(健之その三)引鉄の意味
最初の扉を開けるとそこには何もなかった。中に入ると扉が閉まり、その扉自体もすぐに周囲と同化して見えなくなった。景色は一面の白だった。とても重厚な質感。三百六十度見渡す限りタフタホワイト。
だが何もないわけではない。僕が立っている地面だけは存在している。しかし地面しかないのか、やがて壁があるのか、その先に天井があるのか・・・。まったく見えない。暗闇のように目が慣れれば、何か見えるのか。
僕は七三の女と別れたあと、言われた通り売店にはいった。売店と聞いていたが、その部屋に陳列された品物はなく、机、タブレット、パソコン、それとイスが二脚あって片方のイスに大柄な男が座っていた。その男が、無言でもう片方のイスを指さし、僕も無言でそこに座った。
狭い部屋で窓もなく、天井ボードもなかった。頭上にはむき出しになった鉄骨、配線、そして白熱電球が垂れ下がっていた。
「腕を」
大柄な割に声の高いその男は、何の挨拶もなくただそういった。言われて僕は腕輪のある左腕を差し出した。男は胸に店員と書かれた名札をつけている。名札には回廊印が押されていた。家紋のようなデザインで「名札の主が番人ではないし、人間でもない」ということを回廊が証明している。
「左上がこの回廊に入ってからの経過時間。中央の枠内の数字は持ち点数、つまり金だ」
そういわれて時計を見ると、既に四十分が経過していた。男はタブレットを僕に手渡し、自身はパソコンを起動させた。そして何の説明もせず押し黙った。
ダクトの稼動音なのか、騒音で居心地が悪い。それとは別の機械音が時折あり、ダクトのそれと共鳴してより不快にさせる。動力油なのか、男の加齢臭なのかわからない臭いがたまに漂ってくる。僕はその部屋に座ってタブレットを操作した。
五リットル分の水を作れる小型ポット。
ビスケットに変形する薄いカード五十枚。
塩と砂糖を少し。
僕が購入ボタンを押すと左腕の時計が光りながら振動する。そしてもち点数が減る。
そうやって右も左もわからない僕は、防災グッズのような品を選ぶしかなかった。男は何時か、思い出したようにつぶやいた。
「武器もある。リストをみるか」
(戦えというのか・・・)
まあ良い。非戦の日本国憲法をしらないこの男に「NO!」と言ってやろう。と思いながら開いた口は「リストを見せてください」だった。男はうなずいて僕のほうにパソコンのモニターとマウスを向けた。キーボードはない。
・拳銃 4,500
・ナイフ 100
・ハンマー 20
「拳銃の弾は何発ですか?」
「答えられない」
「オートマティックですか?」
「答えられない」
「ナイフの刃渡りは?」
「答えられない」
薄汚れたセメント壁を睨みながら、店員の男がそう答える。男は僕が声を発したときだけこちらを見る。その背後にはデジタル時計があって「18:18」と表記されていた。
(時間? か、この部屋にも朝と夜がめぐっているのか・・・)
僕はリストの続きを読む。
・ライター 3
・ドクヤク 500
・ザイル 100
・カコウキ 30
・ヒヨケボウ 10
・ノコギリ 50
・コンバットナイフ 200
・カラコン 2
様々な品のリストが永遠と行になって下に続いていた。最後まで読みきる人間はいないだろう、という程に永遠と。だから僕は本のページをパラパラとめくるように、その無限の行をスクロールさせては気まぐれに停止させ、止まった場所の商品を眺めた。「ヌードガシュウ」「グラビアガシュウ」のページ。「オタマ」「ナベ」をはじめとする調理場用品ページ。そして「アタタメタワラジ」
「温めたわらじ?」
と思わず声が出た。続いてすぐ近くの「イズミノカミカネサダ」その下にある「セイリュウエンゲツトウ」という文字をみつけて、わ、と声を発しながら思わずページをスクロールしてしまった。あわてて元のページに戻ろうとしたが、そのページには戻れなかった。
右端にある縦のスクロールバーは「今ゴミか埃か何か動いたか?」というほどに小さく、目を凝らさなければ見えない。つまりこのブック内は底なし沼のように下に続いているのだ。
それにキーボードがないため下へ移動させるカーソルキーもない。一番上と下のページ以外は、一度動かしたら最後運が良くなければ二度と同じページに戻れない。もちろんこの超旧式マウスを駆使し日が暮れるまで探せば自力検索も可能なのか。
僕はどうせ手にしても振れないだろうイズミノカミカネサダをすぐにあきらめ、他のものを探した。そしてふらふらと意味があるのかないのかわからない「ゴマスリバチ」や「ゴマシオシェイカー」などを流し読みしている時、偶然にもその異様なページにあたった。
・トウメイ 150,000
・ツバサ(ソラ) 500,000
・サトリ 64,000
・マジュツ 320,000
・ソセイ 1,200,000
・イドウ(トキ)3,200,000
・セイレイ 58,000
・イドウ(カベ) 60,000
(他の品に比べ別格に金額が高い・・・)
僕の残り得点は63,960。
どの行で停止してみた時も、これほど高値がついた商品は存在しなかった(ノサダは興奮のあまり金額をみていないが・・・)。
今度は慎重に考えねばならない。ノサダの時のように一度スクロールすれば戻ってこられないからだ。判断材料としてもう少し他の商品も確かめてみたいが、動く時はここにある品を買わないと決めた時以外にない。
「イドウ(カベ)、というのはあれですか? リレミト的なあれですか」
「・・・」
男は返答しない。
「他にこれらのような高額品はありますか?」
「自分で探してくれ」
(・・・)
「ではこの商品ページに検索機能はありますか? なんでも構いません」
「検索はできない。マウスを上下して探してくれ」
「一度見たページをブックマークできますか?」
「できない」
「ではテンキーはありませんか?またはスクロールキーとしてつかえる」
「ない」
「つまりはあれですか・・・無課金でレア引くには時間と労力使うでしょ。 と?」
「・・・」
「このページには拳銃の百倍以上する値段の物も並んでいますが、効果はそれなりに期待できるってことですよね?」
「・・・」
「で、ではこのお店、再来店というか戻ってくることは可能ですか?」
「その扉を出たら二度とここに来ることはかなわない」
「では、塩と砂糖を返却して四十点返してもらうことは?」
「可能だ」
これが藁にもすがりたい人間の足元を巧みに操る悪徳商売であったなら、要するにこれがとんだ食わせ物の品だった場合・・・僕は自身の人生三十年分の対価として、最初に渡された全財産を今この序盤というか、まだ始まってもいないうちから失う事になる。つまりは拳銃が十四丁も買えるほどの点をスタート前から騙し取られたことになる。
そう考えながらも僕は迷わず塩と砂糖を返却し、有り金全てでサトリ64,000を購入した。
きっと支払う点数に応じて効力も大きい、だろう、と考えたわけだ。それは自動車学校で習う、やってはいけない運転方法、だろう運転。
有り金を使い果たすと、男は黙って出口の扉を指さした。そして水と食料を手さげ袋に入れてくれた。
「あの・・・さとり、まだもらっていないのですが」
そういうと男はビニール袋を僕に差し出した。受け取ってみるとさとり購入者特典。と書かれたほとんど使わなそうな品物が詰合せセットになっていた。そしてすぐまた出口の扉を指差した。僕がもう一度同じことを聞こうとすると男は僕に背中を向けた。僕は仕方なく店の外に出た。そしてどうして良いのかもわからないまま、更にはさとりがどこにあるのかもわからない不安な心持のまま沢山ある扉の中からなんとなく選択した場所が、今立っている白闇だった。
白いだけで何もない。物音もなく、生物の気配もない。地平線までが永遠に白い平原なのか、わずか六畳一間の白い部屋の中なのか・・・。まるで暗闇に立つのと同じ。動いてみなければ何もわからない。
(さてどうしたら良い・・・)
殺人が仕事だというあやめる番人に最初から遭遇するよりは運が良かったと言えるのだろう。それにしても・・・。
腕時計を除くと残り点数の「0」という表記が消えていて、代わりに「0/10000stp」と表記されていた。これがそれに該当するかはわからないが、各部屋には通過した際にもらえる点数が決まっている。
(ゼロパー・・・、ミリオンッ!)
一万分のゼロ、の意味はわからないものの、最後のsptというのはこの世界の通貨単位だ。それはつまり拳銃でいえば二丁以上。
そう・・・どうしても頭から離れない拳銃換算。
まずは歩いてみようかとも考えたが、やはりやめ。その場に座ることにした。すると腕時計が振動し目の前に「さとり取り扱い説明書」と書かれた映像が映し出された。
「(読む)ここをタッチしてください (この説明は二度とご覧になれません)」
優しい言葉で脅迫するその説明書に対し、僕はため息をつきながら素直に「読む」という場所をタッチした。
概略
効力はヒト(人間)に限定されています。回廊の番人、回廊の住人には効果がありません。ヒト以外に使用した場合、「使用不可」という文字が表示されます。
・ 使用制限は三回。「使用不可」の番人や住人に向けて使用した場合は制限回数も減りません。
・ 使用の際は対象の首から上を見つめ、左右どちらかに首を傾けてください。
さとりの効果について
・ 対象者の迷いを知ることができます。
・ 対象者が何について迷ったのか、使用者はその迷いの原因を知ることはできません。
・ 効果は対象が「重要度が高い」と認識した直前の迷いに限られます。
・ 迷い(選択肢等)が複数項目あり画面に表示しきれない場合は種類別に分けられ、その見出しのみが表示されます。
使用条件
・ 回廊内でのみ使用可能です。一度も人間と遭遇しなかった(未使用の)場合も回廊の外では使用することができません。
副効力
・サトリが正常に機能した場合、その副効力として心理的負荷の軽減(使用者が望ましくない、と感じている負荷を一定時間軽減)します。
また、この画面はサトリを使用した際、及び使用者がメニュー画面操作を行おうとする際に自動的に起動します。
画面というのは今僕の目の前に文字を映し出している、おそらく僕の視覚認識に伝達されているもののことだ。ページはフリックすれば切り替わる。最後のページに「ご購入ありがとうございました」と書かれていて「取り扱い説明書を閉じる」という文字にタッチすると画面表示は消えた。
さて使い方はわかった。そして購入した人間誰もがとりあえず呟くであろうことを僕も呟いた。
「これだけ? 」
白銀の世界はどうやら広いらしく、僕の独り言ははね返ってこなかった。
◇◇◇
白い世界に入り、さとりの説明書きを読み終えた僕は他に何もすることがなかった。仕方なく歩いてみたがまったく変化がない。暗闇の中を進んだのと同じだった。
僕にどうしろというのだろう。回廊はそこを訪れる人間のステータスによって変化する。IQの低い人間には低い人間向けの進路となる。だから永遠と白いだけのパズルピースに挑むほど、僕に知能があると判断されたとは考え難い。
まあ悩んでもしかたない。
考えてみれば僕の三十年はいつもこうだった。諦め癖、という名の得体の知れない闇が僕を覆う。そしてその万能な闇が僕にいう「おまえには向いていない。ただそれだけだ。気にすることはない」と。
そのうち忘れるよう脳は学習していき、やがてそういう逃避体験の積み重ねは、諦め癖、負癖へと進化した。それらが深い闇となって僕に寄り掛かかる。「不慮の事故がなかったとしても、自身を覆う闇に対し反撃を仕掛けることはなかっただろう」というどこかの議会がつけた僕への評価の真正には黙って下を向く以外ない。
思えばこの星川健之という男の人生は何だったのだろうか。暗いところにいると気持ちまで滅入るというが、真っ白いところにいて気持ちが滅入ってくる自分とは・・・、転じてポジティブか。
そうやって最下位グループに選出されてしまった情け無い自身を省みていた時、ようやく初めての変化が訪れた。
数百メートル離れた ― 程の距離と思われる ― 場所に大型バスが現れたのだ。緑色にカラーリングされたそれは東京都交通局のそれに良く似ていて、右に左にカーブを繰り返しながらこちらの方角に向かって確実に近づいてくる。
腕時計が振動し、表記が「10:24」というものにかわった。やがてバスは僕の目の前までくると「ブルルル、ブッシュン」という大きな音を立てて停車した。そしてフロントよりの乗車口が開いた。
「天国一丁目経由、天国駅行き」
音声テープの声が運転手のいない運転席から告げられた。
(いやな行き先名だ・・・。次のバスを待つべきか・・・)
僕は乗車を戸惑った。しかし腕時計をみると表記は「10:23」と変わっていた。良く見ると秒数表示が1秒ごとに減っていることに気がつく。
(制限時間なのか・・・)
または僕を焦らせるためのダミーか。
しかしこのバスに乗らなかったが最後、永遠にこの白い世界に閉じ込められる可能性もある。だが行き先は天国。時間表記は数字を減らす・・・。
「すいません、お金ないのですが乗れますか」
迷った僕は時間を稼ぐために声をかけた。事実、さとりを購入する際僕は全てのポイントを消費している。
「ドアが閉まります。ご注意ください」
自動音声はただそれだけを告げる。代わりに入り口付近に座っていた初老の女性が答える。
「このバスは無料で乗れるのよ」
もはや何の判断基準かわからないが、無料という言葉を聞いて僕はすんなり閉じかけたドアをよけてバスに飛び乗った。
やさしい声で僕に声を掛けてくれた初老の女は胸に「乗客」という名札をつけていた。回廊の印も入っている。
「先程はありがとうございました」
僕がそういうとにっこりと笑顔をつくった。外見は人間そのもの。何の疑いようもない。だが彼女らは演者でしかない。決められた役割をこなし、そして余計なことは言えないし、行動制限もかかっている。
バスの車内は満席だった。立っているのは若い女と僕だけ。運転席は無人で、自動運転という緑色のランプが点灯していた。
車窓からの景色は相変わらず真っ白で何もみえない。
(良かった。とりあえず番人はいないみたいだ)
ざっと見たところ乗客はみな名札をつけていた。つまりみな回廊の住人。みかたの番人同様僕たち人間の味方だ。
老人、学生、子供、その親、若い男女、中年の男女、みな世代も服装もまるでバラバラだった。会話しているものはなく、楽しそうな顔も、つまらなそうな顔もない。かといって不自然さや違和感もない。まったく現実のバスの車内そのもの。
(さて、どうしたらいいものやら)
車内の内装は広告こそないものの、その他は都バスそのものだった。先頭から一人がけシートが続き、中ほどに降者用出口、そこから奥は二人がけシート、最後列のみが一続きのベンチシートになっている。
「次は天国四丁目、天国四丁目。お降りの方はブザーでお知らせください」
乗車した時と同じ自動音声が、車内アナウンスで次の停留所名を告げた。やはり天国行きのバスに乗ったのは良くなかったか。駅に近づく前に降りたほうが無難だが車窓の景色は一向に変わらない。そして腕時計は順調に数字を減らしていく。
何も考えが浮かばない僕は、とりあえず手さげ袋からペットボトルを出して水を飲んだ。飲んでから口の中がひどく渇いていたことに気がつく。
四丁目で降り、次のバスを待つべきかもしれない。次は行き先の違うバスが停まるかもしれない。またはこのまま乗車し続けていれば駅に着く合い間に「回廊分岐点」などという理想的な停留所名がアナウンスされる可能性も。
おそらくはその二択。脇の下で冷えた汗が冷たい。番人に出会ったわけでもないが、制限時間やら、バスの行き先名やらが僕を追い込んでくる。もっともこの回廊内では当然の事かもしれない。全ての選択に自身の命がかかっているのだ。
僕は車内に運行系統図がないかもう一度注意深く確認することにした。だが運転席にも客席周辺にもそれらしいものはなかった。そして改めてもう一度車内を見回していた時だった。一人だけ名札を胸につけていない男に気がついたのは。
男と目が合って体中に電気が走る。先程まで疑いようもなくしっかりと重力を感じていた足が、一瞬にして宙に浮いてしまったかのよう。何かにすがりつく意味合いなのか、あわてて吊り革に手を伸ばす。
「回廊内で他人と遭遇することはまれです。ですから名札をつけていない人を発見したらすなわち番人。そう思ってもらったほうが間違いありません」
ホールオレンジ受付の女は、僕にそうアドバイスした。
(ええっと・・・落ち着け・・・遭遇する確率的にはまずみかたの番人が最も高い・・・だったよな)
僕は足に力が入らない状態で吊り革につかまり、自身に冷静さを取り戻させる材料を必死に探した。みかたの番人はもとより、僕たちの敵であるうそつく番人であったとしても彼らは人間に触れることができない。つまり今二人がけシートに座っているあの男があやめる番人でない限り、とりあえずここで僕が殺されることはない。
(そう。そういうことだ。ま、まずは落ち着こう。あやめる番人に出会う可能性が一番低い)
そうやって呼吸を整えようとしても、慌ただしくあれこれ考えが巡っていくだけだった。おかげで呼吸が整うどころか、新たな不安要素に思いあたった。
(まてよ・・・)
再度見渡した結果、その男を除いて着席した客全てに名札を確認できた。最後列の人間のものになるとはっきりとは見えない。しかしここでは名札に似せた何かを胸につけ、僕をだまそうとしている番人、という想定は捨てた。
だが唯一立っている女は胸まで髪がのびている上、前屈みになっていて名札が確認できない。こうなってみると確認の必要を感じるが、回りこんでまで名札を見るのはあまりに不自然さを伴う。良案が浮かばない。
現在確定している「回廊の住人ではないもの」は一名のみ。これが二名になればリスクも倍。まずは住人でないものが複数人か否か、その確認が優先されるべきだ。
だが立っている女の名札をどうやってみれば良い。
そう思案をして顔を背後の女の方へ向けた瞬間、その男が口を開いた。
「あなたもしかして人間ですか?」
名札のない男は明らかに僕に向かってそういった。心臓をこんで突かれたような衝撃。驚きで後ずさりしたい身体を庇いながらの返答。
「は、はいそうです」
目が合うと、男は目を閉じてうなずいた。
「良かった。番人じゃないんですね。
僕も人間です。まさか人が乗客としてバスに乗ってくるとは思わなかったから。怖くて声をかけるのを迷っていたんですよ」
男は好意的な表情でそう言った。しかし男が人間である証拠はない。
「そうだったんですか。良かった、僕もあなたを番人ではないかと思ってビクビクしていました」
「なんだ、お互い同じ考えでしたか。まあ無理もないですよね。でもほら安心してください。これ僕の集積カードです」
そういって男は首から提げていた分厚いカードをシャツの中から出してこちらに見せた。逆進行する時間がデジタル表示されていて、その横には残得点。物は違うが僕の腕輪と内容が類似している。信用して良いもののように思える。
「ぼ、僕のはこれです」
そういって僕も腕輪を男に見せた。僕の腕輪にはオレンジ色のカラーリング。彼のカードは光沢のある水色が周囲を囲っている。僕は男にエントリーした受付のホール名を聞いてみた。
「私がエントリーしたのはホールウォーターブルー、という受付です」
(良かった。この人は人間だ・・・)
そう思い安堵すると、同時にこみ上げてきたのは欲求だった。砂漠の旅の途中、やっと見つけたオアシスに人がいたら、おそらくこういう気持ちになるのだろう。互いの境遇や今までどうやって過ごしてきたのか、そんな類の話を何でも良いから語り合いたい。すぐにそういう衝動に駆られた。だが彼は僕より現実的だった。
「このバスにこのまま乗っていると無条件で天国へ行ってしまいます。僕も降りるので次の停留所で一緒に降りませんか?」
「あ、はいもちろん構いませんが途中に回廊分岐点というような停留所が出てくる可能性はないんですかね?」
「その可能性はありません。躊躇して降りられずに過ごしてきましたが、先程から一丁目に向かって一つずつ町名の数字が減るのみでした。このままでは本当に天国駅へ連れていかると思います。ですから、一緒に」
「それなら早く降りたほうが良いかもしれませんね。それにせっかく人に会えたのですからもちろん私もご一緒します」
僕はすぐ賛成の意思表示をした。足元にはいつもの重力がもどっている。
「良かった。賛成してくれて。ありがとう」
「いえいえこちらこそ。僕は星川といいます」
「これは失礼。私は傘田といいます。実は前の部屋でこの通り足を怪我しまして、びっこを引いています」
そういって傘田はズボンの裂け目を指差した。前の部屋で何があったのだろう。まさか既にあやめる番人と一度遭遇したのか。様々質問が湧き上がったが僕の好奇心よりも彼の次の言葉が早かった。
「もしいやではなかったら、先に下りて地面が傾斜になっていないかどうか確かめてみてもらえませんか?」
まだひどく痛むもので、そう付け加えた傘田に向かって僕は「構いません」と回答したがすぐに別の提案をした。
「僕が肩をかしますから、階段の途中までご一緒しましょう。その後で僕が先に降りて地面を確かめます。白くて何も見えないですからね。地面までの距離が測れませんよね」
「いえ、それだと私がもたもたして扉が閉まるのに間に合わないといけません。星川さんに先行してもらい、扉が閉まらないようにあの黄色い床の上で待ってもらったほうが確実です」
オリジナルと同じ構造ならば、黄色く塗られた床面に人が立てば開いた扉を閉めることができない。
「なるほどそうですね、わかりました」
僕がそう答えると、音声テープのアナウンスが車内に流れた。
「間も無く天国四丁目、危険ですのでバスが停車してからお立ちください」
アナウンスを聞いて僕は出口階段の付近に移動した。迷いがないわけではないが 、傘田の言う通りこのまま天国駅に連れていかれるより、行動するほうが無難だろう。
しかし相変わらず車窓から見える景色は白闇のままだった。おそらく降りたところでバスに乗る前と然程変化はないはずだ。自然次のバスを待ってみる、という程度のことしか思い浮かばないだろう。
傘田はカバンを両肩にかけていた。
(足が悪いのにあのカバンを背負うのは難儀だろう。僕がカバンだけでも持ってあげよう)
そう思い傘田の方へ二、三歩進み出た。バスは停車に向けて減速を始めている。僕は慎重につり革を伝って傘田の方へ移動した。
「なにしてるんですか」
傘田が落ち着いた声でそういった。
「いえ、荷物だけでも私が持とうと思ったもので」
そう返答すると、傘田は笑顔になった。初めてみる笑顔。黄ばんだ前歯は所々隙間が多い。
「ああ、そんなことは気にしないで良いですから予定通りお願いします」
傘田は微笑みを浮かべたまま早口でそう言った。確かにそうか。この世界で唯一の持ち物を安々他人には渡せない。
(余計な気をまわしてしまったな)
そう反省した僕は素直に出口扉の前に進み黄色く塗られた床の上に立った。
「星川さんまだ早い。そこに立ったらドアが開かないですよ」
と傘田に注意された。
「あ、そうか。すいません!」
そういって黄色の床から運転席の方に顔を向けると、偶然目に入った。吊革につかまって立っている女の胸の膨らみ。そしてそこに名札がついていない。
あまりにも至近距離にあってその事実を目の当たりにした僕は、まるで防衛本能によってシステムが立ち上がるかのように、首を傾げていた。癖、なのかもしれない。それもまったくの無意識。ほとんど反射的といってよかった。だが相手の首から上を見て首を傾げる、という説明書にかかれた通りの行動をとったことで、僕の意図に関係なくサトリが起動した。
そしてサトリが提示した回答は
ーーーー 使用不能 ーーーー
サトリは人間にしか使うことができない。そしてこの女は住人である証拠のネームプレートをつけていない。つまりそれは女が回廊の番人であるということを裏付けている。
慌てて傘田の方に振り返る。瞬間彼の口角が下がった。「しまった」という類の表情。まるでこの事実を知っていて、それを悟らせないようにしていた、と受け取れるほど。
初めて遭遇した番人。名札をつける位置を髪で隠していたのだとすると、味方である可能性は低い。
(こわい・・・)
そう感じた。再び足元の重力が負荷の軽減を始める。
バスの減速に伴うブレーキの音がかすかに聞こえる。しかしここで予定を変え、降車しないと言えば傘田はどう返答するだろう。バスが停車するまでいくらも時間がない。迷う暇も、出し惜しみをする余裕もない。僕は傘田に向かって即座に切り札を使った。
サトリ
ー 対象が極めて重要と認識した、最も新しい迷いを表示します ー
ーーこの人間と協力して逆に番人を外へ突き落とすーー
ーーこの人間を扉の前に立たせて外へ蹴り落とすーー
ーーこの人間に手をかしてもらう振りをして、途中で外へ突き落とすーー
ーーなにもせず、この人間が自滅してくれるのを待つーー
『以上です。詳細情報をご覧になる場合は、対象語句をタッチ操作するか、または対象語句を二秒間見つめることで詳細情報の閲覧が可能です』
僕は全身の毛が逆立つような感覚をあじわっていた。番人に遭遇することよりも、人間の心を覗くことのほうがずっと恐ろしいではないか。善人の顔をし、親切を装い、僕を罠に導く算段をしていたのだ。
身震いを寸前でこらえ、僕は必死で頭の中を整理する。心臓がこの上なく痛く、それほどに動揺しているはずではあったが、サトリが起動した際の副効力のおかげか、脳内はいつになく冷静に状況を分析する。
置かれている現状について。
一つ目。サトリが表示した回答からは傘田の殺意が感じられる。外に蹴り出されることが、イコールして死を意味するかはわからないが、自滅を待つ、あるいは突き落とすという選択である以上、殺意でなくとも敵意であることは断定できる。
二つ目に推測できること。黄色く塗られた出口付近の床は、番人の胸をみることができる唯一の位置、といえる。そこに寸前まで立たせたくなかった、とすると傘田は僕をバスの外に落とすまで、番人が同乗していることを知られたくなかったのではないか。またはそれを僕が知ることで彼に不都合が生じる、とも考えられる。
そして最後に疑問点が一つ。自滅を待つとはなにか。仮にバスの外に出ることが死を意味するのなら、あえて先に降り立つ段取りになっている僕を、蹴り落とす、または突き落とす必要性とは何か。
と、ここまで考えて僕の思案は中断された。再度サトリからの催促があったからだ。
『操作が入力されない場合、三秒後にこの画面は閉じられます』
詳細情報の閲覧期限がきれると言われ、慌てて意識を画面に戻す。タッチ操作は怪しまれると考え「番人」という単語を二秒間見つめた。するとすぐに回答画面が現れた。
『※あくまで対象者の認識としてーーここでいう番人とは =髪の長い人間、出口付近に立っている、あやめる番人である、容姿、声、骨格等から性別女性と認識されているものーーを指します』
あやめる番人、という言葉を文字として視覚認識させられる衝撃。
「もう、バスが止まります。星川さん、段取り通りお願いしますよ」
後ろから傘田の声がした。慌てて「はい」と返答するが、声が上ずった。
僕は続けて詳細検索機能で「蹴り」という文字を見つめた。
『※あくまで対象者の認識としてーーここでいう蹴りとは =足を使って物体を飛ばす、または物体に衝撃を与えるーー等を指します』
続けて「その人間」
『※あくまで対象者の認識としてーーここでいうその人間とは=車内にいる自分ではないもう一人、ホシカワと名乗る人間と思われるもの、容姿、声、骨格等から性別男性と認識されているものーーを指します』
続けて「自滅」
『※あくまで対象者の認識としてーーここでいう自滅とは=その人間が出入口付近等で転倒する、数歩あるく、
「どうしたの星川さん」
という傘田の大きな声に驚き、僕はサトリの画面を終了してしまった。傘田の声を無視し、再度画面に戻ろうとしたが、うまく開かない。
何も考えがまとまっていない。
番人はどのタイミングで襲ってくる。性質があやめる番人である以上何もしないということは考え難い。不意に床に目をやると震えている自分の足が目に入る。
番人の表情は髪の毛に隠れてわからないが、一貫してこちらをみない。武器を持っているのか、そして傘田は武器を持っていないのか。彼と協力して番人に立ち向かう、という選択肢はないのか。
だが浅田が出した結論は僕を蹴り落とす、または自滅を待つ、のいずれかであることは確定している。そのことから彼自身も武器として有効なものは持っていないのだろう。現に傘田はカバンを背負ってしまっている。今更僕が共闘を持ちかけても彼の結論を覆すのは難しい。ならばどうすれば良い。
(ん。待てよ)
なぜ僕は ーー 人間と思われるもの ーー なのか。サトリの説明は、あやめる番人について「あやめる番人である」と断定していたが僕については「人間と思われるもの」という表現を使った。つまりは傘田は知っている、ことになる。あの立っている女があやめる番人であると。
あやめる番人が他の番人と大きく違う点は、僕たち人間に直接触れる、ことができる部分だ。彼らの仕事は人の殺傷。みかたの番人は味方、うそつく番人は敵。しかしいずれも人間に直接あるいは、物理的に接触することはできない。そのことから、傘田が女をあやめる番人として断定するためには二通りしかない。
一つは直接会話をし、何らかの確証を得ること。もう一つは他者、または自身が怪我を負わされるか殺されること。しかし彼のズボンの裂け目があの女に切りつけられたにしては、傷口も覗いていないし、血痕の付着部分もない。まるでどこかに引っ掛けて破れただけ。それにこのバスの車内に争った形跡もない。
(ならばどうしてわかった・・・)
女は前を向いたまま動かない。傘田は青みがかった顔と充血した目で僕の足元を睨んでいた。
(どうすれば良い)
恐怖と混乱のなか、活路が見出せない。何もまとまらないままバスの減速はいよいよ体にわかる程度となる。何らかの結論を出さなければならない。
「まもなく四丁目。危険ですのでバスが停車してから席をお立ち下さい」
自動アナウンスの声。白闇の車窓に停留所の標識だけが浮かんでいる。
立っている女はまったく動かない。だがこのまま動かない、ということは性質があやめる番人である以上あり得ない。そして番人が動く、動かないに関係なく降車ドアの前に立っていれば僕は傘田に蹴り落されてしまう。それが死を意味するのかについて確証はないが、回避すべき事という意味では確証が持てる。つまり降車ドアの前に立たなければ良い。
あと数秒で停車する。まず、バスが止まった直後に運転席へ走ろう。そして入口ドアを開けるスイッチを見つけ出し、押す。傘田が出口ドア付近で番人の襲撃を受けている(かなり都合の良い想定だが)その隙に入口ドアから僕は降車する。降車が正しい回避ルートであるか否かについては不安があるものの、このままあやめる番人がいるバスに乗り続けては心臓がもたない。
「ほしかわさんお願いしますね」
バスが停車するのに合わせた傘田の声。それを完全に無視するかたちで僕は運転席に走った。横目で捉えている女はまだ動かない。降車ドアが開く音。同時に傘田の絶叫。
「おいっ!」
後頭部にささるその声は、先程までの男とは似ても似付かない。怒気よりも強い、殺意あるいは強烈な敵意。その声を無視し、自動運転中、という緑色の点灯ボタン付近を順に確認する。そして「乗車ドア開」というボタンを見つけ、突き指す勢いで押す。
「おい、なにしている!」
振り返ると傘田が突進してくる。足を怪我している人間とは思えない躍動感。そして視線を移すと入口ドアが開いていないことに気がつく。
「来るな!」
僕はそう言って開ボタンを連打する。しかしドアが開かない。傘田がすぐ背後に迫る。焦った僕は手当たりしだい周辺のボタンを押す。
「うおぉ」
その叫び声に合わせて振り返ると、傘田はハンマー投げの要領でカバンを僕の側頭部に向けスイングしていているところだった。反射的に背後へ仰けったことにより、カバンのハンマーが僕を通り越す。そしてステンレス製の手摺にぶつかった。鈍い金属音。音から想像するに、当たれば瀕死か。僕は傘田の第二撃に備えるため、必死で体制を整えた。すると降車ドアが既にしまったことに気がつく。でたらめに押したボタンの一つがヒットしたものだろう。そしてバスがゆっくりと始動する。その始動と時を同じくして女が動いた。
◇◇◇
女がジャケットの内側に手を入れ、僕らの方に向きをかえた。
「うしろっ!」
こちらに向けて再度カバンを振り上げる傘田に対し、僕はその背後を指差して叫んだ。女はジャケットの内ポケットから輝くピストルを出していた。
傘田はヒッ、という声と共に百八十度向きを変え、そのまま腰を抜かした。女はこちらを睨みつけたままピストルの銃口を傘田に向ける。「やめてくれ、もう少し待ってくれ、い、いまから何とかするから」と裏返った声で懇願する傘田に向け、女は躊躇なく発砲した。といっても小さく「パンッ」という音がしたのみだ。その玩具のようなピストルの銃口が一瞬僅かに光り、合わせて小さな音。しかしそれに合わせて傘田の体が衝撃で波打った。
そして出血もないまま、傘田はぐったりと床に寝転んだ。口から血が垂れる。そして女は視線をこちらに向けた。
僕は異常な浮力を感じたが何とか足を地面にとどめ、乗車ドアを手動で開けようと試みた。だがその手に力が入らない。どのタイミングでやったのかわからないが、右の小指が明後日の方角を向いている。ドアはビクともしない。そして女の声がした。
「次の停留所で女が乗ってくる」
落ち着いた声を後頭部に受けて恐る恐るかえりみた番人は、動かなくなった傘田の体を窓の外に落とすところだった。
傘田の死体を車外に落とし、窓を閉めた女は再びピストルを僕に向けてこういった。端正に整った若い女の顔。ではあるが黒目がない、正しくは異常に小さいため角度によっては白目のみに見える。
「この銃の弾丸は肉眼ではとらえられない。人体に着弾すると内部で破裂する。今の人間のように胸部に被弾すれば絶命。それから連射機能がある。少しの紫外線と特定の気体があれば弾は瞬時に生産され、弾切れすることはない。すみやかに今死んだ男が座っていた場所に座れ」
要約すると無敵。と言える銃性能と、だが捉え方次第では、この銃がなければ「おまえにも」勝機はあるぞ、という意味にもとれる。なぜ僕を素直に殺さない。そしてなぜわざわざ解説をした。
だが撃たれれば即死。今の僕にはその現実だけで十分だろう。乾燥して口も開かない、足にも力が入らない。この状況にあっては銃の性能も番人の格闘能力もほぼ無関係だ。関係があるのは、いま指示された席に移動しなければ何をされるかわからない、ということのみ。
僕は女に背を向けないよう、カニのように移動する。時折尻もちをつく。
「次に乗ってくる客を降車ドアから外に突き落とせ。もし女が乗車しなかった場合は改めて指示をだす」
あまりの混乱と恐怖の中、何の説明をされているのか良くわからない。
「期限は客が乗った停留所の次の停留所をこの車が発車するまで。それまでに遂行しろ。車が動き出したらおまえのみを射殺。それまでに突き落とせば命は取らない。次のルートへの進路を教える。それから最後にもう一つ。わたしについての情報を他者に話す、または伝えようとした場合も同様に射殺」
僕はその説明を聞きながら、やっとのおもいで傘田が座っていた席に着いた。隣には乗客という名札を胸につけた中年の女が窓の外を見ていた。殺人など見ていない。というより何も起こっていない、という横顔で座っている。とても違和感なく乗客という役をこなしている。ふと俯くと、曲がっていたはずの小指が元通りになっていた。あまりの混乱に、指が曲がっているかのように見えたというのか。
「突き落とすというのは、ど、どの程度のことを言うのでしょうか」
やっとの思いで質問を投げかける。するとそのほとんどが白目で構成された女のそれが、少し動いてこちらを睨んだ。そして回答や応答はなかった。あやめる番人というのは遭遇すれば手段を選ばず人間を殺める役割なのだろう、とイメージしていた。だが、この女はそうではなかった。ある一定の法則やルールに則って殺傷をする番人もいる、ということだ。
(と、とりあえず今は安全なわけだから)
落ち着いて考えを整理しなければならない。
おそらく傘田は今の僕と同じ状況だったはずだ。目の前で殺人をみたのだろう。撃たれる直前の彼の怯え方が物語っている。それに傘田があの女をあやめる番人、と断定していたことにも理由がつく。そして「次の乗客」にあたる僕をドアから突き落としてさえいれば、ああはならなかった。
つまり僕も置かれた状況は傘田と同じ。
自分が助かりたければ他人を突き落とせ。と言うことなのだ。突き落とされた人間が死ぬとは限らないが、もし死ぬのだとすると・・・、いま自身の安全と人殺しを天秤にかけ、その判断を迫られている。
だが死ねば天国へ行く。現実に先程まで会話をしていた人間が目の前で殺される場面を見せられてもいる。あれから震えが止まらない。当然他人を庇う余裕などないだろう。
もちろん僕は一度死を経験している。だがそれは死への恐怖を感じる間もない、あっという間の出来事だった。ましてそれは殺された経験、というのとはまったく異なる。
しかし今、失敗すれば確実に射殺される恐怖がある。心臓が肥大して肺を圧迫するかのように息苦しいが、呼吸回数が減っているのか増えているのかも良くわからない
つまり選択肢はない。今すぐズボンを引き裂き、乗車してくる人間に傘田と同じ事を言えば良い。信憑性を出すため、少しくらい足から出血させたって良い。そして傘田と同じように相手が疑問を投げかけてくる隙を与えず、次々と提案を投げかけてやれば良い。それらは自分たちが「このまま天国駅へいかないためにどうすべきか」という提案であるのだから、ほとんど不自然さをにじませない。かなりの確率で成功するだろう。
イージー。あの銀色の銃と戦うことに比してあまりにイージー。命が守られ、安全なルートまで保証され、そしてこの押しつぶされそうな恐怖からも解放される。
一刻も早くあの番人の居ない場所へ移りたい。
(やる・・・、以外にない)
心中でそう決意すると、窓の向こうにバス停がみえた。そしてそこには若い女が立っていた。
◇◇◇
「久遠真愛と申します。わ、わたしどうしたら良いのかわからなくて・・・。あの、このバス、乗っても良いのでしょうか」
若い女は無人の運転席に向かって自己紹介し、丁寧に頭を下げた。すると僕の時と同様、初老の乗客が「このバスは無料で乗れるのよ」と優しく声をかけた。
恐る恐る乗車してきた女の顔を見ると、僕の動悸は益々強くなった。
どうしてもっとこう、くたびれた中年ではないのか。人生が上手くいかないことを周囲の所為にして、常に権利と自身の正当性ばかりを主張し、欲深さが顔のしわとなってあらわれているような白髪混じりの女。・・・。まあそこまで贅沢は言わない、せめて男にしてくれれば少しは気が楽だったろう。だが実際に乗ってきた女は若く、ファッション誌にでも載っていそうな器量だった。
そして女は入口付近に立ち止って一人一人を確認し始めた。僕がしたように、前の席から順に胸のあたりをみている。やがて僕が見られる番が来るだろう。
(どうする・・・、腕組みをして胸を隠すか)
しかし今動いては却って目立つ。だがあまり序盤から正体を知られたくはない。次の停留所まで会話は最小限に留めたい。それにもう少し時間的猶予がほしい。まだ自分の中の迷いを消しきれない。
(それに・・・だ)
無人の運転席に深々と頭を下げ、聞かれてもいない姓名を名のり、そしてこれだけ正直に動揺を表に出している人間を前にして・・・。いったいどの方角を向いたベクトルなら、まんまと騙し討ちにしてやろう、という風になるのか。
「あ」
何かに気がついて思わず声が漏れた、という具合に女の声がした。僕は気が付かない振りをして顔を上げない。すると「どうしよう」と、また声がした。
もはや隠しきれないと覚悟を決め、僕は女を見た。見たといっても顔は動かさず、目だけを動かした。すると女は僕ではなく腕輪を見て口を押さえていた。
(あ)
と、今度は僕の方が声を出しそうになる。女が腕にはめていたのは僕と同じオレンジカラーのそれだった。おそらく女は逆進するデジタル数字に気がついて戸惑っているのだろう。しかし同ホールの出身者にここで出会うとは。
人間に遭遇する可能性でさえ希少、と説明されたのだ。それが同じホールから入ったもの同士となると、そうあることではないだろう。益々心情は複雑化する。
僕は女の注意がそれているうちに、胸の前で腕組みをして下を向いた。
(居眠りしている乗客のふりをして時間を稼ごう)
人を騙すのだ。それも巧妙に。失敗すれば見えない弾丸が飛んでくる。決心もないまま口を開くのは危険すぎる。まず女を突き落とすイメージからだ。ここを戦場と思えば良い。目の前にいるのは敵だ。やらなければ、やられる。選択肢はそれきりだ。
傘田を模倣して話しかければ良い。ようやくそう決心がついたころ、怯えた女の声が頭上から降ってきた。
「失礼ですが、その腕輪を見せていただけませんか」
不覚だった。なぜ腕輪を下にして腕組みをしなかったのか。声から既に女が至近距離にいることがわかる。寝たふりを続ければかえって怪しまれるだろう。
「う、うごかないで。それ以上近寄ったらこちらもそれなりの手段にでる」
「え、あ、ごめんなさい」
「それ以上こちらに来なければ、僕も何もしない」
「あ、あの、でもごめんなさい。あなたはもしかしてヒト、ではないでしょうか。番人や住人ではなく、ホールオレンジからエントリーしたのではないですか。その腕輪は私と同じですよね」
「た、確かに似ている。でも君が人間だという証拠にはならない」
怯えた用心深い男のふりをして時間を稼ぐべく、僕はしらを切った。
すると女は敵意がないことを伝えるためにか、後ろに一歩だけさがった。
「わ、わたしは久遠真愛と言う日本人です。オレンジで受付をしてこの回廊に入りました。わたし死んだ時まる裸でした。なので売店で服を買ってそろえて。でもなるべく動きやすい服装にしようと思って色々悩んだ結果、見てくださいっ、何かフットサルでもやるみたいな格好になってしまって。へ、変ですよね」
あれ、すみません。混乱していて意味のないことを言ってしまって。と再び女は頭を下げた。
「あなたもホールオレンジからきたのなら、若い女の人がいる受付を通って無口な売店のおじさんのいる部屋を通ってきたのではないですか」
話を続ける女の足や唇が震えていた。
「回廊内では殺されたり、騙されたりすることがあるから、って説明を聞いてしまったから、わたし、どうしていいかわからなくなってしまって。怖くて棄権したかったんですけど、棄権なら天国行きと言われて。
それでずっとホールの準備室みたいな場所で途方に暮れて座っていたんです。でも決心がつく前に時間切れになってしまって、おそるおそる今の場所の扉を開けました、あの、ずっと心臓がいたいというか、、
今も緊張し過ぎて何を言えば良いのか、でももしあなたが人間なら、同じ立場の人だったら、それはもうどんなに嬉しいかと思うのです。あの何ていうか、うまく説明できないな。自分でも何を説明しているのかわからないのに、これじゃあ伝わらないですよね。でもその、信じてもらえないでしょうか。ど、どうしたら信用してもらえるでしょうか」
この今にも泣き出しそうな顔をして話す彼女には、まるで僕を疑う部分がなかった。それどころか僕を味方にするために都合の良い話を展開するでもなく、大袈裟な言葉を使うでもなかった。
ただ散らばりおちた事実だけを、夢中で拾ってはこちらに投げつけてくるかのように。そういう言葉の石つぶてが、投げつけられた僕にあたっては落ちる。
「あの、ではお住まい、というより、そうだご実家はどちらですか」
私は二十三区内です、と付け加えた。
「二宮」
そう答えると、彼女は今にも泣き出しそうな顔のまま笑顔をつくった。
「あの、神奈川県の二宮ですか。だとしたら有名な公園がありますよね。芝生の丘から、海がみえて、春に桜が咲くとてもすてきな場所。名前なんだったかな。えっとたしか」
「吾妻山公園?」
「吾妻山公園」
お互いの声がそろい。視線もぶつかる。
「あ、やっぱりそうですか。わたし行ってみたい場所を本やネットで調べるのが趣味だったんですよね。吾妻山公園は良く知ってます。あと神奈川だと観音崎公園とか。
あ、でも違うんです。有名な公園巡りしていたような言い方に聞こえてしまうかもしれませんけど、その、全然どこにもいったことないんです。あの、なんていうかお付き合いしていた人はいたんですけど外出はパチンコ屋さんだけで、あとは焼肉屋さんか牛丼屋さんだけでしたから。その、だから妄想なんです。こんなところに二人でいけたら幸せだろうな。海を見おろしながら芝生の上でドーナッツ食べたり。きっとお弁当つくりもいつもより楽しいのかな。って妄想しているだけ。それでも少しは幸せになれるっていうか。あ! あの、えっとごめんなさい。気持ちわるいですよね、こんな話されても。でもあの、少しでも自分のこと話さなきゃと思ったら私こんなこといってしまって、初対面の人に」
目の前の人を突き落とすことで僕は助かる。しかしこの目の前の人はいったいどうであろう。
唇や足だけではない。声も震えている。そして落ちている真心を必死で拾っては僕に投げつけてくる。投げてはすぐにまた拾うために必死で探す。
「あなたの言う通りホールオレンジから入りました。僕も人間です」
吾妻山公園はとても良いところですよ、と付け加えようと出かかった言葉だけは必死で飲み込む。
「あ」
とそれだけ声に出し彼女は口を手で押さえた。目から涙がながれた。
例えば、この中から一人を選び突き落としてください、という問いがあったとすればその例えばに登場する数人の中で「まずこの人だけは選んではいけない」という枠。その枠にいる人だ、きっとこの人は。そういう善人を「やれ」、というのかこの回廊は。
しかし道徳や、人道的な考えというものは平和な治世あってのものだ。戦場では異なる。引き鉄をひいたものだけが生還できる。
もはや誰に対する言い訳かわからないが、自身の良心の呵責にむかって懸命に繰り返す。撃つ、しかない、撃つ、しかない、と。
「このバスに僕は天国五丁目の停留所からのりました。次の停留所は二丁目です。このまま乗っていると天国へ行ってしまいます」
僕は傘田がそうしたように、彼女に間を与えないよう話し始めた。それ以外の手段を他にイメージできなかったからだ。ただこれ以上この善人と他の会話をすれば、その分だけ自身の決意が揺らいでいくのは明白だった。
「天国駅に到着することが事実上の死を意味するかは僕にもわかりません。ですが回避するに越したことはないでしょう。もし良ければ僕と一緒に次の停留所で降りてもらえませんか。遅れましたが僕は星川健之といいます」
口を手で押さえたままの彼女が小刻みに何度も頷いた。足元の震えがおさまっていた。
「あの、なんて言っていいかわたし。あの、ありがとうございます。あの、是非ご一緒させてください」
まるで自然体だ。この真愛という女性には駆け引きしようとするところがない。
「次は天国二丁目。天国二丁目。お降りの方はブザーでお知らせください」
意外にも早いタイミングで停留所の案内アナウンスが入り、わずかに気が楽になる。
「ありがとう久遠さん。それでは一つお願いを聞いてもらえませんか」
「はい。もちろんです。私にできることであれば何でも言ってください」
「実は、、、」
なるべく間を長くし、時間を稼がなければならない。
「足をくじいていて、動かすと痛みがあるもので。もし良ければ、降車ドアが開いたタイミングで先に降りてもらい、地面が平行になっているか確かめてもらえませんか」
「あ、はい、それは大変ですね、それくらいのことは是非させてください。それにしても本当に良かったです。わたし一人でほんとに怖かったもので」
「ありがとうございます。降りた場所が傾斜になっていたりすると危ないですし、本来なら僕がやらないといけないことですが、ひどく痛むものですから助かります」
傘田に出会った僕と同じであろう、今の真愛の心境も。長い砂漠の旅路の果てオアシスをみつけたようなものだ。何でも良いからその感想を互いに語り合いたい、という。
だが僕は傘田と同じようにする必要があった。会話する間を与えないよう、注意深く考え発言する。しかし、するとどういうわけだろう。口をつく言葉が次第に狡猾なそれになっていく。
「それでは久遠さんの荷物を私が手に持っておきます。無事久遠さんが着地したら久遠さんの荷物と、今度は私のカバンも手渡しますので受け取ってください。私は手摺に捕まりながら後に続きます。といったながれでもいいですか。外は暗闇のようなものですから、念には念をいれて」
そうですね、そうしましょうと素直に即答され、どういうわけか僕は動揺する。さらに、「いけない。星川さん靴紐がほどけています」というなり彼女はしゃがんで僕の革靴に手をかけた。その彼女を見下ろして、目眩に似た恍惚感がわきあがる。
これから降車ドアの外に蹴り落とし、ついでにそのカバンごと持物まで奪おうとしている人間。その人間をひざまずかせ、靴紐を結ばせている。闇に魅入られ落下するような高揚感。味わったことのない刺激が体の末端を痺れさせ、さっきまでそこにあった正義感を押しのけていく。
「まもなく二丁目。危険ですのでバスが停車してから席をお立ち下さい」
タイミングよく車内アナウンスが入る。靴紐を結び終えた真愛が立ち上がった。やすやすと荷物を僕に差し出し、そして彼女は出口扉のほうに向きをかえた。やがて車窓に停留所の標識が見え、バスがゆっくりと停止した。
車内アナウンスと共に降車ドアが開く。真愛は何の疑いもなく車外へ出る体制をとる。番人の女は動かない。
(よし)
これで助かる。助走をつけて彼女の背中を蹴り飛ばすのみ。何も難しくない。繰り返しイメージしていた動作。無防備な背中。
(いける)
だが、
恐る恐る足を車外に伸ばす真愛の背中は、蹴れば折れてしまいそうに弱々しくみえた。手摺につかまった腕が小刻みにふるえてうまくバランスがとれていない。
(蹴れない・・・、なら手で押せ。さあ引鉄をひけ)
自身に言い聞かせるが、一歩が出ない。
「ねえご実家にいった足で、そのあと吾妻山公園に登らない? 私お菓子焼いていこうかな。ね? 楽しみ」
智茶都が好きだった公園。なぜこんな場面でこんな事を思い出す。この世の誰よりも幸せであってほしい人・・・。こんな風に自分が他人を思う事があるのかと。そう僕に教えてくれた人。そして最後まで並んで歩いてあげられなかった、人。
それがなんだと言うのか、智茶都への後悔と、今この人を天国へ突き飛ばすこととは、まったく関係のない事だ。
頭を振って仕切り直す。
早くしないと。
「星川さん、地面がないです。み、水が…、それも」
真愛が振り返って僕にそう伝えた。同時に降車ドアが閉まります、という車内アナウンス。ブザーがなるが真愛が黄色の床面にいるため、ドアは閉まらない。慌てて番人の方に目をやるが、先程から動いていない。
「す、水面にとても重みがあります。池、もしかするとそれ以上の」
どうしたら良いですか、と今にも干からびそうに色の変わった唇が僕に向かってそういった。
たしかに番人の向こう側に見えるバス停の標識は左右に揺れている。丸い浮きの上にそれが立っているからだ。
「扉が閉まります」
ブザーが再びなる。真愛はこちらを向いてしまっている。
番人に殴りかかる勇気はない。だが人を殺める勇気も出なかった。
さすがは闇に負けたと評された最下位の星川。拍手喝采だ。
しかしそんな臆病者にも一つだけ選択が残されていた。一つの仮説に望みをつなぐ、という選択。
僕は彼女の荷物だけを床において後ろに下がった。そして彼女を突き落とすふりをして勢いよく頭から突進する。
水。
それも池というほどに深い。といった彼女の推測が正しければ。そして人体に被弾すると破裂する弾丸。それが水分を指すとしたら。
番人の弾丸は水中で破裂するかもしれない、というだけのとても細く頼りない仮説。
僕はその水面、と思われるものめがけて突っ込んだ。
◇◇◇