2.キャンデール伯爵
よろしくお願いいたします。
「私はコンラッド・キャンデール。君の患者だ。よろしく頼むよ」
その人物が真っ直ぐにジリアンを見て静かに口を開いた。
貴人を直接見るのは不躾とされているので、視線を下げながらおずおずと近づいたジリアンは、顔を俯かせたまま大きく目を見開いた。
キャンデール? あの、キャンデール家なの?
キャンデール伯爵家は、王都近郊の港湾都市で海運業を展開し莫大な富を築いている。
その上、先代の時に王都の北西に位置する鉱山を所有して、サファイヤを主とする宝石の産出と加工を手がけてさらに財を増やした。
先代の伯爵は先年亡くなり、その嫡男が無事に伯爵位を継いだことも、この国の者なら大抵知っていることだ。
それでは、今目の前にいる人が、キャンデール伯爵家の当主様−−−
キャンデールの名を聞いたら妹が尻込みするのでは、と医師の兄は思ったのかも知れず、またしても自分の目で確かめて…という兄のこと付けを思い出したが−−−
(それでも、心の準備をする時間くらい欲しかったです…。)
ジリアンは心の中で、そっと兄に恨み言を漏らす。
迎えの馬車には家の紋章などはなく、目的地への手がかりは何もなかった。
意を決して、ジリアンは綺麗に膝を折った。声が少し震える。
「ジリアン・マルレーネです。ジリアンとお呼びください、伯爵様」
滅多にお辞儀などしないが、末席ながら貴族の端くれとして最低限の礼儀は学んでいた。
本当に、滅多に使うことのない礼儀とはいえ、高位貴族を前にする時には役に立つ。
伯爵は満足げに頷いた。
「畏まらずに、気を楽にして。顔を上げてくれ」
温かみのある声音に釣られ、ジリアンはそっと顔を上げた。
伯爵の笑顔に、彼女は自分でも気が付かないうちに止めていた息を吐く。
歓迎されているようだ。
美しく切り揃えられた淡い金の髪と空色の瞳。
若き伯爵の貴公子然として整った面立ちに、何故か既視感を覚える。
落馬して肋骨を骨折し、利き腕も亀裂骨折したと聞いていた伯爵は、刺繍が施されたガウンの内側に右腕を吊っていた。
コンラッド・キャンデール伯爵は、窓を背景に扉を開けた正面、重厚感のある執務机に坐り、怪我のためこのままで失礼する、と丁寧に付け加えた。
それから、と続けて伯爵が言葉を続ける。
「ジリアン嬢、一つ聞いておきたい。君は子爵家の人間だろう。どうして看護師をしているのだね」
看護をするのは妹だと、恐らく兄から話を聞いているのだろう。
貴族の令嬢が働くことは珍しいが、全くないわけではない。
特に、ジリアンの家のような場合には。
伯爵の単刀直入の質問には純粋な興味が感じられ、ジリアンも率直に応える。
「伯爵様、どうぞジリアンと呼び捨てになさってください。マルレーネ家は三代前の先祖が医療で功績を挙げて爵位を賜りました。それ以前より、わが家は医道の家です。父も医師ですし兄もそうです。私も何か人の役に立つことがしたいと思い看護師になりました」
たまたま功績を挙げて賜った子爵位なので所領もなく、マルレーネ家の人間はそれぞれ職を得て身を立ててきた。
ジリアンが普通に子爵令嬢として生きたいと望んだとしても、それなりに裕福なマルレーネ家は困りはしないのだが、王都の病院で医師として働く父と、実家で薬師として市井の人々のために働く母を見て育ったジリアンは、自分も何かしら医道の道で人の役に立ちたいという気持ちが育って行ったのだった。
マルレーネの親戚には医師や薬師も多く、社交界とは縁遠い生活をしてきたので、あると云うだけの爵位には大きな意味はない。
ここトルディア国の病院はどれも王立で、貴族も平民も平等に利用することができた。
とはいえ、貴族はたいてい病院を嫌がり滅多に入院などしない。
それは高位貴族ほど顕著で、彼らは可能な限り自宅療養を望んだ。
どうしても入院する必要のある貴族の中には、身の回りの世話を平民の看護師に任せることに難色を示す者もいた。
そういった時には、ジリアンのような看護師は重宝されるのだ。
彼らはジリアンのような看護師を紹介されると、貴族が働くのか、とまず驚き、下位貴族と判ると鷹揚にジリアンたちに身を委ねた。
「なるほど。子爵令嬢の身で看護師になるのは、なかなかに大変だったろうな」
「いえ、そのようなことは…」
労いの言葉をかけられ、ジリアンは驚きに目を瞠りそうになる。
それを悟られないように、曖昧に微笑んで視線を下に落とした。
キャンデールといえば、この国でその名を知らない者はいないくらい富み栄えている名家である。
そんな家の当主が、貴族でありながら看護師をしているジリアンを蔑むどころか労いの言葉をかけるなんて。
確かに、看護師は平民出身が多いし、そもそも貴族の令嬢が職業婦人となることに眉を顰める貴族たちも少なからずいる。
だがジリアンは、看護師という職業が好きだし誇りを持っていた。
伯爵様とは上手くやっていかれそうだと、ジリアンはほっと心の中で安堵の息を吐いた。
「本当は、もうしばらく入院していなくてはいけなかったのだが、大きな取引が控えていてね。無理矢理退院させてもらった」
言い訳めいたことを云いながら、伯爵は苦笑する。
忙しい身だろうに、大人しく入院治療を受けていたことの方がジリアンには驚きだった。
肋骨の骨折と腕の亀裂骨折ならば、重症でなければすぐに退院して医師を雇い、自宅療養に切り替えるのが貴族の患者の常だった。
聞けば、キャンデール伯爵は二週間ほど入院したという。
肋骨骨折による内臓の損傷の有無などもしっかり調べ、締め付けすぎないように固定して過ごしたはずだ。
腕の亀裂骨折も、利き腕であることを考慮して、ある程度のきちんとした治療は受けたことだろう。
できることなら大事をとって、もう二週間くらいは入院をしていても良かったが、無理矢理退院したというほど短い入院期間でもない。
それでも、一介の看護師に退院した理由まで述べる律儀さに、ジリアンは好感を持って伯爵に微笑みを返す。
「身内が入院したことがあってね、病院で療養するのが一番なのは判っているのだが、準備を進めなくてはならなくて助っ人を頼んだのだ」
伯爵はそう云うと、部屋の隅に目を遣った。
室内には今まで伯爵と、ジリアンと部屋に控えている若い執事しかいないとジリアンは思っていたが、伯爵の言葉に応えるように、陽が翳った部屋の隅の暗がりから人影が近づいてきた。
明るい所へと歩いてくる人影の姿がはっきりするにつれ、ジリアンの目が大きく見開かれる。小さく空いた口から声が漏れそうになり、慌てて口に手を当てた。
お読みいただき、有難うございました。