3 皇帝視点
言外に突き放す言葉を放った瞬間、暫しの停止後、発言の意図に気づいたらしい皇后は今にも泣きだしそうな、それでいてどうしてと憤りそうな顔をして。
……誤魔化すように、緩やかに微笑んだ。
痛みを堪え、ぐつぐつと煮えているであろう混沌とした感情を押し殺しているような、そんな悲しみと混乱が見え隠れてしている笑顔だった。
無雑で美しい薄桃色の瞳が、湿り気を帯びていることに気づき、私は刹那的に罪悪感に駆られるも……これは言わなければならなかったのだと、己を納得させた。
皇后は私が言い放った言葉を咀嚼しきれないのか、愁然とした面持ちで、儚げな、だがしっかりと芯がある透き通った声音で謳うように、感謝の言葉を述べた。
「いいえ、どうぞ謝らないでくださいませ。むしろ、そのように評価していただき、至極恐悦にございます。まだ未熟にございますが、陛下にとって良き右腕となれたら、それほどの喜びはございません」
全てを呑み込みそれでも笑って見せた皇后の表情を、私は一生忘れないだろう。
15歳の無邪気な令嬢が、到底できるような表情ではない。
それだけ彼女を傷つけているということを、示唆していることと同義。
知っている。彼女の想いが本物なのも、それを他ならぬ本人が全否定したことも、知っている。
もっと言えば、彼女はただただ無知で、純粋無垢で、穢れのない令嬢だと言うことも、知っているのだ。
だが私が愛しているのは、アマリリス。
危い立場であることに、常に不安を覚えているアマリリスの為にも、これは必要不可欠なことだった。
アマリリスだけ……私の地獄から救ってくれたのは、彼女だけ。
私自身を見てくれたのは、アマリリスだけなのだ。そんな女人を害するかもしれぬ不穏分子になり得る存在を、放置などできなかった。
最も親しい者でさえ、とうとう辿りつけなかった真実を、さらりと当てて見せたアマリリス。
その時から、私の全てはアマリリスだけになった。
それは、公爵令嬢が嫁いできても変わらない。
(そのはずだのに)
私は純白の衣装に身を包み、興奮と喜びに淡く頬を褒めた幸せそうな皇后の姿を思い出し、ぎゅっと拳を握った。
余計なことを考えるべきではない。
どうして、廃后の二の舞にならぬと言える。対象が私であればまだしも、アマリリスに向かないわけがない。
儚く愛らしい仮面を被った、卑劣で得体の知れぬ者かもしれない。何を考えているか分からない公爵の末っ子娘……警戒するのに、越したことなどないだろう。
――所詮、皇后も私の仮面に惚れて、権力で皇后になった人に過ぎない。気に掛ける必要など、皆無だ……。
だというのに。
(嘘偽りな残酷な言葉で皇后を突き放してしまっているのも、私が気になっているという証拠)
摩訶不思議なことに、先程の最低最悪な発言と思える言葉を、どうにか正当化しようとする。
そんな無茶苦茶な自分に愕然とする。
私は皇后ではない女人を愛し、彼女を守りたいがために皇后の想いそのものをにべもなく、残酷にも、否定した。
そこに偽りは無いのだから、正当化などどうしてできようか。
「陛下。私たちは、今この時から、双方の感情を二の次にし、政治的関係の上で成り立ったという解釈で、よろしいのでしょうか」
静かな声音が虫の羽音さえ聞こえそうな静寂を破り、私の鼓膜を緩やかに揺らす。
「間違いはない」
「でしたら」
皇后は今1度、思案するように口を噤み……やや震えた声で言った。
「どうか、お願いいたします。2週間に1度、いえ、1か月に1度でも構いませんので、皇后宮にいらしてくださいませんか。誓って、そのようなことは求めません。アマリリス妃をあくまで優先する形で構いませんので、どうか、お願いいたします」
「……皇后、」
「私を女として尊重してくださらなくても、構いませんわ。けれど、皇后として扱っていただきたいのです」
非常に弱ったような面持ちで、訴えるように懇願する。
即ち、側室と正室の立場を明確にさせろと言っているのだろう。
社交界で、皇后がどのように言われているのか、それを知った公爵家がどれだけ怒り心頭か、皇后がそれを知ってどれほどの屈辱を味わったのか、想像ができないわけがない。
だがそんなことをすれば、アマリリスがきっと不安がる……。私が皇后宮へ行くと決心した時でさえも、ひどく寂しそうな顔をしていた。
皇后とは違って、アマリリスには身分が無い。
後宮の妃には、期間がある。身籠る気配が無ければ、もしくは皇帝の足がすっかり途絶えたら、それは期間終了の言語無き報せ。
そうなれば下賜されるか、もしくは修道院行き。一時でも皇帝の妃だった女人を、国は決して野放しにはしない。
だが、そんな迷いは、皇后の声で気づけば一刀両断されていた。
「……陛下。出過ぎたお願いであることは十分承知のこと。ですが、どうか……」
「そのように下に出て頼むような真似は良い。今まであなたに酷いことをした自覚はある、これからはあなたの都合が良い時に来ると誓う上、あなたを皇后として尊重しよう」
「! 真にございますか」
喜悦を隠そうともせず、ふにゃりと微笑む皇后は、年相応に邪気が無く、だが皇后らしい威厳を放っていた。
その不均衡が、眩しく見える。
(監視を付けるのでは、なかったか…)
皇后の動向を監視するため、数人の女官、騎士を監視として付けたが、彼らは揃いも揃って皇后を褒め、そして健気な皇后を冷遇する私に、呆れ、疑問をぶつける。
それを聞く度に、私が密に煮やしていた憎悪が薄まり、警戒心が和らぎ、懐疑心が生まれる。
――果たして、私が想像していた人物なのか。私が危惧している未来の絵図を辿るような、女性なのかと。
食事にさえ、配慮が見え隠れするぐらいなのだから、皇后は生粋の良い人間であることぐらい、難なく分かる。
皇后の恰好もそうだ。
私の瞳の色と酷似している耳飾りと首飾りが輝き、品のある灰色の衣装は皇后によく似合っていた。
まるで、あなたのものです……。そう言われているような錯覚にさえ陥ってしまう。
アマリリスには絶対に無いであろう、清雅さを纏う皇后は、神聖な何かを連想させる。
泥中の蓮というのは、彼女のような人間を言うのだと、漠然と思った。
……これで良かったのだろうか。
馬車の中で、側近がつらつら何かを言うのを聞き流しながら、私はふわっと雲のように胸に湧き、浮いている疑問に答えを出そうと、静かに藻掻く。
不明瞭な答えでさえ出ない問いかけに、花丸大正解な答えなんて、あるはずがない。不毛な時間だ。
賽は投げられたのだから、その賽が転がり止まる先が全て。
だが、私の良心にまるで研ぎ澄まされた剣を刺すかの如く、皇后のあの表情が私をいたぶる度に、懲りることなく自問自答を繰り返す。
これは一体、誰が為なのか。
何かを見落としていて、何かを拾い忘れているのではないか。
妙に胸がざわつき、不味いものを丸のみしたような喉を締め付ける不快な感覚を、気のせいだと振り払うことで精一杯だった。