(健之その一)現世の出会い
「憂鬱になりません? 休みの予定を前もって押さえられちゃうの、とか」
「あと、そっちからは連絡くれないよね、とか言われるのはもっと」
試行錯誤を重ね、僕がたどり着いた切返しがこれだ。付け加えるなら ーそっちからは連絡くれないよねー などと言われた事は一度もない。母親を異性としてカウントしないならば。
だがこう答えれば質問者も興がそがれ「ああ、一人大好き人間の類いね」という具合に自ずと話題が変わる。僕は胸を撫で下ろす。それからこの切返しにはもう一つ利点がある。それは誤って「女性に然程興味がない」などと強がってしまった自分に対し「じゃあ今まで付き合ったことないの?」という具合に嬉々として飛んでくる二の矢を防いでくれる効果だ。
もっとも、この切返しがまったく通じない相手もいる。いま目の前に座っているこの同僚のように。
「でもわかるよ。星川が佐川さんの事気になってるの」
そして質の悪いことにこの同期の慶太という男はこの種の勘が鋭い。
会社の昼休み。僕はいつも食堂のフロアに移動して過ごす。食堂といっても厨房はない。持参した弁当を食べるためのテーブルと、カップ麺や菓子パンの自販機があるきりだ。僕はそこでいつも一人で昼食をとる。しかし今日は慶太にしつこく誘われ、「じゃあたまには」と財布を取って外に出たのが間違いであった。何を食べる? などと聞いてこないばかりか、近所のイタリア料理店に着くなりこの男は、暑くて誰も座っていないテラス席を指し示し、そこに座っても良いかと尋ねた。席に案内する店員に「こちらですか?」と二度聞きされながら。
「内の課の佐川さん? べつに気になってないよ。好きではない」
「でも興味はあるでしょ? 例えば佐川さんがルームシェアしよう、とかいってきたら」
「え?」
「そのほうが経済的だし、効率的だし。とか言われたらどうする」
いったい何であろう、この意味のない仮設定を聞いただけで耳のあたりがあつくなってしまう、というのは。
「え、それはさ、住むよ。家賃半分ずつなら駅近も日当たりも狙えるわけだし」
「青年よ。いいか? 良く聞け、それが慕情よ」
「いやいや、今してるのはルームシェアの話だろ」
急いでコーヒーを一口すする。とても小さいカップに、ほんの食後のおまけ、かのように注がれたコーヒー。しかし飲めば驚きの深みとコク。だが慶太はその深みにも関心を示さず、涼やかな笑顔を益々前のめりにしてこちらを覗き込んでくる。肌にささると痛いほどの正午の日差しが、設置されたタープに収まりきっていない。そのためワイシャツを着た彼の肩に容赦なくそれが注がれている。
だか反対に日陰になる僕の位置は、然程暑くなかった。ガーデンソファの背もたれが遠過ぎて寄せかかれない難点はあるものの、風通しが良く快適な場所だった。しかし陽を浴びる肩がきっと暑いであろう彼は、背もたれなど必要ないほど前のめりになって話しかけてくる。
(ああ、来なければ良かった)
いつも通りコンビニで買い物して、社内の食堂へ行けば良かったのだ。そしてカウンターテーブルで壁と向かい合って一人食事する。その後自分のデスクにもどってうたた寝をする。平穏で快適な昼休み。それがなぜこんなに憂鬱な気持ちにならなければならないのか。白樫に囲われた風の通るテラスで、美味しいコーヒーを飲んでいるというのにだ。
僕は女性と交際したことがない。慶太はおそらくそれに気付いていて世話をやいてくれる。気持ちは有難い。同期を思いやってくれる優しい男だ。だが僕がそれを不快に感じるとまでは考えていない。たしかに興味も意欲もないわけではない。例えば世界遺産の映像をみて感動すれば、そこに行ってみたいと考える。それと同じだ。佐川さんをもっと見たい、知りたいと思う。もちろん叶う事ならば食事をしてみたい。
しかしだからといって必死に仕事の調整をして、一週間の休暇をとり、貯金をおろして世界遺産を実際にこの目で見にいくか? と問われるなら答えはこうだ。
あ、僕は画像でみるだけで良いです。絵画のようにきれいな画像がネットでいくらでも見られるでしょう?
「俺が三課飲みをつくるから、そこで仲良くなって誘ってみたら? 佐川さん」
先程よりさらに身を乗り出している涼やかな笑顔がそういった。
「それができたらさあ」
と僕は慶太とは逆に後方に体を引いて深い息を吐く。
「いや、だって星川だって佐川さんに誘われたらいくだろう? 飯とか」
「それはさ、行くけど。でも違うんだよ」
「ほらね。だったら自分から誘ってしまえば良いんだよ。失敗したら俺が朝まで飲みに付き合うから」
(だからそれは違うよ)
そう。まったく違う。佐川さんから誘ってもらえる事と、自分から相手を誘う事は。
「違うんだよ。違いというか、大きな差があることなんだ。例えば想像してみてくれ。
シャンプーかえてみたらびっくりなんです! ちょっと髪触ってみて? このしっとり感。といわれるのとだよ?
シャンプー何使ってるんですか、ちょっと髪触らせてください。と、ありえないお願いをすることくらい差がある。わかる? ほらね全然違うでしょ」
イメージくらいは伝わるかと思ったが、異性のあつかいになれたこの男に、僕の例え話は響かない。しかし呪文はかきけされた。
僕は佐川さんに話しかけられただけで、唾を飲みこむ。更にはその喉の動きを悟られないよううつむく程の臆病ものだ。どんな女性にもさらりと話かけることができるこの爽やか男子にこの差を理解しろというのは酷か。
もはやそういう人種に説明しても時間の無駄と、適当な相槌をうって僕はこの場を終えた。その僅か数日後に・・・。驚異的な行動力をもつこの男によって、まさかその会合が実現し、適当な相槌を悔やむ事になるとは考えもせず。その時はただ食後のカップケーキをこの男はいつ食べるのだろう、とコーヒーをすすりながらそれを眺めていた。
◇◇◇
その日僕は窓際のカウンター席で温かいコスタリカを飲んでいた。黒く潤んだカップから湯気が甘い香りを運んでくる。そのテーブルは二階の窓際に沿って三席しかない。ほとんどの場合誰とも同席しないで済む特等席。
本棚から伊勢物語と書かれた分厚い本を手にとる。歩くと古い木の床が音をたてる。
「じゃあそういうわけだから星川、明日遅刻して佐川さんの横とられるなよ」
昨夜の別れ際、慶太はそういって僕の腕をたたいた。
彼は課長にも悟られぬよう水面化で動き、瞬く間に例の三課飲みの話をとりまとめてしまった。それも課長やリーダー抜きの面子で。と、これだけでも驚くが更に土曜日の夕方にわざわざ会社付近までその全員を呼び出す、という離業。
今夜のその会合の事を思うと、コスタリカの味も。在原業平の詩もどこか遠い。いつもならここでおかわりをして別の図鑑を見たり、和歌の本を読む。窓から見える外堀沿いの木々を眺め、お腹が空くのを待って小豆バターのトーストを注文する。誰と会話をするわけではないが、テーブルにだけ陽光が差すよう工夫されたこの特等席に座って一人でコーヒーを飲み、そして帰り道に喫煙所で煙草を吸い、スーパーマーケットでビールと惣菜を買って帰る。例えば慶太ならつまらない休日、と言うのだろうが僕にとってはそうではない。
友人と買い物をしたり食事をするのももちろん苦ではない。そういう時間も必要だ。だがそういった週末の予定があると、決まってどう言う理由か金曜日の午後は憂鬱になる。そしてその週末の予定から解放されてみると、充実感や爽快感に比べて、疲労感が目立った。あげくその疲労で翌日は寝て過ごす。という具合だ。
僕は折角確保した特等席を早々に手放し、コーヒー一杯で店を出た。人で歩道が渋滞している神楽坂を下り、駅前の喫煙所まで出てわかばを一本吸った。
晴天。点在する雲が貼り付けたように動かない。駅から次々に人が出てくるのを見ていると、それだけで額に汗がにじむ。普段はあまり意識して見る事のない同世代の女性ばかりが目について、喫煙してもリラックスできない。そして煙草を吸い終わってしまうとやる事がなくなった僕は仕方なく堀にそって歩いた。逓信病院の前を過ぎ葉の繁る桜の木の下を歩いて一時間ばかりぶらぶらと、正しくはフラフラとし、やがて麹町から地下鉄に乗り、待合せの汐留に向かった。
「あ、ごめんね鞄邪魔じゃない?」
隣の女は僕が遠慮して空けたスペースに迷わず自分の鞄を置いた。あだ名はむねみちゃん。一課や二課の男性社員らが「むねみちゃうよね」と共感し合うところからついた。
僕は慶太に言われた通り「佐川さん」の隣に厚かましく座れると思ってはいなかったものの、それでも待合せのプラザ前に一番のりした。だが約束の時間になっても佐川智茶都は現れず、代わりに慶太からメッセージが届いた。「昨日伝えた通り俺は行けないから。あと佐川さん電車遅延で遅れるから。星川はじの席を確保しろ。他にも佐川さん狙ってるやつがいるぞ」
この日の為に三日も前から緊張し続け、あげく前日は寝付けず、仕方なく風邪薬を飲んでまで寝たというのに。この男はあっさりとしたものだった。
「星川、実は明日急な誘いがあって。それが言いずらいのだが、SSランク女子で・・。これはさあ、男として断れないところだろ? まあそういう事情を理解してくれ。だから明日の三課飲み、俺居ないから。わるい星川、でも予定通り会はあるから安心してくれ」
こちらは二軍戦、というわけだ。慶太がいないくらい問題ではない。言われた通り端の席もとった。よし平常心。
「星川君こっちつめて? それじゃ智茶都ちゃん座れないよ」
「え、ぁ」
急に隣のむねみちゃんに腕を引かれ、驚いて座り直した僕の隣に智茶都は立っていた。ありがとう星川君、といってピタリと沿って座る。
(いや、距離・・・)
平常心は開始二秒で退けられた。佐川智茶都という、人を思いやってきた年月がそのまま目じりや口角に出ているようなこの女性は、こちらが見入ってしまうほど涼しげな横顔で「私もビールをください」と定員につげた。
「あ、じゃあ佐川さんのビールきたところで、今日は慶太さんいないから僭越ながらわたくしが」
そういって浅川という一年後輩の男が乾杯の音頭をとった。
慶太が予約した店は、(このおされ男子めと)心中悪態を吐く程、品があり落ち着いた場所だった。僕らが通されたのは店内唯一の窓際ソファー席。向かい合わせのベンチシート。壁は天井から床までガラスになっていて、遠くに流れる湾岸線の赤と白のラインが浮かぶ。
店内は男女の二人連れが多く、静かに語らいながらグラスを傾けている。
(たらもあ、でう・・・?)
聞いた事のないドリンクメニュー。それを覗きこみながら智茶都が髪を耳にかける。スクエアリングのピアスが僅かに揺れ、時間差で香水がかおる。その横で僕は、笑ってもいないのに頬が上に引っ張られる。湾岸に浮かぶ月の引力か。
「へえ、佐川さん意外に休みの日外出多めですね」
「あら、智茶都ちゃんに失礼ですわ」
浅川やむねみちゃんを起点として、円滑に会話が展開されていく。
「おお! なるほどね」
「へぇー、知らなかった。そんなのあるんだ」
さすがは慶太が幹事をまかせただけのことはある。浅川は自然なながれで女性たちに話をさせ、自身は感心したり、丁寧な相槌を打つ。相手が興味をもっていそうな分野へ次々と違う角度で質問を投げ、ヒットして相手が膝を進めてくると、それに合わせてリアクションのギアを上げていく。女性陣がいつのまにか熱を帯びて語りだす。杯も進む。
「次なに飲みます?」
岩槻という浅川と同期の男がさりげなくメニュー表を渡す。このタイミングも何と言うか妙。不思議な事に、出れば必ず愚痴になるであろう上司や得意先の話も出ない。出ない、というよりは浅川たちがそうさせないのだ。楽しい会話、盛り上がる会話だけが意図的に展開されている。慶太が繰り返し言っていた「やる気になっているのは星川だけじゃないからな。合コンのつもりでいけ」という部分がふと浮かぶ。
しかし、何であろう。僕は落ち込むほど何も出来ない、だけでなく浅川や他の男子との差を思い知る。萎縮するとより話せなくなり、焦燥感に支配されていく。
浅川や岩槻は二枚目ではないものの、人を惹きつける魅力をもっていた。諧謔に富んでいるもののあくまで紳士的。僕は序盤から会話に入れない。だがこういう場で取り残されることに慣れてもいるのだった。
(煙草を吸いにいこう)
気詰まりして息衝く自分を立て直そう。席を立ったきり帰ってしまえば良いではないかと、しきりに逃避を要求する脳に抗いながら、僕は鞄の中から煙草とライターをそっと取り出し上着のポケットにしまう。
「ここは穴場だよ。しかも烏龍茶の入った紙コップを置く場所もあるし」
テーブルを囲んだ七名は今、ディズニーリゾートのスモークチキンを並んで食べるのに適したスポットについて盛り上がっていた。
「星川君は好き? 遊園地とか」
立とうとする僕の隣でオプティカル柄のワンピースを着たその女は小首を傾げてそういった。今、話題の中心は本棚が入口になっている部屋に、通してもらえる裏条件についてだ。智茶都だけがその会話から外れて圏外の僕に声をかけてきたのだ。
「えぅ、ぅ…っと、はい、好きです」
浮かせかけた腰を、元の位置にもどして僕は答えた。
「絶叫系は?」
「あっ、うん。好きですね。観覧車とかも」
「ほんと? 私はね。やっぱりベーシックなのが好きなんですよね。フジヤマみたいな。 あ、星川君はあれのったことある? サンダードルフィン」
「ありますよ」
「うそ! どう? わたし乗ったことないんだ」
「あ、そうですね。確かにあのカタカタカタカタ、っていう真上に向かってゆっくり上っていく時のワクワク感、ああいうクラシックなコースターが好きという人は多いですよね。以前取材したときにそういうデータが出て意外だな、と思いました。僕は三課に来る前に東京ドームシティさんの物販に携わったことがあって、その時サンダードルフィンを取材しましたから。そしたらなぜかフジヤマの話にいきついたんですよ。最大時速も同じですし、高さもほぼ同じですが一番の共通点は根強いファンの多さ、という部分ですね。フジヤマは富士吉田市の条例ぎりぎりの高さがあって」
僕は元担当案件の話になり、思わず得意になった。そして遊園地は僕にとっての唯一のフィールドだ。この種の話なら一時間でも続けて語れる。
しかし得意になって話す場面はあっと言う間に終わった。智茶都との会話は、まだほんの序盤で斜め前の浅川に可憐にインターセプトされる。
「おお、なにぃ? 佐川さん絶叫系すきなの? 俺もわかるよ。ザ、ジェットコースター、ていうタイプ良いですよね。ホワイトキャニオンは?」
「ああ、あれ。復活するの?」
「そう! あの揺れ、ていうかきしみ? 味がありましたよね」
「うん。わかる」
「まあ俺達は関東の絶叫系は全部制覇してるから」
「ははは。そっか、すごいね」
「佐川さん、初めて乗った絶叫系ってなに?」
僕は会話を横取りされ、その場に座っているのがつらくなって席を立った。「ちょっと喫煙所まで」というかわりに煙草をみせて外へ出た。ビルの二階玄関まで降りて、喫煙スペースで煙草を吸った。
階層ごとに区分けされた何十台もあるエレベーターから、様々な人達が次々と出てくる。それらがエントランスホールを出て、僕の横を淡々と通りすぎていく。湿度が高い夜だった。まだ夏ではないが、風は湿度を帯びていた。仕事帰りの人、イベント帰りの人など大勢通った。そういう帰路に向かう人々に向かって、ジグザグなビルを縫ってきた風が心得顔で通り過ぎていく。
(席に戻ったら僕も帰ろう、慶太には申し訳ないけど)
僕は煙をはきながらそう思った。例えばもっと大衆的な店で、慶太という味方が横にいてくれたなら。今日よりうまく会話ができるか? と問われても、きっといいえと答えるだろう。そんな僕に筆記体で書かれたアイリッシュウイスキーが並ぶ店で、いったいどういった活躍をしろというのか。
(そうだ、確かにそう)
ため息をついて煙草の火を消した。席に戻ってみると、三課の男女はほとんどが、僕の不在にさえ気がついていない様子だった。先程までとは違い、個々の会話になっていた。岩槻はむねみちゃんらと話し、浅川は体を斜め横に向けて、智茶都と一対一の世界をつくっていた。二人の会話は楽しそうだった。僕は先に帰る理由をなかなか切り出せずにいた。
そうしている僕が悩ましそうに思えたのだろうか、智茶都は何度か話しかけてくれた。だが僕が答えると、すぐに違う話題を横合いから浅川がもってくる。だから僕達の会話は長く続くことはなかった。そんな風にして結局僕は帰ることができないまま二時間を過ごした。
(ふう。さあやっと帰れる)
「はいはい。二次会はこの下にある店で予約してあるから、全員強制参加で~す」
と浅川が陽気にいって僕を消沈させた。
そして、生のジャズギターの演奏と、空中庭園に細い小川が流れるバーで、僕は恐ろしく長く感じられる一時間を過ごし、二十二時三十分。やっと解放された。
三課のメンバーに別れを告げた僕は、新橋の駅まで歩いて帰ることにした。ビールで体が熱くなっていた。少し風にあたりたい。
「佐川さん家、なかめ? まだ電車平気ですよね? もう一軒行きましょう」
背中で浅川の声がしていた。
「浅川くん! 私は誘ってくれないのぉ?」
振り返ると、むねみちゃんが浅川の腕にとりついていた。智茶都がそれを無言でみている。斜め下からえぐるような目つき、妖艶にカーブしたニットのウエストライン、膝上丈のスカート、甘くささやくように放たれた声。浅川の声が微かにうわずった。
「浅川君の家で飲みなおす、ってのも良いですよねぇ?」
「あ、こいつの家夜景きれいだよ」
と、すかさず岩槻。
「良いね、夜景バックにワイングラスの写真とりたい!」
「ははは」
浅川は明らかに智茶都と個別で飲みに行きたい、という誘いかたをしていた。しかしむねみちゃんの腕に取り付いてからの見事な畳み掛け。そこに岩槻も応戦。しばらく抵抗していた浅川もやがて、「ねえ、そうしよう浅川君」の言葉と、その腕にあてられた自慢の膨らみの前に屈した。三番秋山、四番清原を何とか凌いだものの、五番オレステス.デストラーデの一振りで試合はひっくり返された。腑抜けた浅川の声を聞きながら僕は再び歩き出した。
「私は帰るね。今日は楽しかった」
と智茶都がそう言っているのが背中越しに微かに聞こえた。
電通本社ビルの角を曲がり、日本テレビ前の遊歩道を歩いた。わずかにさやぐ心得顔の風が火照った顔に気持ち良い。アウエーゲームでの惨敗よりも、やっと自由になれたという爽快感。
「星川くーん」
振り返ると、手を振って駆け寄ってくる智茶都がみえた。足元を照らす床照明が、駆け寄る彼女の輪郭を縁取っては消える。ワンピースの光学模様が上下に錯綜する。
「星川君、新橋駅から帰るの?」
息を弾ませながら彼女が言った。
「うん。すこし風にあたりたくて」
事実。風は気持ちよい。
「私も」
ふわりと髪をはずませた横顔がそういった。鼻筋と顎のラインが美しい。リズム良く上下する光学模様。合わせて揺れる耳のスクエア。唾を飲む僕。
劇的な場面に思えた。心地良い風。ビルの隙間に浮かぶ月。美しい横顔。
だがそれらは、有効に活用する者がいて初めて色彩を持つものだ。何もできない者には意味を成さない。まあ・・・、そういうことは僕には向いていない。
「女を口説くのも男の仕事」と祖父が生前しつこくいっていた。でもじいちゃん、それは勇気とか、器用さとか、相応の容姿とか色々持ち合わせがないとだめなんだ。じいちゃんの時代とは違うんだよ。ほら例のあれさ・・・小学校の頃に女子に言われただろ? 「誰か星川に鏡プレゼントしてあげて」
祖父に言い訳しつつも、「気持が良いから、このまま有楽町まで歩きませんか?」という誘い文句だけは考えていた。だがそれを言おうとするだけで、喉が急に狭くなる。言葉が口から出ない。ほらね? じいちゃん。持ち合わせがないんだ。
だが駅に近づくころ、祖父はチャンスをくれた。祖父がくれたわけではないのだろうけど、そして映画のようでもないのだろうけど。だとしてもこの僕にとっては劇的な展開。
深夜営業をする喫茶店の前を通りかかり、横に智茶都がいるのも忘れて思わず口を衝いた言葉が彼女のそれと同時だった。
「良い匂い」
「良い香り」
同じタイミング、同じ内容。僕達は立ち止まって無言で顔を見合わせ、そして同時に吹きだした。古いつくりの店だった。テラス席に立てかけられている黒板に「今夜は記念日です。特別に深夜営業いたします」と書かれていた。僕たちはその特別な夜にそこを通りかかった。
「あはは。星川君コーヒー好きなんだね。 もし良かったら少し飲んでいかない?」
それはもう。
例えるなら日本シリーズ第七戦。九回裏、二死、ランナー二塁。一点のビハインド。そこに偶然、人数合わせの為二軍から召喚されていた僕が代打で起用された。それも代打を使い果たしてしまった監督が、泣きながらコールしたピンチヒッター。
今度こそ本当に劇的場面。道は二つ。案の定三振。もう一つは同点安打。
「美味しいわ、初めて飲んだ」
あたたかいゲイシャを飲む、彼女がいった。それは角のない滑らかな曲線を持つ陶器に注がれていた。僕たちは国道十五号線に面した窓際のテーブルに向かい合って座り、その滑らかなカップを口にあててコーヒーを飲んだ。
「そうですね。僕も初めてです」
おそらく緊張のあまり真面目くさった顔でそう言い放ったであろう僕は、その後すぐにコーヒー豆の栽培方法の違いについて語り始めた。聞かれたわけでもないのに国別に。それも夢中で・・・。まあ、世間一般でこういう状況を説明する際、先頭の語句にこういう言葉を使う「なにを思ったかその男は」と。
「コスタリカは、標高千メートル付近から数百メートルまでの限られた場所に集中していますが、この付近の恵みは保水力に富んだ酸性の土、加えて平均気温です。湿りがちな気候もそれを手助けています」
と、 ーー なにを思ったかその男は ーー、が栽培に適した気候や土壌について説明するくだりまで来た時、智茶都が吹き出した。
ごめんなさい、と言ったきり彼女は下を向いてクツクツと笑い続けた。笑いをこらえていた分吹き出したが最後止まらない、といった具合。その姿を見て僕はようやく我に返った。
(ああ、またやってしまった)
以前にもこの手の失敗をしたことがあった。緊張して、あきらかに相手が欲していない類の話をしだす。女の子がつまらなそうな表情をする。僕はかたくなって益々面白くない話を続けてしまう。そうやって自ら深みにはまる。事が終わってからあれは失敗だったと気がつく。
だがどうして次のチャンスは反省を忘れた後に訪れるのか。そして過去の過ちをなぞる。つまり代打で登場した無名の二軍選手は、案の定三振。これなら投手を打席に立たせた方がましだった、という類の野次がとぶ。
顔が熱くなるのを感じた僕は、慌てて珈琲をすすった。震えた指はうまくカップを皿に戻せない。カンカン、という不器用な音がなる。
だが試合は終わってはいなかった。キャッチャーミットをすり抜けたボールは後方にそれ、主審がファールを宣告する。
「星川君はいつもどんな時、コーヒーをのむの?」
気をとり直してくれたのか。ならば今度こそ慎重に。相手が望まない話をしないよう慎重に。
「普段は水筒に入れてもっていったりしています」
「あ、ほんと? 私もマイボトル派だよ! お休みの日とかは?」
「あ、休みの日の朝は必ず丁寧にいれて飲みますね。特に美味しく感じるのは、もっと寝ていれば良かった、と思えるほど無駄に早起きしてしまった朝に、無駄に丁寧に淹れたコーヒーを、やっぱり無駄に早くポストに入っている新聞を読みながら、っていう時なんですよね。なんででしょうね」
「そうなんだ。えへへ無駄に何かわかります。あと紙の新聞とってる男の人、素敵です。星川君もしかして家に焙煎機があったりして」
「あ、買おうか悩んだことあります。結局諦めましたけど。今住んでいる家も狭いですし、それでなくても物であふれている部屋なので・・・。まあ引っ越す機会があったらまた悩むと思いますけど」
「ははは。冗談でいってみただけなのに。ほんと? 初めて。 悩んだ人。うふふ、でもなんていうか星川君らしい」
「え、そう? 変ですかやっぱり?」
「ううん。ぜんぜん変じゃない。ちなみに私は地元のお店でいつも買ってるの。そこは種類も色々おいているけど、そのお店にもあったかなあ、ゲイシャ」
「あ、家は中目黒でしたよね? もしかしてカタオカっていうところですか」
「え! すごいなんで知ってるの?」
「あ、やっぱり。あそこのブレンドは有名ですよ。実は僕もいったことあります」
「え、そうなんだ! じゃあ会社以外でも星川君とすれ違った事あるかもね。 もしかして」
そう言って智茶都ははにかんだ。
真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の視線は澄んでいた。まるで「あなたのことを何でも良いから知りたいの」と僕に錯覚させるほどに。加えて彼女の話し方は語尾が特徴的だった。自然と言葉の語尾がまるまっていったという具合に、他者を労わり続けた歳月がそうさせたかのような。まるみを感じる、というより角張っていない、と感じさせる話し方。
いつの間にか僕の焦りや緊張は解かれ、聞かれたことに夢中で返答していた。気がつくとテーブルに身を乗り出している自分がいた。
「佐川さんはどういう映画を見に行きますか」
そしていつの間にか、自ら彼女に質問をするほどになっていた。
話してみると、僕と彼女にはいくつか共通点があった。喫茶の時間を大事にするところ。観葉植物が好きだが、手間のかかるものをつい選んでしまうこと。映画館で洋画を観たことがないこと。お買い得商品を探すわりに、ポイントカードは持ち歩かないこと。
女性と会話が弾んだことも、それに夢中になったことも、楽しいと思えたことも。
どれも僕にとっては初めての体験といえた。だがそれらは全て彼女のおかげだ。そこに配慮できないほど僕は厚かましくはない。だが、あまりにも趣味、趣向が似ていた。良く似た共通点の連続。それが僕は有頂天にさせた。
そしていつもの失敗をする。序盤で似たようなミスをしているということも忘れて。
「あと僕、誰かと飲みにいったりするのも嫌いではないですが、やっぱり家にいるのが好きなんですよね。何日もずっと一人でいたいか、っていう訳ではないんですけど、一人の時間がないと生きていけない、それも他の人よりも長い時間必要、というか。
連休の前の日に大型スーパーにいって生野菜スムージーや、青魚やしいたけ、ねぎ。きゅうりの漬物。朝コーヒーと一緒に食べるドーナツ。それからタブレットではみられない類の古い映画を何本か、あ、あと映画に疲れたら読む漫画本。それで家に帰ってからお風呂を済ませて。テレビの前に食べ物をならべて、しいたけとねぎは串にさして焼き立てのところに醤油をたらして、合わせてビールのフタをプシュッ、て。焼き魚や漬物をつまみつつバスチアンが毛布かぶって本を読むみたいにしてテレビの前に座って。うーん、なんというんですかねぇ、たまらなく幸せなんですよね困ったことに。あ、そっか、バスチアンがわからないですよね。有名なファンタジー映画にに出てくる男の子のことです。あ、でも名前を聞けば知ってるかな、えっとタイトルは、、」
「星川君?」
話を遮られた僕は、半笑いの顔のままフリーズする。
「なんで? つまらないよその話、とか言われたことない?」
ああ。そうだった。以前に慶太に言われた事がある。それは自分の日記にでも書けよ、聞いてて面白くないからと。その記憶が光速の速さで脳を駆け抜ける。
蒸気でも発するのか、という具合に顔と頭が熱くなる。序盤でつまづいていた恥ずかしさが、たまった借金のように今頃になってのしかかる。
だがそれは失敗ではなかった。目をつぶって振ったに等しいバット。しかしまるで手応えもないまま目をあけると、打球は九回裏のライトスタンドめがけて一直線に伸びていた。
「その話、つまらないって、私は何度も言われてきたわ。でも傷つかなかった。いつかわかってくれる人がいるかも、って思ってた」
熱くなった顔を上げてみると、智茶都の目の輝きは尋常ではなかった。今にも僕の手を取らんばかりに。そしていままで聞いたことのない早口で語り始めた。
「わたしもね、もちろん今日みたいに飲み会いったり、友達とお茶飲んだりもちろん楽しいわ。でもね。わたしも星川君と同じ。帰ったら疲れてるの、とても。なんでなのかな楽しかったはずなのにね? だから花の金曜日に直帰ですけど何か? て顔でおっきいスーパーにいくの。そこで食材買って、ギザギザポテトとかハーゲンダッツとか情緒に合わせて買い込むの。わたしだって動画見放題サービス二つも課金してるわ。だけど私もマンガや小説は紙でみたい派、なんですよね。だから週末に向けてアマゾンで中古全巻買いをしたりする事もある。あと、家に帰ったらまずたまってた家事を片付けて、お風呂に入って。あとは寝るだけにして、それからゆっくり手の込んだ料理をつくって。
それから、あ、その前にバスチアンなら当然知ってるわ。あれは世代関係ない名作ですよ。私は毛布被らない派ですけど。それにわたしも生野菜スムージー買うわ。おいしいよね。あと椎茸とネギの焼きたてに醤油かけてプシュッ、はちょっとわたしもしたくなってきた」
物凄い勢いでそこまでを話きった智茶都の、最後に付け加えられた一言、星川君、とても素敵です、を聞いた僕は喜びに係る収容能力が限界に達し、その後のしばらくの記憶がない。
「驚いたな。星川君とこんなに共通した部分があるなんて。それも人に話すと理解してもらえないようなところばっかり、っていうね」
新橋駅に到着すると、そう言って智茶都はいたずらをした子供のような笑顔をつくった。
彼女の雰囲気は独特だった。やわらかく、それでいて弾む。張りがあって弾むのではなく、あくまでやわらかい。そこが独特だった。割れないシャボン玉、そういうものを連想させる触れ心地。まるで優しい外被に包まれていながら、心を躍動させるリズムを併せもつ。
「会社でのイメージは、おとなしい人かと思ってたけど?」
駅のホームで、智茶都は僕にそういった。
「え・・・、そう? でもこんなに女の人と話せたのは初めてだよ」
正直な感想を素直に相手に話していた。これも今日までの僕には縁遠いことだった。智茶都は「そっか」といってうつむく僕を下から見て笑った。
眼下のSL広場に人の群れがいくつかみえる。プラットホーム上でも赤い顔をして、陽気な声で笑う群れがあちこちに点在していた。
「星川君がさっき話してた水族館、楽しそうね。行ってみたい」
ゆっくりと体を左右に揺らしている智茶都の横顔がそういった。その向こうによろけている中年の男がいた。首のネクタイが落ちかかっている。そのネクタイに気をとられていると智茶都と目が合いそうになり、あわてて足元に視線をもどした。
無意識に耳に当てた手。その手に凄い速度の鼓動が伝わる。
このまま電車に乗る彼女を見送ってしまっていいのだろうか。
僕は再び足元をみた。だがやはり言葉は出ない。
ね、じいちゃん。だから持ち合わせが足りないと言っているじゃないか。
列車がホームに入るというアナウンス。
「今日は楽しかったわ。付き合ってくれてありがとうね」
智茶都の声がする。
そう言われて彼女の顔をみると、すぐ真後ろにネクタイの落ちかかった男が立ち止まっていた。知里の後頭部に鼻をあて、髪の匂いをかぐような仕草。距離が不自然な程近い。やがて彼女もその不自然な気配に気がついた。
「向こうに行こう」
何をされるかわからない、という危機感は思わぬ反射的行動となって現れた。僕は彼女の手を引いていた。
男から急いで遠ざかり、そして我に返って強烈な恥ずかしさに見舞われる。振り返ると、電車が連れてきた風が彼女の髪をふわりと持ち上げたところで、そこには真っ直ぐに僕を見つめる視線があった。頭の内側が猛烈に重く、熱く、口の中は乾き、しかしどういうわけか僕の左手は彼女の右手を離していなかった。
真っ白になりかけた意識の中で「今度一緒に」という言葉だけ絞りだした。だがもうそれで手一杯。他に何も言えそうにない。それにその言葉でさえ耳にまとわりつく心臓の鼓動に掻き消され、彼女に届いたのかさえわからない。
しかし目を開けてみると、打球はまだ落ちずに飛んでいた。総立ちになったライトスタンド目掛けて。
「ほんとに? うれしい。ぜひお願いします」
気がつくと目の前の彼女が笑っていて、そこに大慌てでポケットに手を入れている僕がいた。やがて震えた指はポケットの名刺入れをつかんで引っ張りだした。
「こっ、これ。僕の個人携帯の番号が入っていますから」
「ありがとう。あ、間違え。えっと」
頂戴致します、といって彼女は両手で名刺を受け取ってみせた。おじぎした髪が健康的な光沢を後ろへスライドさせる。
「この番号宛にメール送るね」
やがて外回りの山手線がホームに到着した。開いたドアに智茶都が乗り込む。車内はかなり混雑していた。これじゃあメール打てないね、という仕草をして智茶都が笑う。僕も笑顔を返そうとしたが、乾燥しきった口はうまく開かない。ドアがしまる。こちらをみて智茶都が手を振る。それに小さく手を振り返す。
そう。手を振り返す智茶都の表情。昨日の事のように覚えている。これ以上なく嬉しかったのだから。ん? どうしてこんな時にこの場面を思い出しているのだろう。僕はこの後、智茶都と交際するという幸運を得る。もちろん女性との交際は初めてだった。幸福を強く感じる日々が続き、僕は幸せを感じていた。空でも飛んでいるかのような、翼を得たかのような、そんなつもりになっていた。
だが次第に彼女を束縛したり、強い不安を抱いたり、恋愛初心者らしくうまく飛べなくなっていく。やがてバランスのとれない錐揉み飛行を続けた僕は、苦しくなって自滅するかのように智茶都に別れを告げる。
その後冷静になりとても後悔した。死んでから後悔するくらいなら、なぜ別れたりしたのか。愚の骨頂。 ん? 死んだとは?
いつからそこに立っていたのか、目の前に女がいた。女は自分が案内人だと告げた。だかそれに対して何か言おうとすると、再び眠りの中のような暗闇に落ちる感覚が訪れた。
◇◇◇