70、激震の女神祭 魔王からの質問
シェリスの姿がようやく小道の尽頭に再び現れた。ローランがその隣を並んで歩いている。
その母娘の姿を目にした瞬間、クルイの張り詰めていた神経が、まるで目に見えない指に激しく弾かれたかのように震えた。彼は父親としてあるべき平静な態度を必死に保とうとする。だがその薄氷の下でいかに激しい恐怖が渦巻いているかを知っているのは彼自身だけだった。心臓が肋骨の裏で狂ったように高鳴り、その一打ちごとに問いかけてくる。
結果はどうだった? 結界の情報を得たのか、それとも一時的な妥協か? 家族の正体が暴かれたのか、それともかろうじて平和は保たれたのか? 彼の故郷と国家の運命が、今まさに妻が口にするであろう一言の上にかかっていた。
「すまない。少し用事で席を外していた」
だがシェリスの声はまるで天気の話でもするかのように軽やかで、その顔には申し訳なさそうな笑みが浮かんでいる。あまりにも自然で何の綻びもない。
その平然とした態度は、事情を知らない子供たちにとっては最高の慰めだった。だがクルイにとってはそれはほとんど残酷な拷問に等しかった。彼はよく知っている。彼女が平然と振る舞えば振る舞うほど、その背後に隠された真実はより衝撃的なものであるということを。これは夫婦間の暗黙の演技。子供たちを守るための共同の舞台。そして今の彼は、まさに舞台の上で脚本の結末を知りながら何もできない無力な脇役に過ぎなかった。
母親の姿を見て子供たちがすぐに駆け寄っていった。特にランシェが。
その小さな顔にはまだ涙の跡が残っていた。母と姉の帰還を目にすると、彼女は一足先に駆け出し、シェリスの胸に飛び込み、泣き声の混じった声で必死に尋たた。
「ママ、どこに行ってたの? もしかして…あたしたちのこと、いらないって…」
シェリスはわずかに驚いた。彼女はちらりとクルイを見た。夫には何か適当な言い訳で子供たちを誤魔化し時間を稼いでくれと頼んだはずだ。どうしてこのような事態になっているのか。彼女がクルイを責めないわけにはいかなかった。
だが自分が戻ってきた以上、解くべき誤解はきちんと解かなければならない。子供たちに謂れのない苦痛を与えるのは母親の本意では決してない。彼女は娘を固く抱きしめ、その頬を彼女の髪にすり寄せ、優しくそして揺るぎない声で言った。
「そんなことはない、ランシェ。母さんが保証する。これからは絶対に何も言わずにいなくなったりはしない」
「本当…?」
「ほら、母さんはこうして戻ってきただろう? 母さんがどうしてあなたたちを捨てたりするものか」
「うん……」
その言葉はまるで鎮静剤のように、ランシェの恐慌を鎮めた。他の誰が何を言ってもダメだった。ただシェリス自身の保証だけがランシェの涙を止めることができた。
「じゃあ母さん、さっき何してたの? どうして便所に行くって言ったの?」
子供たちは母親が家族を見捨てて勝手に去ろうとしたわけではないことをどうやら理解したようだ。だがそうなると両親がどうして口裏を合わせ、嘘で子供たちを誤魔化す必要があったのか? その点が理解できないダッシュはやはりはっきりと尋ねることにした。
シェリスの顔に絶妙な困惑の色が浮かんだ。どこか言いにくそうだ。その眼差しにはどこか悪戯っぽい光が宿っている。彼女はダッシュに確認した。
「本当に知りたいか?」
「え……もしかして何か言いにくいことなの?」
シェリスの反応からして何か別の事情があるようだ。ダッシュもこれで判断がつかなくなった。彼にも両親に全てを正直に話せと強要する立場はない。もしシェリスが本当に言いたくないのであれば、彼もそれ以上詮索するのは諦めるしかないだろう。
だがその一方で、ランシェはさらに好奇心をそそられているようだった。
「ママ…知りたい…。じゃないとあたしなんだか…」
彼女はおそらく母親がはっきりと答えなければ、それは嘘をついていることと同じだと感じているのだろう。
ダッシュやローランのような物分かりの良い高校生なら母親の事情を察して、適当なところで引き下がるだろう。だが小さな子供はきちんと安心させなければ、その心の中のわだかまりはなかなか解けるものではない。
幸いシェリスもまたこのような状況下での対策をとうに考えていた。
「仕方ないな。お前たちがそんなに知りたいなら、母さんが話してやっても構わん」
「おい! シェリス!」
クルイはほとんど思わず叫んでいた。彼は妻がの危険な交渉の全てを話してしまうと思ったのだ。彼は止めようとしたが、子供たちの前でいかなる異常も見せるわけにはいかず、ただしどろもどろに意味のない言葉を発するだけだった。
「その…子供たち…そういうことは…」
「なぜそれほど緊張している? 何か恐れていることでもあるのか?」
「い、いや…そうじゃなくて…ただ…」
「ふふ…」
夫の慌てふためく様子を見てシェリスの口元に悪戯な笑みが浮かんだ。彼女はこの一瞬の彼ら二人だけが理解できる悪戯を楽しんでいた。それは音のない交流であり、そして彼女が全てを掌握しているという宣言でもあった。
そして彼女はとうに準備していた答えを口にした。
「実は母さんは…」
「あの!」
「これを買いに行っていたのだ!」
クルイがパニックで支離滅裂になりかけたその時、シェリスはポケットからいくつかの物を取り出した。
「ジャジャーン!」
彼女はまるで手品師のように、その戦利品を見せびらかし、どこか誇らしげな様子だった。
「本…?」
そうだ。シェリスが取り出したのはまさしく数冊の分厚い書籍だった。クルイが想像していたようなエルフの生首などではない。ただごく普通の数冊の本。
ダッシュとキアナが近づいてよく見ると、その表紙には一行の目を引くタイトルが印刷されていた――『魔界から未来まで愛してる』。
「これヒロカ先輩の本じゃないか?」
そばにいたキアナが驚きの声を上げた。この小説は彼女とダッシュにとってよく知っているものだった。これは正しく、ダッシュとキアナが世話をしている先輩・ヒロカの作品だ。
「母さんって、これをそんなに好きだったんですか? でも…そのために俺たちを騙す必要あります?」
ダッシュもまた非常に驚いていた。そして深く不可解に感じていた。
ヒロカは生活面ではほとんど廃人だが文学創作においては才能に溢れている。彼女の小説が評価されること自体は不思議ではない。ただまさかたった一度会っただけで、母親が彼女の作品にこれほど夢中になるとは。それどころか家族に黙って買いに行くほどとは。
だがシェリスは胸を張り、まるで宣言するかのような口調で言った。
「忘れたのか? 私は筋金入りの腐女子だ。天下の全てのBL小説を読破すると誓ったのだ! ヒロカという小娘の作品は私が見た中でもかなりの上物。コレクションしないわけにはいかない。ちょうどさっき花火を見ている時に、通りすがりの人が近くで本の露店が出ていると話しているのが聞こえたから買いに行ったのだ。ほら見ろ。既刊の六巻と発売されたばかりの七巻も全部手に入れた。あの小娘の本は人気が高いから少し遅れたら売り切れていたかもしれん」
「でも母さん…」
「先に言わなかったのは本当にすまなかった。だがお前たちも母さんの立場になって考えてみろ。私がお前たちに『私今から男同士の恋愛小説を買いに行く』と言ったら。気まずくないか?」
「う……まあ…」
「おば様面白いな~」
その説明はあまりにも完璧だった。なぜならそれは子供たちがとうに知っている母親の「奇妙な」趣味の上に成り立っており、非常に信憑性があったからだ。ダッシュとキアナは顔を見合わせ、気まずそうに苦笑いを浮かべるしかなかった。
彼らはもちろん「BL」が何を意味するのか知っている。何しろシェリスは少し前に彼らの目の前でその概念について熱弁を振ったばかりなのだから。母親のこの趣味について子供としては尊重するしかなく、コメントは差し控えるしかない。
彼女が勝手にヒロカのあのエルフの森全体で大人気の大作を単に「BL小説」と要約してしまうことについても、到底同意できるものではなかった。たとえヒロカ本人がその傾向があると認めていたとしても、ダッシュは母親の過剰な解釈であると信じたかった。
だが母親がこっそりと抜け出した理由がこれであるならば、少し滑稽ではあるが彼らもまた受け入れられないわけではなかった。
最も恐れていた事態にはなっていないと知り、クルイは長く静かな安堵のため息をついた。それと同時に、固くこわばっていた肩から力が抜けた。一つの種族の存亡を左右する大事から一冊の…恋愛小説? しかも男性同士の…? クルイは妻の口から何かとんでもない単語を聞いたような気がした。そのコントラストはあまりにも大きく、彼に一時的にその膨大な情報量を消化させることを困難にさせた。
ただランシェだけが、まだよくわかっておらず、彼女は好奇心に満たた目でシェリスの服の裾を引き尋ねた。
「ママ、この本何の話? 男同士の恋愛って何?」
「それはだな、つまり…」
「もういい、ランシェ。聞かないで」
シェリスが口を開こうとしたその時、ダッシュが即座に彼女を遮った。その顔には「頼むから言わないでくれ」という表情が浮かんでいる。
「母さんも、ランシェに変なことを教えないでください。もし将来ランシェまでそういう文学が好きになったら困りますから」
「何が変なことだ。まるで私の趣味が特殊であるかのように言うな」
シェリスはわざと不満そうに頬を膨らませた。ダッシュはただ心の中で静かに突っ込むしかなかった。
(特殊だよ…)
「?」
ただランシェだけが疑問は解けず、そばで小さな首を傾げていた。
♦
その一方、ソラはこっそりとローランのそばへ駆け寄り、その顔にはどこか不安と罪悪感の色が浮かんでいた。
「ローラン様、私先ほど何か間違ったことを言ってしまいましたでしょうか? もしそうでしたら貴女様とご家族の皆様にお詫びしなければ…」
彼女は鋭敏に感じ取っていた。シェリスが去った後家族全体の雰囲気が異常なほど緊張していたことを。もし自分がシェリスが自分に話しかけてきたことを言わなければ、あのような事態にはならなかったのではないだろうか?
「あんたは何も間違ったことは言ってない。気にするな」
だがローランは即座に彼女を否定した。その口調はどこか硬い。彼女の苛立ちはソラに向けられたものではない。それは自分自身の制御不能な感情とそして…あの全ての混乱を引き起こした母親に向けられたものだった。彼女は思わず愚痴をこぼした。
「本を買うだけなら早く言えってんだよ。あたしたちみんなを不愉快にさせて、しかもあたしまであんな目に…あ…」
その言葉が終わらないうちに、ローランは自分が口を滑らせたことに気づいた。だがもう遅い。
「何かあったのですか?」
ソラの耳がその小さな呟きを鋭く捉えていた。ローランが発する言葉はどれほど小さくても、彼女が聞き逃すことはなかった。
同時に一つの微かな匂いがソラの鼻腔をくすぐった。それは女神祭の食べ物の甘い香りではない。もっと鼻をつくような激しい運動の後の汗の匂いだった。周りの提灯の薄暗い光を借りて、彼女はさらにローランの襟元に微かな汗の染みがあることに気づいた。それは彼女の一見平然とした態度とは鮮やかな矛盾を成していた。
「一体どうしたのですか?ローラン様?」
「何でもない!」
ローランは即座に誤魔化し、その視線はどこか泳いでいた。
「みんなで引き続き女神祭を楽しめばいい、これ以上聞くな。」
「…わかりましたわ」
その言葉が明らかにソラを納得させることはできなかった。だが彼女ももはやあの若く血気盛んなお嬢様ではない。ローランがこれ以上話したくないという態度を見せている以上、ソラもまたそれ以上問い詰めることはなかった。さもなくばせっかく和らいだ雰囲気を再び壊してしまえば、自分こそが本当に罪人となってしまう。
だがそれは同時にソラの心に一つの決意を固めさせた。
(ローラン様…。貴女はいつもこのように神秘的で冷静。それでいて一人で全てを背負ってしまう…)
出会った最初の日から、ソラはそばでローランをずっと見つめてきた。だがそれでもソラは自分が愛するこの少女の本当の考えと本当の姿を完全に理解することはできない。ましてや彼女の苦悩を理解することなど。
だがソラは、ローランがこのまま自分と冷たい距離を保ち続けることを永遠に許すつもりはなかった。
(私はもっと…もっと詳しく…もっと深く…ローラン様のことを知りたい!)
そのような覚悟が静かにソラの心に種を蒔いた。彼女は何気なくローランの方へとさらに一歩近づいた。だがまだ完全に体力が回復していないローランは、そのあまりにも微細な動きに気づかなかった。
二人の少女の間の距離は果たして縮まったのか、あるいは縮まらなかったのか。誰にもわからなかった。
…
その時、夜空に最後の、そして最も絢爛な一輪の花火が打ち上がった。巨大な金色の花冠がビロードのような夜空に広がり、全ての人々の顔を明滅させた。
「皆様!今回の女神祭にご参加いただき誠にありがとうございました! 我々は三年後またお会いしましょう! ご来場の皆様はお忘れ物のないよう、お気をつけてお帰りください!」
そして主催者のスタッフが近くで高らかに宣言し、今回の女神祭が正式に終了したことを告げた。
「あ、もう終わり?」
子供たちの顔に明らかな残念そうな色が浮かんだ。
だが今夜は少し波乱はあったものの、全体的には非常に楽しかった。
「ママ」
ランシェがシェリスの手を引きその小さな顔を見上げ、期待に満ちた目で尋ねた。
「三年後の女神祭、またあたしたちと一緒に来てくれる? あたし、まだママと一緒に来たい」
その無邪気な願いは、真相を知る者にとっては格別に重く響いた。シェリスは子供たちの純粋な顔を見つめ、その心のどこか片隅がそっと触れられたのを感じた。彼女はしばらく黙っていたが、そして異常なほど真剣な口調でゆっくりと口を開いた。
「おい、ダッシュ、ローラン、ソラ、そして…キアナ。こっちに来い。」
彼女はすぐにランシェの問いに答えず、同行していた子供たち全員を呼び寄せた。シェリスの声を聞き、子供たちは自然にシェリスのそばへと集まり、誰一人として欠けてはいなかった。
全ての子供たちの目の前で、シェリスはそう尋ねた。
「お前たちは…この森が好きか?」
その問いはまるで静かな湖面に投じられた一石のように、瞬時に周りの和やかな雰囲気を凝固させた。子供たちは皆その手にしていたものを下ろし驚いて母親を見つめ、彼女がどうして突然そのようなことを尋ねるのか理解できない。
短い思索の後、彼らは異口同音に肯定の答えを返した。だが一人一人の理由は全く異なっていた。
ダッシュの答えには長男としての責任感が宿っていた。
「もちろんです。この森は代々ここに住む人々を守ってきました。ここは俺たちの家ですから」
キアナの答えはどこか茶目っ気があった。
「朝の木漏れ日とか古い木々の間を吹き抜ける風の音とか…僕は全部好きだよ。特にダッシュやヒロカ先輩みたいな面白い人たちね~」
ローランの答えには守護者としての決意が満ちていた。
「まぁ、変な奴も沢山いるけど…でもあたしは絶対に誰にもこの森を傷つけさせない。ここはあたしたちの故郷だから」
そしてソラはなぜかどこか上から目線で言った。
「この森は我々貴族がずっと守ってきた宝物ですわ。父もこの森のために多くのことをしてきました。森と民も我々に十分な見返りを与えてくれました…。だからわたくしはここの全てが大好きですわ!」
そしてランシェの答えは最も単純で最も深かった。
「だってパパとママ、お兄ちゃんとお姉ちゃんがここにいるから…」
シェリスは静かに聞き、一つ一つの答えをその心に刻み込んだ。
彼女は黙って頷き、そっと言った。
「そうか」
その声にはどこか見つけにくい安堵と決意が含まれていた。




