75、鋼の参謀と兄妹の溝
病も終には魔界帝国首席参謀の鋼鉄の意志と肉体に勝てなかった。数日間の静養を経て、タヴァルはついに健康を取り戻しその職務へと復帰した。
魔王城議政庁。全快したタヴァルは清潔な礼服をまとい恭しくシェリスの前に立つ。その手には一束の書類が握られている。
「…以上が陛下ご不在の間、および臣下が療養中に滞っておりました全ての緊急軍務と内政報告です。大部分は臣下が処理済みですが、小部分は陛下の御裁可を必要とします」
タヴァルは寸分の隙もない黒い燕尾服をまといモノクルをかけ、恭しく玉座の下に立つ。その一貫して感情の色を欠いた平坦な口調でシェリスに報告を続けていた。その顔色はまだ病後の蒼白さを残しているが、眼差しは変わらず鋭く論理も明晰だ。まるで数日前のあの高熱がただの幻覚であったかのようだった。
シェリスは巨大な玉座に気だるげに寄りかかり片手で頬杖をつき、腹心のその教科書のように正確な報告を聞いていた。彼女は知っている。タヴァルがいる限り魔界の運営は決して軌道を外れない。この絶対の安心感こそ彼女が城を離れエルフの森へ向かうことができた拠り所であった。
「ご苦労だったタヴァル。残りの仕事は些末なものばかりだ。すぐに片付くだろう」
シェリスは軽く労いの言葉をかけ、そして不意に何かを思い出したかのように雑談めいた口調で切り出した。
「そういえば先日温泉でお前の妹に会った」
彫像のように微動だにしなかったタヴァルの体が「妹」という文字を聞いた瞬間、ほとんど知覚できないほど硬直した。だが彼はすぐに常態へ戻りいつもの事務的な口調で応じた。
「さようでしたか。タールニが陛下にご迷惑をおかけしましたか? もしそうであれば、どうぞ厳しく罰してやってください」
彼の使う言葉は「我が妹」ではなく「タールニ」。その意図的に距離を置いた呼称にシェリスは少し可笑しさを感じた。
「別に迷惑はかけられていない。ただ少し臆病すぎるだけだ。余を見ると猫に会った鼠のようになる」
「さようですか…」
シェリスは興味深くタヴァルの反応を観察したが彼はやはり感情を見せない。そこで問いを続けた。
「そういえばずっと気になっていた。お前は…自分の触手魔物としての身分があまり好きではないのか? タールニがそう言っていたが。お前は他の触手魔物と違い余と同じ二本足で歩いている…お前の触手はどこだ?」
その問いはタヴァルの禁域に触れたようだ。彼が鼻梁のモノクルを押し上げるとレンズが冷たい光を反射した。
「陛下。属下にとりましてあれらは全く不要なものでございます」
彼の答えは冷静かつ決然としていた。そこには一抹の嫌悪さえ含まれている。
「臣下は陛下の筆頭参謀。あなた様を最大限補佐できるこの頭脳さえあれば十分。肉体的な特徴など無用な累贅に過ぎません」
彼は一拍置き、まるで宣告するかのように付け加えた。
「臣下はとうに家族…そして『触手魔物』という身分と完全に決別いたしました。現在の触手魔物一族の長は我が妹、タールニでございます。触手魔物一族に関わるいかなる事柄も、直接彼女にお尋ねください」
この言葉は答えというより境界線だ。彼は自分を「タヴァル」という個から、徹底的に「魔王の参謀」という役割へと純化させていた。彼は決して「触手魔物」ではない。そのためにタヴァルは自らの全ての触手を切り落とし、魔法開発部の部長に依頼して魔法による肉体改造を施させ、骨と脚と足裏を持つ、人間と何ら変わらない二本足を作り上げていた。
このような極端な忠誠にシェリスはとうに慣れており、むしろ評価さえしていた。タヴァルとはそのような一分の隙もない魔物。だからこそ全ての仕事を任せられる。そこで彼女も回りくどい話はやめ、直接本題を切り出した。
「ならば丁度いい。余はタールニを新任の首席大将軍に任命するつもりだ。前任のカロン将軍が傷病と老齢を理由に引退を申請し、余はそれを許可した。タールニに彼の地位を継がせることに決めた」
「…何と? それはいつの…臣下は全く存じ上げませんでしたが…」
「余が城を離れる前カロンが内々に余に伝えてきた。正式な書面で申請すれば余計な者にも知られ、良からぬ噂が流れると危惧したのだろう。首席大将軍の引退は我が軍の士気に大きく影響する…。だがタールニは元より四天柱の一人。部下からの信頼も厚い。彼女が後任となっても大きな問題はあるまい」
冷静なタヴァルでさえもこの決定を聞き、一抹の愕然とした表情を隠せない。 「陛下、それは…本気でございますか?」
「どうした、不服か?」
「滅相もございません。ただ…」
タヴァルは即座に思考を整理し、参謀としての角度から冷静に利害を分析し始めた。
「タールニは強大な個体戦闘能力こそ持ちますが、軍を率いた経験は皆無。戦略的な視野も欠如しております。『首席大将軍』というこれほど重要な地位を彼女に与えるのは、少々…早計に過ぎるかと存じますが?」
「お前の懸念は理解できる」
シェリスは頷き、そして自らの理由を述べ始めた。それは君主が臣下を諭すような、有無を言わせぬ口調だった。
「だがタールニは魔界全土で余を除き、唯一【魔王の力】に覚醒した魔物だ。その強さも量も余には遠く及ばんが、それでも力は使いこなせている。これが何を意味するか、わかるか?」
シェリスはタヴァルの答えを待たず、一方的に続けた。
「これは、彼女が正式な魔王となる資格さえ持つということだ。そして彼女の今の力は、余が殺した先代魔王にも劣らない。魔王にさえなれる強者が、首席大将軍の地位にふさわしくないなどと、言えるか?」
「…」
「お前が言う指揮能力についても、考慮済みだ。既に兵法書や将軍論などを熟読させ、統率力と戦略眼を強化させている。あの子の天賦の才ならば、すぐにその地位にふさわしい人材へと成長するだろう。それにタールニは一人で、百万の軍勢にも勝る戦闘力を発揮できる。絶対的な力の前に、数の意味は薄れる。時には彼女が自ら軍を率いずとも、その単独の戦闘能力だけで任務は遂行できるだろう。統率面の不足は、お前や他の三天柱が補えば済むことだ」
「陛下のお考え、理解はできます。ですが」
しかしタヴァルは、さらに鋭く、そして核心的な問題を提起した。
「陛下、恐れながら申し上げます。まさしくその点において、タールニは制御不能な爆弾とも言えます。兵士たちは彼女の実力を信頼すると同時に、その力をひどく恐れてもいる。真の意味で人望を得ているとは言えません。そのような強大な力を持ちながら、心智の未熟な者をそばに置くことは、いつか将来、陛下の御世を脅かす脅威となりかねません」
シェリスの顔から笑みが消えた。議政庁の温度が、瞬時に数度下がったかのようだった。
「その言い分は、余にタールニを殺し、後腐れをなくせと、そう進言しているように聞こえるが?」
「陛下がその必要性を感じられるのであれば、私は反対いたしません」
タヴァルは一切引くことも妥協することもなく、シェリスの冷たい視線を受け止め、固く答えた。
「それが良いのか? お前はあの子の実の兄だぞ。余が、お前の親族を殺すのを、お前は目の前で見ていると?」
「陛下の覇業のためならば、肉親さえも切り捨てます。いえ、とうに切り捨てております」
タヴァルの答えは斬釘截鉄で、一片の感情もこもっていなかった。
その発言にシェリスはしばし黙り込み、最終的に、一つのため息へと変えた。 「タヴァル、お前の仕事ぶりと忠誠心を疑ったことは一度もない。だが、その親族に対する悪辣な態度は、実のところ、余には到底同意できん」
その声には一抹の失望が滲んでいた。タヴァルは忠実すぎるがゆえに、時に融通が利かず、非情でさえあった。
「タールニがお前に何かしたわけでもなかろう。お前の家族の、あのくだらん相続問題ごときで、彼女を陥れようとするな。あるいは、元より余の手を借りて、邪魔者であるタールニを排除するつもりだったか?」
「滅相もございません! 臣下にそのような意図は断じて!」
タヴァルは慌てて片膝をついた。
「陛下がタールニを殺すことをお望みでないならば、せめて彼女を追放、あるいは軟禁し、重用すべきではございません。タールニという者は、権力にも、戦いにも、一切の執着がございません。たとえ陛下が彼女を用いずとも、彼女が不平を言うことは万に一つも…」
「もうよい」
シェリスはタヴァルの不快な言説を遮った。彼女は立ち上がり、ゆっくりと巨大な窓辺へと歩み寄り、窓の外に広がる、魔界の永遠の血色の空の下、どこまでも広がる山々を眺めた。目の前のことしか見えていないタヴァルとは違い、シェリスの視線は彼女が今見ている風景のように、どこまでも広く、遠くを見据えていた。
「タヴァル、お前の視点はあまりにも短絡的だ。タールニの戦略的価値は、お前が想像するより遥かに大きい。【魔王の力】の使い手が余を補佐しているという事実は、我が軍の士気を大いに高める。同時に、余がもう一人の【魔王の力】の使い手を平然と重用することは、余の実力主義と寛大さを対外的に示し、より多くの人材を引き寄せることにも繋がる。彼女の戦闘能力がどれほど敵を殺せるかを抜きにしても、この二点だけで、余が彼女を用いる理由としては十分だ」
「しかし…」
「それに」
タヴァルがなおも何か言おうとしたが、シェリスが激しく振り返った。天下に君臨する者の、息詰まるような威圧が、瞬時に議政庁全体を包み込み、この、愚かな進言をする参謀に、宣言を突きつけた。
「たとえタールニが本当に反乱を企てたとしても、絶対に成功などせん…。お前は、【魔王の力】を使えるというだけで、余への脅威となるとでも思ったか?」
そう言うとシェリスはゆっくりと右手を持ち上げた。一つの紫黒色の、まるで全ての光を喰らうかのような魔力の炎が、彼女の掌の中で静かに燃えている。そこには、エルフの森の半分を本気で焦土に変えることができる、恐るべき力が秘められていた。
「余は史上最強の魔王だ。全ての【魔王の力】の使い手と比べても、余の力は、その強度においても、魔力の総量においても、他の者を遥かに凌駕している。たとえ奴らが余を闇討ちしようと、あるいは寝込みを襲おうと、絶対に不可能だ。かつて先代魔王を殺した時、余は実力の半分も見せずに、奴を容易く打ち破った…」
「ふっ」
シェリスは五指を握り締め、手の中の魔力をかき消した。まるで「この程度の破壊力、余にとっては物の数でもない」と宣言するかのように。 彼女は一歩一歩、玉座の前へと戻り、床に跪くタヴァルを見下ろし、絶対的で、疑う余地のない口調で最終的な宣言を下した。あるいは、警告とでも言うべきか。
「タールニをどう処遇するかは、余に考えがある。あの子が本当に何か一線を越えた行動に出るまでは、余はお前が処刑だの、追放だの、あの子にとって不利になるような進言を一切許さん。次に同じようなことを口にしてみろ。たとえお前であっても、二度と許さんぞ…。わかったな?」
タヴァルの体はその恐るべき威圧の下、制御不能に震え始めた。魂の奥底から湧き上がる寒気が彼をまるで氷の底へと突き落としたかのよう。彼は、即座に、その頭を、深く、深く、垂れ、震える声で、命に従った。
「…承知…いたしました…。臣下の差し出がましい進言、何卒ご処罰を…」
「構わん」
だがシェリスは鷹揚に手を一つ振り、再び玉座へと腰を下ろした。あの恐るべき威圧もそれに伴い霧散する。彼女はまるで取るに足らない、些細なことを終えたかのように、淡々と次の仕事を命じた。
「タールニの首席大将軍就任式は、二日後だ。お前も必ず出席しろ。たとえ一言も発せずとも構わん。だが、いかなる理由があろうとも欠席は許さん」
タヴァルの胸中は、不承不承の思いで満ちていた。だが、彼に微塵の反抗も許されるはずはなく、ただ頭を垂れ、恭しく答えるしかなかった。
「…御意」
……
シェリスからすれば、先ほどのタールニの戦略的価値に関する発言は、全て事実であり、彼女が君主として、深く考え抜いた結果だった。
だがより深い、別の側面から言えば、彼女は個人的に、タールニという、このどこか自分の娘ランシェによく似た、臆病で、善良で、まるで生まれたばかりの小動物のように無邪気で愛らしい少女を、どうしても嫌うことができなかったのだ。
同時に、家庭を持ったからか子供ができたからか、今のシェリスはこのように公然と親族の情を、肉親を否定する冷酷な言論に抑えきれない反感と嫌悪を覚えてしまう。タヴァルの、あの一連の言葉は、疑いようもなく彼女の心の中にある「母親」としての琴線に触れたのだ。それがシェリスにタールニを重用し、さらにはある意味で彼女を「保護」するという決意を、より固めさせた。
そして、タヴァルの視点から見れば、彼のあの一見純粋な忠誠心から、発せられたかに見える進言の裏には、彼自身の妹に対して、どこかより複雑で、より歪んだ見方と感情が隠されているようであった…。




