(真愛その三)不自由な休日と偽物の女
今の店舗で働き始めた当初、土曜日と日曜日を休日にしていた。飲食店ではあったが四谷という場所柄、週末は休日申請が必ず通った。しかし最近では月曜日と火曜日に休むようにしている。理由は正社員の彼の定休日だからだ。
休日の月曜日。普段より二時間早く起きた。私はすぐにお湯を沸かした。板の間の台所で、沸き立てのお湯をミラノビアンカのティーポットに注ぐ。そして一人で食事するのも窮屈なテーブルに、見事に釣り合っていないそのカップを置く。いれたての紅茶を注ぐ。椅子に座って型板硝子の方に目をやると、ちょうど電車の通る音がした。
(良い・・・天気だな・・)
ガラスの青みがかった明るさが、晴天を主張している。風の音、鳥の鳴き声が時折する。肌寒い。だがそれを心地良く感じさせてしまう朝。春の。
(お弁当を作って、日除けの帽子とスニーカー。敷物と、電車に乗った時に食べるラムネもいれよう)
と、妄想はとまらなくなる。が、彼はそんな所へは連れて行ってくれないだろう。それに、
「ねえ? 今日は予定変更して井の頭公園に行ってみない? まだサクラも咲いているらしいの」
という具合に彼を誘ってみる勇気もない。
だがそれはとても小さな事だ。行きたいところへ連れ立って行く事ができないことなど。
好きな時に食べ、好きな時に眠り、いつでも好きな場所へ行ける。そういう休日の自由を得たとしたら。待ち合わせの為に出勤日より二時間も早起きを強要される事などないだろう。だが何かを見つけた時、誰かとその何かを共有することもない。ある日通りかかった店の前で、「良い雰囲気のお店だな。今度一緒にいけたらな」「気に入ってくれるだろうな」そんな風に思うこともない。ただ「一人で入るには敷居が高いな」とひとり呟いてそこを立ち去るだけだ。それなら迷う事はない。不自由な休日を選ぼうではないか。
あたかも私は進んで独歩しているのだ、という涼しい顔をした女が、ある時つよがって言った言葉、それが自由だ。
残った紅茶をステンレスの水筒に注ぐ。電車の音がまた通り過ぎる。
私は二階建てアパートの二階に住んでいる。私鉄が一本だけ乗り入れている、小さな駅から徒歩二分。表札もインターホンもない玄関に、洗濯機置場でありながら洗濯機を置けない外廊下(隣の人が二層式の大きな洗濯機を置いているために、私の分が置けない)。台所は三畳。居間は六畳。古い木造アパートの相場としては安値のほうだ。理由は良くわからないが、この型の古く汚い外観の部屋を希望するほとんどの人が、当然のように望む畳敷きの居間がない、事なのだろうか。部屋の両隣は独居老人の男性が住んでいる。
私はベッドも持たず、この良く冷える床の上に布団を敷いて寝ている。窓は台所と居間に一つずつ。部屋の窓を開けてもベランダはない。窓枠の上に竿掛けがあるが、眼下は渋滞の多い片側一車線の道路。洗濯物を干すにも内容を選ばなければならない。
若い女性が住むような物件ではないと不動産屋の男はいったが、私は迷わずこのアパートにした。理由は一つ、安さだ。お金を貯めることが好きだった。理由は一つ。それらは私を見捨てたりしないからだ。
約束の七時から、私は列に並んでいた。列に並んでいる全ての男たちが、代わる代わる煙草を吸いにいっては戻ってくる。その横を通勤で駅に向かう人たちが通り過ぎていく。五分おきに増えていく革靴の音。朝の安らぎは程遠く、こちらは休日の朝だというのに落ち着かない。私は列に並びながら、水筒の紅茶をちびちびと飲んでいた。この日はブルージーンズとグレーのパーカー、ピンクのラインが入った白の運動靴は履いていた。セールで買ったばかりのワンピースを着て彼に見てもらいたかった。だが我慢して地味な服装を選ぶ。整列には目立たないための配慮が必要だ。肩を出したり、足を出したりすれば必ず上から下まで見られる。それも整列にやってくる全ての男が私を見る。一度みた男でも、コーヒーを買いに列を抜けて戻ってくると再び同じように見ていく。
「おう、わりぃ。寝坊した」
そういって彼が現れたのは、八時をだいぶ過ぎてからだった。中田孝一、二十七歳、交際相手だ。一美さんたち、のリーダーである一美が熱をあげている正社員。
「なんだよ。すげぇ列になってるな。おまえが並んでてくれなかったら、アウトだったよ」
そういって孝一が指差した列の最後尾には、入場整理券終了という看板をもった男が立っていた。そこはスロットタワーと呼ばれるパチンコ店で、十二階建ての大きなビルだ。全ての階にスロットマシンが置かれている専門店で、毎日のように開店前の行列ができる。同じ曜日でも八時に来て整理券がもらえる日と、今日のように七時に到着しても列の後半になる日がある。
「今日、整理券は? 五十枚くらい?」
孝一が聞く。
「うん。五十枚だって」
本来ならば並んだ人間全てが参加できるはずの、入場順を決める抽選なのだが、この店は付近に高層マンションがあるため、極端に多い数の人間を並ばせることができない。この日は先着五十人。二人とも抽選に参加することはできないため、私が並んでいた場所に孝一が入り、私が列の外に出る。
「真愛。コーヒー買ってきて、冷たいの」
「あ、うん」
私は元気良く、急ぎ足で自動販売機に向かった。彼と付き合って二ヶ月。未だスロット店以外でデートをしたことがない。
「はい、どうぞ。でもブラックなかったの」
「おお。朝は甘いほうがいいんだよ。ていうか、これ微糖じゃん。なんだよ。まあ、いいけど」
「あー、そうだったよね。あは、うっかりしてた、ごめんごめん」
「ああ。ちょっと、これ入れてきて」
そういわれて、孝一のアイコスの吸殻をお店の灰皿に捨てる。笑い声を出すとまた付近の男性が私を見る。だがそれは明るく活発な女の宿命だ。根暗女が装っている性格だとしても。
程なく抽選が始まった。彼は無表情のまま札を引いて、無表情のまま、それを私にもみせた。二十三番と札には書かれていた。そして札をとると整列の時間まで喫茶店に入ってお茶を飲んだ。
「なんだよ。並ぶ必要なかったじゃん」
二十三番目に、店内に入り、走って目当ての台に座った彼の元に、後からいってみると、その列には誰も座っていなかった。彼の座った台は、広告のチラシにも一番大きく取り上げられていた新台。彼が買った専門の雑誌にも、巻頭で特集されている機種だ。だがその台がある列には誰も座らなかった。どうしてかは、私にはわからない。しかし三十分もすると後からやってきた人達によって孝一が座った列も満席となった。
遊戯中私はお店の小さなイスを借りて、彼の後ろに座る。居心地が良くない。隣の席に座る人間が、やはり私の顔を必ず見るからだ。今日のようにグレーのパーカーとジーンズという選択をしないと、とても不快なことになる。ヤニなのか、タールの粉塵なのかわからないが服は臭くなり、髪はベタベタ。オシャレは封印。何が面白いのか、さっぱりわからない。条例改正で店内禁煙になるらしいよ、という噂だけが私の心の拠り所。
だが彼の趣味はスロットマシンなのだ。休みの日は必ずそれをする。つまり私もここに来る。シンプルな理由だ。私といると彼が勝てない、という不運の伝染さえ起こらなければ、だが。
そういう不安をよそに、この日も彼が座った台の皿が溢れることはなかった。満杯まではいく。そして別の箱にメダルを移す。箱が満杯になる。だがそのあたりで減り始める。そして箱が空になり、台の皿も減る。しばらくするとまた増える、という繰り返しだった。交際し始めてから二ヶ月。彼は一人でいるときだけ大勝している。彼は気がついているかわからないが、私といるときには負けている。
孝一は好調にならなかったが、彼の左隣の男はスロット台の上にかき氷のようにメダルを盛った箱を三つものせていた。真面目な顔をしてひたすらリールをまわし、払い出し口からメダルが出始めるとやがて煙草に火をつけ店内を見回し、孝一の台をしばらくみる、そして必ず私のことをみる。なぜ毎回見られのか。そして見られる側の私が、見られていることに気がつかないふりをしなければならないのか。
右隣の台は不調で何度も客が入れ替わった。チャンスをはずす度に私の顔を見てくる男もいた。やはり見られている事に気が付かないふり・・・。
だが最後に座った女だけは、私のことも、彼のこともまったく見なかった。ただ黙々と千円札を何度も何度も機械に入れ続けた。そして千円札をマシンに入れる度に、細い腕からフローラル系の匂いを周囲に撒き散らしていた。薄っすらとストライプの入った利休鼠のショートパンツから白い太腿が出ていて、孝一や他の男たちがチラチラとそれを見ていた。私はこういう場所に目立つ服装で、しかも一人で来ることのできる女を異常だと思っていた。本当はもっと違う感情なのかもしれないが。
そして千円札の束を胸ポケットにいれて座り、二十回、三十回と躊躇なく機械に入れてしまうのだ。私からみればお金を食べさせているようにしかみえない。いったい何の餌付けか。
しかし、めげずにその女は何度でも千円札をいれた。そしてある瞬間から大量のメダルを出し始め、気がつくと満杯になった箱を二つもマシンの上にのせた。そして加熱式たばこをセットしたが、他の客がそうするように周囲を見渡したり、孝一や私のことをみたりしなかった。
夜九時を過ぎたあたりで、私達は店を出た。メダルがなくなった孝一が席を立つとき、隣の女がはじめて露骨に顔をあげて彼を見上げた。
(勝ち組が負けた男の表情をみてみたいということか)
いったい何の正義感かわからないが、私はその行為が許せず即座に女の方に顔を向けた。すると女は孝一や私のことなど見ていなかった。彼が座っていた台上にデジタル表記されている台データをじっと見つめていただけだった。そしてすぐに女は孝一が座っていた台に自分のハンカチを差し入れた。私はそれが気になったが、やはりどういうことなのかわからない。
「ねえ、お腹すいた?」
私は元気の良い声でそう聞いた。
「んん。ああ」
彼は、私の顔を見ず、ただビルの向こうの遠くをみつめて歩いていた。落ち込んでいるのか、ただ疲れているのか、孝一は何も喋らない。
「私、やきにく食べたい。ね、ご馳走するから行かない?」
長時間座っていたことによる疲労で、とても焼肉という気分ではなかった。だが孝一が喜ぶものを他に知らなかった。
「それは勝った時に食うもんなんだよ。気分悪い時に食ってもうまくない」
「ああ。そっか、そうなんだ」
いつもより無理をしている高い笑い声が、通り過ぎたバイクのエンジン音に掻き消される。
「じゃあ、何食べよっか? 孝一は何が食べたい。お腹空いてるでしょ? 何でもいってよ、給料出たばかりだし」
テンポ良く私は続けた。本物の根明女はこういう時どうするの? 偽物の私にその答えを出してくれる引出しはない。孝一は無言だった。生暖かい夜風が電飾で彩られた街を忙しなく往復する。焦燥感に支配され、あれこれ会話を振ってみるが。孝一は私を無視していた。疲労し、精神的にも落ち込んでいるはずだが、その歩き方は全くそうではなかった。ヒステリックな早足、私を無視する横顔はまるで解離性症。
「朝は誰も座ってなかったけど、すぐに全部席埋まったし。立ち見しながら順番待ってる人もいたもんね? 人気でそうだね、あの台」
「朝から並んでた人達は、みんな古い台に座ってたわ。それもすごい沢山積んでたよ。でも満席にならないの、その人達がいる列は。不思議ね。でも、プロなんでしょ? ああいう人た」
「うるせい」
孝一は私を睨みつけた。胸を棒で突かれたような衝撃。泣き出したい気持ちを寸前でこらえる。何が気に障ったのか、どうすればこの重たい空気を払うことができるのか。焦ってミスをするのはいつもの事ではあるものの。いつも通り自分を責めて落ち込むとろこまでがセットだからたちがわるい。
「じゃあそこで、牛丼おごってくれよ」
駅前まで来ると、孝一がそういった。
「ああ、うん!」
私は勢いよく返事をした。そしてカウンターテーブルしかないその店に二人で入った。客は一人で座っている男ばかりだった。照明は明るいのに、店内の雰囲気は暗い。私はそこで、孝一と並んで牛丼を食べた。彼と最後に向き合って食事をしたのはいつだったろう。もう随分前だ。出会ったころの彼には、多くの優しさがあった。でもそれは次第に減った。だが増えたものもある。彼がする私への借金の額だ。
◇◇◇