魔女様は僕のご主人様
Side クーガ
あの日、僕の家族は神の名を口にする人間たちに殺された。
魔狼の血を引く一族。
昔、王国を滅ぼしかけたという黒く巨大な狼の末裔らしい。
そのせいで、教会では災厄の種と呼ばれ、王都では姿を見せるだけで石を投げられた。
それでも、僕は母さんと弟と、森の奥で静かに生きていた。
狩りをして、焚き火を囲んで、笑って……それだけでよかったんだ。
けれど、神を名乗る連中は、それすら許さなかった。
炎に包まれる家。
笑っていた弟が、泣き声も出せないまま崩れ落ちた。
母さんの最後の声が、今でも耳に焼き付いている。
「逃げて、クーガ」
気づいたとき、僕の手には焼け焦げた鎖が絡んでいた。
そして、母さんの温もりはどこにもなかった。
それから、時間の感覚は消えた。
生きる意味も、死ぬ勇気も、どちらもなかった。気づけば、奴隷商人に捕まり、鉄の檻の中にいた。食べ物は投げつけられ、水は汚れ、夜は冷たかった。
「お前みたいな化け物でも、高く売れるさ」
その言葉が、世界の形を決めた。
ああ、世界は残酷なんだ。生まれつきの血だけで、誰かに殺される理由になる。
魔狼の末裔なんて言葉、呪い以外の何でもない。
だから僕は、もう誰も信じないと決めた。人も、神も、光も。信じられるのは、この痛みと憎しみだけだ。
そのはずだった。
盗賊に襲われ、奴隷商人が全滅したあの日。
鎖を引きずりながら森を逃げた僕の前に、あの人は現れた。
黒いローブ。金の仮面。
右目だけが光っていて、闇を覗くように赤く輝いていた。
魔女様。
夜よりも暗い闇を纏いながら、俺を見下ろして言った。
「ふふ……怯えることはないわ、小さき魂よ。我が名は闇の結社が頭目ノクス。闇を識る者にして、光を拒む者」
怖かった。なのに、その声は不思議と優しかった。
「あなたの命を奪うほど、私は飢えていないわ」
どういう意味か、分からなかった。けれど、その人は僕の鎖を焼き切って、傷に手を当ててくれた。黒い光が体を包み、痛みが消えていく。
「……闇は、冷たくなんかないわ」
その瞬間、俺の中の何かが壊れた。
闇は、冷たくない。魔狼の血を忌む人間たちは、光の名のもとに僕の家族を殺した。なら、僕を救ったこの闇こそ、本物の温かさなんじゃないか。
「あなたの名前は?」
「……クーガ。……奴隷です」
そう言うと、ノクス様は少し目を細めて言った。
「では今日から、あなたは私のものよ。闇の結社の保護下に入るわ」
その言葉を、僕は一生忘れないだろう。
私の物……誰にも必要とされなかった僕を、初めてそう呼んでくれた。
その瞬間、僕は決めたんだ。この人に仕える。この人のために強くなる。いつか力を手に入れて、家族を殺した連中をこの手で裁く。
でも、それは今じゃない。今はただ、ノクス様の側で生きたい。
あの闇のように、優しい魔女のために強くなりたい。
「ノクス様。僕は……あなたの闇になります」
そう呟いた夜、森の奥に、黒いローブと銀の髪が並んでいた。
ノクス様に拾われてから、数日が過ぎた。
あの夜のことは、今でも夢みたいに感じる。闇の森で死にかけていた僕を救ってくれたのは、黒の魔女ノクス様。
彼女は僕の鎖を焼き切り、傷を癒し、優しい声で言ってくれた。
「今日からあなたは私の物よ」
……あの言葉を、何度も思い出してしまう。
◇
ノクス様の闇の砦は、森に隠された古い砦だった。かつて戦時に使われたという石造りの空間は、魔法灯の明かりで淡く照らされ、静かに息づいていた。
怖い場所じゃない。むしろ不思議と落ち着く。闇があたたかい。
そんなことを感じたのは、生まれて初めてだった。
「クーガ、こっちへ。ごはんができたわ」
ノクス様がそう言ってくれた時、俺は思わず息を呑んだ。テーブルには湯気を立てるスープと焼き立てのパン。久しぶりに見る、普通の食事だった。
「食べなさい。闇の使徒が倒れたら困るもの」
「……食べて、いいんですか?」
「もちろんよ。あなたはもう私のものなのだから」
あたたかいスープを口に含んだ瞬間、喉の奥が熱くなった。涙が出そうになって、慌てて俯いた。こんな味を、僕は知らなかった。
ずっと隠れて生きてきた。奴隷になってもカビたパンや、腐った肉だけだった。
闇は、どこまでも深く優しいんだ。
そして次の日から、僕は教育を受けることになった。
指導を担当したのは、白髪の老騎士セドリックさんだ。
「坊主、ノクス様は気まぐれなお方だが、誰よりも真っ直ぐな御方だ。この辺境の地をいつまでも安住な地にするため、自ら裏で生きることを選び、闇を自称する魔女を演じておられる。とても優しい方なのだ。仕えるならば覚悟しておけ。あの方は必ず大義をなされる」
セドリックさんの声は低く、重かった。
最初に渡されたのは掃除道具。次に礼儀作法。立ち方、言葉遣い、食事の際の姿勢……ひとつでも怠れば、容赦なく木刀が飛んできた。
「闇の使徒だからといって、野蛮でいい理由にはならん。それはノクス様の品位を下げることになる。執事も兵も、基本は同じだ」
「……はい!」
そして午後は、剣と体術の訓練。木剣を握るたびに手が裂け、足がもつれて倒れる。けれどセドリックさんは一度も怒鳴らず、静かに言うだけだった。
「強くなりたいのだろう? ならば立て、クーガ」
「……っ、はい!」
その日、初めて本気で立ち上がった。痛みも、傷も、もう恐くなかった。
あの方のために……。
夜、訓練を終えて倒れ込む僕の耳に、ノクス様の声が届く。
「どう? セドリックの訓練は厳しいでしょう?」
「はい……でも、頑張ります。ノクス様のために」
「ふふ……その意気よ。闇はね、ただの力じゃないの。誰かを守るために使うものなのよ」
彼女の手が、僕の頭を撫でた。
闇の魔女なのに、神の名を語るものたちよりも優しい手だった。
セドリックさんは時々、遠い目で話してくれる。
「ノクス様の祖父ガルド様も、かつてこの国を守った英雄だ。今は隠居なさっているが、ノクス様のことを誰よりも誇りに思っておられる」
ガルド様、その名を聞くだけで、胸の奥が熱くなる。
あの人たちは、僕みたいな化け物を受け入れてくれた。
訓練も、教育も、僕をノクス様の護り手にするため。だから絶対に応えるんだ。
夜明け前の訓練場。汗と土にまみれながら、僕は剣を振り続けていた。
「……強くなる。もっと、もっと強く……!」
家族を殺したあの神を語る連中を、この手で裁くために。
そして、救ってくれたご主人様、ノクス様のために。
この身、この心、全てを彼女に捧げるんだ。
闇の中で剣を握りしめた。
それが、僕の生きる理由だから。




