9. すれ違い
少し長くなりました。
よろしくお願いいたします。
それから毎日のように騎士団長はブルースの元を訪れ、時には病室で、時には庭の陽当たりの良いベンチで二人が話し込んでいる姿をジリアンは見かけていた。
二人の声は低くて聞き取れないほどだったし、時には互いに黙ったまま各々考え込んでいる風でもあった。
そんな深刻そうな雰囲気も日を追って軽くなり、二人が談笑する様子も見受けられるようになっていった。
ジリアンは極力、二人が話をしている邪魔をしないように気をつけていた。
新たに入院してきた患者もあり、忙しく働くうちに二人だけで会うことのない日も多くなっていった。
ブルースの退院の日はロベルト医師から告げられたので、お互いのためにも距離をとった方が良いように思ってしまう。
(彼も、他の患者さんと同じように、元気になったら元の場所に帰って行くだけ……。)
所詮、ブルースと自分とでは住む世界が違うのだ。
彼が自分に向けてくれた笑顔と優しさは、辛かった時に彼にかけた励ましへの感謝の印だったのだろう。
思いがけず、楽しい時間を一緒に過ごせたことに感謝して笑って彼を見送ろうーーー
ジリアンはそう心に決め、その後は何かと理由をつけて二人だけで会う機会を遠ざけるようになった。
これ以上、二人で会っていたら笑って見送れる自信が揺らいでしまうからだ。
しかしジリアンのそんな決心とは関係なく、ブルースは訓練室へ行く時間も作れないほど忙しくなり、病室に足止めされることが多くなった。
ブルースへの見舞客が増えたからだ。
騎士団長がそれまで見舞いを止めていたとかで、見舞客の多くは騎士の制服を身に纏った若い男性たちだった。
それぞれ空き時間にやって来るのか、一人二人とブルースの病室を訪れ、帰る時には皆明るい顔をして帰っていく。ブルースは同僚の騎士たちに慕われているようだった。
あの若い騎士も何度かやって来て、ジリアンを見るとぺこりと頭を下げた。
数は多くないが、見舞客の中には明らかに爵位を持つと思われる服装の男性が、若い令嬢を伴ってブルースの病室を訪れることもあった。
(やはり…何か、爵位をお持ちなのだわ。)
ブルースの病室を訪れる貴族の見舞客を遠目に見ながら、ジリアンはつきん…と痛む胸に溜息をついた。
◆◆◆
それはブルースの退院が3日後に迫った時ーーー
ジリアンはブルースが機能回復訓練に行っていることを確認して、彼の病室のドアを開けた。
シーツの交換にきたのだ。
「きゃっ」
ドアの開いた音に驚いて振り向いた、ピンク色の瞳がジリアンの瞳とぶつかった。
ゆるくウェーブのかかった、柔いピンクブロンドの髪が揺れる。
髪と目の色に合わせた淡いピンクのドレスを着た可愛いらしい令嬢は、恐らくブルースの見舞客なのだろう。
「ローランド様のお知り合いですか?」
それでも令嬢独りだけというのを不思議に思い、ジリアンは声をかけた。
「ローランド…?え、ええ、父とブルース様のお見舞いに来ましたの」
ブルース様、と親しげに呼ぶのを聞き、ジリアンの心臓はキュッと痛む。
だが、その令嬢が手に持っている小箱に目が吸い寄せられ、ジリアンは言葉を失った。
彼女はジリアンの視線を辿り、自分の手の中にある小箱に視線を落とす。
小箱の蓋は開いていて、彼女は中の指輪をうっとりと見つめた。
「綺麗でしょう?ブルース様の瞳と同じ色合いの指輪なのよ」
「ええ。お祖母さまの形見だとか」
そうジリアンが応えると、心なしか令嬢の表情が険しくなったように見えたのは一瞬で、すぐにジリアンに向かってにっこりと微笑んだ。
「そうなの。先ほど、婚約の印に私にくださったのよ」
ジリアンは、自分がたった今、何を聞いたのか理解できなかった。
(なに…? 婚約と云ったの……?)
目の前の令嬢の言葉が染み込んでくるにつれ、内側から体が冷たく凍ってしまいそうに感じる。
崩れ落ちてしまいそうなのに、体が動かない。
ーーー婚約者の方がいたのだわーーー
立っているのが自分なのかも判らないまま目を瞠り、ジリアンは令嬢の嬉しそうな笑顔を見つめていた。
「それは……おめでとうございます」
自分のものとも思えない声が、祝いの言葉を述べていた。
声が僅かに震えている。
令嬢はそんなことには気が付かないかのように、ジリアンを真っ直ぐに見つめてにっこりと微笑んだ。
「有難う」
その時、ノックの音と同時にドアが開き、頬髭に眼鏡をかけた恰幅の良い紳士が顔を覗かせた。
ジリアンなどそこにいないかのように目を向けることはなく、紳士は令嬢だけに視線を向けて言葉をかける。
「カタリナ、ここにいたのか。帰るぞ」
「はい、お父さま。それでは、ごきげんよう」
小箱を素早く華奢な袋に仕舞うと、まだ動けずにいるジリアンにちらりと視線を向けて令嬢はドアへと足早に去って行った。
閉じたドアのすぐ向こうで二人の会話が聞こえる。
「今のは誰だ?」
「さあ?看護師か何かでしょう」
その会話をどこか遠くの方で聞きながら、ジリアンは立ち尽くしていた。
胸の辺りは鉛を飲み込んだように重く、呼吸が上手くできているかもよく判らない。
視線を下げると、いつの間にか握った手に力が入り白くなっている。
(知りたくなかった…こんな気持ち。)
一生懸命に目を背けていた、ブルースへの恋心に嫌でも気がついてしまった。
そして気がついた途端に、ジリアンはその恋を失くしてしまったのだ。
◆◆◆
それからブルースが退院するまでの日を、ジリアンはどう過ごしたかよく覚えていない。
ドロドロとした感情が自分の中で渦巻き、とても普通ではいられなかった。
ましてや、笑顔でブルースを見送るなど以ての外だ。
ジリアンは、その足ですぐにロベルト医師に会いに行った。
幸いその間誰にも会わず、たまたま患者が途切れて自分の診察室で文献を読んでいたロベルトに、休暇を取りたいとその場で願い出ることができた。
今まで休暇の話などしたこともなかったジリアンが、今にも倒れそうなほど青ざめた顔で、酷く思い詰めたように話をするのを見てロベルトはとても驚いた。
いつも冷静に患者に接しているジリアンは鳴りを潜め、迷い猫のように頼りない。
ロベルトは考えを巡らせた。思い当たることがないでもない。
力を持った伯爵家当主自らこの病院に赴き、弟について緘口令を敷いたのは記憶に新しい。
あの見目麗しい騎士の患者が、ジリアンと親しげにしている噂も耳に届いていた。
不誠実な男には見えなかったが…。
ロベルト医師の判断は早い。
ジリアンに、「ゆっくり休みなさい」とだけ云って労わりの表情を浮かべた。
そのまま早退という形で自分の家に辿り着き、部屋に入ると後ろ手にドアを閉め、そのドアに体重を預けてずるずると坐りこむ。
両手で顔を覆い、ジリアンはそこで初めて涙を流した。
涙は流れ始めると、止まることなく流れ続けた。
恋しい、という気持ちが溢れ出て止まらない。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
強い感情が恐ろしくて、強引に押し込めていた分、溢れ始めるともうジリアンにはどう止めていいのかも判らない。
泣き疲れて倒れ込むようにベッドで眠り、目が覚めてぼんやりと日を過ごす。
(自分から気持ちを告げていたら、何かが変わっただろうか……。)
そんな考えも浮かんだが、あの令嬢は「婚約者」だと云ったのだ。
困ったようなブルースの顔が浮かび、ジリアンは力無く首を振った。
住む世界が違ったのだ。
そんなこと、最初から判っていた。
しかし次の瞬間にはブルースの蕩けるような笑顔と楽しかったやり取りを思い出し、いかにブルースに惹かれていたかを思い知って、ジリアンの目からはまた新たな涙が流れた。
ブルースが退院する日が過ぎるまでジリアンは病院には戻らなかった。
ブルースが退院して程なく、ジリアンはロベルト医師の推薦状を手に、勤めていた病院を辞め、少し南に下った商業都市にある病院へと移った。
その病院に2年ほど勤務した最近、王都の大きな病院に勤める兄が、少しの間、個人付きの看護師を引き受けてくれないかと頼んできた。
休暇が取れず、病院を退職することになるのであれば、その後の身の振り方は必ず面倒を見る、と手紙には書いてある。
父親と同じ病院に勤務することになり、縁故での馴れ合いを嫌って母方の姓を名乗っている兄が、だ。
よほど何か事情があり、ジリアンにしか頼めないのかもしれない…。
もとより、滅多に頼み事などしない兄からの頼みなのだ。力になりたかった。
病院が忙しくない時期ということもあり、ジリアンの上司のジョエル医師はおおらかな性格で、おずおずとジリアンが長期の休暇を取りたいと相談すると、嫌な顔もせずに首を縦に振ってくれた。
あっという間に話は決まり、ジリアンは荷物をまとめ、迎えに来た馬車に乗り込んだのだった。
その馬車が、国内でも有名なキャンデール伯爵家へ乗り入れるとも知らずに。
お読みくださり、有難うございました。
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