19. 夜の庭園 I
よろしくお願いいたします。
その日の夕食のあと、部屋に引き取ったジリアンは神経が昂って暫く眠れそうもなかった。
薬草園に向かう途中で、ブルースから聞いた話の衝撃がまだ残っていた。
(ブルース様が騎士を辞められていたなんて…。)
そしてもう一つ。
四阿でブルースから話を聞いてからずっと気にかかっていた、指輪が返ってきた、という話。
指輪が紛失していた話を聞いてから、自分が盗んだと思われていたのでは…と、気になりながらも聞けずにいた。
だが、それを即座に否定したブルースは、何らかの手がかりを得て自ら指輪を取り戻したのだ。
それを聞いて、どんなにほっとしたことか。
自分の知らないところで解決したことも嬉しかった。
ジリアンは自分の左手で右手の指先をなぞった。
ブルースが唇を落としたところが、まだ熱を持っているように思える。
ブルースと組んだ腕の温もり。低い、落ち着いた声。語られた言葉。
心の中では、ブルースの側に居られることを喜んでいる自分がいた。
でも、とジリアンは口に出して自分を戒める。
キャンデール伯爵の腕と肋骨は間もなく完治する。
ブルースは騎士団の参謀室へ戻り、自分もジョサイアの病院に帰ってまた日常が戻ってくるだけーーー
胸の痛みは、気が付かないふりをすれば、いつか日常に流されて薄れて行ってくれるだろうか。
ふと、レスリー=アンの顔が浮かび、ジリアンの顔にようやくうっすら微笑みが浮かんだ。
(薬草園のこともあるし、レスリー=アン様と連絡を取り合うのもいいかもしれないわ…。)
そんなことを思いながらジリアンがカーテンを開けると、窓の外の庭園は月明かりが出ていて気持ちよさそうに見えた。
寒い季節ではないし、少し夜風に吹かれて庭園を散歩するのもいい考えに思えて、そのまま誘われるように部屋を出て庭園に向かった。
外に出ると、少しひんやりした空気が気持ちいい。
見上げるとちょうど天空に満月に近い月がかかって、ジリアンを見下ろしていた。
明るい月の光に、庭園が昼間とは違う幻想的な景観を醸しだしている。
そぞろ歩きながら、ジリアンは思い直す。
やはり、レスリー=アン様ともやり取りはしない方がいいかもしれない……。
ブルースだって、いずれ婚約や結婚をするかもしれないのだ。
何も知らない彼女からそんな話を聞いてしまったら、果たして自分は耐えられるだろうかーーー
夜の庭園を見回して、薬草園のある方角に目を向ける。
来週にはもうここには居ないかもしれないと思うと、胸が締め付けられるように辛い。
それは、思いがけず楽しい想い出ばかりの庭園や屋敷を離れるからだけではなく、ここで再び出会ったブルースとの別れが迫っているからに他ならない。
少しクセのあるダークブロンドの髪と、コバルトブルーの瞳の面影が浮かぶ。
消えてくれるものなら消えてくれた方がいい、そうずっと思っているのに、ブルースへの思いは一向に消えてくれず、ここ最近は却って大きくなってしまっている……。
騎士爵かと思っていたブルースは、王国でも有名なキャンデール家の子息だった。
彼はあまりにも遠い存在なのに、ここ最近の彼の言動は親しげで甘い。
きっとそれは、昔世話になった看護師にも気遣わせないための彼の優しさなのだろう。
ジリアンはこの二年の間、ブルースのことを忘れようとして忘れられず、ついにはブルースを諦めることを諦めたのだった。
それは、もう二度とブルースには会えないと思ったからだったのだけれど。
再び会ってしまった今、ブルースはやはりしっかりと自分の心の中に棲んでいることをジリアンは感じていた。
忘れられないのなら無理に忘れようとせず、自分の心が満足するまで、ブルースを好きな気持ちを自分に許そう。
そんな気持ちがジリアンの心に湧いた。
たぶん、ここを離れたら、もう二度とブルースに会えることはないから。
何も望まない。ただ、ブルースを好きでいるだけ。
それを自分に許そうーーーもしもそれが、一生涯続くものだとしても。
ジリアンはじっと月を見つめていたーーー心の奥底まで月の光が届いているかのように。
心なしか、月の光が柔らかく彼女を見下ろしていてくれる気がした。
「綺麗な月だな」
後ろから声がして、ジリアンの背中がビクリと動いた。
すぐにその聞き覚えのある声に気がついて、心が震える。
ジリアンの横に並んだ人影が彼女を見下ろしていた。
その視線を感じたまま、なおもジリアンは月を見上げていた。
「少し話がしたい。いいか?」
穏やかな声が降ってきた。
ジリアンはやっと月から視線を移し、ブルースを見上げる。
「はい」
澄んだ菫色の瞳が、真っ直ぐに彼を見上げていた。
彼は腕を差し出すと、庭園の中央にある噴水の側に設えてあるベンチへと彼女を誘った。
背もたれのある木製のベンチは広く大きい。
そのベンチにまずジリアンを坐らせて、ブルースも隣に坐った。
ちらりと彼女の横顔を見て、ブルースが口を開く。
「失敗ばかりの男の話だ。聞いてくれるか?」
ジリアンは黙って頷いた。
彼女が頷くのを認め、ブルースは視線を正面に戻して口を開く。
「その男は騎士だ。いや、元騎士だった。最初の失敗は、新人の部下が魔獣に襲われたことに気づくのが遅れて、庇った拍子に怪我を負ったことだ」
それって…。
ジリアンは目を瞠って、神経を耳に集中させた。
ブルースは、伏目がちに前を見たまま言葉を続ける。
「だがそれは、必ずしも失敗とは云い切れない。怪我をしたせいで、入院した病院で菫色の瞳をした令嬢に再会した」
(再会…?)
弾かれたようにブルースを見ると、穏やかなコバルトブルーの瞳がジリアンを見返していた。
僅かに口の端を上げると、ブルースは視線を正面の噴水に戻して言葉を繋ぐ。
「彼女は気がついていないだろうが、その男は彼女を知っていたんだ。数年前のデビュタント・ボールで彼女を見たことがあったから」
デビュタント・ボール…。
唇だけ動かして想い出そうとするジリアンを待つように、少しの間沈黙が流れた。
ブルースも当時を想い出していたのかもしれない。
デビュタント・ボールには、兄のサミュエルにエスコートされて参加したはずだ。
兄とダンスを踊り、国王陛下にデビュタントの挨拶をして祝福を受け、それから…?
「あるデビュタントの令嬢が倒れて騒ぎになった。その男も警備としてその場に居たのだが、騒ぎがあった時は少し距離があって遠目に見ていたんだ」
そう云われてジリアンも想い出した。
デビュタントとしての役目をほぼ終えたので、もう帰ってもよい状態になり、サミュエルが少し知り合いに挨拶してくる、とジリアンの側を離れた間に起こったことだ。
すぐ側にいた令嬢がふらついて、そのまま倒れてしまった。
真っ青な顔色で、呼吸が上手くできないようだった。
緊張のせいなのか、過呼吸だと見て取ったジリアンはすぐに彼女に駆け寄り、側にいた召使いたちに水とクッションを持ってくるように指示した。
倒れた令嬢をゆっくりと抱き起こして前屈みにさせ、彼女に話しかけ続けた。
幸い、すぐに顔色を取り戻したのだけれど…あれを見ていたということなのだろうか?
「近くに駆け寄ったが、黒髪に菫色の瞳をした令嬢が、テキパキと指示を出して大騒ぎにもならずに済んでいた。彼女も白いドレスを着ていたから、デビュタントだったのだろう。誰も何もできずに遠巻きに見ているだけだったのに、彼女は鮮やかにその場を収めて清々しいほどだった。その男は、彼女の凛とした姿がずっと忘れられずにいた」
ブルースは、当時を思い出してやや目を細めた。
場を見守っているとジェレミーが近づいてきて、「天使のようなご令嬢だな」と話しかけてきた。
「ああ」と短く応えただけで、ずっと彼女から目が離せなかった。
あの時に抱いた感情が何なのか判らず、でもずっと彼女の姿を忘れられなかったのだ。
恐らく、あの時から俺はーーー
ブルースの言葉に、ジリアンはほんのり頬が熱を持つのを感じた。
デビュタント・ボールで悪目立ちしてしまったと、あの夜の帰りの馬車の中で、ジリアンは兄に溢してしまったのだった。
「リアは正しいことをした。僕はリアのことを誇りに思うよ。それに、元々僕たちは社交界には縁がないのだから気にする必要もないさ」と、兄は慰めてくれた。
それもそうだ、と納得したのだったが、あの時のことをそんな風に捉えてくれていた人がいたなんてーーー
「一目で、あの時の彼女だと判った。額に置かれる手と美しい菫色の瞳に、その男が恋に落ちるなど一瞬だ」
続くブルースの言葉に、さらに頬がじわじわと熱くなっていくのを感じる。
ブルースの方を見ることもできず、ただ正面の噴水を見つめていると、ジリアンの耳に小さな溜息が聞こえた。
少し躊躇うように間が空いたあと、ブルースが静かに言葉を続ける。
「だが間が悪かった。怪我をした左腕が回復しなければ、騎士を辞めざるをえなかったからだ。愛を乞うにも、無職ではな」
ブルースの口元に、自嘲するような笑みが浮かんだ。
しかし前を向いているジリアンは、それに気が付かない。
他の男の話として語られる話は、間違いなくブルースのことなのだろうとジリアンは気付いていた。
たとえ無職となったとしても、出自はあのキャンデール家なのだ。
何も困らないはずなのに、それを潔しとしないとしないところがブルースらしい。
もともとそう口数の多くないブルースがこれだけ話をするのだから、ジリアンは口を挟まずに最後まで聞こうと思っていた。
お読みくださり、有難うございました。
後半部分は続けて投稿します。