3. キャンデール家の人々
よろしくお願いいたします。
「ジリアン、紹介しよう。弟のブルースだ。しばらくの間、私の執務の手伝いに来ている。君も会うことが多いだろうから紹介しておく」
ジリアンの反応に、伯爵が興味深げな笑みを浮かべたことに彼女は気が付かなかった。
伯爵はそれからちらりと弟に視線を送る。
兄よりも濃いコバルトブルーの瞳は、ジリアンを一心に見つめていた。
「ブルース・キャンデールだ……ブルースと呼んでくれ」
浅くジリアンが息を飲み込んだ音がした。
キャンデール? ローランドではないの?
忘れようとして忘れられなかったコバルトブルーの瞳。
波打つダークブロンドの髪は、覚えている頃よりさっぱりと短く切り揃えられている。
生成りのシャツと黒いトラウザーズというシンプルないでたちで、一見細身に見えるが、しっかり鍛えられている体格がよく判った。
(キャンデール家の人間だったなんて−−−)
もの問いたげに見つめるブルースの瞳を見ないように、ジリアンは目線を下げて瞬きよりも一瞬長く目を瞑った。
動揺を悟られないように笑顔を貼り付け、顎を上げる。
「初めまして。伯爵様の看護をする、ジリアン・マルレーネと申します」
敢えて相手の名前は呼ばず、膝を折ってブルースに初対面としての挨拶をした。
伯爵の整った顔は表情を変えずに二人のやりとりを見守っていたが、ジリアンがブルースへの挨拶を終えると口の端を上げて彼女の方を向き、のんびりした口調で云った。
「ジリアン、私のことはコンラッドと呼んでくれ」
唐突な伯爵の言葉に、ジリアンは伯爵に目を移す。
ブルースも驚いたように兄を振り向いた。
「それは…」
「カート…!」
ジリアンとブルースが同時に言葉を吐く。
初対面であるし、下位貴族、しかも看護人の自分に、あまりにも砕けているのではないかとジリアンは躊躇った。
兄を愛称で呼んだブルースは、険しい目で彼を睨んでいる。
伯爵はブルースの視線に気づかないように、今度ははっきりと涼しげな笑顔をジリアンに向けた。
「しばらく世話になるのだ。堅苦しいのは止めにしよう。弟のことも、ブルースと。いいね?」
コンラッドの言葉には、これで決まりだ、という響きがあった。
他人に指示をし慣れた、有無を云わせぬ物言いだ。
心の中で一つ息を吐くと、ジリアンは目を閉じて同意の印に軽く頭を下げた。
「かしこまりました、コンラッド様」
満足そうに頷くと、コンラッドは続けた。
「ブルースの下に、少し年の離れた妹がいるんだ。あとで紹介しよう」
◆◆◆
陽が暮れる頃、ジリアンは再びコンラッドの執務室に呼ばれた。
自分は階下の食堂へは行かないので自室で食事を摂るが、家族と共に食事をするように、と伯爵はジリアンに告げた。
雇われた者が、貴族の家の者と食事を共にすることなどあり得ない。
固辞しようとするジリアンの言葉が聞こえないかのように、ジリアンを客人として接するように屋敷の者に伝えること、滞在中は食事も同じテーブルに用意することを、コンラッドが控えていた若い執事に指示するのを聞いて、ジリアンは内心大いに戸惑った。
実家で叩き込まれたテーブルマナーは、平民のスタッフが多い勤務先の病院では封印している。
しっかり覚えているといいのだけれど。
指示を受けた執事が退室するのと入れ替わりに、執事長のオーティスが声をかけつつ入室してきた。入室したところで、丁寧なお辞儀をする。
「コンラッド様、お嬢様方をお連れしました」
「そうか。有難う」
執事長の後ろから、少女と呼べるような若い二人の淑女が部屋へと入ってきた。
一人はふわふわしたプラチナブロンドの髪に紺青の瞳、もう一人はプラチナブロンドの少女より少し背が高く、艶やかな赤い髪とエメラルドの瞳で、二人ともタイプは違うが美しく整った顔立ちをしている。
プラチナブロンドの少女が、恐らくキャンデール伯爵の妹姫だろうとジリアンは見当をつけた。
しかし、もう一人は…?
オーティスは扉の側に控えている。
近づいてきた少女たちに、コンラッドが声をかけた。
ジリアンもそれに合わせてお辞儀をし、挨拶を述べた。
「レスリー、こちらはしばらく私の看護をしてくれる看護師のジリアン・マルレーネ嬢。ジリアン、妹のレスリー=アンだ。その隣は妹の友人で、ダイアナ・ローウェル侯爵令嬢。二人は幼馴染なのだ」
「ジリアン・マルレーネと申します。よろしくお願いいたします」
「レスリー=アン・キャンデールですわ。お兄様のお世話をしてくださるのが、こんなに若い方だなんて知りませんでした。よろしくお願いいたします」
そう云って、レスリー=アンは軽く膝を折った。
自分より格上の、大家の令嬢に丁寧な挨拶をされてジリアンは内心恐縮しつつ、素直そうな心根のレスリー=アンに仄かな好意を抱いた。
彼女は、柔らかな微笑みをジリアンに向けたまま続ける。
「わたくしからも紹介いたしますわ。お友だちのダイアナです。今までお茶をしていましたの」
「ローウェル侯爵令嬢、ジリアン・マルレーネと申します」
ジリアンがレスリー=アンの友人にお辞儀をして顔を上げると、想像していたより強い眼差しが返ってきた。
顔は優雅に微笑んでいるが、綺麗なエメラルドの瞳の奥には何かが揺らめいている。
「ダイアナ・ローウェルですわ。コンラッド様の看護はどのくらい必要なのでしょうか」
ダイアナのいきなりの質問に少し驚いて、ジリアンは問われた内容について考えた。
恐らく期間のことだろうと想像して考えを口にする。
「恐らくは一月ほどかと。コンラッド様がご壮健な方でしたら、もう少し早いかも知れません」
「一月…」
それが本当に聞きたかったことなのかは判らないが、ジリアンの応えにダイアナは小さくつぶやいた。
「心配してくださって嬉しいですよ、ダイアナ嬢」
そう云ってダイアナに微笑みかけたコンラッドに、ジリアンはおや、と思った。
伯爵の笑顔が、思ったものよりも甘く感じられたのだ。
だがそう感じられたのも一瞬のことで、コンラッドの笑顔は穏やかなものに戻った…気がした。
「コンラッドお兄さま、ダイアナを夕食にお招きしたかったのですが…」
レスリー=アンが云いかけた言葉を、ダイアナが続ける。
「残念ですが、今日は帰らねばなりませんの。これでお暇いたします」
そう云って、ダイアナは伯爵に向かって軽く膝を曲げた。
「それは本当に残念だ。ブルース、お前が送って行ってくれるか」
「いえ、その必要は…」
「もうじき陽が暮れる。何かあってはいけないからそうさせてくれ。いいな?ブルース」
云いかけたダイアナの言葉を遮るようにコンラッドが話をまとめ、無言のままコンラッドの側で書き物をしていたブルースは頷いて立ち上がった。
一度部屋へ戻ったジリアンは、夕食までの間、持参した荷物を片付けて過ごした。
夕食の準備が整ったと侍女から声がかかり階下へ向かうと、レスリー=アンがジリアンを見上げて微笑みかけてきた。
「お嬢様、参りましょう。」
執事長のオーティスが、腕を差し出しレスリーを優雅にエスコートしていく。
階段を降りきり、レスリーの後ろについて歩き出そうとするジリアンの腕が、軽く後ろに引かれた。
「…!」
驚いて振り向くと、ダイアナを送って行ったはずのブルースがジリアンのすぐ後ろに立っていた。
「行こう」
そう云って差し出される腕に軽く目を瞠り、ジリアンは力なく首を振った。
だがもう片方の手でジリアンの手を掬うと、ブルースはその手を自分の腕に掴まらせた。
ここで大声を出して騒ぎになるのも躊躇われ、ジリアンは抵抗するのを諦めてブルースと共に歩き始めた。
心の中で、大きく一つ溜息を吐いて。
お読みくださり、有難うございました。