26. 番外編:美貌の医務員
ジリアンの医務員としての日常を描いてみたくて、エピソードを追加しました。
お読みくださると嬉しいです。^^
このところ、トルディア王国の騎士団では、訓練のあとに若い騎士たちが医務局へ殺到しているというーーー
「ジリアン様、ほら、こんなに切れて血が出ているんです」
「オレも、ここがほら、こんなに痣になって…」
「いや、オレなんか足捻っちゃって…いててて…」
ジリアンは軽く溜息を吐くと、口々に愁訴する騎士たちににっこり笑って云った。
「皆さん、順番に先生に診てもらいますからお待ちくださいね」
医務局は騎士団の日勤の時間に合わせて開かれている。
時間外や休日の場合は、王都の病院で救急対応してもらうことになっていた。
現在、医務局に勤務する医務員は、医師一人に看護師二人。
本来ならもう少し人員が欲しいところだが、医師や看護師は王都の病院に勤務する者や、自分で開業する者が多く、騎士団の医務員は一般的にあまり成り手がいない。
それは騎士団という、荒っぽい男たちの集団の中にある環境が好まれないことと、医道を志す者として最先端の情報を得るためには、大きな病院に勤めた方が有利だということがある。
しかしジリアンは、夫の職場でもある騎士団の医務局の仕事を好ましいと思っていた。
夜勤がある病院に勤めることは考えづらく、もう一人いる看護師と交代で勤務できるので休暇が取りやすいのもいい。
「今日も大盛況だねぇ」
騎士たちの患者が少し途切れたところで、カーテンの向こうから顔を出したサキアス医師がボヤいた。
「お疲れですか?お茶でもお持ちしましょうか」
「いいや、自分で淹れるよ」
「大丈夫ですよ。私も飲みたいんです」
ジリアンは笑って、お茶を淹れに簡易に作られたキッチンに立つ。
「こういうところだろうねぇ」
湯気のたつカップを前に、サキアス医師がふっと笑ってジリアンを見やる。
「何が、こういうところなんですか…?」
「医務局が盛況な訳、だよ」
「皆さん、訓練で怪我をされたからでしょう?」
「イーライが溢してたぞ、ジリアンさんがいない日は患者が少ないって」
イーライとは、医務局に勤めるもう一人の看護師で、元々衛生兵だったのだが素質を見込まれてサキアス医師に引き抜かれ、ゆくゆくは医師を目指している若者だ。
騎士団が集中訓練をする時などは一緒に勤務することもあり、衛生兵として働く時点で医療の知識を叩き込まれているイーライは、ジリアンとの引き継ぎも上手くいっている。
彼はまだ17歳と若く、医師になるための学費を貯めつつ通える学科を勉強している最中で、ジリアンから見たら弟のように思える存在だった。
「女性の医務員が珍しいだけでしょう」
ジリアンはサキアス医師に苦笑を向けた。
聞くところによると、女性の医務員は初めてらしい。
確かに、未婚の女性看護師には飛び込みづらい職場ではあると思う。
とはいえ、男だらけの騎士団であるものの、ここ数年女性騎士も誕生していると聞く。
なかなか医務局には姿を見せないが、いずれ女性騎士たちの女性特有の悩みの相談にも乗れるといいなとジリアンは思っていた。
「それだけではないのだがな…」という言葉を、サキアス医師は飲み込んだ。
まだ同僚としての付き合いは短いが、彼女が優秀で勤勉な上、患者のあしらいも上手いことはよく判っている。
さらに、この美貌だ。
仕事をしている時には結い上げている美しい黒髪と澄んだ菫色の瞳。
自分に愛する妻がいなければ、彼らの気持ちも判らなくはない……いやいやいや、そんなことはないが。
「先生?」
ジリアンに声をかけられ、「ん?」と視線を上げると、彼女が眉を寄せてこちらを見ている。
「何かあったかな?」
サキアス医師は目の前の机に、手に持ったカップを置いた。
「また何名か患者さんがいらしてます」
「千客万来だねぇ…もう終業近くだというのに」
「通してもよろしいですか?」
「いいよ」
「恐らく、みんな大したことないけどね」と、心の中でジリアンに語りかける。
しかし、サキアスが最後の患者を診察し終えたところで、処置室の方から大声が聞こえた。
「包帯くらい巻いてくれたっていいだろう」
「でもサキアス先生は必要ないと…」
「医者がどう云ったって、怪我した本人が必要だって云ってるだろ!」
「手を離してください…」
おやおや、これは…と腰を上げて、サキアスは救出に向かう。
念の為、引き出しにしまってある手術用のナイフを手にし、サキアスは処置室にいる患者に声をかけようとしてピタリと足が止まった。
「包帯は必要ないとサキアス医師は云ったのだろう?」
絶対零度の低い声。
助け出すまでもなかったか、とサキアスは処置室を覗き込む。
「イテッ! イタタタタタッ! お…折れる!」
ジリアンを背に庇い、ブルース・ローランド参謀補佐官が、自分より大柄な騎士の右腕を後ろ手に締め上げているのが見えた。
見かねてサキアスが声をかける。
「包帯の必要はないが、それ以上やると仕事が増えるのでやめてやってくれ」
「包帯なぞに託けて、私の妻に絡むような奴だぞ」
「つっ、妻?!」
焦ったように、大柄な騎士が後ろを振り返ろうとするが、ブルースにガッチリ抑えられていてそれは叶わなかった。
サキアスが、大柄な騎士に向かって説明するように話しかける。
「ジリアンさんはね、ブルース・ローランド参謀補佐官の奥さんなんだよ。命が惜しかったら、ちょっかい出すのはやめることだね」
「これは冗談じゃないよ」と常々思っていることは、言葉にしないでおく。
参謀補佐官、と聞いた途端に顔色が悪くなった大柄な騎士に、「二度目はないぞ」と絶対零度の声色のまま囁き、ブルースは突き放すように騎士を離した。
「しっ、失礼しましたーっ!!」
叫ぶようにそう云うと、大柄な騎士は振り返りもせずに走り去っていく。
ブルースは、遠ざかる騎士の背中を厳しい目で追ったあと、同じ人物とは思えないほど甘やかな顔を妻に向けた。
「大丈夫か?」
「ええ。来てくださって助かりました」
「手…」
「え?」
笑顔で夫を見上げたジリアンとは反対に、眉根を寄せてブルースは妻の手に視線を落とす。
彼女の右手を取り、手の甲に自分の唇を押し当てた。
「…!」
ぶわり、と頬を染めたジリアンに構わず、「消毒だ」と短く彼女に告げると、ブルースは彼女の手を自分の手で包み、漸く妻に笑顔を見せた。
「申し訳ありませんでした、ブルース殿。早く彼女が貴殿の妻だと認知されれば、こんなこともなかなか起こらないと思うのですが…」
夫婦の間の甘い雰囲気も、ジリアンの赤く染まった頬もまるで気がついていないように、サキアス医師はそう云って頭を掻いた。
「先生のせいではありませんわ!私がちゃんと対処できていれば良かったのです。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
サキアスの言葉に、パッと夫から離れたジリアンが彼に頭を下げた。
ブルースの方は、憮然とした表情でサキアスに目を向けたーーーが、サキアスが手にしているものに目を止め、表情が変わる。
「妻を守ろうとしてくれたことは感謝しよう」
うん?とブルースの視線の先を辿り、サキアス医師は自分の右手にある手術用のナイフに視線を向けた。
「ああ、これ。剣術の覚えはありませんが、これは使い慣れているので、云うことを聞かない患者を黙らせるくらいには役に立ちます」
ニヤリとサキアス医師は笑って、指先で華奢なナイフをくるくると回して見せた。
ブルースも薄く笑顔を浮かべてサキアスを見やる。
確かに使い慣れているようだ。
それに、この医師は以前に諜報部にいたことをブルースは知っている。
諜報部にいたころ、医師に変装して何年か潜伏したのがきっかけで、本当の医師になったという変わり種だ。
剣術ではなくとも、何かしらの武術の心得があることは身のこなしで判る。
医務局にジリアンが勤めるに当たって、ブルースが彼女の身の安全に関しては安心だと思った所以だ。
「私がいない時は、ぜひよろしく頼む」
「まあ、頑張ります」
気の抜けた返事をしたこの医師は、飄々としてなかなかに食えない。
しかし自分の妻を溺愛していると云う評判だ。
それも、医務局にジリアンが勤めても大丈夫だとブルースが判断した理由の一つだった。
「もう帰っていいよ、ジリアンさん。とっくに終業過ぎてるからねぇ」
「はい、先生。有難うございます」
「では失礼する」
嬉しそうに夫を見上げているジリアンの腰に腕を回し、ブルースが軽くサキアス医師に頷くと、二人は部屋をあとにする。
恐らく今日の出来事でも話しているのだろう、ジリアンがブルースに話しかけているところに、彼が妻を見下ろす横顔が甘い。
「ふうん…」
ブルースとジリアンの後ろ姿を見送りながら、サキアスは独り呟いた。
常日頃ジリアンを見ていても気がつくが、所作が美しく、それなりの教育を受けていたのが窺える。
ブルースも立ち居振る舞いから貴族だろうと思っているが、本人たちはあまりそれを表に出したくないように見えた。
「まあ、いいか」と、彼は独言る。
話す気があれば、いずれ本人たちから話があるだろう。
それよりも、早くジリアンがブルースの妻だと、騎士団の中で認知されるようになるといい。
元騎士団副団長だったブルースは、現在は最年少の参謀補佐官として、騎士団の中でもなかなかな有名人だ。
その彼が溺愛する妻がジリアンだと判れば、騎士たちが何か勘違いをして、医務局へ押しかけることも減るだろう。
「さぁて、私も帰るかな」
窓から差し込んでくる夕陽に目を細めながら、サキアス医師が呟いた。
わが家では、愛しい妻が待っている。
◆◆◆
「…? どうしたの?」
ジリアンは、ブルースの眉間に皺が寄っていることに気がついて問いかけた。
先ほど家へ帰り、夕食までの時間を一緒に過ごすことにした二人は、それぞれ着替えたあと居間で会うことにしていた。
ジリアンが居間へ入って行くと、すでに来ていたブルースが振り返り、近づいてきた彼の眉間に皺が寄っていることに気がついたのだ。
怪訝な顔で見上げる妻の顔をじっと眺め、ブルースは深い溜息を吐いた。
そのまま、ジリアンはブルースに抱き込まれる。
「!」
「本当は、このままずっとこの腕の中に君を閉じ込めておきたい。今日みたいなことがあると、心臓がいくつあっても足りない」
「ブルース…」
ジリアンは夫の名前を囁いて、ブルースの背に回した腕に力を入れた。
彼の早い心臓の音で、ブルースが自分を心配する気持ちが伝わってくる。
ブルースの腕の力が少し緩んだところで、ジリアンは夫の頬を手で撫でると、自分から彼の唇に自分のそれを押し付けた。
自分は大丈夫だと安心させるつもりだったのに、すぐに応えるようにキスが深くなる。
二人の息があがって唇が離れると、ジリアンは大好きなコバルトブルーの瞳を見上げた。
「それでも…医務員を辞めろ、とは云わないでしょう?」
「…どうしてそう思うんだ?」
まだ少し未練げに妻の唇に目を遣りながら、ブルースは彼女の質問に質問で応えた。
「それは…」と視線を下げ、ジリアンはブルースのシャツの胸元を弄びつつ考えながら口を開く。
無意識に彼女がそうしていることは判っていながら、その仕草の艶めかしさに、ブルースの身体が熱を持っていくことに彼女はもちろん気がつくはずがない。
「ロベルト先生の意思を尊重して、医務員を勧めてくれたのは貴方だもの。それに…」
「うん?」
「危ない時には、貴方が必ず来てくれるでしょう?」
そう云って微笑んだジリアンは、次の瞬間、夫から激しい口付けを受けることになった。
あっという間に侵入してくる舌に、自分の舌を絡め取られて息も絶え絶えになる。
どうして急にこうなったのか判らず、それでも懸命に夫の口付けに応えるジリアンに耳元に、ブルースの少し掠れた声が囁く。
「いつの間に、こんなに煽るのが上手になったのかな、俺の奥さんは」
「それはどういう…」と、問いかけたジリアンの言葉は、次の口付けに飲み込まれてしまった。
立っていられなくなったジリアンを膝に抱えてソファに坐ると、ブルースは今度はゆっくりとジリアンの唇を堪能する。
「このまま、軽食を寝室に運んでもらおう」
キスの合間に、ブルースが囁いた。
その声にジリアンは我に返って、無理矢理ブルースの胸を押す。
「駄目よ!せっかくイネスが夕食を準備してくれているのに」
ブレークスリー家の料理人の名前を出されて、ブルースは大袈裟な溜息を吐いた。
キャンデール家の料理長、トニオから紹介されたイネスは、女性ならではの細やかさで栄養のバランスをよく考えた食事を用意してくれるので、ジリアンは彼女をとても気に入っている。
まだ熱を帯びた瞳のまま、ジリアンの頬を愛しげに撫で、ブルースはもう一度大きく息を吐いた。
「わかった。でも、あとで煽った責任はとってもらうよ」
ふるりと、身体の芯から甘い疼きがジリアンの中を駆け抜ける。
妻の頬が赤く染まるのを満足げに見つめ、ブルースは彼女に蕩けるような笑顔を向けた。
了
お読みくださり、有難うございました。
現在、ダイアナの恋を執筆中で、そのうち掲載する予定です。
それに伴い、時系列を考慮して「キャンデール家の夜会」の内容を一部変更しています。