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(真愛その一)どうしようもない巡り合わせと星のない空


 ホワイトソースの冷製パスタだ。私が客の頭にかけたのは。

 艶やかな髪をつたってソースがポタリ、ポタリと、客の膝に落滴する。だが頭の上のリガトーニは行儀よく着座して落ちてこない。

 ことの顛末は覚えていない。私は店の従業員としてその料理をテーブルに運ぶ途中だった。ちょうどその一つ前のテーブルを通過したところで、背後から大きな声がした。私が驚き、振り向こうと体制を入れかえたはずがその後天地の感覚を失っていた。それ以降がわからない。だが転倒したことは確かで、それに気がつき、起き上がってみると周囲の客がみな口をあけて私を見ていた。私をみている数人の客と一通り目が合ったところで、側頭部から甲高い声が飛んできた。その声は私の名を叫んでいた。

「久遠さんっ!」

 斬撃のような一声。間を開けずにフロアマネージャー栄は私の名を連呼した。もうまるで悲鳴。

 事態に気がついた私がその客の方を振り返ると、その向こうの壁にホワイトソースが飛び散っていた。その壁の染みからわかるのは、ソースが客の頭を横殴りにしたであろうことだった。

 心臓が身体中の血液に招集をかけてしまったかのよう。首から上にのぼってくるはずの血が、一斉に向きを変え、心臓を目指して逆流する。

「た、大変申し訳ございません」

 やっと声がでた。持っていたおしぼりで客の体を拭う。するとホワイトソースがしっかりとスーツに染み込んでいくのがわかり、それをみた瞬間視界が暗く閉じていくのがわかった。


 こういうことには慣れていた。不運。という言葉が近いのか。

 だが周囲の人間にしてみれば「こういうことが多いのよね、この人」という具合に片付けることはできない。

「お客さんの頭にソースかけるなんて前代未聞よ。久遠さん」

 営業時間が終わると栄に低く重い声でそう言われた。そして原因を説明できない私は、一層彼女を怒らせた。

「じゃあ、なに? お客さんに足でも引っ掛けられたの? ねえ、久遠さん? 私が言っている意味わかるわよね。理由無くあんな事故起きるはずがないの。そうでしょう? それともまさか私へのいやがらせ?」

 栄になんと言われても私には説明の仕様がなかった。不運、というような何か見えない力なのだ。それは私についてまわっているものだ。だから私だけはこの理由がわかる。

 つまりはこうだ。私は客の大声に驚いた。それもただ料理を運んでいるだけの人間を、驚かせ、振り向かせ、バランスを崩させ、挙句に転倒させられるだけの時間的瞬間を得た大声だ。良く使われる言葉で言うと「ドンピシャ」。その何千分の一のドンピシャなタイミングでその声は放たれた。そしてその神懸かり的なタイミングに呼応する、というより吸い寄せられるようにして、私がそこを歩いたわけだ。間抜けな顔をして。

 この間抜けでどうしようもない巡り合わせを、どんな言葉で説明すべきなのか。

「い、いえそんなつもりでは。躓くようなものもなかったと思います。原因は良く覚えていないんです。本当です。申し訳ないことです」

 閉店後の店内には私と栄の二人、奥の調理場に男性スタッフが一人。営業中と同様に吹奏楽器の音が小さくスピーカーから流れている。私はステンレス製のテーブルの足を両手で握ってソファーに座っていた。そして「すみません」と「申し訳ございません」を繰り返して頭を下げた。

「謝れっていってるんじゃないの。説明してっていってるの」

 栄はしつこく原因を説明しろといった。だが私は首を傾げるだけだった。

「大きい声が後ろから聞こえて、振り向こうとしたんだと思います。でもそれでどうして転ぶのか自分でも説明ができないのです」

「それは何度も聞いた。私もその声はきいた。確かに驚くような言い方をしていた。だけどそれと、お客さんにパスタぶっかけるのとは別の話。言ってる意味わかる?」

「申し訳ありません」

「だから、それも何度も聞いた」

 そして永遠とそのやり取りが続くのだろうかと思っていた二十四時近く。偶然他のフロアに様子を見に来ていた部長の酒井によって私は救出された。

「もうそのへんにしてやれよ。真愛ちゃんも十分反省してるだろうし」

 そういって酒井は私に目配せをした。

「同じ失敗をしないように工夫しないとだめだぞ。ね。君はお客さんに評判良いし、栄ちゃんだけじゃなくて、他のマネージャーも期待しているんだから」

「はい。本当に申し訳ございません」

 そういうと、酒井は優しい顔で私の背中を叩いた。

「部長困ります」と栄は酒井に抗議した。だが酒井が笑っていなすうちにやがて折れた。そして「もう帰って良い」と私にいった。


 私が勤めているのはフードプランニングサポートという肩書きを持つ会社だ。その会社で店舗勤務の契約社員をしている。私はその会社で、正社員となり支社で働く希望をだしている。どういった部署でも構わない。食とその文化に携わった仕事をしていければ、そう思っている。

 その店は同じ店舗内に五つのフロアがあり、それぞれ異なった演出と料理を提供する和食店だ。五つのフロアは、それぞれに独立した店名を持っていて、客は全ての階を自由に移動できる。私や栄のいるフロアは創作料理の店だ。

(酒井部長どうして私の名前覚えていてくれたのだろう)

私はこの四谷店の店長とさえ口をきいたことがない。ましてその上のエリア統括と呼ばれる課長にも会ったことがない。だが酒井はそれらいくつかのエリア統括をまとめる西地区の部長だ。契約社員の私からみれば雲の上。

 しかしその酒井に期待している、と言われたことは素直にうれしかった。だがそのことと彼が私を庇ったこと、いずれも栄は面白く思わなかっただろう。

(ああ、憂鬱だわ。明日がお休みで本当に良かった)

 今日が休前日だったことが幸いか。せっかくの休前日を憂鬱な気持ちで過ごす不幸か。


 私は栄に解放されると、早々に着替えを済ませ逃げるように店を出た。外に出ると街路時計の長針が日付を変えたところだった。少し冷たい外気。等間隔で設置された街灯の下を、それと同じように下を向いて歩く。しめった葉が石にはりついていた。

「おお。久遠おつかれ」

 後ろから声がして私は出掛かった溜息をごまかした。振り向くと、自転車を押している中田がいた。同じ階の調理場で働いている男。

「ああ、おつかれさまです。今帰りですか? 今日は早いんですね」

「え、そう?」

「いつも遅くまで残ってクローズされてますよね」

「ああ、まあね。それより今日は何かあったの? 栄の顔が引きつってたみたいだけど」

 私は駅の方角へ中田と並んで歩いた。私が事の一部始終を話すと、彼は上を向いて楽しそうに笑った。

「ちょっと、そんなに笑わないで下さい。私は全然楽しくありません」

「ははは。これは笑ってあげないと久遠がかわいそうでしょう」

 馬鹿にされているのか、気づかわれているのか、中田はその話を笑いとばした。そして真顔の私にそんなに怒るな、と涙目でいった。

「怒っていません。ただおかしくないだけです」

ああそうだな、といって中田はまた笑った。上をみながらケラケラと。つられて私も上をみる。真夜中の国道は快晴で、星の見えない夜空に月だけがくっきりと浮かぶ。

「なあ久遠、自分のあだ名しってる? キッチンの若い連中があだ名で呼んでるの聞いたことある?」

 私の気を紛らわそうとしてか、彼は別の話題をふってくれた。

「そうなんですか、なんて? いわれてるんですか私」

 ああ知らないのか、という彼が今度はうつむいて笑った。

「え、中田さん気になるじゃないですか。教えてください」

 知りたい? といって私の目を楽しそうに覗き込む瞳には一種独特の魅力があった。知性と野性がうまく混ざらず、不完全なまま混在する。そういうものにしか醸し出せない男くさい色気。

「デルモ」

 聞かされた私がとっさに下を向く。

「あれ、何かリアルなリアクションされちゃったな。雑誌の読モとかやったことあるの? そこで嫌なことあったとか」

「まさか。無理ですよ、わたしなんか」

 私はあわてて顔をあげて否定した。中田はなんだそうなんだ、といって前を向いた。そういう彼の横顔を見て私はすぐに付け加えた。

「あ、でもスカウトされたことは何回か」

「おお! すげー、まじで」

 嘘ではなかった。十代の時分いくつかの名刺をもらったことがあった。買物をしてぼさっと立っているとごくまれに声をかけられる。モデルをしてみないかと。

大概は話が長く、具体的な有名人の名前や有名なイベントの話をし、そして最後に「多少のレッスン代は必要だけど」という説明を付け加える。

しかし中には興味があったら電話して、と一言だけ言って名刺をわたすものもいた。そういう名刺には有名ファッション誌のロゴが入っていた。それを見て手で口を塞いだこともある。しかしそんな世界に飛び込む勇気はなかった。ファッションの業界に携わって働く、などとても私の器量で勤まるはずはない。

 だからといってレッスン代を毎月支払い、教わるのは美味しいものを食べる時の自撮りの仕方。料理の写りより大事な事があるでしょ? 折角ニット着て来たんだから上着脱いでから撮らないと。料理なんて雰囲気が入れば良いんだから。などと言われ、その気になれる程要領が良い女でもない。

 それはつまり「昔スカウトされたことがある」などと口にする権利さえない女、ということなのだ。スカウトされた事が事実であっても、それを口にすれば虚しくなる。嘘という字。

「明日から久遠のあだ名、デルモじゃなくてモノホンに変わってるかもよ」

「あ、本当にやったことないんです。他の人には内緒にしてください」

 やはり虚しい。

「わかった。みんなにはだまっておくよ」

 中田はそういって自転車に跨がった。いつのまにか駅の前に着いていた。


 帰りの電車で空いた席に座ろうとすると、酔った中年の男と体が接触した。男は舌打ちしながら私が座ろうとしていた場所に座った。

 おかげで私は降車駅まで立っていた。車窓に映る自分の顔はおもったより疲弊していなかった。ホワイトソースの失敗よりも中田との会話を何度も頭の中で反復させている自分がいた。

◇◇◇

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