11、魔王と怪しい魔女
「おい、クルイ。起きろ」
「ん……もう朝か……?」
「もう昼に近いぞ」
「うわっ! 急いで仕事に行かないと……! ありがとう、シェリス!」
シェリスにベッドから引きずり起こされたクルイは、慌てて服を着ると、仕事場の畑へと飛んでいく。留守番のシェリスは、慌ただしく出ていく彼の背中を見送り、「やれやれ……」と小さく呟く。そして、クルイが閉め忘れていった玄関のドアを閉める。
シェリスが傷を負ってクルイに拾われてから、既に二年が過ぎていた。
あの時シェリスが負った傷は、クルイの看病と、村の医者が出した特効薬のおかげで、とっくに治っている。シェリスはエルフを見下してはいるものの、薬草の研究と調合に関して、エルフ族が他の二国より遥かに進んでいることは認めざるを得ない。
だが、肝心のシェリスの魔王としての力は、二年経った今も、戻る気配がない。
傷さえ治れば力も戻るだろうと、シェリスは楽観的に考えていたが、現実は甘くなかった。その後、シェリスは運動や鍛錬で感覚を取り戻そうと試みたが、それも無駄な努力に終わった。
こうして、力がなければ魔王の役目を果たせないシェリスは、歯を食いしばってクルイとの同居を続け、エルフの森の小さな家でじっとしているしかなかった。幼い頃から自分と弟の生活の面倒を見ざるを得なかったおかげで、シェリスは家事能力に長けている。さらに、そこらの店で出すものより美味い料理を作れた。料理も家事も全くできない…というより、むしろマイナスに近いクルイにとって、それはまるで砂漠で見つけたオアシスのようだった。男と女が一つ屋根の下で二年。それぞれの役割をこなし、生活はまあ、平穏に過ぎていった。
だが、シェリスがこの現状に満足しているはずがない。平穏な生活など、彼女の目的ではない。一日も早く力を取り戻し、魔界へ帰還し、再び魔王として世界の隅々まで戦火を広げること。それだけが彼女の望みだ。
その日も、シェリスはいつものように、家の片付けを終えると外へ出た。エルフの森の、人が多く集まる場所へ向かう。
(さて…今日は何か手がかりがあるか…?)
ただ当てもなくぶらつくだけだが、今はそれしか方法がない。人の多い場所なら、もしかしたら力を取り戻すヒントが見つかるかもしれない。家に籠っていても、何も解決しないのだから。
しかし、こうしてぶらつき始めてもう二年。価値のある手がかりは何一つ見つかっていない。それでもシェリスは諦めきれず、粘り強く外を歩き回り、突破口を探し続けている。
その執念が実を結んだと言うべきか。その日、いつものように何の期待もせずに出かけたシェリスは、思いがけない転機を迎えることになる…。
「ん?」
いつものように大通りを歩いていたシェリスの目が、ある一軒の店に引きつけられた。
その店の飾り付けは、かなり奇妙だ。暗い紫色の看板には、読めない文字が書かれている。入り口の両脇には、髑髏やカボチャの飾りが置かれている。店の中は真っ暗で、外から中の様子は全く見えない。これは、明るく開放的なエルフ族が好みそうな雰囲気とはかけ離れている。シェリスはこの通りを何度か訪れているが、こんな怪しい店があった記憶はない。
「……入ってみるか」
少しばかりの好奇心から、シェリスは店の中に足を踏み入れた。
「誰かいるのか?」
中に入って、シェリスは気づく。外から見えないだけでなく、中に入ってもやはりよく見えない。この店は照明器具を全く使っていないばかりか、窓一つないのだ。人の気配がないので声をかけてみたが、返事はない。
「まだ開いていないのか……うおっ!?」
シェリスが暗闇の中を手探りで奥へ進もうとすると、数歩も行かないうちに何かに躓き、前のめりになって危うく転びそうになる。
「いってぇな…。何すんだよ、人が気持ちよく寝てるってのに…ふぁあ…」
同時に、足元から非常にだらけきった声が聞こえてくる。文句を言い終えた後には、大きなあくびのおまけ付きだ。
「お前は…誰だ?」
シェリスの目がようやく暗闇に慣れてくると、地面に転がっていたものの正体が辛うじて見えた。薄汚れたローブのようなものをまとい、眼鏡をかけ、大きなとんがり帽子を被った女だ。彼女はずっと床に寝転がっていたらしく、ゆらりと体を起こす。シェリスの問いかけを聞くと、彼女は不機嫌そうに顔をしかめた。
「あぁ? あたしが誰かって? こっちが聞きたいね! 勝手に人の店に入ってきて何なんだい? どうせ金も払わねえんだろ! エルフなんてケチばかりなんだから!」
「金を払うかどうかは、お前が私の望むものを提供できるかによる。それと、私はエルフではない」
シェリスは腕を組み、客をもてなすということを全く知らない、昼間から店で寝ているような女に、同じように不機嫌に答える。
だが、「エルフではない」と聞くと、女店主は俄然興味を持ったようだ。
「なんだって? エルフじゃない? じゃあなんでこんな森の中にいるんだい?」
「お前には関係ない。それにお前の口ぶりからすると、お前もエルフではないのだろう?」
「当たり前さ!」
女店主はしっかりと立ち上がり、帽子を被り直し、胸を張って名乗りを上げる。
「あたしは偉大なる森の魔女ラルヴィ! 世界中の森を渡り歩き、魔法の本や薬を売って生計を立ててる魔女さ!」
「魔女....?」
「そうとも!」
言うが早いか、ラルヴィが指をパチンと鳴らす。その瞬間、壁にかかっていた二列の蝋燭が一斉に灯り、薄暗かった店内を照らし出した。その明かりで、シェリスはようやく目の前の相手の姿をはっきりと捉える。紫色のローブをまとい、腰には杖を差した銀髪の少女。同時に、ラルヴィもシェリスの姿を改めて確認する。シェリスに尖った耳がないことに気づいたようだ。
「へえ、本当にエルフじゃないんだね…。ってことは、お客さんかい! さあさあ、見てってよ! あたしんとこにゃ、どんな魔法の本も薬もあるよ! あのケチなエルフどもは自分の魔法や薬があるからって、ちっとも金を使ってくれなくてね、もう何日もまともな飯にありつけてないんだ! あんたは何か買ってくれるんだろ? ね?」
「…………」
(エルフが買ってくれないなら、エルフの森で店を開かなければいいだろう…)
シェリスは心の中で毒づく。
だが、相手が魔法の本や薬を売っているというなら、もしかしたら力を取り戻す手がかりが見つかるかもしれない。シェリスは一つ咳払いをして、単刀直入に本題に入る。
「何でもあると言ったな…。では、失った力を取り戻す魔法、あるいは薬はあるか?」
「はぁ? 力を取り戻す? どういうこったい?」
「私は元々かなりの力を持っていた。だが、ある理由でその力を失い、今はこうしてこの森に身を隠している…。失った力を取り戻す方法を探しているのだが、何か知らないか?」
「失った原因は?」
「……言えない」
「元の力はどれくらいだい?」
「……それも言えない」
「それじゃ無茶苦茶だよ! 何も教えてくれないんじゃ、こっちだって対処のしようがないじゃないか! 医者だって診察はするだろう!」
「……」
ラルヴィの言う通りだ。力を取り戻すには、失った原因を突き止めるのが一番だ。だが、シェリスはラルヴィに自分の正体や、あの山頂で起こったことを話すわけにはいかない。たとえラルヴィがエルフでなくとも、エルフの森に出入りし、こうして店を開いている魔女だ。もし正体を知られたら、ラルヴィが自分を当局に売り渡さないという保証はない。シェリスはそんな危険を冒す気にはなれなかった。
「……いや、何でもない。今の話は忘れろ。他の方法を探す」
シェリスは背を向けて店を出ようとする。
「おっと、待ちな!」
だが、シェリスが出口に足をかけようとした瞬間、体がまるで鎖で縛られたかのように動かなくなった。見下ろすと、いつの間にか紫色の魔法陣が自分の足元に展開されている。ラルヴィが自分を引き止めるために使った、拘束魔法のようだ。
「何をする? お前に策がないのなら、ここで時間を無駄にするつもりはない」
シェリスは不満げに言う。助けられないくせに、なぜ引き止めるのか、ラルヴィの意図がわからない。
だが、「策がない」という言葉を聞いて、ラルヴィは何か思いついたようにニヤリと笑う。
「ふん、ふん、ふん…」
「何がおかしい」
「確かに無茶だとは言ったけどさ…。できない、とは言ってないよ?」
「なに?」
「まあまあ、とりあえず中に入って話そうじゃないか、お客さん」
ラルヴィの言葉と共に、シェリスを縛っていた魔法陣が泡のように弾け、光の粒となって消えていく。
「……本当にできるのか?」
さっきは情報が少なすぎると文句を言ったかと思えば、今度はできないとは言ってない、と言う。シェリスには、この魔女が何を考えているのかさっぱりわからない。だが、相手がそう言う以上、他に当てもないシェリスは、藁にもすがる思いで、ひとまず彼女を信じてみるしかない。
「あたしは偉大なる森の魔女だよ! この世にあたしにできないことなんてないのさ!」
シェリスの疑いの眼差しを受け、ラルヴィはふんぞり返って天を仰ぎ、大げさに叫ぶ。たいてい、こういう自画自賛をするヤツは、十中八九、信用できない。
(もしかして、詐欺師に引っかかったか……?)
嫌な予感がして、シェリスは冷や汗を拭う。
……
「ふーむ……。あたしが見たところ、あんたの力は失われたんじゃなくて、体の中で眠ってるだけだね。そいつを目覚めさせる方法を見つければ、力は戻るよ」
ラルヴィはシェリスの周りをぐるぐると回りながら観察し、そんな結論を出した。どうやってそれを見抜いたのかシェリスにはわからないが、もしそれが本当なら、当てもなく探し回っていたこれまでと比べれば、大きな進展だ。シェリスはすぐに聞き返す。
「どうすれば目覚めさせられる?」
「それは簡単さ…。ちょっと待ってな」
言うと、ラルヴィは店の奥にある物置部屋へと入っていく。ドアが閉まる。
だが、ドアの防音はあまり良くないらしい。少し離れていても、ドアの向こうからラルヴィの独り言が聞こえてくる。
「まずは黒雷竜の鱗、それからスライムの涙。魔力草を少々加えて、仕上げにデス・カメレオンの毒を一滴…っと」
どうやら薬を調合しているらしい。なぜか、口にしている材料には、少し物騒な名前が混じっている気がするが…。
シェリスが今のうちに逃げるべきか考えていると、物置部屋から「ドン!」という大きな音が聞こえた。続いてドアの隙間から黒い煙が数筋漏れ出してくる。まもなく、ラルヴィがドアを開けて出てきた。
「できたよ! あたし特製の目覚めの薬さ!」
顔も服も煤だらけのラルヴィが、奇妙な青紫色の液体が入った小瓶を高々と掲げる。何か新しい発明でもしたかのような興奮した口調で、話しながら口からも黒い煙を吐き出している。全身煤まみれのその姿には、正直、全く説得力がない。シェリスは「これで力が戻る!」という喜びよりも、むしろ目の前の光景への疑いの気持ちの方が強くなっていた。
「本当に大丈夫なのか? こんなものを飲んで、死にはしないだろうな?」
ラルヴィの姿も怪しいが、彼女が持っている液体は、見た目の色からして本人以上に怪しい。シェリスもそれなりに世界の珍味を口にし、見識は広い方だと自負しているが、こんな色の物を口に入れるという発想は一度もなかった。彼女は半信半疑でその薬瓶を受け取り、瓶の口元を見て、かなり嫌そうな顔をする。
「大丈夫、大丈夫、死にゃしないよ。あんたが本当にあたしの店で死んだら、こっちだって困るからね。力が戻したいんだろ? だったら、ほら、早く飲みな」
だが、ラルヴィの方は自信満々な様子で、シェリスに早く飲むよう、しきりに促す。一刻も早く力を取り戻したいシェリスは、ため息をつく。今の自分は、藁にもすがる思いで、こんな怪しげな物に頼るしかないのか。
だが、今は他に方法がない。とにかく、力を取り戻すために、この危険を冒すしかない…。




