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遅くなりすいません。
楽しんでくだされば嬉しいです。
「あなたのような、大人しそうな令嬢の仮面を被った残酷な女も、この世に存在すると知ったという意味では、すごく勉強になった。あなたが望むなら金でも、男でも、なんでもくれてやろう。だからアマリリスには決して手を出さないでくれ」
――彼女はあなたとは違い、身分という盾が無い、平民生まれの女人なんだ。
世の穢れを集めたおぞましい者を見るかの如く、私を見ていた陛下が、未だに脳裏にこびり付いては離れぬ。
研ぎ澄まされ即効性の猛毒が滴り落ちる刃に、射貫かれる痛みは想像を絶するもの。
それでも消えぬ私の想いは、いっそ呪いのように禍々しく、気高い愛情などとは口が裂けても言えない。
また、それが己の首をじわじわと絞め、終幕が見えない愁痛をもたらすものなのだから、これを滑稽と言わずして何を滑稽と言うのか。
今宵も陛下はアマリリスさまの宮へ……そう聞く度に、私の心は張り裂ける。
後悔に胸を焼き、これが至極当然のことであると理性では分かっていても、陛下を求めてしまう。女としてのどうにもならぬ本能に、私は何度身悶えすれば良いのか。
きっと、答えを持つ者などはいないだろう。
そんなことを、うじうじねっちねっちいつも通り考えていた私は、今日の1日の動きを読み上げていたビビが一瞬、何を言ったのか分からなかった。
読み上げていたビビ自身も目を丸くしており、側で控えていた侍女たちは驚きからか、普通なら絶対にしないであろう失態……化粧道具を床に落としていた。
からん、という軽やかな音が、広い室内に無遠慮に響く。
「……陛下と、夕餉を共に?」
「は、はい。そのようになっております。陛下が皇后宮へいらっしゃり、オリビアさまと夕食を共になさると」
「……ビビ、よく見て。もしかしたら、アマリリスさまと共にとか……他国の使節団がいらしたとか、そういう記載や注釈があるかもしれないよ」
「いいえ、ございません」
ビビのはっきりとしたその言葉に、再び水を打ったような静けさが広がる。
小鳥のぴちちという無邪気な鳴き声、鼓膜を緩く揺らす。
「では、陛下がお1人で……?」
ビビが神妙な、それでいてどこか嬉しそうな面持ちで頷く。
「……信じられないわ」
狂喜、驚愕、困惑が混じった声は思っていたよりも上ずり、乾いている。
そんなことも気にならないほどに、私は心底驚いていた。
ずっと、ずっと。生きるために、空気を求めるように。渇きを満たすために、水を渇望するように。
陛下の訪れを、ひたすら待っていた。
(やっと、苦汁を嘗める日々から解放されるの……?)
私は逸る思いを必死に押し留める。駄目よ、徒な期待は猛毒と化すこともある。私を赦してくださったと解釈するのは、早いわ。
そもそも、陛下が徹底しておられるせいで、お仕事を一緒にする機会も滅多にないもの。私を、無邪気な笑顔で他人を不幸にすることが趣味な狂人……そう思われているきらいがある陛下が、いきなり意見を替えることなんて、あるはずがない。
蛇蝎の如く嫌悪している后の元へ足を運び、夕餉まで共になさると言うぐらいなのだから、何か別の理由があると考えるのが、妥当。
未だ哀しく咲いている花を、手折ってくださるわけがない――。
暗澹たる気持ちがむわっと心を占め始め、私はそれを追い出そうと両手で頬を叩いた。
じんとした痛みが、これが現であると如実に表し、私の口角が自然と上がる。
どのような思惑をお持ちになって、陛下が私の宮へいらっしゃるのか皆目見当付かぬ。そもそも、聡明な皇帝陛下の思考回路が、愚鈍な私に分かるわけがないのだが。
だが、これが陛下との粉々な夫婦関係を、修復する一端になるやもしれない。
ビビたちに然るべき指示をしながら、そうなるように、私はひたすら願った。
――どうして叶う夢だと、驕っていたのだろうか……。
・・
「帝国の太陽にご挨拶を申し上げます。お疲れのところ皇后宮へご足労いただき、ありがとうございます」
夕方。
日が傾き始めたおかげか暑さが半減し、それによって虫が活発に会話をしている中、陛下は数多の護衛を引き連れやってきた。
私は興奮を隠しながら深く頭を下げて、繊細な模様が成されているレースが綺麗な衣装を広げ、優雅に出迎えた。
陛下の瞳になぞらえた琥珀色の耳飾りが、ちりんと視界に入り、私はそれを見て己を奮い立たせる。
生まれたての小鹿のように、震える手足。立っているのもやっとで、どこまでも臆病な己に嫌気がさす。
緊張と、不安と、僅かだがしっかりと刻まれている恐怖が邪魔をするのだ。
陛下が来てくださって嬉しい。それは紛れもない、私の気持ち。
今日の私の恰好はそれを裏付けるもので、陛下の瞳の色の装飾品、同じ髪色である澄んだ灰色の夜会用衣装を着て、皇后であることを証明する冠を頭に乗せている。
……言外に、私という存在は全て、あなた色に染まっておりますと言っているようなもの。
アマリリスさまがいらっしゃるのに、言外にあなた色に染まっていますなど、変態女みたいにならないかしら……。
いえ、陛下は確かにアマリリスさまの恋人であり、旦那さまであるけれど。
同時に私の旦那さまでもあるのだから、良いはず。
そう思い少し……否、かなり迷ったが。
どうか私も見てほしい、アマリリスさまの箸休めで構わない、私に少しだけでもお情けをかけてくだされば……。
どこまでも傲慢な私は、そう願ってしまったのである。
「いや、こちらこそ断りもなくすまない。急なことで驚かせただろう」
「構いませんわ。いつだって、お暇があれば来てくだされば……」
「皇后。私はそのような話をしに来たわけではないのだが…」
戸惑いを帯びた声色とは違い、きんと冷えた琥珀の瞳には、冷淡な波が靡いている。
一瞬で緊張やら、不安やらが消え去り、意識せず天狗になっていた自身への羞恥が私を襲う。
なんと浅ましいことか。1度でもこうしてお顔を出してくださるだけでも、光栄だと言うのに、出しゃばるなんて。
これだから私はいけないのだ……失敗を、こうして繰り返す。
私は人知れず拳をぎゅっと握る。鋭い痛みが、私を冷静にさせた。
「失言いたしました。どうか、ご寛大な御心でお許しくださいませ」
私は丁重に頭を下げ、皇后の微笑を張り付ける。
「どうぞ、お部屋にお入りくださいませ。お食事はもう、できておりますわ」
旬の野菜を使った季節の料理は、本来なら舌鼓を打つほど美味だろうに、緊張のあまり味がしなかった。
陛下は黙々と召し上がっておられ、特に会話をなさろうとしない。
かくいう私は早々に本題を切り出されると思っていたので、今か今かと待ち構えており、肩透かしを食らった気分。
それでぐったりしてしまったのは、仕方ない。
「皇后の仕事ぶりは聞いている。若き后にしては、素晴らしい政治手腕だと」
「……………………お褒めに預かり光栄にございます」
こんがりと焼けた焼き菓子を、少し苦味のある珈琲で食べていた時、陛下は前置きもなく私を褒めた。
一瞬、理解ができなかった。
私を、褒めた……?
陛下が………?
焼き菓子を食べ終えたら、食事も終わってしまうけれど、陛下は私とただただ食事をするためにいらしただけ…?
もしや、アマリリスさまと喧嘩でも??それとも、アマリリスさまに「皇后のところへも、行って差し上げなければあまりに可哀想ですわ」とでもせっつかれたのかしら??
有り得るお話。けれど、それで素直に憎き相手と夕食を共にするなんて、考えにくいわ。だって、私が陛下のお立場なら……愛する人を不安にさせる要素なんて、なるべく作りたくないもの……。
そんなことをぐるぐると考えていたので、咄嗟のお返事がありふれている言葉。
男女の駆け引きとやらに、私は絶対に向いてないと自負していたが……やはり向いていないなと、私は喜びと驚きの狭間で嘆く。
「妃教育の時間はかなり短かっただろうに、気難しい大臣に賞賛の言葉を言われるなんて、あなたは皇后に向いているらしい」
「そんなこと!ただ、国のためをと思い……」
「そうか。私はあなたを誤解していたようだ」
幾分柔らかい口調で、ふんわり撫でられるように言われ、私は思わず蕩けるような甘い声で問う。
「誤解?何をです?」
「いや、誤解と言うほどでもないか…?だとしても、私の行いはいただけなかった。アマリリスに、あの後凄まじい勢いで叱られたよ。私も頭では分かっていた、アマリリスが私の唯一の妃になることは無いと。アマリリスを妃として迎えるためには、正室の椅子を埋めておく必要があると。だが、整理がつかず、何の壁もなく皇后になったあなたを罵った。今思えばかなり酷いことをした、本当にすまない。どうか許してほしい」
「陛下!?そんな、頭を上げてくださいませっ」
頭を下げる陛下に、私は慌てて頭を上げるように頼むも、霧がかかる脳内の奥底が警鐘を鳴らす。
物事が、良くない方向に向かっていると――。
どこかで然るべきところにあった紐が、強引に切られてしまったような、そんな気がした。
「あなたは何も知らない、言い方は悪いけれど……政治の道具になっただけだったというのに、私は勝手に誤解して……なんと詫びれば良いのか……」
「政治の、道具?」
思わずか細い声で聞き返す。顔に張り付けていた笑みに、亀裂が入った。
政治の道具。政治の、道具?誰が?
この、私が?
どこで、そんな誤解が生まれたのか。くらりと眩暈がし、驚きのあまり意識がふわっと逃げ出そうとする。
私を溺愛する家族は、決してそのようなことはしない。これは捻くれた思考を時々爆発させる私でさえ、自信を持って言えること。
今も自業自得とは言えど、陛下に蔑ろにされている私を案じ、何かと世話を焼いてくれている。冷遇されているのにも関わらず、政治的な面で活躍できるのも、皇后宮で皇后として振舞えるのも、家族のおかげと言っても過言ではない。
だというのに、政治の道具など。
どうしてそのようなことに。
陛下は私の混乱を他所に、残酷なことを優しく編むようにして空気を震わせた。
「私は勝手に、あなたの独断で皇后になったのだと思っていた。あなたが……私を好ましく思っていたからだと、勝手に判断していたんだ。公爵が、末っ子公女をそれは鍾愛しているというのは、有名だったから、その先入観ゆえだろう」
「へ、いか……」
「本当にすまない。そんなわけがないのに、己の愚かさがあなたを傷つけた。都合が良い話だが……これからは、良き仕事仲間として国を支えていってほしい」
――遠くで、静かな音を立てて何かが崩れた音がした。