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ユーティリシアの箱庭  作者: 村上いつき
第二章

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(十一)メンタル管理も重要なお仕事です



 静かに扉がノックされ、入室を許可する返事を返せば、副長官の一人レントン=ワーゲリーがメリンダ=キルフェ管理官を伴い入室してきた。いや、この場合はキルフェ管理官にレントンがついてきた、が正しいだろう。


「長官……」


 無表情でハインリヒの机の前までふらふらと歩み寄り、情けない声を出すレントンに、眉宇をひそめて少々呆れたように「また来たのかね」と返せば、器用貧乏で苦労性の副官は、開いているのか閉じているのか判別のつかない細い目をハインリヒに向けた。


「……死にそうです」


 ぼそりと、今にも倒れそうな声で告げられる。


「その台詞ではまだまだ大丈夫だ。用事がそれだけなら下がりたまえ」


 彼の口癖をそう切り捨てると、一歩後ろに控えるキルフェ管理官に視線を投げた。


「頼んでいたものかね?」

「はい。本日一時間前までの噂をすべてまとめました」


 きりりと隙のない動作でレントンの隣まで進み出てきて、すいと出された資料を頷きながら受け取る。

 ぱらぱらと資料をめくって目を通していると、レントンが机の上に両手をついて顔を近づけてきた。


「……長官。死にそうです。もう無理です。ヤバすぎます……」

「問題ない。まだまだ余裕だ」

「あの女豹どうにかしてください……」

「私の副官ともあろう者が、あんな小娘相手に泣き言を言うのかね」


 ぐいぐいと寄せてくる顔を一瞥すらくれずに押し戻していると、キルフェ管理官が無言でレントンのコートの腰あたりを掴み、ぐいとハインリヒから引き離した。

 キルフェ管理官はハインリヒが何も言わなくても、その場に応じて適切な対応を取ることに優れていてハインリヒも重宝している。癖の強いそれぞれの副官への対応も慣れたものだ。


「あれは魔性です……。私とは相性が合わないのです。もう無理です……」

「安心したまえ。君と相性が合う者など彼女どころかどこにも存在しない」


 傍から聞けば非常に酷い台詞を事も無げに言い放つが、このレントンはどちらかと言えば酷い台詞を言われないと正しく機能しないのだ。

 副官にまで上り詰めてしまったが故に、レントンに酷い台詞を吐いてくれる者は少なくなった。そのため仕事のストレスが溜まるとふらりと現れてはこうしてハインリヒに泣き言を言いに来る。


 この男が面倒なのは、冷たい台詞で褒めて鼓舞してやらなければならないところだ。通り一辺倒に罵倒して冷たくあしらえばいいというものでもないのが鬱陶しい。

 泣き言を言いに来るだけの余力があるということで、面倒な案件を押しつけて追い払うのがハインリヒの常の対応だ。


「シュールデリアでクライツが横っ面を叩いたと記憶しているが、それでは足りなかったかね」


 資料から視線を逸らすことなく問い返せば、レントンは緩く頭を振った。


「そこが叩かれたから他が苛烈です……士気が上がりません。もうボロボロです……これ以上無理です……」

「君が褒めてやれば部下は喜んで働くだろう」

「部下は元気で活動中です。私がもうボロボロでこれ以上動けません……倒れそうです……このままだと死にます……」

「なら何も問題はない。あの程度なら君が不眠不休で潰して回れば二日で片が付く」


 にべもなく言い捨ててやれば、レントンは大きく肩を落とした。


「鬼畜だ……長官が酷い……」

「君はそれがいいのだろう。キリキリ働きたまえ」


 しっしっと顔も見ずに犬を追うように手で払ってやれば、急に顔を上げてすすすすと椅子の横に移動してくると、資料を指差した。


「——私も聞きました。その黒いものの出現情報」


 そこで初めてハインリヒはチラリとレントンを見遣った。

 だがすぐに視線を資料に戻す。


「この十二、十六番の案件かね」

「……そこまで特定されると長官の愛を感じます」

「資料に名がある」


 そこは即座に否定しておく。無視するとしつこく弄ってくるので余計に鬱陶しくなるのだ。


「お戯れもそこまでにしてください、ワーゲリー副長官。長官はお忙しいのです」


 ハインリヒよりも冷ややかに告げるキルフェ管理官は、こういった冗談を一切、受け付けない。むしろ唾棄するほど嫌っている。言ったが最後、今のように目にあからさまな侮蔑を浮かべて部屋の室温を洒落でなく下げてくれる。

 彼女は冷気の魔法を得意としているのだ。


「ああ……この季節にはキルフェ女史の側にいるのが最適解ですね……」

「ご希望でしたら涼しい冷気の檻に閉じ込めて差し上げます。目覚めのない眠りにつけますわ」

「こんなのでも副長官だ。消すよりもオイラー国の例の案件を回しておきたまえ」

「承知いたしました」

「鬼だ! ここに鬼がいる!!」


 五月蝿く騒ぐ元気を取り戻したレントンを無視して、ハインリヒは資料を机の横に置くと地図を広げた。

 ふむ……と頷きながらいくつかの地点を指差し、眉を顰める。


「東大陸に多いな」

「死の森に近いところでよく見られます」


 どうやらようやくレントンが少し正常に機能し始めたようだ。

 先ほどまでのうらぶれた様子が嘘のように表情が改まり、口調にも覇気が出てきた。

 その状態でいくつか地点を指差した。


「気になるのはこことここの二地点です。人が呑まれる現場を目撃した者がいますが、現場に何も残っていないことと、呑まれた人物が厄介者だったので大きく取り沙汰されていないようです」

「ふむ。呑まれた人物の共通点はあるかね」


 資料から目を逸らさずに尋ねれば、キルフェ管理官が静かに首を振った。


「残念ながら、その二地点では特に見当たりませんでした」


 リタの言っていたマークが他の者にも見えるならば、マークの有無で調べようもあるが、見えないのであれば意味がない。


「もうひとつ気になる点が」


 目を細めて地図を睨みながら——レントンがそれをやると細い目がますますなくなって、目を閉じているように見えるのだが——告げられた言葉の先を、ハインリヒが視線で促す。


「死の森付近で魔塔の魔術師をよく見かけます」

「サリエリスの手の者だな」


 少しも躊躇わずハインリヒが呟けば、レントンがピシリと固まった。次いで、「はあああああぁぁぁ~……」と大きく深いため息をついて頭を振る。


「楽しくない……ちっとも楽しくないですよ、長官」


 頭を振りながら、楽しくない、部下の気持ちが分かっていない、なんとつまらないとブツブツと呟くレントンをスルーして、机の横に置いた資料を再び手に取り、ぱらぱらとめくる。何度かそうやって資料と地図を見比べていたハインリヒは、静かに頷いた。


「ふむ……。魔塔が関わっているものとそうでないものが混じっているな」


 その言葉にキルフェ管理官がハッとしたように顔をあげたが、レントンがこの世の終わりのような顔をして机の上にがっくりと項垂れた。


「あああああぁぁぁあああぁぁぁ、この仕打ち。東大陸は私の管轄だからこそ、そこは私に花を持たせるべきではないですか。この資料だけで正解に辿り着くなんてあんまりです。ちっとも楽しくありません。そこは私の考察を聞いて納得するのが正しい上司のあり方ではないですか」

「君ほどの男が上司に戴く者が、そのように愚鈍で満足するのかね」


 言い捨ててやれば、レントンは大仰に両手で顔を押さえて空を仰いだ。

 これでしばらくは動かないので放っておく。

 冷たく酷い言葉を投げかけておいて、このように所々で斜めに持ち上げてやるのがこの男の正しい取り扱いだ。


 まったくもって面倒臭い性格をしている。


 ハインリヒは内心でため息をつきながら、胸元から取りだした万年筆で資料に印を付けると、キルフェ管理官に差し出した。


「これでまとめ直して一部はクライツへ渡しておいてくれ」

「承知いたしました」


 頷いて彼女が長官室を辞しても、レントンはまだ固まっていた。

 非常に鬱陶しい。


「サリエリスの現在の研究は闇属性魔法であったな。だが結果を見るに未だ成功とは言えないようだ」


 机に広げた地図を仕舞いながら独り言のように呟き、先日目にした光景を思い出す。

 周囲が恐れ戦く中、一人だけ目を輝かせてアルトが開いた闇を覗き込んでいた老翁。ヘスとは違う意味で問題児が揃うあの長老達の中でも、倫理観という概念を端から持ち合わせていない老害ほど危険なものはない。

 あれが禁忌とされる闇属性魔法を研究していても今更驚きはないが、人を使って実験を行っている段階だとするならば、そろそろ社会的にも物理的にも消しておくべき頃合いか。

 ふむ、と頷いたとき、のそりとレントンの腕が机の上に置かれた。

 どうやらようやく仕事モードに切り替わったようだ。


「周辺の村や町から人を攫って手当たり次第に魔法陣を刻んでいるようですね」

「闇を呼び寄せる魔法陣を刻んで、そこから現れた闇に刻まれた者が呑まれて終わり、では暗殺としても使い勝手の悪い魔術だな」


 魔塔が関わっている案件は、もれなく人から闇が発生していて、レーヴェンシェルツギルドに現れたモノとはまったくの別物だ。

 しかし、これほどぼろぼろ出てくるとは、自重というものを知らぬらしい。


「成功したらどうなる魔術なんでしょうね、それ。属性が合えば成功するんでしょうか」

「合わせたくとも闇属性を保有する者の絶対数が少なかろう」


 奥の手で闇属性魔法を展開したヘスも闇属性があったか。魔族ですら驚いたことからも、闇属性が非常に珍しいことが窺える。

 そうとするなら、サリエリスがリーリア嬢に興味を示していることからも、リーリア嬢は貴重な闇属性保有者の可能性がある。

 危険はないと本人は言っていたようだが、彼女の背中にあるという魔法陣は中々にキナ臭そうだ。


「魔塔が関わっていない方は、長官は何だとお考えで?」


 問われて、ふむ、と頷きながら視線を机上に移す。

 ゼノが感じた瘴気とは異なる異質な気配。

 リタにしか見えないマーク。

 魔法陣ではなく、空間を移動したとみられるモノ。

 ゼノは闇に触れたことはなかったのか、あるいは忘れるぐらいに昔のことか。そこを聞いてみたことはまだなかった。


「——あれは、正真正銘の闇だろう」


 アルトの開いた入口から見えた瘴気とは異なるモノ。

 あの時空間が隔たれていたにも関わらず、感じた(おぞ)ましさ。あれに触れたなら正気を失う事にも納得がいく。


「ヘスは闇属性の攻撃魔術を隠し持っていたようだが、サリエリスが未だ扱いきれていない所を見ると、あのように闇属性のモノが自由に動ける状態を人が作り出せるとは思えない。ならば——そこにあるのは魔族の介入だ」

「私の管轄外です」

「君に対処を求めていない。心配せずともクライツが担当する」


 このやりとりを耳にすれば「聞いてませんが!?」とクライツが反論しそうな言葉をしれっと述べるハインリヒに、レントンが静かに頷き返した。


「ところで、帝国に追われたクヌートの首長一族は見つかったかね」


 黒いモノに関する話題から、頼んでおいた別案件を尋ねる。

 帝国に従わない者として、故郷を追われた少数民族のクヌートは、古くから存在する戦闘を得意とする民族だ。現状どこにもついていなかった筈だが、これを機に取り込む輩も出てくるだろう。動静だけは掴んでおく必要があった。


「相当慎重に動いているようで、まだ報告はあがっていません——あと、一部の民を教会が保護したようです」

「……ただの慈善活動ではなさそうだな」


 帝国に追われたように、騎士団などまとまった軍と戦えば数で負けるだろうが、地下で使えば非常に優秀な駒となる。それを見逃す女狐ではあるまい。


「引き続き、捜索は続けます」


 レントンの言葉に頷き返し、ああ、と付け加えた。


「魔塔の方も餌にかかった魚を釣り上げておいてくれたまえ。——帝国を叩くついでだ」

「私は犬派なんですが」


 至極真面目そうな顔で即座に告げるレントンを鼻で笑うと、ハインリヒは立ち上がった。


「猫にじゃれつかれたぐらいでここに来るのはいい加減やめて、そろそろ本気で取り組みたまえ。でなければ、クライツに獲物を横取りされるぞ」


 アレは猫に目をつけられたようだからな、と含み笑いで告げれば、レントンが情けない顔をした。


「……猫は苦手なんです。アレを相手にするなら今晩飲みに行きませんか」


 なんだその理屈は、と冷ややかにレントンを見返した。


「今夜は新聞協会の会合に顔を出さねばならない」

「狐狸の集いですか……」


 最もなので反論もせず肩をすくめて返したとき、通信の魔道具が震えた。

 珍しい相手からの通信に、何かあったかと眉を潜めて手首に口許を寄せる。


「君からとは珍しいな。何かあったかね、ゼノ」


 その名にレントンがすう、と気配も消して一歩下がった。


『今晩空いてたら一杯行かねえか? ちょっと話しておきたい事がある』


 ゼノの方から話しておきたいと言われると、かなりな重要案件の可能性がある。ハインリヒは即座に頷いた。


「ふむ。問題ない。店は私の方で手配しよう。迎えをやるのでシグレン家で待っていてくれたまえ」


 わかった、と短い応えで通信は切れた。

 会合には代理を立てねばならないなと、レントンを振り返る。


「聞いてのとおりだ。会合は君に任せよう」

「予定が入る予定です」

「犬派なのだろう?」

「えええ~……狐狸はちょっと違います……」


 可愛くないです、断固拒否します、と往生際が悪いのはいつものことだ。

 レントンの言葉を無視して「今日の詳細はコークス管理官に聞くと良い」と言い置いて歩き出すと、レントンもぶつぶつ文句を言いながら後に続く。


「長官はちょっと私に冷たいと思います」

「三日にあげずに現れては愚痴る部下に、かける情けが微塵もないのは当たり前だ。次は帝国の鼻っ柱をへし折ってから来たまえ」


 そう言って立ち止まるとくるりと振り返り、口許に酷薄な笑みを履いてレントンを冷ややかに見遣った。


「その程度の事が片付けられない無能が、いつまでも私の副官を名乗れるほど甘い組織にした覚えはないが?」


 例外はない ——と冷たく言い放てば、細い目をますます細くしてにんまりと笑い、廊下を進み行くハインリヒをご機嫌に見送るのだから本当に面倒な男である。

 まあ、それぐらいでなければノクトアの副長官など務まるまい。

 ハインリヒは肩をすくめてキルフェ管理官の執務室に向かった。



 * * *



 庭園を出た後に、デュティから催促されて頼まれていた魔石を無事渡すことが叶ったゼノは、その日のうちにシグレン家に戻った。

 というのも、デュティが「アーシェにお返事書く!」と張り切ってしまい、ゼノやリタの相手が出来ないから帰っていいよと、半ば追い出されるように箱庭を後にしたというのが本当のところだ。

 散々、受け取りを焦らしておきながら!と思ったものの、なんだか本当に楽しそうなデュティを見ていると、ゼノもリタもなんとも言えなかった。自分宛の手紙がよほど嬉しかったようだと苦笑しながらアルトに言われれば、文句をつけることも出来ない。


「じゃあ今度は私もデュティ宛に手紙を書くわ」


 とリタが言えば、デュティは目を輝かせて「楽しみにしてる!」と頷いた。

 手紙はゼノのポーチ経由で届くのかと思いきや、ゼノの部屋ならポストが置けるから、後で手紙と一緒にポストをポーチに入れておくとよくわからない事を言われた。


 そんな訳で、その日の夕方に戻って来た二人は「早かったね!?」とびっくりしたアーシェ達に出迎えられることとなった。

 みんなも何日か箱庭に滞在すると思っていたようだ。

 慌ただしい訪問ではあったが、用事はすべて済ませた。直通転移陣で簡単に行き来ができることが確認できたことで、ゼノの中で箱庭はいつでも帰れる場所、という認識に切り替わった。


 今夜はこのままシグレン家で夕食をとり(やす)んでも良かったのだが、ゼノは少し落ち着かない気持ちになり、ハインリヒに連絡を取った。

 本当は忙しい男が、ゼノからの誘いを断った事はない。

 まあ、ゼノが声をかけるよりも、先回りでハインリヒが現れる確率の方が高いので、誘うこと自体が珍しくはあったのだが。


 ハインリヒに案内された店は、ルクシリア皇国の繁華街から少し離れた所にあり、ゼノが話しておきたいと言ったことで機密性が高いと判断されたか、ノクトアドゥクスの息がかかった店の二階の個室となった。


「日帰りになるとは思わなかった。これまでそんなことはなかっただろう」


 グラスを傾けながら意外そうに告げるハインリヒに、ゼノはガシガシと頭をかきながら「あ~」と短く返した。


「アーシェに触発されたか、デュティが手紙に目覚めてな」


 と事の次第を話せば、ふむ、と静かに頷いた。


「相変わらず精神年齢の読めない男だが——外部から彼宛に手紙がなかったというのは仕方ないな」


 そもそも手段がない。

 それに、デュティとそのように親しくやり取りを行う知人は外界にいないし、ゼノが出ていたとしても、手紙を書くなどありえない。


「話には聞いていたが、アーシェは中々筆まめなようだな。シグレン家でも女性陣や弟達を相手に交換日記を始めたとか」


 なんで一緒に住んでる俺より詳しく知ってんだ?と思わなくもなかったが、ハインリヒが色々知っているのは今更だ。


「二百年前もギルベルトやヒミカ達と文通してたぜ。熱心に続いてたのはギルベルトかな。あいつも強面ででかい図体の見た目に反して筆まめでな。アーシェが眠りについてからも、死の際まで定期的に手紙を送ってくれた」


 思い出すと痛ましくなる。ゼノは中身を見なかったし代わりに返事を書くでもなかった。それでもせっせとアーシェ宛に手紙を書き続けたギルベルトには、もっと何か返せれば良かったと、友人を見送った後に後悔したこともゼノにとっては苦い思い出のひとつだ。


「——ふむ。ギルベルト=フォン=ハールヴェイツ騎士団長はそこまで熱心であったか。彼が送り続けた手紙はどうなったのかね?」


 問われて、ゼノは、ああと返しながら当時を思い起こす。

 アーシェは眠りについてる、意味ねえだろ!とゼノが八つ当たりのように冷たく返しても、笑いながら言ったのだ。


 アーシェが目覚めた時に、楽しんでもらえたらそれでいい、と。


 本当に、あの男は……

 静かに目を閉じ苦笑する。


「箱庭の道具箱にすべて保管してある。アーシェが目覚めた時に読めるように。いつでも取り出せるようにデュティがしてくれてる」

「……なるほど」


 ハインリヒはグラスを軽く揺らしながら頷いた。

 カラカラと氷が転がる音が小さく零れ、二人の間にしばし沈黙が落ちた。

 小さなランプが三個だけ配置された室内はほの暗く、だが温かみのあるその色はこの場を柔らかく包み込む。かつての親友に思いを馳せながらゼノはグラスに口をつけた。


「それにしても、ここにきて箱庭は随分と態度を変えてきたのだな」


 どこかしんみりとした空気を切り捨てるように告げられた言葉に、ゼノも頷く。そこはゼノも驚いている点だ。

 これまで、箱庭の場所を特定される恐れのある事には慎重だった。なのにここへ来てリタの家に直通転移陣を設置し、気軽に行き来できるようにした事がまず信じられない。


「リタの存在が、箱庭にとってでかかったってことか」

「……アルトとは、ゼノも今になって初めて会ったと言っていたな」


 本当に?と聞かれて頷き返す。


「ああ。アルトと出会ったフィリシアの庭園そのものに、今回初めて入ったしな。まあ、俺はこの二百年、思ってた以上に周囲に無関心だったんじゃねえかって反省してる所だ」

「遅い」


 ピシャリと断じられて、ぐうぅと呻く。もっともなので言い返せない。

 だがゼノにだって言い分はある。

 目覚めない娘達から目を逸らしたくて外界へ行っても、自分だけが取り残されていくのは地味にキツかった。周囲へ関心を向けないようにしなければ、辛かったのだ。

 とは言え、アザレアやヒミカといった同じ立場の者がきちんと受け止めて時を重ねていることを考えれば、ゼノのそれは言い訳に過ぎない。

 それが十分にわかっているため、口籠るしかなかった。


「遅いが、理解出来たのなら進歩か。それで、今後は外界とも箱庭とも向き合っていくことを決めたということか」

「……まあな」


 グラスをぐいと煽って、テーブルに置く。辛口ながら度数が低めのその酒はハインリヒが好む銘柄のひとつで、話をじっくりと聞こうとする時によく呑む。


「俺ぁ、論理的に考えたりいくつもの情報から新たな情報を導き出したりするような、知恵働きは苦手だ。根拠のねえ勘で動いている」


 常ならここで辛辣な同意が入るところだが、わかりきったことをわざわざ言葉にした事に感じるものがあったか、ハインリヒは茶化しもせずに視線だけで続きを促す。ゼノはハインリヒから、手の中のグラスに視線を移した。


「アザレアも、考えるぐらいなら勘に従えと言う。――フィリシアも、俺の勘を信じると言ってくれる」


 今生で第六盟主を斬った時も、それまでの諸々もいつだって自分の勘を頼りに動いてきた。そして恐らく、前世でもそうだったのだと思う。


「俺の勘は……ヤバい事ほどよく当たる。日常の、些細な……それこそ命に関わらねえ事には大した働きはしねえ」


 そこで一旦言葉を切って、テーブルに置いたグラスを掴んだ手に力が籠もるのを、意識して散らす。その指先が少し震えているのを見て、呆れたように笑ってみせたが、失敗した。


「俺に前世の記憶があるのは間違いねえ。——だが、それを思い出すのは、かなりヤバい事になる……と勘が告げる。脅かす、と」


 言い切り、静かに息を吐く。

 ハインリヒはすぐには言葉を返さなかった。

 こんな断片的な勘の話をされても、彼とて困るだろうとゼノも思う。

 だが、感じた焦燥感はこれまで感じた事のない程のものだ。

 危険だと。


「君の」


 ハインリヒはボトルを手に取り、空になったゼノのグラスに酒を注ぎながら、静かに告げた。


「君の勘なら私も信を寄せている。たとえ千や万の情報から導き出した答えだとしても、ゼノの勘と異なったなら私は迷う事なく君の勘の方を取るだろう。それがどれほど荒唐無稽だとしても」


 三十年以上も前から身にしみている、とハインリヒに言われれば、こんな話の時でなければゼノも恥ずかしくも誇らしく思ったかもしれない。

 だが、信を寄せられれば寄せられるほど、この危機感はやはり危険である事の裏付けにしかならない。


「私が見たところ、残念ながら事態はすでに動き始めている。君の危惧する前世の記憶が、この事態にどのような一石を投じるのか、今はまだ私にも読めない」


 動き始めている、と言われてギョッとしてハインリヒを見た。ハインリヒに言われること程恐ろしい事はない。

 ハインリヒはゼノの様子に片眉をあげて、呆れたように嘆息した。


「フィリシアの顕現、アルトとの邂逅、箱庭の対応の変化——何より、君の娘達の目覚め。これほどの変化が起こっているのに、何もない訳はなかろう」


 確かにその通りだ。改めて言われれば、すべて変化した点だ。


「ゼノは元々前世の記憶を持っていた。二百年前には欠片も思い出しもしなかったのが、今になって急に思い出されたのは何故だね? これまで起こった事態に関わっているのは?」


 問われて、黄金(きん)色が脳内に広がる。

 ——リタ


 二百年前との違い。そしてすべてに関わる者。引き金はすべて——リタだ。


「彼女の存在……前世で君と関わりの深い彼女と出会った事で事態が動き出したのであれば、間違いなくピースが揃ったのだろう。ならば、恐れる事はない」


 力強く断言されて目を瞠る。

 ハインリヒは一旦言葉を切ってグラスに口を付けた。

 ゼノは呆然と、言われた言葉を反芻しながら彼を見つめる事しか出来なかった。

 ことりとテーブルの上にグラスを置くと、ハインリヒは口許に笑みを浮かべた。


「君にとって、リタは敵かね?」

「……んな訳あるか」

「そう、味方だ。少々頼りないが、君にとっては事態を良い方向に導く者だ」


 言われて、リタの明るい笑顔を思い出す。

 彼女のおかげでアーシェやサラは目覚めた。

 彼女がいたから庭園に足を踏み入れる事になった。

 彼女のおかげで、デュティの異なる一面を知る事が出来た。

 いずれも悪い事じゃない。

 何より。


「あいつは……前世でも俺の味方で、俺の——妹分、だ」


 ——わたしも! わたしもゼノのこと信じてるわ!だって、妹だもの!!


 そう宣言する幼い彼女の明るい笑顔が脳裏に浮かんで、知らずゼノは微笑した。初めて思い出した前世のリタの笑顔に安堵する自分がいる。

 その様子を微笑を浮かべたまま見つめていたハインリヒは、静かに目を閉じてグラスを傾ける。


「君の抱える記憶がどのような事態を引き起こすにしろ、心配はいらない。なにせ」


 次の瞬間には意地悪くニヤリと笑って、揶揄うようにゼノを見た。


「魔王と聖女の加護持ちだ。敵が神でも魔族でも、恐るるに足りないのではないかね?」

「……どうだか」


 少々きまりが悪くなって、ハインリヒから目を逸らして囁くように返すにとどまった。ゼノのその態度をハインリヒが低く笑う。


「私も含めて、君の味方は多い。どのような事態が起ころうとも心配はいらぬ。——君の勘は、君が守りたいと思う者すべてを守るためのものだ。君が恐れるために感じるものではない」


 先程と打って変わって穏やかに告げられた言葉に、ああ、とゼノも低く頷き返した。


 ハインリヒに今更何も取り繕う事もないが、自分は恐らく、その言葉を聞きたかったのだろう。他ならぬハインリヒから。

 情けない姿なら、目の前のこの男には嫌と言うほど見られてきた。一つ二つ増えたところで今さらだ。

 それが気安くある相手は、ゼノにとっては貴重だった。


「ふむ。それではもう少しキツいのに変えようか」


 話はこれで終わりだと言うように、ハインリヒがテーブルに置かれたベルを鳴らせば、店の男が別の酒と新たなつまみを持って現れた。


「あんま遅くなると怒られるんだよ」


 家を出る前にアーシェに釘を刺されたことを仄めかせば、ハインリヒはニヤリと笑った。


「ほう。そのような心配の必要が出てきたことは喜ばしい。ならば今夜はぜひ叱られたまえ」


 お前なあ、と言い返しながらも、それは遠い昔によくあった事だったと思い返せば、娘達に叱られるのも悪くない。

 先程とは打って変わって度数の高い酒をお互いに注ぎながら、グラスを合わせる。


「君からの誘いはいつだって歓迎だ。愚痴だろうが頼み事だろうが気にせず連絡をくれたまえ」

「ああ、助かる。——なにせ、情報はノクトアに渡して答えだけを聞けとアザレアに言われてるからな」

「さすがはアザレアだ。よくわかっている」


 ゼノは肩をすくめてグラスを煽った。



 * * *



 ゼノとの久しぶりの心地よい時間を過ごした後、隠れ家のひとつである部屋に戻ってきたのは、日付もとうに変わった二時を過ぎた頃だった。ゼノもハインリヒも酒豪なため酔い潰れるということはないが、きっとあの時間に帰りつけば、ゼノは明日娘たちに叱られることだろう。


 部屋の灯りは落としたまま上着を椅子の背に掛け、ベッドに腰掛けて先程ゼノから聞いた話を整理する。


 彼の勘は、危険度の高いものほどよく当たる。


 それは、ハインリヒがゼノと出会った頃から、嫌というほど体験してきたことなので間違いない。その彼があそこまで不安に思うのであれば、恐らく相当の危機に違いない。

 守るべき者が手元にあるが故の恐怖も確かにあるだろう。

 だが恐らく、それだけではない筈だ。

 少なくとも、アルトがハインリヒに課した役割はまだ始まってもいない。ならばこれから何かが起こるのは確定事項だ。

 未曾有の事態とは、起こった事がないからこそ、情報をいくら集めた所で正解には辿り着けないものだ。それこそ、ゼノの勘を頼りにするしかない。


 彼の前世の記憶には恐らく重要な何かが隠されている。思い出すと同時に危険が迫るのか、あるいは対策を講じる猶予があるのか。いずれにせよ、ゼノがどれほど抵抗したところで、思い出されるのは時間の問題ではないかと睨んでいる。ある、と意識された時点で、表に出てくる事は決まっているのだ。


 そしてアーシェ宛のギルベルト騎士団長の手紙。

 そこには色々情報がありそうだ。恐らく、例の件についても。


 ふ、と短く息を吐き、通信の魔道具に目をやる。緊急ではないが、連絡を希望する通信が入っていた。


 よもやレントンではなかろうな。


 面倒な奴の相手は今夜はお断りだと目を落とせば、相手はクライツだった。

 珍しい。彼にはこちらから面倒な案件を投げる事はあれど、彼からこのように連絡が来るのは数年ぶりではないか。

 何かあったのか、といつでも連絡可能な事を魔道具で合図をすれば、すぐに連絡が来た。


「私だ」

『このような時間にすみません』

「何かあったかね」


 口調から、あまり元気がない事が窺えて眉根を寄せる。些細な違いだが、クライツが少年の頃から付き合いのあったハインリヒには隠そうとしてもわかる。

 少し躊躇った後に力なく紡がれた言葉に、ハインリヒは額を押さえた。


『——できれば、近々お時間をいただきたいのですが』

 ——お前もか


 ハインリヒは内心で大きなため息をついた。

 



副官は、そんな変な人にする予定じゃなかったんですけど……おかしいな。

まぁちょっと今回は、書いてる私だけが楽しい回だったかもしれません。

リタ出てこないし。

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