5. 薬草園
よろしくお願いします。
連れ立って訪れた庭は、庭園と呼ぶに相応しい広さと美しさで、柳の大木があちらこちらに植えられ、そよぐ風に葉を涼しげに揺らしていた。
庭の中央には噴水があり、所々に大きな木製のベンチが設えてある。
葉の緑の鮮やかもさることながら、時期を盛りとばかりに咲き乱れる色とりどりの花たちが目を楽しませてくれる。
噴水の奥には薔薇園と思しき一角があり、木々の瑞々しい香りに混じって仄かに漂ってくる甘い香りにジリアンは顔を綻ばせた。
「見事な柳ばかりですね」
馬車に揺られた窓からも立派な柳並木を見たことを思い出し、ジリアンは見惚れるようにほうっと息をついた。
ゆっくりと庭に視線を巡らせるジリアンに、レスリー=アンは微笑みかけた。
「柳は守りの木ですから。この館は“ウィローワックス”と呼ばれておりますの」
「ウィローワックス?」
「ええ。七代前のご先祖様が、柳を信奉する変人だったそうですわ」
秘密を打ち明ける時のように瞳を煌めかせて、レスリー=アンは上目遣いにジリアンの顔を覗き込んできた。
日中の明るさの中だからか、昨夜よりもさらに若い印象を受ける。
大人しい印象だった昨夜とは違い、庭園でのレスリー=アンは生き生きとしていた。
「その柳が、今もお屋敷を守っていらっしゃるのね」
「ええ、そう思っていますわ。わたくし、その変人のご先祖様が少しばかり好きですの」
口角を上げてふふっと微笑むレスリー=アンは妖精のように美しい。
陽に輝いて、ふわふわと風に揺れるプラチナ・ブロンドや、歩く度にひらひらと裾が翻る薄紫のドレス、そのドレスから伸びる白磁のような細い手足を色彩豊かな庭園の中に見ると、ジリアンはお伽の国に迷い込んだかのように思ってしまう。
庭園の右奥に歩みを進めて行くと、急に趣の違う一角に出た。
白いフェンスで囲われた場所が現れ、木戸には錠がかけられている。
木戸の前で、一人の老人が佇んでいた。
老人を認めてレスリー=アンが頷くと、彼は無言のまま錠を開け、二人が入ったあとに自分も入り、内側から錠をかけた。
「ここの一角が薬草園です。いかがかしら…」
少し緊張したような声でレスリー=アンが指し示した辺りには、ロズマリナスやラバスなどの低木の茂みと、タラクサカムやウルティカ、ラワンジュラなどの薬草がきちんと区画整理された場所に植えられていた。種類も豊富で、一廉の薬草園といえる。
「素晴らしい薬草園ですね!」
「そう…でしょうか」
ジリアンが感嘆の声を上げると、レスリー=アンは思わず言葉を繕わずに応えていた。
よほど嬉しかったのだろう。
「お嬢さま、ようございましたな」
後ろから声をかけられて振り向くと、先ほどの小柄な老人がにこにこと二人を見ている。
「ヘンリー。ええ、本当に。あなたのお陰だわ」
レスリー=アンがにっこりと老人に微笑んだ。
ジリアンに振り向き、老人を紹介する。
「ジリアン様、庭師長のヘンリーです。この庭全体の管理と、この薬草園も一緒に作ってくれましたの。ヘンリー、ジリアン・マルレーネ様よ。コンラッドお兄様の看護をしてくださる看護師様です」
「ヘンリーさん、素晴らしいお庭と薬草園ですわ。柳のあんな大木も初めて見ました。もちろん他の植物もみんな丁寧に手入れをされていて、愛情を感じます」
ジリアンは実感を込めてヘンリーに云い、手を差し出した。
ジリアンのいた病院ほどではないが、彼女の実家で栽培している薬草園に勝るとも劣らない規模のものだ。
彼女の母親は薬師で、彼女も薬草園の手伝いをしていたので、薬草の栽培には手のかかるものもあることをよく知っている。
「勿体ないお言葉です。薬草はなかなかに奥が深くて、わしも楽しんでやっておりますよ」
差し出されたジリアンの手をガサガサの老いた手が軽く握り、ヘンリーは少し声を落とす。
「ところで、知っとられますかな?お嬢さまは、本当は薬師さまになりたかったのですよ」
「ヘンリー…何を!」
「内緒ですぞ。伯爵様に知れると、またお嬢さまが説教をくらいますでな」
ヘンリーはニヤリと笑って、ジリアンに片目をつぶった。
茶目っ気のあるこの老人に、彼女はすぐに好感を抱いた。
庭園の植物たちを見れば、彼がどれだけ愛情を注いでいるのかはすぐに判る。
ヘンリーはきっと、この「レスリーお嬢様」も可愛くて仕方がないのだろう。
それにしても、とジリアンはヘンリーの言葉を思い返してみた。
また、ということは、レスリー=アンは以前、伯爵に薬師になりたいと頼んだのだろうか。
この薬草園からは、レスリー=アンとヘンリーからの大変な熱量がうかがえる。
手間をかけて育てているのは一目瞭然だった。
本気で薬師になりたいと思ったとしても頷ける。
ああ、それで…と、ジリアンは独り頷いた。
最初に対面した時に、伯爵が投げたジリアンへの言葉と労う態度。
なぜいきなりあんな質問をされたのか、不思議に思っていた。
ジリアンのように貴族令嬢が働く理由を、言葉にして問いかける者はなかなかいない。
爵位を持つ令嬢が職業婦人になることは、伯爵家にとっても他人事ではなかったということだ。
「お嬢さま、あちらの四阿にお茶の用意をさせております」
暫く薬草園の中を見て回ったあと、侍女が声をかけてきた。
ジリアンとレスリー=アンは四阿に移動して、お茶とジャムの乗ったビスケットをいただく。
「このジャム…」
「お気づきになりました?流石ですわ」
問いかけるようにレスリー=アンを見上げたジリアンに、伯爵令嬢は嬉しそうに微笑んだ。
「ラバスのベリーのジャムですの。毎年、料理長に頼んでジャムを作ってもらっています。ロズマリナスはお料理にも使えると、料理長も喜んでくれていますわ」
「私の実家でも、ラバスのベリージャムを作っています。懐かしいわ」
「葉は乾燥させて煎じると、胃腸に良い薬になるのですよね?」
「よく勉強されていますね。薬師の勉強は本格的には?」
ジリアンの問いに、レスリー=アンは眦を下げて首を振った。
「すべて独学ですの。コンラッドお兄さまが許してくださらなかったので」
「そうですか…」
伯爵令嬢ともなれば、職業婦人になるなど家が許すはずはない。
ましてや、キャンデール家のような富も力も持った名家の子女ともなれば尚更だ。
ジリアンのいた病院でも、貴族の看護師は数も少なく、大抵は准男爵や男爵の夫人で、子爵位で未婚なのもジリアンだけだった。
「ジリアン様」
視線を上げてレスリー=アンを見ると、どこか思い詰めたような紺青の瞳が見返してきた。
色の濃さに違いはあっても、兄妹揃って美しい目をしているわ…と、ジリアンの胸がきゅっと締め付けられる。
すると、思いがけない問いが降ってきた。
「ジリアン様は、コンラッドお兄さまをどうお思い?」
「え…?」
コンラッド様?
何を聞かれたのか判らずに、漂わせていた目を紺青の瞳に戻す。
緊張した顔が、ジリアンを見つめていた。
「あの…こんなことをいきなりお聞きするのは不躾なのは判っておりますわ。でも、その…妹のわたくしが云うのもおかしいですが、コンラッドお兄さまは端正な見目を持っていますし、それに…多くのご令嬢からも慕われているようなので、ひょっとして…」
歯切れ悪く言葉を紡ぐレスリー=アンに、ようやくその云わんとしていることが読み取れて、ジリアンは視線を落とす。
ジリアンの人となりを知る由もないのだから、兄の近くにいることになった女性を警戒することは仕方のないことなのかもしれない。
ましてや、キャンデールのような名家であれば無理からぬこと。
それでもこうして直球で聞いてくるあたり、兄の伯爵に似て好感が持てるとも云えるーーー
ジリアンは落とした視線の先にある、淡いピンクの名もない花を見つめた。
四阿の側にたくさん咲いていて、丹精される大輪の花とは違うけれど素朴さが心を和ませてくれる。
仮に違うと否定したとして、この令嬢は信じてくれるのだろうか……。
だがジリアンの反応に、不躾すぎることを云った自覚があるのだろう、レスリー=アンの方が慌てて言葉をつなぐ。
「本当に失礼なことを申しましたわ。わたくし、ジリアン様は素敵な方だと思っておりますの。ジリアン様のことをどうと思っているのではなくて、あの…少し事情がありますの。打ち明けることはできないのですけれど…今のお話、忘れてくださいます?」
謝罪とも取れる言葉にジリアンは内心驚きつつ、レスリー=アンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
心から申し訳ないと訴えるような瞳は、嘘には見えない。
ジリアンは表情を崩して軽く頷いた。
「忘れるも何も…レスリー=アン様が私のような者を心配するお気持ちは理解いたします。コンラッド様に心が動くことはないとお約束いたしますわ」
「…本当に?」
きっぱりとしたジリアンの物云いに、レスリー=アンは目を瞠った。
はっとして、つい口からこぼれ出た確認の言葉を押し戻そうとするように、手で口を抑える。
ジリアンは、今度ははっきりと頷いた。
「私の心には、別の方が棲んでおりますので」
「まあ…」
自覚のないまま、ジリアンの口元に自嘲的な笑みが浮かんだ。
レスリー=アンはそれ以上何も云わず、何を想像したのか、眦を下げてジリアンを見ている。
ジリアンは視線を外し、薬草園の方をぼんやりと見ながら心の中で溜息を吐いた。
(忘れたいのに心から出ていってくれないのは、貴女のもう一人の兄上なのですよ。)
お読みくださり、有難うございました。