(真愛そのニ)寂しい女と甘くないミルクティ
今日まで長かった。
わたしのその長くついていない人生。例えば人の「不運」というような何か見えない力を数値で可視化できるなら、私は国や自治体から保護を受けられるレベルだ、と、言ってみたことがある。もちろん冗談として。すると聞いた相手がシリアスな表情になってしまう。さらに声のトーンを下げて「そうかもしれない」と答えるものだから、そうだよねと、引きつった笑顔でこたえるしかなくなる。
私にまとわりつくその何か ー呼び名がわからないのでここでは仮に不運と呼ぶー の影響により、私はいつの時も女社会に溶け込めない。グループ、仲間、そして親友。そういったものと縁遠く、そういう枠から決まって「外れ」にされる。
友人と呼べる存在を持つ事ができてもそれは一時。しばらく付き合う内に疎遠になる。多くの場合、私と付き合うことでその相手が所属グループから排他的に扱われるなどの関節被害を受ける。だがどういう訳か私から離れるとその子は元のグループで安寧を取り戻す。
何故そういう方向にいくのか、なにがどうなってそういう転がりかたになるのか・・・、自分でも良くわからない。そしてそれについていつも思い悩んできた。
だがもう終わった。それは昨日までの私の話だ。
そう、これからの私は違う。就職し、今の店舗で働き始めた私はそれはとても慎重に行動した。確かに、仕事面ではミスをして他者を苛立たせた。オーダーミスをし過ぎて誰よりも伝票修正が迅速になってしまう。案内順を間違えた、というだけの些細な事が発展してマネージャー呼出という最上位のクレームになる。極め付けは客の頭にホワイトソースをかけた。
だか全ての事は業務上の出来事だ。そう。人間関係は順調なのだから。
私の働くフロアには、一美という二十四歳の正社員がいる。彼女を中心とするグループがこの店では最大派閥。はっきりと区分けされてはいないものの「一美さんたち」という目に見えない括りが存在している。対抗勢力というわけではないが「七海さんたち」というもう一方のグループがある。そしてそのどちらでもない少数のグループと、そのいずれのグループにも属さない四十二歳のパートタイムの女が一人いる。
ちなみにフロアマネージャーの栄は、あえていうなら七海の派閥だ。
「久遠さん今日はもうあがりなんだ? 私たち駅前でコーヒー飲んで帰るんだけど、一緒にどう?」
そしてその時は訪れた。一美がそういって私を誘ったのだ。タイムカードに時間を印字していた私は慌てて振り返った。
「あっ、えっ、はい。ぜひ、喜んで」
不意をつかれ、声が上ずった。既に帰り支度を終えていた一美は、およそ十分後の時刻を指定して
「じゃあそのくらいに店下で」
と、言って背を向けた。私は急いで更衣室に行き、大慌てで着替えをし、そしてボタンを掛け間違ったことに気がつかないシャツの上から鞄を斜めにかけた。すると残り六分と少しの時間が残った。私は階段を使用して今いる四階から一階に降りるあいだ、逆算した残り時間を何度もあたまの中で繰り返し確認し、そしてトイレの個室に駆け込んだ。
(帰りのお茶・・・ついに・・・私にも声がかかった)
こういうシチュエーションに備え、私は幾度もイメージトレーニングを重ねてきた。友達がいない、うまく女社会に馴染めない、などというコンプレックスとお別れするため(根暗な性格とは別れられないとしても・・・)。
そう。社会人になった私は今までとは違う。
寂しい女だ、などと悟られぬよう。小慣れた感じ。スマートに。どう振る舞い、どう会話するか。私は今日までそれを思い描いては、シュミレーションを行ってきた。
(落ち着いて・・・大丈夫。イメージ通りやれば良い)
だがそういう今日までの積み重ねを思い出し始めると、どういう訳か余計に脈拍が上がっていく。
しかしここは躓けない。誕生日の夜、どこにも寄らず真っ直ぐ帰宅することを知り合いに見られないように注意する事も。一人分の食材を買うことが恥ずかしくて、クリスマスやそういう類の日に引きこもる事も。そう、お別れするのだ。そういう自分と。
「久遠さん? シャツのボタン、位置違くない?」
カフェに入ると「一美さんたち」の一人にそう言われた。私はいきなり出鼻を挫かれる。
「ああ、ほんと。すみません、ちょっと直してきます」
テーブルに座る間も無く、私はそういってトイレに向かった。慌てた私を見て、一美たちは一様に笑い声をあげる。
「で、さあ今日中田さん遅刻してきたんだけど」
「ああ、今日の仕込み間に合わなかったのは、それでか」
「うん。そう。そうなんだけど、それよりわたし、初めて見ちゃった」
「なにみたの?」
「中田さんの私服姿」
おお。という声を一同があげた。私達は四人で四角いテーブルを囲んでいた。私は温かいミルクティーを無糖で飲んでいた。少しだけカップに入れたい砂糖は、遠くの容器にあり、気が引けて手を伸ばすことができない。砂糖とってくれない? と彼女たちに言うことと、四百円支払った紅茶が自分好みの味で飲めないこととは、端から天秤の上にのせるまでもないことだった。
「ええ! 中田さん今日はどんな風だった?」
と、一美が身を乗り出す。
「なんか、服装は思ったより普通だった。でも髪型はかっこ良いよ。似合ってたし」
「あ、そっか。わたしも和帽子被ってるところしかみたことないかも」
私たちのいる喫煙用テラスには疎らに客がいた。スーツやワイシャツ姿の男が多く、本を見ていたりパソコンをみていたり。一美たちはコーヒーを飲み、煙草の灰をしきりに灰皿に落としながら中田の話ばかりしていた。中田というのはキッチンを取り仕切っている正社員の男で、営業終了後も遅くまで残っている。独身で二十代後半、細身の長身、どちらかというと二枚目。一美が熱をあげている男。
「え? 一美さんのだけ、お刺身つけてくれたの?」
「そうなの。ねぇ、それどういう意味? たまたま余ったのかなあ?」
「ええ。たまたま、ってことはないんじゃないですか?」
その後、一美のまかないにだけ中田が刺身をつけたことの理由について、様々な意見が展開された。
「あっ、あと今日ね、コース料理の皿が一枚足りなくなってキッチンに取りに行ったの。でも下の棚が空で、背伸びして上の棚に手を伸ばしてたら中田さんが無言でお皿とってくれたの」
一美がそういうと、他の二人の女はきゃっ、と悲鳴のような笑い声をあげた。私は終始笑顔で、彼女達の話を聞いていた。甘くないミルクティーはたいして飲んでいないうちから冷めて味がなくなった。この日はほとんどの時間を中田の話に費やし、そして解散となった。私についての話題はシャツのボタンをかけ間違った指摘と、久遠さんてタバコ吸わないの? アイコスとかも? くらいか。私が禁煙者だとわかっても、喫煙席に座ることに何ら戸惑いや遠慮はなかったものの。
私はタバコ吸いません。といったきり発言することもなかったが、
(意外と皆さん人見知りなのですね)
などと暢気な解釈をしながら私は気分良く家に帰った。
その日、私は駅前のパン屋でいつもは買わないアイスクリームを買って帰った。そして開封を躊躇っていたマリアージュフレールのアールグレイインペリアルをあけた。私にとっては特別な日。一美さんたちの一員になれた、という記念すべき日だ。
それを考えると興奮して胸が痛いほどだった。深夜に入り貨物列車が時折通り過ぎる頃になっても、布団の中で何時までも眠れずにいた。
◇◇◇