1、魔王、エルフ、そして…
この世界は三つの国に分かれている。魔王シェリス・ツィンテルバス率いる魔界帝国、エルフの女王メディシン率いるエルフ王国、そして人間の王ボルグ率いる人間王国だ。
シェリス・ツィンテルバスが魔王に就任した後、帝国を率いて他の二国に宣戦布告し、世界征服を企てる。しかし、エルフ王国と人間王国が開戦後まもなく同盟を結んだことや、加えて魔王シェリスが直接参戦しなかったこともあり、数十年にわたり魔界帝国は二国を攻めあぐねている。
今日も、戦争は継続している。
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「これより、魔王軍定例会議を開始する」
高くそびえ立つ魔王城。その一室で、片眼鏡をかけた、非凡な雰囲気の美男子がそう宣言した。
彼の言葉と共に、恐ろしげな容貌の巨大な影――魔王軍の将軍たちが次々と席に着く。広大で薄暗い会議室は、たちまち厳粛な緊張感に包まれた。
すぐに、虎に似た顔つきの魔物の一人が口を開き、報告を始める。
「陛下、前線の第三部隊は先日、人間王国軍主力を撃破。着実に西へ進軍しております。しかしながら、人間王国と同盟を結ぶエルフ軍より派遣された援軍の妨害により、これ以上の作戦継続は我が軍に不利と判断されます…」
「本当か? 勝利は目前だというのに」
「あのエルフども、実に邪魔だな」
「やはり先にエルフを滅ぼすべきだったか…」
「しかし、今は人間と激戦中だ。エルフ王国を攻める余剰兵力などどこにある?」
「では、我々の征服計画をあのエルフどもが妨害するのを黙って見ていろと?」
「人間軍など一旦無視し、全兵力を集中してエルフ王国を攻めればよいではないか!」
「だが、そうすれば人間軍もエルフ支援に回るだろう! 本質的な違いはない!」
「ではどうしろと言うのだ!」
たちまち、将軍たちは口々に言い争い始める。喧々囂々。
「――もうよい」
会議が行き詰まりを見せた、その時。
幼くも鋭い、そして威厳に満ちた声が響いた。
どれほど獰猛で、身の毛もよだつ魔物であろうとも、その声には逆らえない。議論をやめ、一斉に主座へと視線を向ける。
最高位を示す豪奢な主座に腰かけているのは、一人の少女だ。
巨大な黒いマントを羽織り、黒い服に黒いズボン、靴までもが漆黒。艶やかな黒髪は一本のポニーテールに結ばれている。全身で唯一色を持つのは、左耳で静かに揺れるエメラルドのイヤリングだけ。
その外見は人間と何ら変わらず、年齢はせいぜい十代半ばに見える。
しかし、この一見か弱そうな少女の一喝で、居並ぶ魔将たちは皆、水を打ったように静まり返る。
もちろん、放肆な振る舞いをする勇気など誰にもない。なぜなら、この少女こそが、無数の魔物を統べ、歴代魔王の中でも最強の実力を持つと謳われる大魔王――シェリス・ツィンテルバスなのだから。見た目は幼いが、彼女は既に魔王の座に就いて五十年以上が経つ。
「将軍たちの意見、そして戦況、総合的に判断し、余の意は決まった」
そう言うと、シェリスはすっくと立ち上がり、片腕をすらりと挙げる。そして、絶対の魔王として軍令を下す。
「人間軍への侵攻を一時停止! 前線の精鋭は全て撤退させよ! 城の守備に必要な最低限の兵のみ残し、残りの者は軍馬と兵器を整備、機を待て! 機が熟せば――全力でエルフ王国を攻撃する! 必ずや、エルフども劣等種をこの世から根絶やしにするのだ!」
「「「ははっ!!!」」」
先ほどまで異議を唱えていた将軍たちも、魔王の号令一下、奮い立つような鬨の声を上げた。
魔王シェリスは歴代最強であるだけでなく、現時点での天下最強の存在。魔物たちは皆、彼女の歩みに従えば、この世界がいつか魔界のものとなることを固く信じている。
♦
会議が終わった後、シェリスは一人で魔王城の廊下を歩いている。薄暗い廊下に「こつ、こつ」と彼女の軽い足音だけが響き渡る。
「魔王陛下」
背後から、男の声が聞こえる。
シェリスは足を止めるが、振り返らない。ただ冷ややかに問い返す。
「まだ何か用か? タヴァル参謀」
シェリスの後ろにいるのは、会議中も常にシェリスの傍らに控えていた片眼鏡の男だ。魔王から最も信頼される側近である彼の職務は、いかなる時も魔王を補佐すること。魔王が進む方向が気になったのだろう、彼は問いかける。
「陛下、寝室にお戻りになるご様子ではございませんが…どちらへ?」
「城を出る」
「城を…でございますか?」
「そうだ。ちょうど我が軍がエルフ王国を攻めることを決めたところだ。その準備をしに行く。一週間ほど留守にする。その間、魔王城の事はそなたに任せる」
「承知いたしました…。それで、お供は何人お連れになりますか?」
「一人もいらぬ。余一人で行く」
「は…」
一国の君主が護衛もつけずに単身城を出るとは危険極まりない行為だが、シェリスの実力はあまりにも強大。彼女自身の力が最高の護衛である。タヴァルもその点を理解しているため、心配はしていない。彼はきっぱりと命令に従い、それ以上何も言わず身を翻して去っていく。
一人廊下に残されたシェリスは、黙って窓の外へと顔を向ける。空に浮かぶ雲を眺めながら、彼女の口元には、どこか楽しげな、それでいて底知れない笑みが浮かぶ。
♦
エルフ王国メルガティアは、大陸の北西部に位置する。女王メディシンが統治し、平和を愛し、善良で友好的なエルフたちが、広大な森の中に暮らしている。国全体が森を覆う強力な結界によって守られ、エルフの民たちはここで安らかに暮らし、日々の生業に励んでいる。外界の戦火などまるで存在しないかのように。
その日もいつものように、エルフたちは変わり映えしないが幸福な日常を享受している…。
「よいしょっと」
畑の中で、一人の成人男性エルフが手に持った鍬を地面に振り下ろす。時折、首にかけたタオルで額の汗を拭う。元々整った顔立ちのエルフだが、汗の滴がその精悍さを際立たせている。
「おい! 父ちゃーん!」
遠くから、いくつかの呼び声が聞こえる。一緒に農作業をしていた別の農夫エルフが、彼の肩を叩き、親指で後方を指し示す。
「クルイ、お前の子どもたちが会いに来たぞ」
「えっ…おお! ダッシュ、ローラン、ランシェ、来たのか!」
作業に集中していたのか、この「クルイ」と呼ばれるエルフは最初、その声に気づかない。仲間に指摘されて初めて、自分の三人の子供たちが畑に向かって走ってきて、父親である彼に近づいてくるのに気づく。
「父さん、お仕事お疲れさま! これ、料理の授業で作ったお餅。父さんも一つどう?」
先頭を走ってきた少年エルフ――ダッシュが満面の笑みで、手に持っていた袋から餅を一つ取り出し、クルイに手渡す。クルイは鍬を置き、餅を受け取って口に運ぶ。そして幸せそうな表情を浮かべ、ダッシュの頭を撫でて褒める。
「うん、うまい! お前の腕は大したものだな、ダッシュ!」
「へへへ…」
ダッシュは、はにかんで笑う。
「へえ、兄貴が餅作れるなんて知らなかった。アンタ、就職するより主夫にでもなった方が向いてるんじゃないの?」
次に前に出たのは、口に棒付きキャンディをくわえ、長い髪を風になびかせた少女エルフ――ローランだ。彼女はからかうような口調でダッシュに言う。同時にクルイのそばに来て、その腰をポンと叩いた。
「オヤジも、あんまり無理すんなよ。またこの前みたいに寝込んで、あたしたち三人が授業の合間に看病する羽目になるんだから」
「ははは…相変わらず口が悪いな、ローラン…」
「本当のこと言ってるだけ。あたしは未来のエルフ騎士団員なんだから。働けないヤツの面倒見てる暇なんてないの」
ローランは意に介さない様子で両手を広げる。クルイも、長女の剣術が優れており、既にエルフ騎士団から声がかかっていることを知っている。体が弱く、家事に専念する兄ダッシュとは違い、彼女は若くしてその戦闘能力で評価されている。そのため、平凡な兄や父に対し、少し見下すような態度をとることもある。まあ、それでも根は優しい、かわいい娘だ。
「あの…パパ、お疲れでしょう。わ、私が腰を揉んであげます…」
最後に前に出たのは、次女であり末っ子のランシェだ。彼女は双子の兄姉より三歳年下。性格は少し内気で臆病。一人で外出することはほとんどできず、登下校はいつも兄姉が付き添っている。今のところ特に目立った才能は見られないものの、それでもクルイにとっては誇らしい子供だ。彼女の小さな両手がクルイの腰に当てられるが、ほとんど力は感じられない。しかし、娘の小さな手に撫でられるだけで、クルイは満たされた気持ちになる。
「よしよし。父さんの腰はもう痛くないよ。ありがとうな、ランシェ」
クルイは微笑んでランシェの小さな頭を撫でる。ランシェは恥ずかしそうに少し笑い、すぐに姉ローランの後ろへ隠れてしまう。
父親が働く畑は、学校帰りの兄妹三人の通り道。だからほとんど毎日この時間に彼に会いに来る。これはクルイにとっても日常茶飯事だった。
「よし。まだ仕事があるからな。お前たち三人は早く家に帰りなさい。夜はおいしいものを作ってやるから」
「はーい!」
「まじか、またオヤジの手料理か…」
「うん!」
兄妹三人はそれぞれらしい返事をすると、連れ立って畑を離れる。美しい金色の髪を三人揃って揺らしながら、ゆっくりと去っていく。
三人の後ろ姿を眺めながら、クルイと一緒に働いていたエルフが感嘆の声を漏らす。
「いやはや、クルイは羨ましいな。こんないい子が三人もいて、さぞ幸せだろう」
「ははは、まあな…」
クルイは照れくさそうに頭を掻き、鍬を手に取って再び作業を続ける。
その時、先ほどまで笑顔だった同僚の顔が少し曇る。彼は何か考え込むようにクルイに言う。
「お前んとこのアーシュ家は何もかも良いんだが、ただ一つ、賢い奥方が足りない。どうだ、後添えをもらう気はないのか? 家の事を全部お前一人で背負って、男手一つで父親と母親の役目まで兼ねてるんだ、大変だろう。優しい娘さんに手伝ってもらったらどうだ?」
その話になると、クルイは困った顔をする。一緒に働く仲間たちは皆、クルイの家庭の事情を知っている。多くが彼に再婚を勧めるが、クルイ自身にその気はない。
「もし本当にそうなったら、俺も楽になるかもしれんな! だが、すまない…俺はまだ、彼女が帰ってくるのを待っているんだ…きっと戻ってくると信じている。彼女を裏切ることはできない」
「そうか…? なら、今の話は聞かなかったことにしてくれ」
そう言うと、エルフたちはもう話すのをやめ、黙々と農作業を続けた。
…そうなのだ。エルフ、クルイ・アーシュ一家は一見幸せそうに見えるが、実際には家庭構成に深刻な欠陥がある。
それは、クルイの妻であり、エルフ三兄妹の母親が、ずっと行方不明の状態にあること――。
…
帰り道。
ローランは拳を軽く握り、後ろにいるランシェの頭をコツンと叩く。そして咎めるように言う。
「いつまであたしの後ろに隠れてるのよ。服が伸びちゃうでしょ」
「い、痛い…ごめんなさい、お姉ちゃん…」
ランシェは目に涙を浮かべ、頭を抱えて姉に謝る。
「妹をいじめるなよ、ローラン…」とダッシュが割って入る。
「兄貴の服を引っ張られてないから、そんな気楽なこと言えるのよ!」
「妹なんだから、少しは大目に見てやれよ…」
「うちは貧乏なんだから、綺麗な服なんて何枚もないの。これが一番マシな服なのに、引っ張られてダメになったらどうするのよ」
「ランシェはまだ小さいんだから、そんな力ないって…」
「でも、あたしが一番気に入ってる服なのよ、これ。はぁ…もしお袋がまだいたら、もっといい服を編んでくれたかもしれないのに…」
そう言うと、ローランはため息をつく。口の中の棒付きキャンディが舌の上でころりと転がった。
その話題になると、ダッシュとランシェも俯く。
「お母さん…一体いつ帰ってくるんだろう…」
「さあね…」
「うう……ママ……」
ダッシュはひどく落ち込んでいる様子だ。ローランは口では無関心を装っているが、母親のことに触れると内心穏やかではない。妹のランシェに至っては、さらに悲しくなって泣き出してしまう。
「……」
しょげている兄と妹を見て、ローランの心に一つの大胆な考えが浮かぶ。彼女はきっぱりと口の中のキャンディを「ガリッ」と噛み砕き、片手で兄の腕を掴み、もう片方の手で妹の手を引く。
「よし…決めた! 三人でお袋を探しに行こう!」
「えっ!?」
「お姉ちゃん…?」
ローランの提案はあまりにも突拍子がなく、ダッシュとランシェは一瞬反応できない。ローランが有無を言わさず二人を引きずって森の外へ向かって走り出した時、ダッシュは慌てて双子の妹の手を振り払う。
「待て待て…本気か!? お袋を探しに行くって…俺たち三人だけで!?」
「そうよ、あたしたち三人だけ。オヤジは絶対許してくれないだろうから、内緒で行くの」
「なっ!? 世界はこんなに広いんだぞ!? どこを探すって言うんだ!?」
「道行く人に聞き込みすればいいじゃない。きっと手がかりはあるわよ」
「でも、父さんは早く帰れって言っただろ!? こんなことしたら、いつ帰れるかわからないぞ!? それに、明日は学校もあるんだぞ!?」
「遠くへは行かないって。森の近くで情報収集して、オヤジが帰る前に戻ればいいの。毎日少しずつ時間を作って探検すれば、いつか成果があるかもしれないでしょ? それとも何? 兄貴とランシェはお袋に会いたくないの?」
「いや…そうじゃないけど…」
「アンタたちが行きたくないなら、あたし一人で行く。臆病者の兄貴はランシェとお留守番してれば?」
そう言うと、ローランはダッシュとランシェを置き去りにして、一人で森の外へと歩き出す。妹を説得できないと悟ったダッシュは、仕方なく頭を掻き、それからランシェを連れてすぐに後を追う。
「待ってくれ…! 待ってよ、ローラン!」
……
兄妹の言い争う声は、森の奥から森の端まで響いている。
「やっと決心がついた? 兄貴」
「違うって…お前一人で行かせるのが心配なんだよ!」
「まだ覚悟が決まらないなら、兄貴は家に帰った方がいいと思う。あたし一人で自分の身くらい守れるから」
「お前、また根拠もなく…!」
「これは自信!」
いつの間にか、三兄妹は森を覆う結界の際まで来ている。この結界は外敵の侵入を防ぐが、内部の者が去るのを妨げはしない。たとえ幼い三人のエルフであっても、簡単に結界を通り抜けて外の世界へ出ることが可能だ。同時に、彼らは女王に保護された民であるため、森に戻る時も結界に阻まれることはない。いわば出入り自由。
だからこそ、ローランは勝手に森を離れるという大胆な行動に出られたのだ。
しかし、兄のダッシュは依然としてこれを危険だと考えている。妹が無事でいられるようにと後を追いながらも、なんとか彼女を説得して連れ戻したいと願っている。
「もうやめろ、ローラン! 先生も言ってたじゃないか、外には人間の盗賊や凶暴な魔物がいるって! 俺たちみたいな未成年エルフじゃ太刀打ちできない! 万が一、人間や獣人に捕まりでもしたら、お袋を探すどころか、一生森に帰れなくなるかもしれないんだぞ!」
「そう? 先生は、井の中の蛙じゃダメだとも言ってたけどね」
「それは慎重さって言うんだ、臆病とは違う…おい! 早く戻ってこい!」
兄の説得を全く意に介さず、ローランはきっぱりと歩を進め、結界を通り抜け、森の外の世界へと足を踏み入れる。ダッシュとランシェも、おずおずと後に続く。
こうして、世間知らずの三匹の子エルフは完全に国の庇護を失い、森の中とは全く異なる新たな世界に身を投じる。
「さて、最初の一歩はどこから情報を集めるべきかしら…」
三人がエルフ王国を出るのはこれが初めて。目の前に広がる未知の世界に対して、当然のことながら、目的も方向も見失い、まるで迷子のようだ。
妹が何の計画もなく軽率に行動したことに対し、ダッシュも怒りをぶつける気力すらない。自分のこの妹は小さい頃からこうだ。唯我独尊、怖いもの知らず。彼は何度もローランが自分の思うままに行動するのを見ているしかなかった。幸い、ローランには十分な能力と責任感があったため、これまで大きな問題を起こすことなく、今日まで無事に成長してきたのだが。
この言うことを聞かない妹を唯一抑えられるのは、彼らの母親だけだった…。
「そうだ、あの人に聞いてみよう」
ローランは指を伸ばし、森の端をちょうど通りかかった、マントを深く被り顔を隠している人影を指さす。
「あの人…ちょっと怪しそうだけど…やっぱり別の人に…おい! ローラン!」
ダッシュはマントの人物から放たれるかすかな冷気と威圧感に、本能的な危険を感じ取る。しかし、一瞬目を離した隙に、ローランは既にその人影の前に駆け寄り、話しかけている。
「あの、すみません…」
「ん?」
「え?」
マントの下から、凛とした少女の声が聞こえる。まず、話しかけてきたローランに疑問符を浮かべたようだ。その後、マントの主はローラン、彼女の後ろにいるダッシュ、さらにダッシュの後ろに隠れるランシェへと視線を巡らせる。一瞬の間。そして、マントの下から冷笑が漏れる。
「フフフ…実に運がいい。こんな所でこんなに可愛いエルフの子が三匹もいるとはな…結界の外に自ら出てくるとは、お前たち、いい度胸をしているじゃないか」
「あなた…」
「自分の縄張りを出たことを後悔させてやろう! まだ乳臭い小僧どもめ!」
ローランの顔を冷や汗が伝う。彼女の目には、マントの人物の背後に、まるで漆黒のオーラが燃え上がっているように見える。それは極めて不吉で、禍々しく、邪悪ですらある…。
いかに自尊心の高いローランでも、瞬時に理解する。自分は絶対に目の前の相手の敵ではない、と。自分は外界の危険と邪悪さを、完全に甘く見ていたのだ、と。
しかし、逃げるには――三匹の子エルフにとって、すでに遅すぎた…。
♦
「ただいまー! お前たち、いい子にしてたか…」
夜。仕事から帰ったクルイは、家の扉を開けて中に呼びかける。
しかし、屋内は真っ暗で、何の返事もない。
「おかしいな…? ダッシュ? ローラン? ランシェ? 家にいるのか? いるなら返事をしてくれ、父さんが帰ってきたぞ!」
二度目の呼びかけにも、家の中は依然として静まり返っている。
本来なら、この時間には三人はとっくに帰宅しているはず。こんなことは今まで一度もなかった。たまに誰かが不在でも、それは一人か二人。三人も揃っていないなどあり得ない。
恐怖感が、じわりとクルイを襲う。彼は事態が尋常でないことを悟り、靴を履き替える間もなくリビングへと駆け込み、その扉を開け放つ。
「おい! ダッシュ! ローラン! ランシェ! いるなら返事をしてくれ! 父さんを怖がらせるな!」
「――お前が待っている三人は、もう来ない」
「な…んだと!?」
リビングから、不意に声が聞こえた。どうやら家は空ではなかったようだ。クルイは暗闇の中、手探りでリビングの蝋燭に火を灯す。
灯りに照らし出されたのは、リビングの椅子に足を組んで腰かける、小さな人影。
その人影は首を傾げ、皮肉たっぷりにクルイに告げる。
「お前の三人の子供たちは勝手に森を出て、私に捕まった。もう始末した…次は、お前の番だ」
「お…お前は…」
クルイの瞳孔が激しく震える。彼は目の前の少女を知っている。そして、子供たちが彼女の手に落ちた後、どのような結末を迎えるかも…。
「お前は……シェリス……ッ!」
目の前に、自分の家に現れた少女。それは他の誰でもない。全世界を震え上がらせる恐怖の大魔王――シェリス・ツィンテルバスだ。
このような、どうあがいても敵わない存在を前にして、クルイは固く歯を食いしばる。全身がわなわなと震えている。
「ほう? その様子、何か言いたいことがあるようだな。言ってみろ。余が特別に許す。この劣等種め、余に感謝するがいい」
シェリスは冷笑し、腕を組んで、目の前で震えるしかないエルフの父親を見ている。
「シェ…」
「ん?」
「シェリス!!!!」
クルイは大声で叫び、シェリスに向かって突進する……
……そして両腕を広げ、彼女を強く抱き締め、涙と鼻水を流しながら叫んだ。
「一体どこに行ってたんだ!! 俺と子供たちはお前を三年も待ってたんだぞ!!」
「……いい歳をして、まだめそめそ泣いて、みっともない…」
シェリスはぶっきらぼうにそう言いながらも、その両腕でそっとクルイを抱き返す。今度は、打って変わって優しい口調で、クルイの耳元で囁く。
「…本当に久しぶりだな、あなた。…すまない。あなたと子供たちを、長く待たせた」
魔王シェリス・ツィンテルバスには、実は世に知られざるもう一つの身分がある…。
それは、エルフのクルイ・アーシュの妻であり、ダッシュ、ローラン、ランシェ三兄妹の母親――シェリス・アーシュという顔なのだ。