


「まあ、そう思っていた方が、あなたは楽でしょうね」

「……」

「私が仕返しをしているだけなら、あなたは被害者でいられるもの。三年前と立場が入れ替わっただけ。そう思っておけば、馬糞も、ただの八つ当たりで済むわ」


 彼は黙った。


「でも違うわよ。仕返しなら、こんな面倒なことしない」


 私は指を折った。


「あなたを笑い者にしたいだけなら、市に並べたままにしておけばよかったのよ。金貨一枚の値札のまま、三日でも放っておけばいい」

「……」

「わざわざ買って、飯を食わせて、屋根の下に置いて、毎日仕事を用意して。なんでそんな面倒をすると思うの」

「じゃあ、なんでだ」


 私は、少し考えるふりをした。


「アレン。今のあなたに何が残ってるか、数えてみたことはある?」


 アレンが顔を上げた。


「家名は消えた。爵位も取り上げられた。お金もない。あなたを『アレン様』と呼ぶ人は、もう一人もいないわ」

「……」

「あの三年間、あなたが振り回していたものは、ひとつもあなたのものじゃなかったのよ。あなたが人を笑わせられたのも、私を泣かせられたのも、あなたが偉かったからじゃない。あなたの家が偉かったからよ」


 彼の喉が、上下した。


「あなたはただ、その上に座って足をぶらぶらさせていただけ。椅子がなくなった今、何が残ってる?」

「……何もない」

「そうよ。だから作るの、今から」


 私は井戸の縁から降りた。


「あなた、鍋を十四個磨いたでしょう」

「……鍋?」

「あれ、誰も見ていなかったのよ。褒める人も、笑う人もいない。それでも鍋は綺麗になったわ」


 彼が、こちらを見た。


「それが、あなたが生まれて初めて自分の手で作ったものよ」

「……ただの鍋だぞ」

「ええ、そうよ。でも、誰の家名も関係なく、あなたの手で綺麗になったの」


 風が、井戸の水面を揺らした。


「私はね、あなたに『自分の力で立った』と思ってほしいの」


 彼が、ゆっくりと目を見開いた。


「そう思えたら、あなたはもう人を落とさなくて済むわ。他人の顔が歪むのを見なくても、自分がここにいるって確かめられるようになる」

「……スカーレット」

「勘違いしないでよ。私はあなたを許してないわ。三年分、ひとつも忘れてないもの」


 私は背を向けた。


「ただ、腹を立てるのはもうやめたの」


 彼は、何も言わなかった。けれど、その夜から、彼は言われる前に動くようになった。


 誰よりも早く起きて、厩舎を朝のうちに終わらせ、午後は村の作業に混ざった。鍋磨きの手つきは厨房の女たちに褒められ、街道の石は一人で運べるようになった。手のひらの皮は破れて、破れて、そのうち硬くなった。


 やがて、不器用ながら帳簿の手伝いもするようになった。村の子どもたちが袖を引いて読み書きをせがみ、彼を『アレン兄ちゃん』と呼ぶ頃には、もう、この土地の人間になっていた。

 

 ◇


 半年ほどが経つ頃、肌寒くなってきた部屋の中で、彼はぽつりと言った。


「スカーレット。俺が全部、悪かった」

「全部?」

「ああ。今まで君にしてきたことを、全部だ。もっと早く言うべきだった」


 彼は目を伏せた。


「君に贈った本を、俺が破って箱に入れたのを覚えてるか」

「もちろん。忘れるわけないじゃない」

「あのとき、君が泣きそうな顔をしたのを見て、俺は嬉しかったんだ。自分の手で、人の顔をあんなに変えられるのが」

「そう」

「あんなもの、ただの卑怯だ」


 窓の外で、風が牧草を撫でた。

「井戸端で、椅子の話をしただろう」

「したわね」

「あれから、ずっと考えてたんだ。俺には本当に何もなかった。だから、君の顔色ばかり見ていたんだと思う」


 彼は苦笑した。


「今は、鍋を見てる。石を見てる。……そっちのほうが、気が楽だ」

「いいわね」

「三年間、俺は君を道具にしてた。君の反応してくれるのが嬉しくて、一番下品なやり方でしか、自分の存在を確かめられなかった」


 薪が、ぱちりと鳴った。


「その俺が言うのは図々しいと分かってる。それでも言う」


 彼は顔を上げた。


「——君が好きだ」


 部屋が、静かになった。


「だから、この首輪をつけたまま、君に何かを言わせたくない」


 彼は、拳を握っていた。


「君の下に立つ男じゃなくて、隣に立ちたい」

「……」

「だから、スカーレット。契約を解除してくれ」


 彼は、真顔だった。私は、しばらく黙っていた。


 暖炉の火が、彼の頬を照らしている。手のひらの豆と、日に焼けた首筋と、三年前にはなかった目。


「そうね」


 私は言った。


「その前に、ひとつ聞くわ。あなた、悔しくないの」

「……何がだ」

「セレナのこと」


 彼の呼吸が、止まった。


「あなたの家を丸ごと持っていって、お父様を倒れさせて、あなたを市に並べた女よ。今ごろどこかで、あなたのお金で笑ってるわ」

「……それは」

「実はね」


 私は、机の引き出しから一通の書状を出した。


「あの子が今どこで何をしてるか、掴んだのよ」


 彼が、椅子から身を乗り出した。


「詐欺師の一家よ。父親と兄と、三人。土地を変えて、同じ手口を繰り返してる。あなたが最初の獲物じゃないし、最後でもないわ」

「どこにいる」

「北。国境の手前の宿場町。今は羊毛商の未亡人に取り入ってるそうよ」


 彼が、立ち上がった。


「行く」

「早いわね」

「行くに決まってるだろ」

「じゃあ」


 私は、書状を畳んだ。


「あの一家を叩きのめすまで——さっきの答えは、保留にしておいていいかしら」

「……いや」

「いや?」

「保留にしてくれ、と俺から言うべきだった。今の俺は、まだ君に買われた男だ。片をつけてから、もう一度聞く」


 私は微笑んだ。


「うん、よろしい」


 彼は、しばらく私を見ていた。


 ◇


 北への旅は、丸一日かかった。


 従属契約のせいで、私たちは一定以上離れられない。おかげで馬も宿も同じで、道中はずっと話していた。


「宿場町に着いたら、まず商会の記録を見る。あいつらが名前を変えてても、証書の書式には癖が残るはずだ」

「よく分かるわね」

「証書に騙された男だからな。二度は騙されん」


 彼は道々、思い出したように顔をしかめた。


 宿場町に着いてからの十日は、地道な仕事ばかりだった。商会の記録を洗い、被害者を探し、証書の写しを集める。アレンは書式の癖を突き止め、私は伝手を使って王都に照会を出した。


『ヴァレス家』を名乗る一家。父と兄と娘。三年で四つの家を潰してはその財産を奪い取っていた。その家の者は一人残らず、悪趣味な方法で、被害に遭っていた。アレンが元婚約者である私の市場に出品させられていたように。


 全ての証拠が揃ったのは、十日目の夜だ。


「明日、商談の席があるらしいわ。未亡人に最後の証書を書かせる日」

「そこで押さえるのか」

「ええ。監査局の人が来るように頼み込んだから、私たちは何もしなくても彼女らは捕まるだろうけど」

「それだけじゃ、ダメだ。俺はちゃんとけじめをつけたい」

「そうね。では私たちは監査局よりも早く現場に向かいましょう」

 

 彼は頷き、手に持っていた剣を膝に置いた。


 どこかの村で借りた、刃こぼれのある古い剣だ。彼はそれを毎晩、丁寧に研いでいた。

 

 ◇


 そして、翌日の朝。


 宿場町の商館の一室に、私たちは踏み込んだ。


 テーブルの向こうに、三人がいた。恰幅のいい男と、痩せた若い男と——そして、絹のドレスの娘。三年ぶりに見るセレナは、記憶より、ずっと綺麗だった。

 

 鞘走る音が、部屋に響いた。


 アレンが、扉を背にして剣を抜いていた。切っ先は、まだ誰にも向いていないが、誰かが動こうものなら、躊躇しないような雰囲気を出していた。


「動くな。誰も出さん」


 兄が、腰を浮かせかけて、そのまま止まった。だが、セレナだけが、笑った。


「あら。まだ生きてたのね、アレン」

「……セレナ」

「貴方の家、綺麗さっぱりいただいちゃったけど。もしかして、私に渡しそびれたものでもあったかしら?」


 テーブルの端で、未亡人が何も理解できない顔をしていた。運よく、証書にはまだ判が押されていない。


「ヴァレス一家」


 私は、書類の束をテーブルに置いた。紙の重みが、木の板を鈍く鳴らした。


「三年で四家。手口も筆跡も、全部揃ってるわ。すでに、監査局には情報提供済みだから、貴方たちに逃げ場はないわよ」


 それを聞いた父親の顔から色が抜け、兄は椅子の背を掴んだまま座り直した。窓は、彼らの後ろにある。それでも、彼らは動こうとしなかった。


「……アレン」

「な、なんだ!」


 セレナはゆっくりと、アレンを見上げ、可愛らしく上目遣いをした。


「私、あなたのこと、少しは好きだったのよ」


 そして、泣きそうな顔をした。あの日、アレンと彼の父の前で見せたのと、同じ顔で。


「信じてくれる?」


 アレンの手が、剣の柄にかかった。


「ちっ、その顔だ」


 彼の声が、一段と低くなった。


「その顔で、父に判を押させて、俺らを騙したんだろう」


 セレナの余裕が、初めて崩れた。彼女は椅子ごと後ずさり、初めて、本当に怯えた顔をした。


「……ま、待って」

「待たん」


 彼が、剣を振り上げた。三年分。いや、彼の家と、父と、金貨一枚の値札と、この数ヶ月の全部が、その腕に乗っていた。


 咄嗟に、私は息を吸った。


「——アレン、待ちなさい」


 声が、部屋に小さく響いた。


 従属契約。買った者の言葉に、買われた者は逆らえないという契約のせいで、アレンの振り上げられた腕は空中でぴたりと止まった。


「……なんで」


 彼が、絞り出すように言った。


「なんでだ、スカーレット! あと一歩なんだぞ。今こいつらを裁かないと、いつまた被害に遭う貴族が現れるか!」

「そうね」

「じゃあ、なぜ止める! 今から、俺の目前の仇を討って、それから俺はお前に告白を——!」


 私は答えずに、彼の脇を通り抜けた。そして、セレナに向かって言った。


「セレナ。もういいわ、その顔」


 彼女が、ぴたりと泣き止んだ。怯えて丸まっていた背をスッと伸ばし、鬱陶しそうに椅子を引き戻した。


「はあ。疲れた」


 セレナは椅子に座り直し、髪をかき上げた。指先が、まだ湿った目尻を軽く払う。


「お姉様、遅いのよ。三日も待たされたんだから」

「仕方ないでしょ。アレンが証拠集めに手間取ったんだし」


 アレンの腕はいまだに下がらない。それどころか、体の身動きが効かないのだ。


「……お、お姉様? いや……待て待て、スカーレット、さっきからなんの話を?」


 掠れた声で言った。


「紹介するわね」


 私は、微笑んだ。


「セレナ・フリューゲル。王都でうちの商会を見てる、私の腹違いの妹よ。すっごく仲がいいの。文通も毎週するくらいにね」

「……は? ど、どういうことだよ」

「この子、母親の姓を名乗ってたのよ。王都ではね」


 立ち上がった父親役の男が、外套を脱いで軽く頭を下げた。兄役の男も、窓際でこくりと軽く礼をした。

 

「彼らは、うちの商会の者よ。それっぽい人を用意しただけ。それに監査局に連絡なんてしてないし」


 アレンの剣が、床に落ちた。


「私がセレナにお願いしたのよ。『あの男をちょっと痛い目に遭わせてくれない?』って。この子、商才があるから。半年もあれば伯爵家ひとつくらい、丸ごと剥がせるのよね」

「……いや待て」

「だから、あなたが署名した投資証書。あれ、全部うちの家に流れてる。あなたの借金は、今や私たちの資産よ」

「待てと言ってるだろう!」

「まだあるわよ」


 私は指を一本立てた。


「あなたをフリマに並べたの、うちのイリスなの」


 彼の呼吸が止まった。


「売人は北の伝手を借りたけど、証文を作ったのも、値札を書いたのも、全てうちのイリス」

「……金貨一枚」

「あら、いい所に気がついたわね。あなたの価値を値踏みするつもりはなかったのよ。でも、あの日の財布に金貨をちょうど一枚だけ入れて行ったんだから、仕方ないわよね」


 彼が、床に手をついた。


「……嘘だろ」

「嘘じゃないわよ。これに半年以上かけたのよ」


 私は膝を折って、彼の目線に合わせた。


「厩舎も、鍋も、洗濯も、街道の石も。あれ、全部あなたのためだと思った?」

「……」

「違うわよ。あなたが自分から『変わった』って思い込むための段取り。人ってね、自分の足で登った坂ほど、落ちるとき派手なの」

「村人は」

「え?」

「領地の村人はみんな、俺に懐いてくれてて……」

「あれは本物よ。あの子たちは何も知らないもの。あなたが本当に好かれてたのは、嘘じゃないわ」

「……そうか」


 彼の唇が、何か言おうとして、動かなかった。


「そして、ここ」


 私は、部屋を見回した。


「証書の癖を見抜いたのも、被害者を探したのも、全部あなたよね。えらいわ、本当に。予定より三日ほど遅れたけれど、よく十日でここまで来たと思う」

「……」

「でも、まあ、あなたが調べた記録、全部うちの商会がわかりやすく置いていたものだったんだけどね。見つける順番まで決めてあったの」


 セレナが、机に頬杖をついた。


「あんなに分かりやすく撒いてあったんだもの。気づかないほうが難しいわよ」


 アレンが、目を閉じた。


「……全部、俺に、取り返せると思わせるためか」

「そうね」


 私は、静かに言った。


「あなたに、一番高いところまで登ってほしかったの。無くしたものを全部取り返せる、って思えるその瞬間まで」

「……」

「——上げて、落とす」


 私は立ち上がって、埃を払いながらそう言った。


「その分だけ落差ができて、その落差がある方が、感情が抉れるんだったかしら?」

「……」

「何か言いなさいよ、アレン。あなたが私にそう教えてくれたのよ」


 彼が、私を見上げた。


「なあ、スカーレット」

「何?」

「井戸端で言ったことは。……あれも、嘘だったのか」

「井戸端? なんだったかしら?」

「自分の力で立ったと思ってほしい、って言っただろう。あれは——」


 私は、少し首を傾げた。


「ああ、あれ。あれは、本当のことよ」

「……ならなんで」

「ひとつも嘘は言ってないわ、わたし。あなたに『自分の力で立った』って思ってほしかったの。ずっと、そればっかり考えてた」


 私は微笑んだ。


「思ってほしかったのよ。本当は、私が貴方を立たせてあげていたのに——そう思い込んでほしかったの」


 彼の顔が、崩れた。


「そうじゃないと、今、こんなに効かないでしょう?」

「もういい。いいから、もうやめてくれ……」

「——ああ」


 私は、思わず変な声を漏らした。


「いい顔ね」


 本当に、いい顔だった。


 殴られたわけでもないのに、殴られたみたいな顔。信じたぶんだけ、まるごと崩れた顔。


「とてもバカみたいで、いい顔よ、アレン」


 私は開いていた扉に向かった。


 彼はまだ、剣を振り上げたままだった。腕は同じ高さで、下ろすことも、振り下ろすこともできないまま、肘から先だけが小刻みに震えていた。


「今日はそのままの格好で、一日中いなさい。セレナを斬ろうとした罪よ」

「……」

「それとね」


 扉に手をかけて、思い出したように付け加える。


「従属契約はそのままよ。解除してあげないから」

「……っ!」

「だって」


 私は、少しだけ笑った。


「——まだ、一年目も終わってないもの。最低でも五十年は働いてもらわないと、金貨一枚で買った割に合わないわよ」

 

 廊下で、セレナが「お茶にしましょ」と言っているのが聞こえた。


 私は一度だけ振り返った。振り上げた腕。震える切っ先。その下で、私を見ている顔。三年前に箱を開けた私も、たぶん、こんな顔をしていたのだと思う。


 扉を閉めて、妹についていった。


 廊下の窓からは、フリューゲルの辺境領がかろうじて見えた。


 辺境の春は短い。冬はうんざりするほど長い。


 けれど今年は、雪掻きも、薪割りも、氷の張った馬房も、押しつけられる手がある。


 それもたった金貨一枚で。


 元は十分に取れそうだ。


(了)

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― 新着の感想 ―
うわぁナニコレすごい! 幼稚な嫌がらせ…にしては質が悪い事されてて よくこんなクズ買い取って更生させてやるよ…とか思ってたんですが… それに、アレンがすっかり隷属契約を解除してもらうのが当たり前みたい…
ありがちなハッピーエンドに落ち着くのかなぁ…と、思っていたら! まさかの、大どんでん返し!!! 面白かったです!
いい感じの復讐劇で、引き込まれました。
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