66、激震の女神祭 罠に落ちたローラン
「お袋がただ便所に行ってるだけなら、親父が『行くな!』なんて叫ぶはずない…。そうだろ?親父?」
ローランの声は高くはない。だがその言葉は問題の核心を真っ直ぐに射抜いていた。興奮のあまり冷静さを失ったクルイが思わず見せた綻びを彼女は見逃さなかった。
クルイの体がほとんど気づかれないほど微かに震えた。口から飛び出した「行くな」という一言がまるで彼の全身の力を使い果たしてしまったかのようだ。彼は力なく肩を落とし、娘のあの不可解に満ちた瞳を見返すことさえできない。その唇は微かに震え喉が上下に動く。だがその場を取り繕うためのいかなる言葉も出てはこなかった。
シェリスはこの森のことをあまり知らない。女神祭も十数年ぶりに参加したばかりだ。彼女が便所が目と鼻の先にあることなど知るはずもなかった。クルイもまたシェリスの目的を聞いてから心が千々に乱れ、そのことをすっかり忘れてしまっていた。だからこそつい綻びだらけの言い訳を口にしてしまったのだ。
今となっては「実はシェリスは別の場所の便所へ行ったのだ」などと言い繕ってももう遅い。彼は娘の疑念に正面から向き合うしかなかった。
彼の心は今、天秤が激しく揺れ動く嵐の中にあった。
もちろんシェリスを止めたい。あの女は一度言い出したら誰の言葉にも耳を貸さない。だがもし自分の娘ならばあるいは…。あるいはシェリスも足を止めほんの一言だけでも耳を傾けてくれるかもしれない。
だが彼はローランを行かせるわけにはいかなかった。今のシェリスは極度に危険な存在だ。ローランを追わせることは娘を深淵へと突き落とすことと同義。ましてやその深淵の下にはアーシュ家を完全に粉々にしてしまうほどの真実が埋まっているのだ――ローランの母親こそが、あの伝説に語られる災厄と破壊をもたらす魔王であるという。
この事実はあまりにも重くあまりにも残酷だ。一度それが明かされればこの家は完全に崩壊してしまう。クルイはこの二つの同じように恐ろしい可能性に引き裂かれていた。娘を物理的な危害から守る本能と家族を精神的な崩壊から守る責任が、まるで二つの目に見えない巨大な手となって彼の喉を扼し彼を哀れな沈黙へと陥れていた。
その沈黙が子供たちの目には別の肯定として映った。
ずっと父親の服の裾を固く握りしめていたランシェの、その瑞々しい大きな瞳に涙が溢れていた。彼女は誰よりも鋭敏に家族の雰囲気の中に生じたあの不吉な亀裂を感じ取っていた。彼女は泣き声の混じった蚊の鳴くようなか細い声で尋ねた。
「お父さん…お母さんまた私たちを置いて行っちゃうの…? また…私たちに黙って行っちゃうの…?」
子供たちは無論魔王のことなど知らない。彼らにとって父親が母親の行き先を隠そうとするのは、ただ一つの可能性しか考えられなかった。それは母親が再び彼らを置いて、一人で旅に出てしまったということだ。
その問いは重い槌となってクルイの心を激しく打ち据えた。彼は小さな娘の涙に濡れた顔を見つめ、胸の内に果てしない苦痛と罪悪感が込み上げてくるのを感じた。だが彼が吐き出せたのは曖昧な言葉だけだった。
「そ、それは…なんというか…」
彼は肯定も否定もできなかった。だが少なくともこう言えば魔王のことはまだ隠し通せる。しかしこのようなどちらともつかない答えは直接的な嘘よりも遥かに人を傷つける。それはまるで鈍い刃のようにゆっくりとランシェの心に残る最後の僅かな希望を切り刻んでいく。ついに少女はもう耐えきれなくなり「わあっ」と声を上げて泣き出した。水晶のような涙がその頬を伝い落ち胸元の服を濡らしていく。
母親は何年も経ってようやく一度帰ってきたのだ。子供たちは二度と母親と離れたくはなかった。
この突然の悲しい光景に部外者であるソラは瞬時にうろたえた。彼女はあちらを見こちらを見、全く事態がどうしてこうなってしまったのか理解できない。
「ご、ごめんなさい…! わ、わたくし、何か言ってはいけないことを言ってしまいましたでしょうか…?」
もしかして自分の何気ない答えがローラン一家に突然この険悪な雰囲気をもたらしてしまったのかもしれない。彼女はその場を取り繕おうとしたがどこから手をつけていいのかわからない。何しろ彼女はローラン一家が一体何について争っているのかさえ知らないのだ。
「一度下がりましょう、ソラお嬢様」
一本の手がそっと彼女の腕を引いた。キアナがいつの間にか彼女のそばに立っていた。その表情は穏やかでその眼差しには年齢とは釣り合わないな物事を見通す力が宿っている。彼女はソラに小声で言った。
「他人様の家庭事情に首を突っ込むのはよくないからね。ダッシュ、僕とソラお嬢様は少し席を外すよ。後でまた呼びに来てくれ」
ソラは一瞬呆気に取られたがすぐにキアナの意図を理解し頷いた。ダッシュもまた幼馴染に「わかった」と返し、二人は音もなく後ろへ下がりこの悲しみと対立が渦巻く中心から離れていった。この内部崩壊を経験している家族のために空間を残したのだ。
妹の泣き声がローランの心に残る最後の僅かな躊躇いを断ち切る藁となった。彼女の目から怒りの炎が次第に消え、そこには氷のように冷たい決意だけが残されていた。彼女はもはや父親を見ずその視線を泣きじゃくるランシェへと移し、その声は穏やかでしかし揺るぎないものだった。
「お袋がまた行っちまうってことはあたしも多少覚悟してた。でもあたしは受け入れられない。こんな何も言わずにいなくなるなんて、絶対におかしい。行くなら行くで、ちゃんと挨拶してあたしたちに正式に見送りをさせろってんだ。こんなの一体どういうつもりなんだ? あたしは必ずあいつを見つけ出して、直接問いただしてやる」
そう言うと彼女は身を翻し去ろうとした。
「待て!」
クルイがついに自分の声を取り戻した。彼は最後の力を振り絞り父親としての立場を守ろうと試みた。
「お前は今正体不明の者たちに命を狙われているんだぞ! 勝手な行動は許さん! 行くな! 父さんがお前を一人でうろつかせるわけにはいかない!」
それは理にかなった理由だった。父親の娘に対する最も真摯な心配。だが今のローランの耳にはそれはただ空虚に響くだけだった。
彼女はゆっくりと振り返り父親を直視し、その口元に自嘲と挑発が入り混じった弧を描いた。
「あたしは自分の身くらい自分で守れる」
彼女は一言一言区切るように言った。
「それより親父こそどうなんだ? もしどうしてもあたしを止めるって言うなら、あたしは親父を気絶させてから行くこともできる。親父、あたしとやってみるかい? どっちが強いか、な?」
それは問いではなかった。疑う余地のない宣言だった。
「う……」
クルイは完全に言葉を失った。彼は目の前の長女を見つめた。あのシェリスと瓜二つの瞳には彼がこれまで一度も見たことのない、鋭くそして強大な光がきらめいている。彼は知っていた。娘は嘘をついていないと。もし力比べをすれば自分はもはや幼い頃から驚異的な才能を見せていたこの娘の相手にはならない。ローランがその気になれば、パンチ一発でクルイを倒せるだろう。
その認識が彼の胸に万感の思いをもたらした。そこにはほんの一瞬過ぎ去った誇りもあった。だがそれ以上に時代の大きな波に打ち捨てられたような無力感と悲しみがあった。娘がここまで言っている以上彼にもはや何が言えるだろうか。
「父さん、もういいよ」
ずっと黙っていた兄のダッシュが口を開いた。その声は穏やかでまるでこの混乱の中に一本の錨を下ろしたかのようだった。
「俺もわかってる。母さんが今回帰ってきたのも数日だけだってことくらい。前にも何度かあったからな…。でもだからってちゃんと説明してくれてもいいだろ? 俺たちもう子供じゃない。そんなこと受け入れられないわけじゃないんだ。ランシェが泣いてるのも母さんが何も言わずに行くことで捨てられたって感じちまうからだ。どうして堂々と俺たちに本当のことを話してくれないんだ?」
「……」
長男の言うことは全く正しかった。たとえシェリスが家を離れるという言い訳を使ったとしても、このように子供たちに論破され言葉を失うだけだろう。クルイはもはやいかなる言い訳も見つけ出すことができず完全に沈黙するしかなかった。
いつの間にかこの子供たちは皆大きくなっていた。このように自分を論破するほどに。クルイはそれを喜ぶべきか憂うべきかわからない。それが吉なのか凶なのかも。
「行けローラン。だが必ず安全には気をつけろ」
父親がもはや決断を下せないのを見て、ダッシュが長男としての責任を果たし、独断でローランの行動を許可した。一家の父親が決断を下せない時、最年長の息子がその代わりを務め、この家を支える必要があるのだ。
「兄貴こそ心配すんな」
ローランの答えは短くそして鋭く、強大な自信に満ちていた。
彼女はもはや誰一人として見ることなく毅然と身を翻し、シェリスが去っていった方向へと大股で歩き去っていった。
「はぁ………」
娘のあの決然とした後ろ姿を見つめクルイは力なくため息をつき、その背中全体がまるで崩れ落ちてしまったかのようだった。彼は知っていた。ローランは幼い頃から非常に強い自我を持ちあまり言うことを聞かなかった。だが彼もまさか彼女がここまで成長していたとは、思ってもみなかった――彼の全ての保護を振り解き、それどころか逆に武力で彼を抑えつけることさえできるほどに。あるいは今日から自分はもはや父親として彼女を叱ることも咎めることもできないのかもしれない。
彼が守るべきあの小さな少女はもうどこにもいなかった。
♦
エルフの村は女神祭の賑やかな雰囲気に包まれていた。色とりどりの旗が街道の上空ではためき、空気中には焼き菓子と花の香りが瀰漫し、エルフたちの楽しげな笑い声が絶え間なく聞こえてくる。しかしこの全ての喧騒と喜びはローランとは全く無縁だった。彼女はまるで人波を切り裂く一振りの鋭い剣のように、目標を明確に村の西にある迎賓館の方角へと進んでいく。その顔に祭りの気楽さなど微塵もなくただ厳しい霜のような色が浮かんでいるだけだった。
彼女は歩きながら道端の通行人や商人たちを呼び止め簡潔な言葉で尋ねていく。
「すみません、黒いシャツと長ズボンを着て黒いポニーテールの女性を見ませんでしたか?」
エルフの森のエルフ、その髪の色はほとんどが金色、銀白色、灰色といった明るい色合いだ。シェリスのようなカラスの羽のように黒々とした髪はこの森では極めて珍しく、ほとんど唯一無二の目印と言ってもいい。ましてや彼女は周囲の環境とは不釣り合いな目立つ黒い服を着ているのだ。もし誰かが彼女を見ていれば必ず深い印象を残しているはずだった。
しかしローランが得た答えは驚くほどに一致していた。
「黒髪に黒い服? 見てないねえ」果物屋の主人が首を横に振った。
「すみませんお嬢さん。人が多すぎて気づきませんでした」巡回の衛兵が礼儀正しく答えた。
立て続けに十数人に尋ねたが答えは全て否定的だった。それがローランの胸中の不安をますます濃くしていく。
どうして? 母親のあの外見的特徴でこのような白昼の下、どうしてまるで蒸発したかのように何の痕跡も残さずにいられるというのか?
彼女が固く眉を顰めさらに先へ進もうとしたその時、どこか聞き覚えのある声が横から聞こえてきた。
「あれローラン?」
ローランが声のした方へ振り返ると、二人の派手な格好をした、このような女神を祀る祭りの宴会でさえもミニスカートを穿いている少女たちが、驚喜したような顔で彼女を見ていた。
彼女たちは他の誰でもないローランと同じクラスのギャルの同級生だった。
「ここで何してるの? すごく真剣な顔して。よかったら私たちと一緒に女神祭見て回らない? あっちに新しくできたデザート屋さんがすっごく美味しいんだよ!」
以前ローランを遊びに誘った計画がローランの母親によって破壊されてしまったため、彼女たちは今回改めてローランに申請を出したのだ。何しろこの人気者の親友と一緒に遊べる機会はあまりにも少ない。
「いや、あたしは用があるから」
だが今のローランは全く女神祭を楽しむ気分ではなく、彼女たちの好意を丁寧に断った。
しかし彼女の胸に一つの考えが浮かび最後の僅かな希望を抱いて尋ねた。
「そうだあんたたち、あたしのお袋見なかった?」
「ローランのお母さん? あ! あの人ね!」
彼女たちははっと気づいたように叫んだ。
「思い出した! 私たち見たよ!」
ローランの目が激しく輝いた。
「本当か!? どこに!?」
「あっちの小さな林の中に入っていくのを見たよ」
別の少女が遠くない静かな林を指さした。
「表情もなんだかすごく真剣な感じだった。もし探してるなら私たち案内するよ!」
この突然の手がかりはまるで絶望の中に差し込んだ一筋の天の光のようだった。ローランは微塵の躊躇いもなく即座に頷いた。
「ああ頼む」
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二人の親切な同級生についてローランは賑やかな大通りを離れ、あの静かな小さな林へと足を踏み入れた。林の中の光は瞬時に薄暗くなり祭りの喧騒は高い樹冠によって外へと隔絶され、ただ風が木の葉を吹き抜けるさらさらという音と足が落ち葉を踏む軽い音だけが響いている。
数歩も歩かないうちに前を歩いていた二人のギャルの同級生が不意に足を止め、微動だにせずその場に立ち尽くした。
「ん? どうして行かないんだ?」
ローランがそう尋ねようとしたその時、突然異変が起こった。
「どさっ」と二つの鈍い音が響き、あの二人の少女がまるで全身の力を抜き取られたかのようにその目を白黒させ、真っ直ぐ後ろへと気を失って倒れた。
「おい! どうしたんだ!?」
友人が突然倒れたのを見てローランは駆け寄ろうとしたが…。
「動くな」
一つの屈強な人影が彼女たちの前方の木の幹の後ろからゆっくりと現れ、深く低い男の声を発した。彼は動きやすい軽装を身につけその顔には何の表情もない青い鉄の仮面をつけていた。
仮面の男は地面に倒れている二人の少女を一瞥し、何の感情も含まない口調で言った。
「ご苦労だったな」
その言葉は疑いようもなくローランの推測を裏付けていた――これは罠だと。
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