(十五)お仕事のために必要なことは確認します
リーリアがクライツ達と共にシグレン家にやって来たのは、アザレアが来てから二日後だった。
なんでも周囲の目を誤魔化すために遠回りをして皇国に来たという。
リンデス王国にいたときにも聞いたが、未だリーリアはヘスの護衛だったという理由で狙われているらしい。
本当に周囲に迷惑な男だ。
だが、数週間ぶりにあったリーリアは、最後に別れた時と比べると血色もよく、目にも力があり元気そうで安心した。少なくともノクトアドゥクスで酷い目には遭っていないようだ。
「リーリア!久しぶりね。元気そうで安心したわ!」
魔塔の黒いローブではなく、落ち着いた紺のワンピースに白い薄手のローブ、腰には義父のものだという深い緑色のポーチを付けたリーリアは、以前の疲れ切って幸薄そうな様子から、研究者然とした落ち着きが漂っていた。
「先日は皆さんに大変ご迷惑をおかけしました」
リーリアが深々とリタを含めてアーシェやサラに頭を下げる。
「お姉さんは悪くないですよ」
「そうです。助けてもらいましたし。リーリアさんもお元気そうで良かったです」
「そうよ。悪いのはすべてヘスだもの! それで?ハインリヒに苛められていない?酷い事されたなら遠慮せずに言うのよ?」
サラ、アーシェも笑顔でリーリアに告げるのを見ながら、リタも大事な事を確認する。
決してリーリアの悪いようにはしないとの言質を、念書までとってハインリヒに約束させたのだ。交渉に不慣れなリーリアを謀るような真似をしたら許さない、渾身の嫌がらせをしてやる、と。
具体的に何をするとは言わなかったのだが、ハインリヒには非情に嫌そうに顔を顰められたので、多少なりとも効果はあったらしい。
「ノクトアドゥクスの方にはとても良くしていただいています」
「遠慮する必要はないのよ?」
「うちをどんなところだと思ってるんだか」
しつこく問い返すリタに、クライツが苦笑しながらそう返せばリーリアも笑顔で頷いた。
「本当です。私室を荒らされる事も無理強いされる事もありませんし、心ない言葉を投げられることも、暴力を振るわれる事もありません。こんなに心穏やかに過ごせるのは、魔塔に所属していた時にはあり得ませんでした」
続く衝撃の内容にリタの眦が釣り上がった。
「――は? 魔塔ってそんな所なの? 存在を許す必要ある?壊すべきじゃないの? ゼノを放り込んで暴れさせなさいよ!」
「正当な理由なくそんな事をすれば、ゼノが犯罪者になりますよ……」
「リーリアにしてきたことや、今話題になってることで十分理由になるんじゃないの?」
無茶言わんでください、とクライツが乾いた笑みを零したが、リタ的には割と本気だ。ゼノを全魔術無効化状態にして魔塔で暴れさせたら彼らなんか一発だ。魔道具でもなんでも触れるだけでぱんぱん壊してくれるに違いない。
「それより、アルカントの魔女に魔術講座をしていただけるって本当ですか?」
リタの物騒な言葉よりも、リーリアの興味はアザレアにあるようだ。
きらきらと目を輝かせながら、期待を押さえきれずに思わずと言った体で問われた言葉に、リタは目を瞬いた。
魔術講座?
「リタとサラがアザレア殿から教えを請うので、興味があるならリーリア嬢も誘ったらどうかとリタから提案があり、アザレア殿に確認中だという所までは説明していまして」
胡散臭さが漂う爽やかな笑顔で告げるクライツに、リタも頬に手を当てながら笑顔でリーリアを見た。
「ああ、リーリアには後で信じちゃいけない人物の特徴を教えてあげないとね。こんな胡散臭い笑顔を浮かべる人の言葉は信じちゃダメよ?」
「酷いですねえ。嘘も方便と言うじゃありませんか」
「女の子をがっかりさせるような嘘はいただけないわねえ」
うふふふ、はははと笑顔で笑いながらお互い険を飛ばし合う二人を、リーリアがオロオロしながら交互に見遣り、眉尻を下げてアーシェ達を見た。
「……え……嘘、なんですか……じゃあ、何故ここに……」
さっと青ざめて一歩下がったリーリアに素早く近づくと、そっと肩を抱いた。
「リーリアに用があったのは本当よ。――クライツがあなたに何を言ったのかはともかく」
「私はここにリーリア嬢を穏便にお連れするのが仕事でしたので」
嘘だ。
説明をまったく省いているのは先日の意趣返しに違いない。
「クライツ。私への意趣返しに女性を巻き込んだこと――覚えておきなさい」
笑顔で言い捨てると、アザレアのいる部屋へ案内するようにリーリアの背に手を添えて歩き出す。
「さいあく」
サラもクライツを睨み付け冷ややかに言い放ち、さっさとリタの後を追っていった。
残されたクライツは胡散臭い笑顔を貼り付けたまま、気にした風もない。
そんな様子にアーシェは苦笑した。
「まあ、リーリアさんに本当の話をしたら絶対に来ないでしょうから、クライツさんのやり方は間違っていないと私は思います。……あの二人のフォローはしておきますね」
「……ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げてリタ達の後を追っていったアーシェの背を見送ったクライツは、ふう、と息を吐いた。次いで、じろりと背後のシュリーを睨み付ける。
「笑ってるのはわかってるぞ」
「すみません……だって」
「剣聖だけでなくリタやサラと上手くやるには、アーシェを味方にしておく必要はあるみたいですねぇ」
デルがしみじみと呟き、クライツも肩をすくめた。
クライツの話が嘘だとわかって、少々怯えを見せたリーリアを安心させるように、リタはその背を叩きながら二階へ上がりアザレアが滞在している部屋の扉をノックした。
中からの応えに後ろからやって来たサラがドアを開けて、リタとリーリアは中へ入って行く。すぐにアーシェもやって来た。
「その子がリーリア嬢かい」
テーブルの上に魔法陣を広げていたアザレアは、入って来たリタ達を髪をかき上げながら見遣った。
「り、リーリア=ニコルソンです。魔塔では防御結界魔術を研究しています」
「ああ。あたしはアザレア。一部ではアルカントの魔女と呼ばれている……どうかしたかい?」
そう自己紹介をしながらも、リタやサラの様子に首を傾げる。
なにやら機嫌が悪そうだと、苦笑するアーシェに視線を投げた。
「あー……、クライツさんの態度に二人がちょっと怒っちゃって。アザレアさんが後で魔術講座を開いてくれたら、クライツさんも助かります」
「何をヘマやらかしたんだか……ああ、構わないよ。どのみちリタには教えてやってくれとゼノからも頼まれてる。そこにお前さん達が問題ないと信じられる相手が加わるならあたしも構わない」
ゼノがそんな事を頼んでいたとは。
初めて知ったわ、とリタが心の中でちょっと感動していると、アザレアは鋭い視線をリーリアに投げかけた。
「それで――彼女は信じるに値する人物かい? お前さん達の敵に回る可能性があるなら断るよ」
魔塔の魔術師なんだろう?――そう問われて、リーリアはぎゅっと目を閉じて頭を振った。
「いいえ! ――いいえ。あの……私は、先日制裁措置でノクトアドゥクスに身柄を拘束され、魔塔からも追放されています」
「追放とは穏やかじゃないね。何をやらかしたんだい?」
「リーリアは悪くないわ! ヘスのせいよ!」
アザレアは手を挙げてリタを押さえると、リーリアに視線で問いかけた。
「お前さんが超一級の防御魔術の使い手だと、ハインリヒから聞いている。その使い手を追放するんだ。相応の事があったんだろう?ここでちゃんと説明してごらん。お前さんの魔塔での立場を」
魔塔での立場。
その言葉に先程のリーリアの言葉が思い返されて、リタも口を噤んだ。
私室を荒らされたり暴力を振るわれるなんてことがリーリアの日常茶飯事だったという点は、リタも聞き逃せない。
魔塔がどういった所なのかを知っておくことは今後のためにも必要だ。
リタはリーリアをアザレアの前の椅子に座らせると、自分もその隣の椅子に腰を下ろした。サラとアーシェはテーブルから少し離れたベッドに二人並んで腰掛ける。
「私は元々ヘスのサポートを行う立場でした」
元は目立たずに防御結界魔法について黙々と研究していたこと。その研究成果をヘスが気に入り、ヘスの護衛としてヘスの行く先々に連れ回されたこと。防御結界魔法以外にも色々仕事を押しつけられ、ヘスの悪事や騒動に無理強いながらも加担したこと。そのために注目も浴び、怨みも魔塔内に限らず方々で買ったこと。
聞いているだけで腹がたち、リタは脳内でヘスを何度惨殺したかわからない。
あの疫病神……! やっぱりもっともっともっと殴っておくんだったわ……!! ゼノももっと絶望に叩き落としてやれば良かったのよ!!
もっともゼノにやられたことは、魔術師にとってあれ以上の絶望はないと、未だゼノに怯えるリーリアからは言われただろうが。
「魔塔で、一度罰を受けたことがあります」
リーリアはそこで言葉を切るとサラに一度目をやり、躊躇うように視線を彷徨わせた。
「ラロブラッド関係かい?――魔塔はラロブラッドを魔力バッテリー扱いしていたね」
その話は、リタもハインリヒから聞いている。
サラがどのような危険を持っているかを、きちんと理解するようにとアインスとオルグに説明するのを、リタも聞いていた。
「はい。……捕まっているラロブラッドのうち二人を逃がそうとした事を咎められ、三ヵ月の幽閉と魔塔の防御結界を強くする作業が課せられました。そして今回のリンデス王国でヘスの様々な暴挙を止められず――その時に魔塔から追放処分となっています」
聞いていれば色々おかしい。
リーリアの罪って何? それのどこが罪になるわけ?
リタの眉間にどんどん皺が寄り、纏う気配が剣呑になってゆく。
「百歩譲って」
ぼそりと呟いた。
「百歩譲ってリンデス王国でヘスの暴挙を止められなかった事は、罪だとしましょう。――でも、普段の力関係から考えれば、リーリアに止められない事ぐらい、魔塔側でもわかっているわよね? それを無視してリーリアに責任を取らせるっておかしくない?」
リタの低い声に、リーリアの肩が揺れる。
「ふん……追放というよりは、ノクトアに保護されたって感じかね」
「保護?」
考えるようなアザレアの言葉に、片眉を上げて問い返す。
ああ、と髪をかき上げながらアザレアは頷いて、リーリアに視線を投げる。
「ラロを逃がそうとして幽閉だ。ヘスを失ったなら、このまま魔塔にいればもっと酷い罰を与えられるのは想像に難くない。魔塔の実権は長老達が握っているからね」
「魔塔長……リーリアの義父が権力を持っている訳ではないの?」
「魔塔長の養女なのかい? ああ、なら間違いなく逃がしたんだろうさ。あそこは良識がある者ほど居づらい場所だからね」
「そう」
そっと緑色のポーチを撫でるリーリアを見ながら、リタは静かに頷いた。
話を聞く限り、魔塔内ではともかく、リタからすれば罪らしい罪はない。体よく責任を押しつけられた形にしか見えなかったが、追放されなければもっと酷い処罰が待ち受けていたと言われれば、クライツの言った通り、魔塔長はリーリアのためにノクトアとの交渉資料を用意し、魔塔の連中から逃すために追放したのだろう。
「お前さんを狙っている魔塔の長老がいるらしいね」
「え?」
その認識はなかったのか、アザレアの言葉にリーリアはきょとんと首を傾げた。
「私を狙う長老……ですか?そんな方は……」
「古代魔術の権威サリエリスが、お前さんを狙っているとハインリヒからは聞いているよ」
「え?サリエリス様がですか? サリエリス様は、他の長老方と違って、私にも親切にしてくださいます。嫌なことも酷い事もされた事はありません」
まさか、そんな訳がないと頭を振って否定するリーリアに、アザレアはくく、と冷たく笑った。
「口蜜腹剣——狙った獲物に優しくするのは当たり前だろう?」
その言葉にリーリアが顔色を失う。
ショックを受けるリーリアには悪いが、残念ながら、ハインリヒがそう断言するなら間違いないとリタも思う。おまけにヘスの件で冷たく当たられることが多いリーリアを手懐けるには、とても効果的な手段だ。
ゲス野郎ってことね。
リタは心のブラックリストにその名を刻み込む。機会があればリーリアを傷つけた罪で殴り飛ばすと決めた。
「そのサリエリスという長老はなんのためにリーリアを狙っていたの?」
「お前さん達も気にしている、背中の魔法陣に間違いないだろう」
「背中の……魔法陣……」
それを耳にした途端、体を震わせ隣に座るリタを怯えたように見つめた。
自分がここに呼ばれた本当に理由に思い至ったのだろう。リタは安心させるように微笑してみせた。
「リーリアの意志に反して無理矢理暴くことはしないわ。ただ、そのサリエリスという長老が、人を攫っては闇属性魔法の魔法陣を背中に刻みつけて回っているのですって。だから心配になったのよ。リーリアの魔法陣が闇属性に関するものではないか、と」
リーリアは短い悲鳴を上げて口許を押さえた。
この様子を見る限り、どうやら闇属性魔法と関係しているのは間違いなさそうだ。
チラリとアザレアに視線を投げれば、彼女も軽くため息をついて頷いた。
「どうやら間違いなさそうだね。それが本当なら、魔法陣がどうなっているのかを確認するまでは、お前さんに魔術を教えられない。闇に堕ちた者は処分すると決めているからね」
「——処分!?」
アザレアの言葉に驚いたのはリタだ。
「ちょっと待って! 処分って過激すぎない!?」
「それだけ危険なんだよ、闇というのは。——それに」
いきり立つリタとガタガタ震えるリーリアを交互に見ながら、アザレアは冷ややかな口調で続けた。
「闇属性持ちが闇に堕ちたら核になる。そうなれば自我なんか崩壊する。負の感情が強ければ強いほど、その闇は強大になって周囲を脅かす。闇を屠るのは聖女の仕事だよ」
「……っ」
そう断言されてしまえば、リタが反論出来る事はなかった。
唇を引き結び、ぎゅっと拳を握りしめてアザレアを睨み返すが、アザレアは表情を変えることなく静かにリタを見つめ返す。
闇が危険なのはわかる。
ゼノでもそのままでは斬れないとアザレアは言っていた。聖属性を持つリタの力が絶対に必要なら、野に放たれることは絶対に防がなければ甚大な被害が出ることも理解出来る。
だが感情的には納得出来ない。
リーリアを処分ですって……? そんなの無理よ……!!
「あの」
やりとりをベッドに座って見ていたアーシェが、片手を挙げながら二人に呼びかけた。
「リーリアさんは魔法陣は危険なものではないと言っていました。まずちゃんと確認してみてはどうですか?アザレアさんは間違いなくこの中で一番詳しい人です」
アーシェの言葉に、はたとリタも我に返った。
そうだった。別にまだリーリアの背中の魔法陣が危険なものだと決まったわけでも、リーリアが闇に堕ちた訳でもないのだ。
「そうだったわ。まだ危険と決まった訳ではなかったわね」
ふう、と額に浮かんだ汗を拭いながら、リタはリーリアに向き直った。
「リーリアが嫌がるのはわかっているけれど、背中の魔法陣を見せて貰ってもいいかしら?心配なのよ」
「で、ですが……」
リタの言葉に躊躇うように俯くリーリアに、ふむ、とアザレアは頷いた。
「お前さんが魔法陣を見せるのを躊躇う理由はなんだい?」
「そ、それは……」
「何を怖がっている?」
ズバリと切り込まれて、リーリアはぐ、と呻いた。
両手を胸の前で握りしめ、肩を震わせながら視線を彷徨わせる姿は、アザレアの言葉を肯定している。
魔法陣に対する恐れなら、アザレアに見てもらうことで解決策だって見つかるだろう。だがそもそもリーリアは背中の魔法陣は危険じゃないと言っていたのだ。
その視線が緑色のポーチに落ちたのを見た時、リタの中に閃くものがあった。
「その魔法陣……もしかして、魔塔長——リーリアの養父が刻んだものなの?」
「違います!!」
リタの言葉に、驚くほどの大声でリーリアが反応した。尋ねたリタも思わず身を仰け反らせるほどの勢いだ。
「あ……」
自らの態度に、はっと口許を押さえ、リーリアは恐る恐るリタとアザレアを見遣った。リタは驚いたものの、返された反応にやはり魔塔長が関わっているのだと確信を深め、アザレアは先程から変わらずに冷ややかな視線のままだ。
リーリアはしばらく二人を交互に見ていたが、やがて大きくため息をついて、観念したように目を閉じた。
「違います……。元は、私の本当の父が刻んだものを、養父さまが……その魔法陣を打ち消す陣を上書きしたのだと、母から聞かされています……」
* * *
リーリアは孤児になる前は、母と二人暮らしだった。
母は多くを語らなかったが、魔術の事だけは熱心にリーリアに教えてくれた。リーリアは母に似て魔力量も多く、防御系の魔術の素養があった。
母の語る魔術の話には、たびたび魔塔とノキアという人の名前がよく出てきた。その人の事を語るとき、母がとても幸せそうだったので、子供心にその人が父なんだとずっと思っていた。
だが、そんな予想は覆される。その日のことを、リーリアは今でもよく覚えていた。
二人で静かに暮らす家に突然やって来た、ガラの悪い男。
「おうおう、こんな所に隠れ住んでたのかよ、イザベラ。はっ、俺様から逃れられると思ってんのか、お前」
焦げ茶色の髪を後ろで一つにくくり、深い紺色の短いローブを羽織った男は ドカドカと家の中に入ってくると、いきなり母に暴力を振るった。
「お母さん!」
床に倒れ伏す母に駆け寄るリーリアを見ると、男はにぃ、と笑ってリーリアの腕を掴み上げた。
「いっ……!」
「コイツが俺様とお前のガキだな? まったく手間かけさせやがって」
男は母を一蹴りしてから、リーリアを無理矢理自分の方に引き寄せると、顎を掴んで顔を覗き込んできた。
「ふん……顔はお前に似てるな。それで、肝心の属性はどうなってる」
男はリーリアを掴んだまま、器用に魔道具とナイフを鞄から取りだし、魔道具を床に置いた。空いた手がナイフを掴んだのを見て、リーリアはもがいた。
「やめなさい!」
母の叫び声と同時に、風の刃が男に襲いかかったが、男がナイフを持った手を振り上げただけで、突如現れた竜巻にかき消された。そのまま母も壁際まで吹き飛ばされる。
「! お、お母さん……!」
「てめえの攻撃魔法が俺に効くわけねえだろうがよ」
この馬鹿が!と男は吐き捨てると、それきり母には目もくれず、暴れるリーリアの腕を容赦なくナイフで切り付けた。
「いっ……!!」
一瞬の熱の後に、痛みはやって来た。
ジンジンと痺れるような痛みに襲われる腕を、そのまま床に置いた魔道具の上にかざされる。ぽたぽたと落ちる血が魔道具に触れた時、魔道具に複数ある硝子のような所にいくつか光が灯った。
「土、風に——おお! 計算通りだ! 闇属性!!」
いよっしゃあ!と男が腕を振り上げるのを、訳が分からずにただただ震えて見上げることしかリーリアには出来なかった。
「あのクソ爺の計算通りだな。属性とレベル、血液型の組み合わせでどの属性を持つ子が生まれるかわかるって研究。時間がかかって面倒な事をやってると馬鹿にしてたが、闇属性がマジで作れたんだ、じじいの研究も役に立つじゃねえか!まあ、材料を合わせるのが難しいけどな。おう、じゃあコイツはもらっていくぜ。俺の大事な研究資材だ」
ぐいと体を抱え上げられ、リーリアはひっと喉奥で悲鳴を上げた。
「ま、待ちなさい……! その子は渡さないわ……!」
母が頭を押さえながら立ち上がり、勝手な事を言う男を睨み付ける。その手には見たこともない杖があった。
「面倒な女だな。お前だって俺の子なんかどうだっていいだろうがよ。ノキアの子じゃあるまいし」
うんざりするように肩をすくめた男に、母は杖を突きつけて叫んだ。
「人の命を!なんとも思っていないようなお前に、子供を渡したりはしないわ!!その子は私の大事な娘よ!!」
母の言葉に、リーリアも男の腕の中で暴れた。
「いや!離して!!——おかあさん!」
「ちっ!!いてえな、てめえ、暴れんな!」
リーリアを殴ろうとした手にがぶりと噛みついてやれば、男は溜まらずリーリアを床に転がした。肩から落ちて痛かったが、とにかく母の元へ!と駆け出そうと立ち上がった時、頭を強く殴られた。
「リーリア!」
意識を失う前に、母の悲痛な叫び声が聞こえた。
それから後に何が起こったのかは、リーリアは知らない。
ただ、気がつけば固いベッドに固定され、背中に何かを刻まれていた。痛みで泣き叫んだが、その度にあの男に殴り飛ばされ意識を失い、そんな事が何度か続きリーリアも諦めた頃、目を覚ましたら側に泣きじゃくる母がいた。
そこはあの固いベッドなんかではなく、母と二人で暮らしていた家のベッドで、目覚める度に感じていた背中の痛みはなく、まるでそれまでの事は自分が見た悪い夢だったのかと思ったのだ。
「おかあさん……?」
「ああ、ああ、リーリア! 良かったわ……気がついたのね。もう大丈夫。もう大丈夫だからね。もうなんの心配もいらないわ。誰もあなたを連れて行ったりしないからね……!」
ぎゅっと母に抱きしめられ、慣れ親しんだ母の温もりと匂いに、ようやくリーリアは安堵して泣きながら母にしがみついた。
「おかあさんっ……!」
もう大丈夫、大丈夫よ、とリーリアを抱きしめながら何度も呟く母の背の向こうに、リーリアは確かに見た。
こちらの様子をドアの影から窺い、安心したように微笑した人——あれは間違いなく、養父だった。
* * *
「私の背には、確かにあの男が刻んだ魔法陣があり、あの男の元から救い出された後、我が家で養父の手により打ち消すための魔法陣を刻み直されたのだと母からは説明を受けています」
そこまでを語り、リーリアは一旦口を閉じると息を吐いた。
リタも腕組みをして静かに息を吐く。
「——まず」
ぼそりと呟いた。
「その男を殺しに行かなくちゃね……!」
殺気を漲らせて静かに立ち上がったリタを、アーシェとサラが慌てて飛んで来て止めた。
「落ち着いてください、リタさん!」
「今は最後までお話しを聞く方が先だよ!」
「それに、もういないと思います」
苦笑しながら、リーリアが呟いた。
「魔塔長が既に殺したんだろ」
座りな、とリタに視線で椅子を示しながら、アザレアがリーリアの意を汲んで答えた。
「……本当に?」
じろりとアザレアを睨みながら問えば、アザレアが肩をすくめる。
「今の話からその男の性格を考えれば、大人しくリーリア嬢を奪われるとは思えないね。一戦交えてやられたと考える方が自然さ」
アザレアの言葉に、リーリアも頷いた。
「それからは、本当にあの男が現れることはありませんでした。でもその後母は体を悪くして亡くなり、私は孤児院に入りました。孤児院のある町が魔族に襲撃された際に、養父が私を見つけて引き取ってくれたんです」
「現魔塔長の名が、ノキア=ニコルソン。ひょっとしたら、彼女の母と魔塔長は恋仲だったのかもしれないね」
「——許すまじ!」
カッ!と眦を釣り上げて再び立ち上がったリタに、パチン!とアザレアが指を鳴らしてぬいぐるみを頭の上に落とした。
「なに!?」
突然の軽い衝撃に、リタはキョロキョロと当たりを見回した。
ぽこん!とリタの頭にぶつかったぬいぐるみは、リーリアの膝の上に落ちてきた。可愛らしい猫のぬいぐるみにリーリアが目を瞬く。
「次は頭から水をぶちまけるよ」
冷静なアザレアの声に、リタも渋々椅子に座り直した。
彼女なら本気でやりかねないと思ったのだ。
さすがハインリヒと対等に喧嘩出来るだけあるわ。迫力が違う。
「話はわかったよ。なら、何も恐れることはない。背中を見せてご覧」
「……でも」
「大丈夫よ、リーリア」
リタはそれでも躊躇いを見せるリーリアに力強く頷いて見せた。
「心配はいらないわ。その話が本当なら、間違いなく魔塔長はリーリアの為になるようにしてくれているわ。魔塔長はリーリアを大事に思っているもの」
ポーチを受け取った時の錯乱具合からも、リーリアが恐れているのは魔塔長に嫌われることだ。そして母と魔塔長の間にあった繋がりを薄々感じているからこそ、自分は本当に好かれているのか自信がないのだろう。
あの男の魔法陣が本当に打ち消されているのか、僅かな疑念があったのかもしれない。母を安心させるためにそう言っただけで、本当は、危険な魔法陣が生きているのではないかと。
リタは立ち上がり、部屋のカーテンを閉めて外から室内が僅かたりとも見えないようにした。
「この衝立の奥で背中が見えるようにして」
それを受けてすぐさまアーシェが部屋のドアの前に移動した。
「急に誰かが入ってこないように、私はここにいますから」
さすが気配りが出来る子だ。
リーリアは皆の顔を見回し、それから頷いて衝立の向こう側に移動した。
しばらくがさごそと音がしていたが、やがて体の前を白いローブで隠した状態で衝立の前に現れた。
リタはそっとリーリアの隣に移動するとその手を掴んだ。
「怖かったら、私が抱きしめていてもいいわよ」
両手を広げてリーリアの前に立てば、頬を赤く染めて笑った。
「ありがとうございます。大丈夫です」
そう言ってアザレアの目を見つめ、そっと頭を下げた。
「お願いします」
ぎゅっと目を閉じ、くるりと背中をアザレアに向ける。
リタは抱き留めるようにリーリアの前に左腕を伸ばし、右手でそっと左肩を抱いた。
背中の中程にある魔法陣。それは刺青のようにリーリアの白い肌に刻まれていて痛々しい。リタにはもちろんその魔法陣は読めなかったが、アザレアは口許に手を当て、しばらくじっと見つめていたが、徐にポーチからスケッチブックとペンを取り出すとさらさらと書き写し始めた。
時折背中に近づき細かな箇所を確認していたが、書き写し終えるとサラに手渡し、そっと背中に指を這わせた。びくりとリーリアの肩が震えて、リタがぎゅっと抱き留める腕に力を込めた。
「——なるほど。これはよく出来た魔法陣だ」
しばらくして、ようやくアザレアが口を開いた。
「どうなってるの?」
「間違いなく、ベースは闇属性を呼び出す魔法陣さね。だが、それが起動して闇が呼び出されても、それをそのまま魔力に変換して治癒魔法陣と防御結界魔法が起動するように書き換えられている。魔力変換が失敗しても、闇属性を感知すれば自動で光属性の魔法陣が起動されるようわざわざ二段仕掛けだ。万が一にもリーリア嬢に害が及ばないよう細心の注意を払った魔法陣だよ」
光属性の魔法陣……!
闇属性には光属性だと確かにアザレアに教えられた。
「じゃあ……!」
「ああ、心配いらない。書き写した魔法陣をサラとリタで確認してごらん」
中身はわからなくても、見た目はわかるだろう、と言われてリタとサラで背中の魔法陣とアザレアのスケッチを見比べる。
確かに、同じだ。細部まで間違いはない。
丁寧に確認して、アザレアにスケッチを返すと、アザレアがそのページを破りとり、リーリアに手渡した。
「これがお前さんの背中の魔法陣だよ。読み方はこれから教えてあげるから、自分で確認してごらん。それに——」
アザレアは意味深に笑った。
「理解出来たら、別の真実も見えてくるかもしれないよ?」
「え……」
「さぁさ!一旦休憩したら、魔法陣の基礎講座を始めようか。お前さんも服を整えておいで。——サラ」
「はい! じゃあ、お茶を淹れてきます!」
「私も手伝うわ。リタさんはこのままリーリアさんの側にいて下さいね」
アーシェとサラがぱたぱたと階下へ下りて行き、リーリアは衝立の向こう側で服を整え始めた。
アーシェにはいてくれと言われたが、このままでは椅子が足りない。
「私は椅子を取ってくるわ」
「リタ」
部屋を出ようとしてアザレアに呼び止められた。
「ゼノから魔石を五個ほど貰ってきておくれ」
「ランクの指定は?」
「あたしが欲しがってると言えば、ゼノがわかってる」
わかったわ、と頷いてリタは今は庭で弟達に稽古を付けているゼノの元に向かった。
良かった。
階段を軽快に降りながら、リタは鼻歌を歌い出すほどご機嫌だった。
心配していたリーリアの魔法陣のこともわかったし、リーリアがずっと気がかりだったことも解決したので彼女も安心しただろう。おまけにアザレアに魔法陣について教えてもらえれば、リタも今後手数が増えて戦いの幅も広がる。
頑張って身につけなくちゃ!
――この魔術講座で、リタの描画能力の低さ——綺麗な円がどうやっても描けないという不器用さが露呈して落ち込むのは、もう少し後のことだ。
そろそろ本当に、サブタイトルに「お仕事」を絡ませるのが難しくなってきました……!!
むぅ。でも第四話はラストのサブタイトルが決まっているので、難しくても頑張ろう。




