20. 夜の庭園 II
よろしくお願いいたします。
「その頃、騎士団長が見舞いに来たので相談したんだ。早速、騎士団長はいくつか就職先候補をその男に持ってきた。お陰で、退院前に次の就職先も決まった……彼には、感謝してもしきれないくらいだ」
最後の部分は、ついブルースの本音が漏れたのだろう。
彼は片頬で微笑った。
だが、次の言葉は苦しげで、ジリアンはついブルースに視線を向ける。
「だが…彼女が消えてしまった」
ブルースは視線を完全に地面に落とし、じっと見つめたまま動かない。
ジリアンもまたブルースを見つめたまま、彼から目が離せなくなった。
「何故消えてしまったのか、訳が分からなかった。退院前に、彼女に交際を申し込むつもりだった。彼女の上司の医師に詰め寄ったが、彼も頑として何も云わなかった。だが、その男の最大の失敗は、そのあと彼女を追わなかったことだ」
ブルースは目を閉じて、しばらく何かに耐えるようにじっとしていた。
やがて静かに息を吐き出すと、ゆっくりとジリアンに視線を向ける。
コバルトブルーの瞳が、力無くジリアンを見つめていた。
「恐くなったんだ。君の消えた理由を知るのが。俺といて、楽しそうにしていた君に安心していた。君と話す楽しさにかまけて、何一つ大事なことを聞いていなかったことに愕然とした。俺に、君を追う資格があるのだろうかと考えてしまった二年前を、死ぬほど後悔した」
ブルースはもう、自分のこととして話していた。
二年前、考える前に行動すべきだったのだ。
激情のままに彼女を手を尽くして探し、自分の気持ちだけでも伝えていれば。
一度理由を考え始めてしまったら、自分自身をがんじがらめにして、気がついたらもう身動きが取れなくなっていた。
視線を下げたブルースに、ジリアンは堪えきれずに手を伸ばした。
彼女が触れた途端、ブルースの腕がビクリと震え、視線を上げると菫色の瞳とぶつかる。
「ごめんなさい。カタリナ様のお話があまりにショックで…。もうあの場所には居られないと思ってしまったのです。ブルース様が傷つくとは思いもしませんでした…」
「それは、俺と婚約したとかいう…?」
ブルースは僅かに瞳を見開いた。コクリ、とジリアンが頷く。
頷いたあと、自分の気持ちをついに曝け出してしまったことに気がつき、ジリアンは動揺した。
しかし、もう口から溢れてしまった言葉は元には戻らない。
ここまで云ってしまったのだから、いっそのこと最後まで云ってしまえ、と心の声がジリアンに囁く。
「ええ。あの時にブルース様をお慕いしているのだと気が付きました。ですが、ご婚約されたと聞いて、もうお側には居られないとーーー」
「ジリアン!」
次の瞬間、ジリアンは強く締め付けられて息ができなくなった。
それがブルースの腕の中で、思い切り抱きしめられていることに気がつくまで少し時間がかかった。
力一杯抱きしめられていて息ができず、苦しくなったジリアンはブルースの胸を叩く。
ブルースが我に返り、腕の力を緩めると、ようやくジリアンはほうっと息を吐いてブルースの顔を見上げた。
それを待っていたかのようにブルースの顔が降りてきて、温かいものがジリアンの唇に触れる。
軽く啄むような口付けは、すぐに深いものとなった。
唇をノックされて薄く開くと、ブルースの熱い舌がジリアンの口内に侵入してジリアンの舌を絡めとる。
角度を変えて何度も繰り返す口付けに、ジリアンは息も絶え絶えになった。
「ジリアン、鼻で息を吸うんだ」
ほんの少し唇が離れた間にブルースが囁く。
唇の形で、彼が微笑ったのが判った。
とはいえ、男性と交際したこともなく、口付けも初めてのジリアンは、ブルースの熱烈な口付けに翻弄され続けた。
ブルースがジリアンの唇を存分に味わい、ようやくジリアンを解放したころには、彼女はぼうっとして潤んだ瞳で彼を見上げていた。
月明かりの中で赤くぽってりしたジリアンの唇を見つめ、ブルースは軽く眦を下げて「順番が逆になってしまったな」と呟いた。
ブルースはそのまま跪き、ジリアンの手を取った。
真摯なコバルトブルーの瞳が、彼女の瞳をひたと見つめる。
「ジリアン、二年前に云いたかったことだ。愛している。俺の剣にかけて、生涯君を守ると誓う。どうか俺の妻になって欲しい」
騎士の礼に則った求婚に、ジリアンの瞳から熱い雫が落ちていく。
そのまま彼女は、ブルースに花のような笑顔を向けた。
「私も愛しています。ええ…喜んで!」
ジリアンの答えにブルースは蕩けるように微笑み、ぎゅっと力強く彼女を抱きしめた。
先ほどのような我を忘れるほどの力ではなく、しかしジリアンの温もりを改めて確認するような抱擁だった。
どれくらいそうしていただろうか…。
二人の体が離れ、さっと入り込んだ夜気にジリアンは寂しさを覚え、羞恥に俯いた。
夜で判りづらいだろうが、頬が熱くなっているのが自分で判る。
「部屋に送って行こう」
降ってきた声に顔を上げると、ブルースが困ったように見つめ返してきた。
「そんな顔をされたら、俺の理性が保たなくなる」
「…!」
ジリアンは目を瞠り、頬がさらに熱くなっていくのを自覚した。
視線を下げて、かろうじて声を絞り出す。
「有難う…ございます」
ブルースは何か云いた気だったが、言葉の代わりに腕を差し出し、二人は屋敷に向かって歩き出した。
心地よい夜風が、二人の熱を少しずつ冷ましていく。
ふわふわした心地で歩いていたのが、屋敷が近づくにつれ、少しずつジリアンに冷静さが戻ってきた。
「私…」
屋敷と庭を繋ぐ扉の手前で、ジリアンは立ち止まった。
視線を上げないまま、思い切って言葉を繋ぐ。
「私にブルース様の奥方が務まるでしょうか。爵位があると云っても子爵ですし、ずっと看護師をしていて、キャンデール家のような名家にはーーー」
「君は俺がキャンデール家の者だから、俺を遠ざけようとするのか…?」
怒ったような声に、ジリアンの視線は自ずと上がる。
燃えるようなコバルトブルーの瞳がジリアンを見下ろしていた。
ブルースの態度に言葉を無くしたジリアンの顔を見つめ、ブルースは大きく一つ息を吐いた。
気持ちを落ち着かせるようにもう一度大きく息を吐いて、ブルースはジリアンと向かい合い、その肩に手を置いた。
その眼差しは穏やかなものに変わったが、その中には決然としたものがあった。
「カートがいる限り、俺がキャンデール伯爵になることはない。万が一、君がそれを望んでもだ。君がそれでいいと云ってくれるなら、俺は騎士団ではブルース・ローランドのままでいいと思っている。それに…」
ぐっとジリアンの肩を掴んだ手に力を入れ、ブルースは不敵に笑った。
「君の気持ちを知った今、俺が君を手放すことはあり得ない」
言葉にこそならなかったが、言外に「諦めてくれ」と聞こえた気がして、ジリアンは再び顔が赤くなっていくのが判った。
そのまま見つめ続ける菫色の瞳に、ブルースは大きく頷いた。
名家に生まれながらそれに甘えず、彼は自分で自分の道を切り拓いてきた。
そのことに誇りを持ち、どんな時も前を向いて生きている。
そういうブルースだからこそ好きになったのだ。
キャンデールだろうがローランドだろうが、ブルースであればいい。
ジリアンはそのまま、ブルースに向かってにっこりと微笑んだ。
「判りました。離さないでくださいね」
「当たり前だ。君が不安にならないよう、できるだけ言葉にするようにしよう。思うことがあったら、我慢せずに云って欲しい」
「はい」
そう云ってくれる気持ちが嬉しい。
自分もこれからはちゃんと言葉にして伝えていこう、とジリアンはそっと心の中で決心した。
再び、二人は腕を組んで歩き出す。
扉を開ける前に、ブルースが囁いた。
「何も心配ない。君を呼び寄せたのはカートだからな」
視線を前に向けたまま、ジリアンは軽く息を呑んだ。
それは驚きであるとともに、どこか納得する言葉だった。
お読みくださり、有難うございました。
ようやく、気持ちが通じ合いました。^^
あと5話ほどで、完結の予定です。