(健之そのニ)最下位の世界
右側と思っていた箇所は、急に頭上となり、頭上だった箇所が正面に。暗闇の中。落ちているのか、それとも回転の連続か。
僕はなぜ、智茶都に別れようなどと取り返しのつかない事を言ったのだろう。
回転なのか墜落なのかわからない混乱の中、あれもこれもと思案が浮かんでは消える。だがあらゆる思案の終点は後悔だった。智茶都への思い。健之に会えて良かった。彼女の最後の言葉が暗闇に文字として浮かんでは消える。どうしてこんな映像をみているのか。ここで何をしているのか。ここは?
不意に頭上で光った鉄の部材を思い出す。それはこちらに向かって音もなく降ってきた。
そうか、あれに潰されたのか。そうなのか「僕は死んだ、のか」ポツリと呟くと、目の前の女が返答した。
「はいそうです」
「もう生きていない? という意味の死んでいる・・・ですか」
「はいそうです」
簡単に言う。まるで塩ではなく、砂糖なのか? という問いの答えだ。
(と・・・、言う事は三途の川の船宿か)
だがそこには船も川ない。置かれたソファセットは高級クラブのラウンジそのもの。良く磨かれた重厚な花崗岩のテーブルの上に、いくつかの書類が並んでいる。
「星川健之さん、ですね? こちらにお掛けください」
着物をきた女はそう言って僕を革張りのソファセットに案内した。
「本人確認のため、この用紙に姓名を記入してほしいのだけど」
「あ、それから生年月日も」
ここはどこなのか・・・。
死んでいる、といわれても手足に違和感はなく、呼吸もある。生前と変わった点がない。言われた通り用紙に記入してしまう気弱さに至っては僕そのもの。
おそらく事故に巻き込まれて死んだ。断片的ではあるが最後の記憶がある。だがどうしてここにいるのかがわからない。
墜落などしていなかった。先程からずっと僕は床の上に真っ直ぐ立っていた。暗闇を彷徨っているつもりだった僕は、その事に気がつくまで長い時間を要した。そして目を開けて最初に見たのが、この着物の女だった。
「はい、ありがとう。あとの欄の記入は不要です、あくまでシステム上の確認ですので」
それではこれから読み上げる内容に間違いがあれば教えてね、と女は言い器用にボールペンを回した。
「満三十歳、A型、一七六センチ、六四キロ、頭髪、目の色共に黒、会社員。死亡時の本籍は神奈川県の二宮町。住所は文京区。当時交際していた同会社同課、佐川智茶都、満三十一歳女性と二年の交際ののち別れ、自暴自棄になり始めた頃、いつもは通らない時間に、いつも通らない場所を通りかかり、そのタイミングで偶然に落下した工事資器材の下敷きになり死亡」
事実である、としても細部だけは否定したくなる。
「そうですよ。間違いないです、でも」
「え? ああ、気にしないでください。事実確認なので。それから、交際歴は以上。勤務態度は真面目。平凡、気概なし。自己肯定感低」
「あの、なんですか」
「あ、ごめんなさい余計なところまで読んでしまった。でも良い項目もあるから心配しないで、独創力豪壮。好奇心旺盛。知識盛大」
あわてて付け足された長所が事実かどうかは別として平凡、気概なし、など間違っているわけでもない。
だが傷つかないわけでもない。
「それから最後にこちらに夢を記入してください」
「ゆめ?」
「ああ、えっとそう。星川さんの存命中に描いていた将来の夢。または目標とか・・・」
そんなことを聞かれても不安はますばかりだ。呆然と黙っていると女は補足の説明をした。
「夢はあまり重要ではないのだけど、星川さんの場合年齢が若いので、参考にするための情報が少し不足しているの。情報、っていうのは天国へいった際の星川さんの・・・そう、例えば労働の種類とか。居住区の番号とか。あんまり詳しくはわたしも知らない」
ごめんなさいね。といって女は苦笑いをつけたした。
天国とはなにか。これからもまだそこで生きていくのか。労働とはなにか。
(なにから聞けば良い・・・)
智茶都と別れ、これ以上失うものなどないなどと呟いていた。だがまるで失ってなどいなかった生への執着に驚かされる。
何から聞くべきかと思案しているうちに、女は好意的な笑顔で手のひらを差し出した。それがテーブルに置かれた用紙を指し示す。とりあえず記入してくださる? という事らしい。
仕方なく書くことにする。それも適当な嘘を書いて後で罪になることを恐れ、この上なく正直に。
色彩調整の仕事。欲を言えばテーマパークなどのそれ。更に言えばパークそのものの企画にも携わってみたい。それは中学生の時分から変わらない夢だった。配色、というものに関心があった。だがそれは夢というより、夢想して憧れていたもの、というだけのことだ。女の言う通り平凡な僕は、そういった職場で他人より優れた何かを発揮できるとは思えなかった。だからそれを深く追いかけることもなかった。やってみる前から僕には無理だろうと決めてかかっていた。だから他人に話したこともない。
書き終えると顔が熱くなった。この世の果てまで、羞恥心は僕を追ってきた、というわけだ。勤労ぶりに頭が下がる。
「はい。ありがとうございます。素敵な夢ですね」
追ってきた羞恥心が勢い余って僕を追いこす。
広いラウンジには無数のソファセットがあった。中央だけ何も置かれておらず、吹抜けていた。所々の配色に濃い橙色が多く使われている。それらと同調するようにオレンジ色に染められた女の髪は、美しい光沢を含んで七対三に分けられている。
「あの、天国というのはどういう場所なのでしょうか」
この質問からで良いのか、と思いつつ。
「はい。ええ、と申し上げにくいのですが、まず星川さんは」
最下位に選ばれた。下位グループのなかの。
それが今ここにいる僕だ。ここは「最下位の回廊」と呼ばれ、上位グループに入れなかった人間が来る。
「選ばれた人間」たちは、死ぬと無条件で二度目の世界にいく。「下位の人間」は天国へ。そういう悲しいお知らせを七三の女が申し訳なさそうに続ける。
「天国で労働、食事、休憩を繰り返していただきます」
「は・・・、はやい話が刑務所のようなところ、ということですか?」
「難しい質問ですね。私のわかることは、何年くらいそこにいるかは個人差が非常に大きいということ。それから時間軸は一度目の世界と同じで、あと細かいことですが」
「月に一度連休があります。労働で成果を上げた人は長期休暇を取得することも可能です。仕事中には当然休憩時間もありますので、将棋や、囲碁、文庫本などのある娯楽室が利用できます。衣服や寝る場所、身の回りの用品は皆平等に既定のものを使用し、ドライヤーやトイレは共同。風呂はシャワーだけで湯船に入れるのは週に」
「ありがとう、もういいです」
僕は七三の女の話を途中で遮った。すると女は悲しげな表情をつくったあと、慌てて説明を付け加えた。
「でも週に一度、休みの前の晩だけ好きな料理をオーダーしてビールを一本飲むことができるの」
なるほど・・・。休前日に一本のビールが出ることを知れば僕の落胆が軽くなるだろと考えたわけだ・・・。
気がつくと愛想笑いをつくっていた。こんなところまできて、こんな話をされているというのに、どこの誰だかわからない他人に気をまわしている場合だ。
「星川さん顔色が良くありませんね。お水飲まれますか?」
上目使いの女にそう言われ、僕はお願いしますとこたえた。すると奥の部屋からグラスに入った水をもって、スーツの男性が現れた。そして「よかったらどうぞ」とテーブルの上にガラスの灰皿をおいた。
「あ、いただきます」
グラスの水を一気に飲み干すと、肩に入ったきりの力が抜けていくのがわかった。一つ息を吐く。そしてジャケットの内側から煙草を出して火をつける。自分が死ぬ直前に見に付けていたものは全てそのままだった。煙草の本数、財布の中の硬貨や紙幣の数も。
(これで吸いおさめかもしれない・・・)
少し話を聞いただけだか、天国という所で煙草が買えるとは思えない。まるで無期懲役ではないか。しかも仮釈放なし。いったい僕が何をしたというのだ。僕はなぜ
「最下位なのか」
思わずまた声に出ていた。確かにそうだ。死後にまで償わなければならない罪を、自分の人生に顧みることができない。
役に立たなかった人間だからだ。そう言われてしまえば反論の余地はない。だが僕の三十年間が、いったいどれほどの人に迷惑をかけたというのか。人並みにやろうとしていただけではないか。まったくもって間抜けを通り越した向こう側の善良市民だ。と心中やじが飛び交う僕にむかって、七三の女が回答した。
「あくまでこれは私のイメージを言語化しただけ、ですので回廊の正式な説明ではありません。そのつもりで聞いてくださいね。
人の死後は一位から六位のランクに分けられます。足ることをしり、他者を助け、目標や信念に沿って、直向きに歩を続けた人。うまく説明できないのだけど、二度目の世界へ行く人はそういう人。ひかりひろがるひと、光央者。
ランク三位までの上位グループの人をそう呼びます。順位が存在する理由は、ランクによって支給されるものが違うから、という説があります。まあ人生の退職金、みたいなものなのかな。
対してランク四位からの下位グループ。その人達をやみしたがいしひと、闇従者と呼びます。自身の心の闇に負け、更には抗う努力もしなかった。なんていうか、常に一時的な欲求に勝てない自分を、自身に言い訳することで正当化しようとしてきた。そういう人を指します。その中でも最下位に選ばれた人がくるのがここになります。
闇従者は死んだら終わり、天国へいって勤労を重ねるの。でも例外というか大きな特徴が一つあるの。光央者であっても自分の人生に強い後悔をもっている人は二度目の世界へ行けずここにくる。それは本来最上位のグループに選ばれた人であっても」
闇に抗う努力をしなかった・・・。その分類に返す言葉はみつからなかった。
だが消沈する自身を無理矢理鼓舞するかのごとく言い訳が口から出ていく。
「僕は事故死だった、はずです。それも突然の。そういうことは考慮されないんですか?」
つい口をつく。それも当然主張すべきことかのように。だが七三の女の返答を聞いて僕は再び沈黙する。
「もちろん。考慮されています。でも最下位の人は突然の事故が起きず、残った寿命を全うしても上位にあがることはない、つまりは自身の闇に反撃を仕掛ける場面はやってこない。と議会が判断してしまうケースが多く」
公正な審判・・・。自らの弁護を主張しようとした自分が恥ずかしい。黙って受け入れるしかない。自分自身に負けた最下位という順位を。
(せめて、今のうちにもう一本煙草を吸っておこう・・・)
僕は塞ぎこみそうになる気持ちを庇いながら、二本目の煙草に火をつけた。すると、もう一杯お水を飲まれますか? と女が聞いてくれた。僕はすぐ頷いた。
そのオレンジ色の髪と見事に調和した和装は、クラブのママと、言う以外例えようがない。上品で優雅な空気もまとっているが雰囲気とは逆に話し方は砕けており、またなにより、絶望感の重さに耐えている僕にとっては彼女の僅かな親切でさえありがたかった。
(しかし、大変なことになってしまった・・・)
テレビは期待できないとしても、本を自室に持ち込んで読むことくらいはできるだろうか。
「りょ、旅行なんて勿論ないですよね?」
そういうと女はいくつかの書類を出しながら答えた。
「そんなに落胆した声を出さないでください。まだ、天国へ行くと決まったわけじゃないですから」
そういって女は、僕に遠慮がちな笑顔を見せた。説明は続く。
「わかりやすく言えば敗者復活戦です。下位グループの中で唯一、天国に直行しないのが最下位の人、つまりこの回廊にくる人です。理由はお話できないですが、最下位の人は無条件で天国へいくわけではありません。その敗者復活を成すために設けられているのがこの場所、最下位の回廊です」
道は二つ。再び死に「天国」か。もう一つは選ばれた人間の暮らす「二度目の世界」か。女の説明は続く。
この回廊はそこを進むものに合わせて姿を変える為、進路のパターンは無限にある。僕たち最下位者は正しい道を選択しなければならない。罠を回避し、あるいは虚言を見破り、生きて二度目の世界へ通じる扉を開けなければならない。
殺されてしまえば終わりだが、死、以外にも天国へいくパターンはある。
四十八時間のあいだ起き上がることができない病気や怪我
他の人間によって命を取引される。
天国直通のトラップ。
その他にも聞くだけで鬱々としてくるエンドパターンが続く。
「回廊内には、いくつもの施設が点在しています。それらは自由に使って頂いて構いません。お金も必要ありませんが、これから渡すアイテム内に星川さんの得点があります。三十年分の人生の退職金です。その得点を対価として支払ってもらうシステムね。
得点はただ使うのみではなく、番人のいる部屋を通過する度、その部屋の難易度に応じて加算、つまりもらう事もあるわけです」
各施設は回廊内を通過する人間の、生活をサポートするために点在する。病院や、商店、飲食店などの必要不可欠なものから、そうでないものまで様々に。
そしてある時、ある場所を通過すると、ふとそこにペットショップがあったりする(いったいどうしろというのだ)。
しかし回廊はそこを通過する人間によって姿を変えるため、一見意味がないようにみえるものもそうとは限らない。
「それから施設とは別に星川さんの回廊での生活をサポートする人たちについてご説明しますね」
施設にはそれらを運営する回廊の住人が存在する。彼らは全員胸に回廊の認可印(その職業、または役割に偽りがない、ということを証する印)の入った名札をつけていて、人間の生活をサポートする。回廊の住人は人間とまったく同じ容姿をし、それぞれに異なる性格を持つ。そして嘘を教えたり、無駄な助言をしたりはしない。当然答えられない質問には答えない。
「ヒントもくれないし、道を教えてくれたりもしないってことね。その代わり間違ったことも言わない」
他に住人ではないもの、つまり名札が胸についていない者。それらは他人(僕と同じ最下位者)、または番人と呼ばれる者。
「他人。つまり同じ人間ね。出会う確立はとても低いです。なので名札のない人をみたら番人だと考えたほうが無難です」
番人も住人に同じく答えられない質問には答えない。だが番人によっていくつかの性格があり、自分の性格に反するコメントや行動をとらない。
性格は大きく分けて三種類。
『みかたの番人』…人を守る。嘘をつかない。人間を正しい選択へと導く。
『うそつく番人』…人を騙す。嘘をつき間違った道へ誘導する。人間に物理的危害を加えることはできない。
『あやめる番人』…人を殺傷する。
その他数パーセントだけこれら三種類の性格と微妙に異なる性質をもつ亜種がある。
「例えばそうね。うそつく番人で人を騙すのだけど、いくつも嘘を並べた中に一つだけ重要なヒントを話してしまう間抜けな番人、とかです。すごく決定的なヒントをだしちゃうの。同点ゲームのラスト数分で、ペナルティーエリア内でファウル! くらいの」
「それから私が知っている唯一の、あやめる番人について教えておきますね。ジョーカーのかっこうをした番人」
「トランプのジョーカー?」
「あ、はいそういうイメージです。発見したらすぐわかると思います。遭遇したら必ず引き返してください。戻ることがマイナスに作用するとしても必ず逃げる。絶対に近づかない。勝ち目はありません。絶対に。わかりました?」
(勝ち目どころの話ではない。露骨にそれとわかる番人をみて、腰を抜かさずに逃げられれば褒めてやりたいくらいだ)
「最後に他者に出会った時、その人をパートナーに選ぶことができます。ここは、日本人というカテゴリーのみのセクションで、パートナーも最大一人が上限です。オレンジカラーに選ばれた宿命なので我慢してくださいね。
それとステータスがかけ離れた人と出会っても、パーティーを組むのはお勧めできません。回廊は知識や教養、身体能力、その他ステータス数値の最も高い部分に合わせて形成されます。二人のステータス数値の優れているほうの数字が反映されてしまうから。極端な話をすれば子供と星川さんが組んでも、子供は星川さんの足を引っ張ることしかできない。ということ。うーん、説明が下手で申し訳ないです。言ってる意味わかりますか?」
僕は頷いた。具体的な話を聞けばきくほど足がふわふわとしてうまく地につかない。
「それから、オレンジカラー以外からエントリーする人は当然異国の人同士で組むことができたり、最初からパートナーがいたり、三人パーティーを組める、というカラーもあるのですが、人は人。星川さんは星川さん。ということでご理解ください
お話できないのですがオレンジにはオレンジのメリットがありますから安心してくださいね」
三人組みでスタートできるカラーが良かった、と人見知りの自分を棚にあげて思う。
「ではこちらが案内になります」
そう言って女は回廊の説明書を差し出した。手に取ると、僕の背後で音楽がなった。聞き覚えのある曲がオルゴールの音でながれた。
「あめにうたえば?」
「ああ。うん、そう。私の趣味なの。ピンポーン、って鳴るよりは良いでしょう? 星川さんの次の人がスタンバイに入ったのを知らせる音なの」
もう次の死人が来ているのだ。日本人のための回廊受付は、このホール・オレンジという場所だけでなく他にも何十色と存在するらしい。
「それではこの腕輪をはめて、あちらの0264番の扉へお入りください。中に売店があります。そちらで準備品を購入してください。その売店を出ると回廊が動きます。もうここへは戻れません。長い道のりですが、どうぞお気をつけて」
女が深く頭をさげた。まるで心の準備も整わないまま、僕はあわてて返礼し、席を立って歩き出す。足に力が入らない。口の中はもう乾いていた。
◇◇◇