17. 伝えたいこと
よろしくお願いいたします。
「サミュエル、妹をエスコートしてくれ。俺はジリアンを引き受けよう」
その場を見守っていたブルースが、サミュエルに声をかけた。
サミュエルは笑顔で頷き、レスリー=アンに腕を差し出す。
「もちろん、喜んで。キャンデール伯爵令嬢、参りましょう」
「…はい」
心持ち俯いて頬を染めたレスリー=アンが、サミュエルに腕を取られて歩き出した。
ブルースがジリアンに腕を差し出し、甘やかに微笑む。
まともにその笑顔を見てしまったジリアンの心臓がひっくり返りそうになり、急激に頬が熱くなっていくのを感じた。
赤くなったのが恥ずかしく、ジリアンは慌てて顔を逸せて目を伏せる。
その様子を、さらに嬉しそうに目を細めてブルースが見ていたのをジリアンは知らなかった。
「ジリアン」
歩きながら呼びかけられてブルースを見上げると、ブルースは正面を向いたまま言葉を繋げた。
「あの指輪は取り戻した」
そう云われて、何のことなのかジリアンにはすぐに判った。
コクリ、と頷く。
この間のブルースとのやり取りから、ジリアンはどうしても心に引っ掛かっていることがあった。
それを言葉にして聞いてみてもいいだろうか…。
正面に視線を戻し、ジリアンは慎重に言葉を選ぶ。
「私もあれから考えました。あの時に…ブルース様の知らない間に、あの指輪が失くなったのなら、私が盗んだと疑われたのではないかと…」
「ありえない」
即座に答えるブルースに、ジリアンは目を瞠る。
「どうしてそう思われるのです?」
ブルースを見上げてそう問いかけるジリアンに、ブルースは立ち止まり、組んでいる腕を外してその手を持ち上げ、指先に唇を落とした。
「この手は、そんなことをする手ではない。君のその澄んだ瞳も。人を見る目はあるつもりだ。それに…俺が指輪をしまうところを見ようとはしなかっただろ」
では、気がついていたのだ。
ブルースが指輪をしまうところを、見ないようにしていたことを。
病院に入院する患者の中には、看護師に物を盗まれたと難癖をつける者がごく少数だがいた。
本人の思い違いだったり、思い通りに動かない体にイラついた腹いせだったりが原因で、大抵の場合は大ごとにならない。
しかし誤解を避けるために、看護師たちは患者の持ち物には触れないよう充分注意し、その指導も受けていた。
ジリアンも、意識して患者の物には触れないよう、誤解を受けないように日頃から気をつけている。
特に価値のある物は、あることを知らない方が身のためなのだ。
もしくは、できれば第三者の目があるところでだけ存在を知っている方が誤解を受けずに済む。
騒ぎにもなっていなかったので、あの指輪が紛失していたこともごく最近まで知らずにいたが、失くなっていたとなると自分が真っ先に疑われたのではないかとジリアンは気にかかっていた。
それを即座に否定したブルースの言葉に、ジリアンはほっとした。
ブルースの信頼が、じわじわと胸の中を温めていく。
再び歩き出し、顔は前を向いたままブルースは続ける。
「あの日、指輪を見ていた時にパヴェル伯爵親娘が見舞いに訪れた。申し訳程度のノックで入ってきたので、仕方なくそのまま棚に出したままにしていたんだ。彼らを送りがてら俺は機能回復訓練に向かった。そして帰ると、指輪が箱ごと消えていた。つまり、その間に誰かが持ち去ったということだ。騎士は、どこに何があるかを正確に把握するよう訓練を受けている。だから、いつ指輪が失くなったのかは間違いない」
「指輪はしまわなかったのですか?」
「パヴェル伯爵親娘のいる前で指輪を仕舞うことは、最良の策とは云えない。だが、彼らはなかなか帰ろうとしなかったから、一緒に部屋を出るしかなかった。彼らは確かに、俺と共に部屋を出た。にも関わらず、君はパヴェル伯爵令嬢と会ったのだろう?」
「ええ。シーツの交換にお伺いした時に。お一人だったので、不思議に思ったのですが…」
「忘れ物をしたとでも云って、戻って来たのだろう。あの日は、その他に見舞客はいなかったから、彼らが何か関係しているのではと思っていた。が、君の話を聞くまでは確信が持てなかったんだ」
ジリアンと話をしたあと、ブルースはその日のパヴェル親娘の様子を何度も思い出した。
父親は媚びるように愛想笑いを浮かべて、意味のない見舞いの言葉を長々と話すだけだった。
娘のカタリナは父親の後ろで大人しくしているように見えたが、時々視線が棚の上の小箱に向かっていたことにブルースは気が付いていた。
あとで部屋に舞い戻り、小箱に入った指輪を盗んで行くほど豪胆なことをして退けるとは予想がつかなかったが。
歩みを止めぬまま、ブルースの声が囁きに近くなった。
「俺は二年前に騎士を辞めた」
「えっ…」
「左で剣を満足に扱えないのは死に直結する。後悔はしていない」
「そうですか…」
お互いに前を向きながら囁くように交わす会話だったが、ジリアンは内心でかなり動揺していた。
ブルースが騎士を辞めていたとは−−−。
「だが騎士団には残り、今では参謀室勤務だ」
「参謀室…」
「前線で剣を振るうより、頭脳戦に切り替えたというところだ。剣の腕はさほど問われない」
あっさりとした口調でブルースは話しているが、それなりに葛藤はあったのだろうとジリアンは思った。
剣技で優れていなければ、騎士団の副団長にはなれるはずがない。
しかし、同情は彼の望むものではないだろう。
かける言葉が見つからず、ジリアンは黙ったまま歩みを進める。
ここで口調が変わり、ブルースがこちらを見て話しかけたのが気配で判った。
「ジリアン、カートが治ったら、君はジョサイアの病院に戻るのか?」
現在ジリアンの籍がある病院の名をあげられ、ジリアンは思わずブルースを見上げた。
真摯な眼差しが返ってきて、息が止まりそうになる。
よく考えれば、キャンデール家の人間ならば、雇われた看護師がどこの病院に勤務しているのかを知っていてもおかしくはないのだ。
視線を外し、ブルースに気付かれないようにそっと息を吐くと、ジリアンははっきりと云った。
「ええ、戻ります。ジョエル先生には無理を云いましたから、埋め合わせをしなければ」
「ジョエル医師…?」
ピクッとブルースが反応する。
考えを巡らせるように少しの沈黙のあと、彼は小さく頷いた。
何かを振り払うように頭を振って、静かな口調で話し出す。
「俺は、つい最近まで君がジョサイアに居ることを知らなかった。あの病院を辞めたことは判っていたのだが…」
「退院までお見送りできずに、本当にすみませんでした」
心からの言葉がジリアンの口から溢れた。
勤務時間の許す限り、元気になった患者にお祝いを云って見送る。
それは看護師として、ジリアンが必ず行ってきた儀式のようなものだった。
このために看護師をしているのだ、と気持ちを新たにする瞬間でもある。
ブルースの時には、それがどうしても出来なかった。
理由はどうあれ、ジリアンの中では責任を放棄したに等しい。
「理由は…教えてもらえないのだろう?」
ブルースの言葉に、ジリアンは前を向いて力なく首を振った。
今さら、何をどう話せと云うのだろう。
すべて二年前に終わったことだ。
軽い溜息と「まあ、いい」という呟きが横から聞こえ、会話は終わったとジリアンは感じた。
だが、ブルースからの次の言葉で、ジリアンは思わず目を瞠って彼を見上げる。
「今、こうして君に会えることが、何より大切だからな」
ジリアンはブルースを見上げたことを後悔した。
コバルトブルーの瞳が熱を帯びて、ジリアンを見つめている。
ジリアンの心臓が跳ね上がり、じわじわと頬が熱くなっていくのを感じたその時、ヘンリーに先導されて前を行くサミュエルとレスリー=アンが足を止めた。
レスリー=アンの声が響く。
「ここですわ」
お読みくださり、有難うございました。