目となって
Side クーガ
ノクス様から初任務を与えてもらう少し前。
僕は訓練場の片隅で、セドリックさんと向き合っていた。
「クーガ」
いつもみたいに木刀でしばかれるかと思ったら、その声はいつもより少しだけ低かった。
「はい!」
「心して聞け。……クローバー領内は、辺境ということもあり、多くの組織が潜伏している。そして、彼らの把握をしてノクス様に全てを支配してもらうつもりだ」
その言葉に、背中がしゃんと伸びた。
多くの組織! それをノクス様が支配する。
そうすることで、僕の家族を殺した教会とは別の形の巨大な勢力を作り上げるのか?! でも、ノクス様は「理不尽と闘う」と言っていた。
なら、それらもきっと、闇の結社が見過ごしてはいけないものだ。
いや、教会は国の中では光として扱われている。つまり、闇とは教会に対抗する勢力ということだ。
「頭目は、その悪党どもを見張る目を必要としておられる。……そしてそれを、貴様に命じられるだろう」
「……僕に、ですか?」
「そうじゃ。己が力を磨き、隠密に徹して調査をせよ。そして、見たものをすべて頭目に報告するのじゃ!」
胸が、どくんと跳ねた。
執事見習いで、剣もまだまだ未熟な僕にノクス様は目を任せてくれた。
それが、どれだけ大きな意味を持つか、言われなくても分かる。
「……わかりました!」
思わず声が大きくなる。耳がぴんと立って、尻尾が勝手に揺れてしまったのが恥ずかしかったけど、セドリックさんは笑わなかった。
「よい返事じゃ。……よいか、クーガ。貴様の身体能力と魔狼としての嗅覚、聴力は、闇の結社において大きな武器となる」
「……武器」
「そうじゃ。剣だけが武器ではない。気配を読む鼻。遠くの声を拾う耳。足音を殺せる脚。……それらは、表の兵どもには真似できん芸当じゃ」
魔獣の血を嫌った人たちとは、違う言い方だった。
化け物でも、災厄の種でもない。僕の耳と鼻と脚を、武器だと言ってくれた。
「ノクス様の望みは、この領を覆う理不尽を見逃さぬこと。貴様は、そのための最前線じゃ。……誇るがいい」
「……はい!」
セドリックさんの言葉は、木刀よりも重かった。けれど、その重さが嬉しい。
◇
そして今、僕は領都の門の前に立っている。
ノクス様から与えていただいた初任務を行うためだ。
「表向きは買い出し。ついでに、街の空気を読んできなさい」
空気を読むっていうのが、正直よく分からなかった。けれど、セドリックさんの言葉と合わせれば、きっとこういうことだ。
人々の顔。匂い。声。……全部、感じ取れってことだ。そして、様々な組織を炙り出して、全てをノクス様の元に膝をつかせる。
僕は森にある砦から、領都に入る。
門をくぐると、たちまち匂いが変わった。
焼いた肉の匂い。
焼きたてのパンの香り。
馬の汗と油、鉄の匂い。
人の群れが混ざり合って作る、街の匂い。
鼻の奥がくすぐったくなるほどの情報量。でも、それをひとつずつ分けていくのが、魔狼の嗅覚だ。
……血の匂いは、しない。腐臭も少ない。街は、今のところ危険は感じない。
それだけで少し安心する自分に気づいて、苦笑した。
石畳を歩きながら、耳を澄ます。
「最近、盗賊の噂は聞かないな」
「辺境伯様の兵が見回りを増やしてくれてるらしいよ」
そんな会話が聞こえる。別の通りでも平和な声が聞こえる。
「……例の移民の一団、また入ってきたらしいぜ」
「ふん、余計な厄介ごとを持ち込まなきゃいいがな」
少し、刺々しい。移民……領の外から来た人たち。そこに、何か火種があるのかもしれない。
頭の中で、ノクス様の顔が浮かぶ。帰ったら全部報告しよう。
誰が、どんな顔で、どんな声で話していたか。
市場の真ん中で、ふと足を止める。
甘い匂いだ。
焼き菓子の屋台。バターと蜂蜜と、小麦が混ざり合った、幸せみたいな匂い。
……喉が鳴った。
でも今は任務中だ。ノクス様の財布を勝手に軽くするわけにはいかない。
今度、任務のついでじゃないときに買おう。
そう思って通り過ぎようとしたとき。
「ねーちゃん、耳、きれーだなぁ」
小さな子どもの声がした。
振り向くと、獣の耳をした女の人が、困ったように笑っていた。
人混みの中に紛れていた、小さな獣人家族。
周りの視線は思ったより、冷たくはない。
「ほら、失礼だよ」
母親らしき人が子どもの頭を軽く叩き、周りの人たちも笑っている。
……ここは、俺のいた場所とは違う。
魔獣の血が、即座に処刑の理由になる世界じゃない。
少なくとも、この街はそうじゃない。
ノクス様と、この辺境伯領が守っている空気は、こういうものなんだろうか?
胸が、じんと熱くなった。
路地裏にも入ってみる。
薄暗い石壁。酒と煙草と、安い酒場の匂い。
その中に、少しだけ嫌な匂いが混ざっていた。
薬草……じゃない。もっときつい。これは……麻痺薬系? 耳を澄ませる。
「例のブツは?」
「今日の夜、港の倉庫に入る。……兵に嗅ぎつかれる前に、さっさと運べ」
短い会話。声を覚える。足音を覚える。匂いを、しっかり刻み込む。
……これは、報告だ。
奴隷商人や闇取引。
そういうものが、また誰かの人生を壊す前に。
ノクス様の闇が届くように。
◇
夕方、買い出しの袋を両手に抱えて、僕は闇の砦へ戻る。
街を出て砦にたどり着くと地下へと階段を降りていく。
ノクス様が円卓のところで資料を広げていた。
「戻りました、ノクス様!」
僕の声に、ノクス様が顔を上げる。
顔の半分を隠す仮面、右目の魔眼が淡く光って見えた気がした。
「おかえり、クーガ。……領都の空気は、どうだった?」
その問いに、胸の奥が少し誇らしくなる。
「はい。順番に報告します。まず、市場は活気があって、盗賊の噂は少ないようでした。辺境伯様の兵が、見回りを増やしていると――」
俺は見たもの、聞いたこと、感じた違和感を、一つずつ言葉にしていく。
移民の話。
獣人の家族の様子。
路地裏で聞いた“ブツ”の会話と、匂いの特徴。
ノクス様は、途中で口を挟まず、静かに聞いてくれた。
その瞳は真剣で、ふざけている様子なんて少しもない。
……全部、本気で受け止めてくれている。
それが嬉しくて、気づけば早口になっていた。
「なるほどね。港の倉庫、ね……」
一通り聞き終えたあと、ノクス様は小さく頷いた。
「上出来よ、クーガ。初任務としては、十分すぎるくらいだわ」
「本当ですか?」
「ええ。本当に空気を読んできたわ。……あなたの耳と鼻は、やっぱり優秀ね」
褒められるのは、少しくすぐったい。でも、それ以上に誇らしい。
「これからも、あなたには街の目でいてもらうわ。……いい?」
「はい。僕は、ノクス様の目と耳ですから!」
口にして、自分でも驚くくらい自然だった。
家族を殺した者たちに復讐する日は、いつか必ず来る。
でもその前に、僕にはやることができた。
ノクス様のために。
この領のために。
闇の結社の使徒として、強くなることだ。
まっすぐノクス様を見て、もう一度だけ言った。
「次の任務も、必ず成功させます。だから……どうか、僕を、もっと使ってください」
ノクス様は、一瞬だけ目を丸くしてから、ふっと笑った。
「ふふ。じゃあ、遠慮なく酷使させてもらうわ、クーガ」
その笑顔は、光よりも、ずっと温かかった。




