16. 往診
少し長くなりましたが、よろしくお願いします。
サミュエル・ジャクソンは、最初の頃は二日に一度、現在では数日に一度の頻度でコンラッド・キャンデール伯爵を診察しに訪れている。
いつも通されるコンラッドの執務室に案内されると、机に坐ったコンラッドの横にジリアンが控えていた。
サミュエルの顔を見て、ジリアンの顔に笑みが浮かぶ。
サミュエルは診察用の鞄をソファの横に置き、コンラッドへと近づいた。
「コンラッド様、お身体の様子はいかがですか」
「ああ、かなり良くなったようだ。サミュエルの云った通り、ある時点から劇的に回復するものなのだな」
「それは何よりです、伯爵。リア、変わりはないかい?」
「大丈夫よ、サミー。心配性ね」
コンラッドは心の中で頷いた。
この兄妹は仲が良い。
それに、見た目もあまり似ていない。
サミュエルのはしばみ色の瞳と合い、コンラッドはそのまま視線を彼の鳶色の髪へと向けた。
背中の中程まで伸びている髪は、首の後ろで黒い柔らかな布で結ばれている。
愛称で呼び合うやり取りは、兄妹だと知らなければ、恋人同士だと思いかねない。
前回サミュエルが診察に来た時には、ブルースを紹介した。
ブルースにはそう伝えたのに、弟はサミュエルがマルレーネ姓であり、ジリアンの兄だと自分で確認していたのを想い出して、コンラッドは口元を綻ばせた。
その日レスリー=アンはダイアナのところへ行っていたので、今日はあとで妹も紹介しておこう、とコンラッドは考えていた。
サミュエルは往診の際に着る白いコートを脱ぎ、シャツの袖を捲った。
コンラッドをソファに浅く腰掛けさせ、まずはひびの入っていた肋骨の辺りに軽く手を当てる。
コンラッドの表情に変化がないか注意しながら、患部を丹念に指で辿っていく。
もう痛みはすっかりないようで、サミュエルは軽く安堵の息を漏らした。
腕は、ジリアンに手伝わせて持ち上げたり、回したり、肘を曲げてみたり、回復具合を慎重に判断する。
筋肉が落ちて腕は少し細くなったものの、思ったより回復が早く、来週には診察を終了しても良いように思える。
ジリアンも同じように感じているらしく、兄妹は顔を見合わせて頷いた。
「コンラッド様はご壮健ですね。もうすぐ往診も終わりにできそうです。肋骨はそのまま自然に任せていて大丈夫ですが、右腕はお伝えした機能回復運動を続けてください。お一人ではできないものも増やしますので、やり方をリアに伝えておきます」
サミュエルは、そうコンラッドに話しかけながら捲っていた袖を直した。
妹に視線を移して、おや、と軽く目を見開く。
自分を見ている兄の視線に気がついて、薄く微笑ったジリアンの瞳はどこか哀しげだった。
診察の際には召使いを下がらせているので、コンラッドは衣服を自分で整えた。
通常は執事に任せることも多いが、キャンデール家では自分の身の回りの事は自分でできるように教育される。
ブルースほどには剣は使えないが、コンラッドも自分の身を守れる程には剣も訓練していた。
利き腕の筋力が戻ってきたら、ブルースに剣の相手をしてもらうのもいいかもしれない。
コンラッドがそんなことを考えていると、タイミング良く運ばれてきたお茶のワゴンと共にブルースが執務室に入ってきた。
上背のあるブルースの後ろからだとすっぽり隠れてしまい、クリーム色のデイドレスの広がった裾だけが見える。
レスリー=アンが、少し緊張した面持ちでブルースの後ろから顔を覗かせた。
ブルースが妹を振り返り、コンラッドに視線を戻して話しかける。
「レスリーをサミュエルに紹介したいかと思って連れて来た。一緒にお茶に参加してもいいだろう?」
「ああ、もちろん。気が利くな」
コンラッドは妹に視線を向けて軽く頷くと、レスリー=アンがおずおずとブルースの背から現れてコンラッドに近づいてきた。
「サミュエル、妹のレスリー=アンだ。レスリー、私が世話になっている担当医のサミュエル・ジャクソン先生だ」
「レスリー=アン・キャンデールと申します。ジャクソン様、コンラッドお兄さまが大変お世話になっております」
レスリー=アンは、美しくドレスの裾を摘んで膝を折った。
一介の医師に、貴族の令嬢が膝を折ることなど滅多にない。
サミュエルは軽く目を瞠って、目の前の伯爵令嬢を見下ろしていた。
彼は何かを云いかけたものの途中で止まり、サミュエルを見上げている紺青の瞳はもの問いたげに瞬いた。
思い直したように、サミュエルは改めて口を開いた。
「サミュエル・ジャクソンです、キャンデール伯爵令嬢。伯爵はとても優等生の患者なので、医師として大変助かっています。思ったより早くご回復されそうですよ」
胸に手を当てて礼をとり、サミュエルはレスリー=アンに柔らかく微笑んだ。
頬を薄く薔薇色に染めたレスリー=アンは目を伏せ、有難うございます、と小さく応える。
お茶の準備が整ったところで一同はソファへ移動した。
会話の主導はコンラッドで、彼ががここ数年進めている隣国との交易のことやキャンデール家の鉱山で採掘されるサファイアの話など、サミュエルとジリアンにとっては目新しく興味の惹かれる話題ばかりだった。
彼はまた弟や妹に話を振り、ブルースは兄のコンラッドと共に外国語が堪能なこと、レスリー=アンが思いがけず鉱石の種類にも造詣が深いことを巧い具合に引き出していく。
サミュエルやジリアンに対しても、病院の設備やそこでの作業などに水を向け、病院にある薬草園について話をしていた時だった。
コンラッドは今思いついた、という風に、唐突にレスリー=アンに向かって口を開いた。
「レスリー、サミュエルに薬草園を見せたらどうだろう?」
「薬草園があるのですか…!」
サミュエルが目を輝かせて反応する。
その様子に、キャンデール兄弟はクスリと笑った。
予想通りの反応だったからだ。
コンラッドがジリアンとサミュエルを交互に見やり、云った。
「やはり、な。ジリアンも同じ反応をしたよ」
「サミー、素晴らしい薬草園なのよ!」
ジリアンが目を輝かせてサミュエルに告げると、それはぜひ、とサミュエルはコンラッドに向かって頭を下げる。
「いや、薬草園はレスリーが世話しているものなのだよ」
面白そうに目を細めてコンラッドが告げると、サミュエルは驚いたようにレスリー=アンに目を向けた。
頬を赤らめたレスリー=アンは、少し困ったように微笑んだ。
「お気に召していただけるものかどうか…。」
頼りなげな視線は、無意識のうちに助けを求めるようにジリアンに向けられる。
ジリアンが満面の笑顔で大きく頷くのを認めると、ようやくレスリー=アンは嬉しそうに微笑み返した。
その微笑みを見て、サミュエルは目を細めた。
お茶がひと段落したところで、薬草園を見学しに行くことになった。
もう自分で書き物をすることもできるようになっていたコンラッドだったが、腕が快方に向かってからも弟を側から離さず、何かと弟に手伝わせようとする。
しかしこの時は、一緒に薬草園に行っておいでとブルースに声をかけ、自分はさっさと執務机に戻って積まれている書類に目を通し始めた。
◆◆◆
ブルースとレスリー=アン、サミュエルとジリアンの兄妹が、それぞれ並んで薬草園へと向かった。
ジリアンとレスリー=アンにとっては、すでに通い慣れた道だ。
レスリー=アンは本当に薬草への興味が深く、もしも伯爵が許したなら、きっと彼女は薬師の道を本気で志したことだろうとジリアンは思っていた。
レスリー=アンはジリアンを師のように思い、熱心に薬草についての教えを乞うていた。
独学だけで学んだとは思えない知識の深さにジリアンは感銘を受け、自分で判ることは惜しみなくレスリー=アンに伝えている。
判らないことが出てくると、二人で書物を片っ端からひっくり返して一緒に納得のいくまで調べ、時間の経つのも忘れてしまう。
また時には、庭師のヘンリーから新しい薬草の育て方や、まだこの薬草園では育てていない種類についての助言を聞き、次はどの薬草を育てるか二人で真剣に検討することもあった。
レスリー=アンとの時間は、ジリアンにとっても学ぶことの楽しさを改めて感じるものだった。
実際に、新たな薬効が認められた薬草の情報もいくつかあり、現場に追われる臨床の中では得難い経験をしているとジリアンは思っている。
前を歩くレスリー=アンの表情が、緊張のためか少し強張っているようにジリアンは感じていた。
事前に連絡が入っていたのだろう、庭園の中ほどでヘンリーが一行を待ち構えていた。
薬草園に限らず、キャンデール家の庭園について、ヘンリーの知らないことなど何もないのだ。
レスリー=アンと共に薬草園や庭園に頻繁に出入りしているジリアンは、ヘンリーともすっかり打ち解けた仲となっていた。
ヘンリーがレスリー=アンに声をかける。
「お嬢さま、今日は賑やかですな」
「ええ。ジャクソン様、わが家の庭を管理してくれている、庭師長のヘンリーです。ヘンリー、こちらはコンラッドお兄さまの主治医でいらっしゃるサミュエル・ジャクソン様ですわ」
「サミュエル・マルレーネです、キャンデール伯爵令嬢」
レスリー=アンの前で再び胸に手を当てて礼をとるサミュエルに、ジリアンは目を瞠った。
サミュエルが他人に、自分の本当の名を名乗るのは何年ぶりだろう。
先ほどキャンデール伯爵が兄をレスリー=アンに紹介した時に、彼が何か云いたげにしていたのはこのことだったのだろうか。
レスリー=アンが、大きな目をさらに大きくしてサミュエルを見上げている。
「マルレーネ…?」
口に手を当てているレスリー=アンは、問いかけるようにジリアンの方に目を向けた。
どこか縋るような視線のレスリー=アンに、ジリアンは目を瞬かせた。
そう云えばサミュエルが兄だと、レスリー=アンに話す機会もないままだったことに気がついたのだ。
兄と自分はほとんど似ておらず、見た目だけでは兄妹と思われないことがほとんどだ。
よく周りからそう指摘されて、恋人だと間違われたこともあったほどだった。
サミュエルは母の髪と瞳の色を受け継いで、美しい母に似た、男性にしては優しい面差しをしている。
ジリアンは父の黒髪と、マルレーネ家に時々現れる菫色の瞳を受け継いで生まれ、切長の瞳とすっきりとした顎のラインが少し冷たい印象を与える整った顔立ちをしていた。
レスリー=アンが万が一にも変な誤解をしないために、ここは一つはっきり伝えておかなければならないだろう。
「レスリー=アン様、サミーは私の兄ですわ」
「お兄さま…?」
ジリアンを見つめる紺青の瞳に、ジリアンは力強く頷いた。
「ええ…」
「リアは可愛い妹です。伯爵が退院されることになって、慌てて呼び寄せることになりました」
ジリアンの返事に被せるように説明をするサミュエルは、レスリー=アンの視線を捉え真顔で同意した。
お読みくださり、有難うございました。
お待たせして申し訳ありません。
次回は本編の内容が少し進みます。