(六)お仕事は時に特殊な手段も使えます
クライツはぼんやりと空を眺めながら、果たしてこの後どう動けばシュールデリア国のバーンアイト家のお家騒動を片付けられるのかを考えていた。
今日の午後――本来であれば、騒動のキーマンの一人が参加するお茶会でひとつは証拠を掴む予定であった。
その機会を投げ打って優先したのは、ゼノからの依頼だ。
ゼノがこの平原に足を踏み入れて、かれこれ一時間ほど経過しているだろうか。足手まといになるからという理由で、クライツ達はこの平原の入口付近で待機している。時間はあれども、件の地から遠く離れたこの地で出来ることといえば、頭を働かせることぐらいだ。
だが、何をどう考えたところで、明日までに解決出来る糸口は掴めなかった。八方塞がりだ。
もう投げ出してしまいたいなと、内心でため息をついた時、こちらに戻ってくるゼノの姿が見えた。
「悪い。随分待たせたな。ここは本当に魔族が多くて助かったぜ」
「いえいえ、大丈夫ですよ。――まだ一時間ほどですが、もう終わったんですか?」
背に大剣を背負ったゼノがひらひらと手を振りながら、非常に軽く述べる言葉に、クライツは微笑を浮かべて応えた。
戻って来たということは、わずか一時間ほどで目標の三十個の魔石を――ランクB以上なら一体に二個魔核があったとしても、十五体以上の魔族を斬ったということだ。恐らく予備も狩っているはずなので、実に二十を超えるだろう。
ランクB以上の魔族を一時間で二十体以上無傷で斬り捨てる力に、彼の実力を改めて思い知らされる。
ゼノからクライツに連絡があるのは、クライツが担当になってから初めてのことだった。正直な話、この程度の魔族の出現情報であれば、レーヴェンシェルツギルドを通せば簡単に入手できる上に、規制がかかっているバーレン平原への立ち入りに関しても、ゼノなら問題なく口利きして貰えた筈だ。
なにより彼がいた場所はレーヴェンシェルツギルドの本部があり、ハインリヒが滞在していることもクライツは知っている。
だがそれを理由にゼノの依頼を断ることはしてはならない。
些細な事から困難な事でも、ゼノの依頼はすべてノクトアドゥクスで請けるというスタンスで通してきたからこそ、ノクトアドゥクスの担当者はゼノの信頼を得てきたのだろう。それを引き継ぎ次代に――次代があるというのもゼノにとっては不幸なことだが――引き継ぐことこそがゼノ担当者の役目のひとつに他ならない。
故に、これはクライツ達にとって重要な仕事だったのだ。
――たとえ今任されている他の案件が、非常に切羽詰まっていたとしても。
「いや~、ほんと助かったぜ。どうしても大量に必要だったからな」
「魔石を買う、という方法はお金の面を抜きにしてもなしだったんですか?」
シュリーが控えめにゼノに尋ねた。
ランクB以上の魔石というのは確かに貴重ではあったが、精華石と異なり購入できないレベルではない。急ぎであればわざわざゼノが狩りにいかなくても入手する方法はあった筈だ。
今後のためにもシュリーは確認しておきたかったのだろう。クライツも特段止めはしなかったが、答えは分かりきっている。
「市場に出回っている魔石は質が悪すぎるからな」
そう言ってゼノは腰に下げたポーチを漁ると、魔石をシュリーに渡した。何気なく受け取ったシュリーが手の中の魔石を見て目を瞠る。
「えっ……!?これが、ランクBの魔石ですか……!?」
シュリーの驚愕の声にやはりな、と内心で頷く。
資料にはゼノが魔族を斬った時に得られる魔石の質は、他と比べようもないほど質がよい、とあった。
そういえば実際にゼノが斬った魔族の魔石は見たことがなかったなと、クライツとデルもシュリーの手の中を覗き込んだ。
そこにはシュリーが驚くのも理解できるほどの、澄んだ淡い水色の宝石が転がっていた。いや、ゼノが魔石だと言うからにはこれは魔石なのだろう。だが、このように澄んで輝きを放つ程のモノは見たことがない。
「魔族の核石にも中心点が存在してな。そこを正しく斬ってやれば純度の高い魔石ができる。まぁ、それが難しいから市場にはクズ魔石しか出回らねぇんだけどよ。多少マシなのもあるが、そんなものより自分で斬った方がはえぇ。それに、デュティはランクがBでもこれぐらいのレベルを求めてるからな」
「……これほどの……」
魔石を見慣れている筈のデルもごくりと息をのんだ。
クラスS冒険者でもこれほど質の高い魔石は作れないだろう。彼が剣聖と呼ばれるのも納得だ。水晶華の時も思ったが、中心点を狙って斬るというのは生半な事では出来ない。それこそ相手は植物ではなく、必死で抵抗してくる魔族だ。
「今回は魔石のレベルはそこまでいらなかったんだが、数が必要でな。お前さん達に魔物の情報をもらったって訳だ」
「ちなみに何体斬ったんですか?」
デルの言葉に、ゼノはガシガシと頭をかきながら「覚えてねえな」と決まり悪そうに答えた。
「じゃあ、何個の魔石を得たんですか」
「……六十ぐらい、か?途中で数えるのが面倒になったからなぁ。 あぁ、余分にあるからそいつはやるよ」
「え!? い、いえ、魔石は貴重な……」
そんなつもりでこちらも尋ねた訳ではない。シュリーが慌てたようにゼノに返そうと伸ばした手を、いーからいーから、とゼノは押し戻す。
「俺はいつでも手に入るからよ。別に貴重でもなんでもねぇ」
ゼノは笑ってそう言うが、魔石は貴重だ。ましてや彼が言うようにレベルの低い魔石が大半を占める中にあっては、この純度の魔石はランクBの魔物のモノといえど、それなりの価値が付く。
精華石もそうだが、ゼノはほいほい気軽に人に渡しすぎだ。
「ですが……」
なおも躊躇うシュリーにゼノはひらひらと手を振って「い~んだよ」と畳み掛けるように魔石を押しつけた。
「元々換金する手間も面倒で、余った石はいつもハインリヒに押しつけてたしな」
換金するなり使うなり好きにしてくれ、との言葉にクライツは納得した。そうやって魔石を換金した費用でゼノの要望にこれまでも応えてきているのだろう。ゼノには一切支払わせるなとの引き継ぎも受けている。
――まぁ、旅費と宿泊費に今回の情報料を換算しても、この魔石ひとつでかなりなお釣りがでるんだがな……こちらがもらいすぎだ。
ハインリヒが言っていた彼への借りはこれらの魔石のことだろうか。確かにこれほどの質の高い魔石がこれまでずっと定期的に提供されていたのであれば、相当の費用になるだろう。また、高ランクの魔石は、然るべきところに恩を売れたこともあったに違いない。
――だが、それだけだろうか。
魔石をじっと見つめながら考える。
このことだけで、ハインリヒが「理解できなければ組織もそれまで」と言わしめる事態であろうか。この魔石だけでは――情報という観点が全然足りていない。
「……では、今回こちらの魔石はお預かりします……」
「気にせず使えよ。返す必要はないからな」
ゼノに根負けしてシュリーは大人しく魔石を受け取ると、困ったようにクライツを見上げた。クライツは促すように頷いて返す。ゼノがここまで言ってくれるなら、大人しく受け取っておく方がいい。
「ここでの用事はこれで終わりですか?他には何か?」
「お前さん達はどうなんだ?」
質問に質問で返され、クライツは首を傾げた。
「ハインリヒが言ってたぜ――ちょっと声をかけてやってくれないかってな。お前さん達こそ何かあるんじゃねぇのか」
その言葉にクライツは押し黙った。
今確かに自分達は必要な情報が入手出来ずに困っている。そのことをこの案件を回してきたハインリヒが知っているのは当たり前だ。だが、それを今ここでゼノに話す必要性とはなんだろうか。
ハインリヒがわざわざ、ついでに声をかけてくれとゼノに依頼した意味とは?
「ああ、忘れるところだった。そういやリタからもデルに伝言があったんだ」
ぽんと手を打ち、ゼノが思い出したようにデルに向き直った。突然名指しされたデルがぱちくりと目を瞬かせる。
「……リタから? 俺に?? シュリーじゃなく?」
その疑問はよくわかる。クライツも相手を間違えてやしないかと首を捻った。
「ああ。俺がクライツ達とここに来るって話をハインリヒとしてた時に、突然な。ええと、なんだっけ。自分もハインリヒに負けないように頑張るから、デルも引き続き頑張れ、だったかな。なんでもお前さんとリンデス王国でそういう話をしたと言っていたぞ」
――ハインリヒ、引き続き頑張れ、か
素早くデルやシュリーと目を見交わせた。
つまり、ここまでのゼノへの対応は、どうやら師匠の要望通りであったらしい。それをわざわざゼノに託すとは。それもハインリヒの目の前で。
「リタさんがデルにメッセージとは珍しいですね。長官も驚かれたのでは」
シュリーがもう少し情報を引き出そうとゼノに投げかければ、ゼノもああ、と頷いた。
「苦笑しながら及第点だと言っていた」
クライツも苦笑した。
どうやらハインリヒの雰囲気で、今回のゼノの件が少々特殊だと彼女なりに気付いたのだろう。通常ならあり得ないデル宛の伝言という形で、ハインリヒの様子を伝えてくれたのは、ひとえに共に行動するシュリーのためなのだろうが――
「これで、リタの目的は果たしてるか?」
ゼノがクライツ達を見回しながら尋ねた。
どうやらゼノにも、リタが何らかの情報をクライツ達に渡そうとして頑張った、ということはわかっていたらしい。
「ええ。今度お会いした時はケーキをご馳走すると伝えてください――シュリー付きで」
「ああ……喜びそうだな」
少々遠い目をしたゼノはシュリーを見て呟き、シュリーも苦笑を返した。
しかし、引き続き、というならばこれで終わりではなさそうだ。ならば、今行き詰まっている案件について、ゼノは情報を入手できる立場にいるのだろうか。
そう考えてクライツはゼノに向き直った。
「ゼノは、バーンアイト家かシュールデリア国、またはそこに繋がる人たちにお知り合いがいるんですか?」
確かめる意味で、クライツは尋ねた。
「まったく知らねーな。バーンアイト家なんざ初めて耳にする」
即答である。
……まぁ、そうだろうな。期待はしていなかったさ
ほんの少し、もしかしたらとの期待があったのは否めないが、バーンアイト家はゼノがつきあうような人種にはまったく見えない。どちらかといえば毛嫌いしそうなタイプだ。
「お前さんたちにはそのバーンアイト家の情報が必要なんだな?ハインリヒが声をかけるぐらいだ。そう簡単に入手できる情報じゃねぇんだろ?」
違うか?と問われて苦笑しながら頷いた。事実、明日までにはどうしても必要な情報がある。裏付けや証拠がなければ動けない案件だ。
「ええ、実は困ってます。ですが、ゼノが気を遣うことはありませんよ」
「馬鹿いえ。それこそがお前がハインリヒから引き継いだ仕事だろうがよ」
「え?」
予想外の言葉にクライツは驚いてゼノに聞き返した。
それはどういうことか、と続けて問いかける間もなく、ゼノは左手の手袋を無造作に外すと手の甲にあるタトゥに触れた。
それは、クライツも目にしたことのある、とある魔族の紋章だ。
「ヘルゼーエン」
「!?」
次いで紡がれた名前にクライツはぎょっとして体を強ばらせた。
途端に周囲の空気が揺れたのを感じる。転移だ。
デルが息をのみ、シュリーがクライツの腕に取り縋った。
目の前に見えていた山野の景色が瞬く間に消えてなくなり、ぐらりと揺れる視界に軽い目眩を覚えるのを目を閉じてやり過ごすと、次に目を開けばそこは完全に異空間だった。
宙空にうずたかく積み上がり果てが見えない書棚。蒼白い炎を閉じ込めたランプがゆらゆらと空中を動き回り、ぐるりと周囲を取り囲む石柱と、果ての見えない書棚――。
今日は最初から存在感を持つ大きな天秤が、クライツ達を出迎えた。そしてそこにこの空間の主である一人の魔族が天秤の台の前に控えていた。
ヘルゼーエンが支配する図書館、天秤の間。
クライツも過去に四度渡ったことのある空間だが、肌を突き刺すぴりぴりとした緊張感と圧迫感が漂う独特の雰囲気に慣れることはない。おまけにここで行われるのはまさに、情報のやりとりである。欲しい情報と提供する情報の価値を合わせてこの情報を支配する知の魔族ヘルゼーエンと鎬の削りあいを行う場だ。
彼が満足する情報を提供するのは難しく、釣り合う情報の提供が出来なければこの空間を出ることは適わないと言われ、偽りを述べたり彼にとって価値がないと判断されるとそのまま消される「情報への正当な評価と対価を支払わねば」破滅する空間と言える。
事実、それを破った者がどうなるのかをクライツは先日見たばかりだ。ヘルゼーエンからはどのような情報も入手出来るが、気安く取引を行うべきでないということは、組織の者でなくても情報を扱う者なら誰でも知っている。
そのヘルゼーエンの間に連れてこられるとは……
「あぁ!ようやっと来たのかい、ゼノ。待っていたよ」
だが、クライツ達の耳に飛び込んできたのは、彼の知っている酷薄で冷徹さを感じるヘルゼーエンの言葉ではなかった。
「俺はどうでもいいんだが、そろそろお前も実力行使をやりそうだったしな」
「ふふふ。ハインリヒの後任が決まって安心したよ」
聞いたことのない弾んだヘルゼーエンの声に驚きを禁じ得なかったが、笑いながら視線を寄越され知らず体を強ばらせた。
「あぁ、やはり彼がそうだったんだね。見たときにそうじゃないかと思ったよ。ふふふ……ハインリヒに続いて優秀そうで安心したよ」
元々この空間では必要以上のことは話すなということを叩き込まれているので、軽口にみえる彼らのやりとりに口を挟む気はないものの、いやに上機嫌なヘルゼーエンの様子がクライツの知る彼の姿と異なりすぎて、口をきけたとしてもなんと返していいのかわからず押し黙る結果となっただろう。
「必要な情報があるんだってよ。頼まぁ」
「楽しみに待っていたところだよ」
クライツ達を置いて二人の間で話が進んでいくのに我に返ると、慌ててゼノの手を引いた。
「待って下さい!彼からの情報は……」
「これが君の仕事だよ。詳しく説明は受けていないだろうけどね」
思わぬ人からの言葉にクライツはヘルゼーエンを見やった。口許にうっすらと笑みを履くその表情に背筋が凍る思いだが、何が起きているのか正しく理解をせねばのっぴきならない事態になる。
「……我々の情報料を彼に肩代わりさせることが、ですか」
まさかハインリヒがそのようなことをゼノに強いていたことが信じられず、クライツも自然厳しい表情となる。ヘルゼーエンがどのうような魔族なのか、ハインリヒが一番理解している筈だ。
おまけに、先日ここで蒼い焔に包まれた男は、まさにそれをやったのだ。
「ふふ……やはり君は正しく理解するね」
満足そうなヘルゼーエンの言葉にクライツはすぅっと目を細めて彼を睨み付けた。クライツに取り縋っていたシュリーやデルが、滅多に見せない彼の怒りに息をのむ。
クライツの殺気に気付いているだろうに、しかしながらヘルゼーエンは微笑を浮かべたまま微動だにしなかった。
しばし無言で睨みあう二人のぴりぴりとした空気が漂う空間に、はぁ、とゼノの呆れたようなため息が響いた。
「挑発すんなよ、ヘルゼーエン。それに、お前さんも抑えな。心配しなくてもお前さんが思ってるような関係じゃねぇ。……ったく。ハインリヒはなんでちゃんと説明しておかねぇかな」
がしがしと頭をかきながら、呟くような言葉でこぼすゼノは、困ったような呆れたような表情だ。
「理解して怒れる者でなければ任せられないという、ハインリヒなりの試験なんじゃないかい」
愛されてるね、とからかうヘルゼーエンにゼノは舌打ちしてそっぽを向いた。
二人のやりとりに危惧していた状況ではないらしいと悟り、クライツは視線でヘルゼーエンに問うた。ヘルゼーエンはふふふと笑うだけでそれには応えない。仕方なくゼノに視線を投げかけると、ゼノはチラリとヘルゼーエンに視線を投げて大きくため息をついた。
「心配しなくてもここの仕組みは俺もよく知ってる。ヘルゼーエンの性格も、つきあいが長い分お前さん達より俺の方が詳しいだろう。そうだな……お前さん達は魔族の死紋のことは知ってるか?」
「――死に際に特定の情報を刻みつけると言われている紋のことですか?」
「そうそう、それ。その死紋ってやつは、ある等級以上の魔族になると、殺された場合は勝手に殺した相手に死の前後を刻みつけるらしいんだわ。不思議な特性だけどよ。その死紋を見れば誰がつけたか、何があったかわかるっていうからくりらしい」
魔族の死紋についてはそれこそハインリヒから聞いたことがある程度で、クライツ自身は見たことがない。他でもあまり耳にしないので、知っているのは一握りの者だけなのかもしれない。
――ああ、そういえばゼノの魂には確か『死紋ホルダー』という名称が刻まれていたか。
「ふふ……君が目にしたことがないのは当たり前だよ。あれを見るのは魔族の特殊な魔力が必要だからね」
クライツの心を読んだかのように、ヘルゼーエンが補足する。そしてゆっくりとゼノに歩み寄るとその左腕に触れた。
途端に、ゼノの左腕にびっしりと禍々しい黒い楔のような模様が浮き上がった。
「!?」
袖口から見えている腕だけでもかなりな模様だ。まさかこれが――とヘルゼーエンを見やると、こくりと頷かれた。
「ゼノほどになると数が多すぎてね。手袋で隠れている手の平も甲も肩口を越えて右腕まで死紋だらけだよ」
言われれば確かに左腕ほどではないが、右腕にも模様が見える。ただのタトゥとは違って模様から禍々しい気が滲み出るかのような気配さえある。魔族の断末魔で刻まれた紋なのだ。怨念がこもっていても不思議ではない。
ヘルゼーエンはゼノの左腕を持ち上げ、死紋をクライツに見せつけるようにすると、その細やかな文様のひとつを指で示した。
「このあたりだと今の君たちがランクSだと言う魔族の死紋かな。瞬殺されることが多いので複雑な紋は刻まれない。このあたりになると何合か切り結ぶことがあるから、複雑になってくる」
楽しそうに説明するヘルゼーエンの言葉を聞いていると、ゼノにとってランクSの魔族など取るに足りないレベルらしい。さすがは剣聖、というべきか。
だがヘルゼーエンの言葉通り、弱い魔族であれば単純な紋に、強者であるほど複雑な紋が刻まれるというのであれば、ゼノの腕に刻まれた数々の複雑な紋様は、どれほどの強者によって刻まれていったのか……
ゼノの強さに感じ入りながら紋様に見入っていると、ヘルゼーエンはそのうちのひとつで指をとめ、チラリとクライツに視線を寄越して人の悪そうな笑みを浮かべた。
「今回はこれにしよう」
どこか楽しそうな声のまま、彼が死紋のひとつをなぞると、その死紋からゆらりと黒い靄のようなものがゆっくりと立ち上り、そのまま台座の天秤の皿の上に落ち着いた。
ヘルゼーエンの情報の天秤。
情報の価値を測る天秤で、基準はヘルゼーエンの興味という読みにくいものではあるが、知に貪欲な彼は些細な情報にも価値を見出す。この天秤が釣り合って初めて契約成立となる。
ゼノの死紋から立ち上った黒い靄は、それなりの価値を持って天秤を傾かせていた。
「さぁ、私が知りたいこの情報に釣り合う情報を要求したまえ。遠慮はいらない」
楽しそうに告げるヘルゼーエンに、だがクライツは厳しい表情を向けたまま首を振った。
「まだ理由に納得していない」
「流石に慎重だね」
やれやれとヘルゼーエンが呆れを滲ませて肩をすくめる。それでもこの魔族に唆されて碌でもない結果になるのは避けねばならない。
「いいから知りたい情報を言ってみな。でないとその理由もわからねえさ」
本末転倒なゼノの言葉にクライツは閉口するも、二人から重ねて無言で促されて宙を仰いだ。
このままこうしていても埒があかない、か……
クライツは覚悟を決めて口を開いた。
「アーンバイト家と王家の密約状の所在について」
慎重に、必要最小限の質問を述べるにとどまる。クライツが伝えると台座の天秤に動きが生じた。緊張の面持ちで秤の動きを見つめる三人の目に、そろり、と僅かに秤が傾いだのが見えた。
「……全然足りないんだけど」
憮然とした様子でヘルゼーエンがクライツを見やる。
「……」
必要最小限とはいえ、重要で、一番必要な情報だったのだが、彼の天秤でこの程度の価値しかないのはどういうことか。
確かに、前回この間に来たときに要求したハンタースギルドの初代印章の所在よりも価値は低いだろうが、それでも一国を揺るがしかねない情報だというのに。
――考えられることは……
無言のままゼノを見やると、ゼノはこっくりと頷いた。
「こいつが欲しがる情報をやると、もらう情報がてんで足りねーんだよ。わかるだろ?お前さんらが欲しがる情報でこれだぞ?俺が欲しがる情報でこの天秤を釣り合わせようとしたらどうなると思う?」
いささか疲れたようなゼノの言葉に、クライツも嫌な予感がして顔をしかめた。
「まさか……出られない?」
経験したことがあるのだろう、心底嫌そうに頷くゼノに、事の全容がクライツにもわかってきた。
ゼノとしてはヘルゼーエンなどに用事は全くない。それこそ、彼が必要な情報はギルドやノクトアドゥクスで十分に賄える。
だがきっと、ヘルゼーエンはゼノから情報が欲しいのだ。この夥しい死紋をすべて読み尽くしたいと願っているに違いない。しかし、いかに彼でも釣り合わなければ情報は得られない。彼らは制約があるからこそ力が振るえるのだ。
そして恐らく、過去に強制的にこの場に呼び込み互いに苦労した事があったに違いない……
「諦めるという選択は……」
「そこにとびきりの情報があるとわかっているのに、論外だね」
即答するヘルゼーエンに、だろうな、と内心頷く。
彼は知の魔族。情報や知識を知ることを至上の喜びとする。ハインリヒから聞いた話では、彼には人間の情報であれば得られない物はないと豪語するほどの情報収集手段を持っている。だが、そこに一度魔族が関わると、情報を得ることが簡単ではなくなるらしい。ヘルゼーエンより下位の魔族であれば問題はないが、上位クラスになると彼でもひと手間かかるそうだ。
なるほど。「我々の代でも返しきれない借り」というのは、ヘルゼーエンがゼノから得た情報分、積み重なっていったわけだな……
そしてその事を正しく理解する者でなければ、それこそ情報への真摯さが足りないと組織ごとヘルゼーエンに切り捨てられる。
クライツはハインリヒの言葉を正しく理解した。
そしてこれはゼノのためにもなるのだろう。
だがだとすると……
新たな疑念が頭をよぎったが、それは今ここで問うわけにもいくまいと、瞬時に思考の奥底に沈めクライツはヘルゼーエンに向き直った。
「色々思うことはまだあるが、ゼノのためにもなっているということは理解した。今回は我々にもどうしても入手したい情報があるので、失礼ながら、この機会を利用させていただきたい」
「それでいいんだよ」
ヘルゼーエンは満足そうに頷くと、楽しそうに両手を広げた。
「さぁ、情報を!お前が望む情報を問え、秤を動かせ。私にこの情報を寄越したまえ! ヴァーゲ・メ・スーティア(情報の価値を測れ)!」
その言葉に周囲の空気が一層重くなり、情報をはかる状態になる。クライツはごくりと息を飲んでから口を開いた。
例えこの機会がゼノの好意で与えられた場だとしても、必要最小限に、慎重に。
自分は情報を糧とし、情報の価値を知るノクトアドゥクスの一員として相応しい対応を。
「アーンバイト家先代執事、グレゴリー=ラズアンの居場所」
「足りない」
「二年前に退職したアーンバイト家の使用人キャシー=ダレス、ジュン=グレコスの消息」
「足りない」
「アーンバイト家現当主の不正帳簿の所在」
「足りない」
次々と質問を繰り出すも、天秤が釣り合うことはない。情報の重さが全然足りない。まだまだ足りないのかと、本来であればこのようなところで行わないレベルの質問を続ける。
「アーンバイト家と姻戚関係にあるペリデスター公爵家にあったという家宝の指輪の所在」
「足りない」
「シュールデリア王家が極秘裏に入手したとされるアーンバイト家ジュリエッタ嬢の不正の虚偽証拠の入手経路」
「足りない」
「ペリデスター公爵家裏帳簿の保管場所とそこへのアクセス方法」
「――釣り合った」
嬉しそうに、ヘルゼーエンが唱えた。
情報をはかる天秤が水平に整い、皿の上の価値が釣り合ったことを示す天秤の中央に嵌め込まれた石が淡く光を発した。
「ヴォーゲン――君たちの必要な情報を渡そう」
ヘルゼーエンの言葉と同時にふわりと一枚の紙が空中に現れ、ヘルゼーエンがそれを掴むとクライツに差し出した。魔紙には先程問うた内容の答えがある。素早く紙に目を走らせ、すぐに胸ポケットに仕舞い込んだ。
これで状況を覆せる。
「――確かに、受け取った」
得た情報から今後の段取りを素早く計算しつつ、ゼノからの情報を得てご機嫌なヘルゼーエンを見やった。この場は双方の情報の受け取りが終了しない限りは解放されない。先程黒い靄のようなものが消えた皿の中からは、光る球が出現して上空に浮き上がると、真下に映像を映し出した。
――これが死紋の情報……
初めて目にするそれに、背後に控えるシュリーやデルの緊張も伝わってくる。この場にいる自分たちが見てもいいのか疑問に思うところだが、追い払われないところを見ると、クライツ達もこの場に参加する者として閲覧資格があるのだろう。
はたして、球体が映し出した映像のゼノは、今よりも若かった。今のクライツと同じぐらいの年齢か。
「はっ……なんだってまた、こんな古い死紋を選んだんだか」
苦い表情で吐き捨てるように言うゼノに、ヘルゼーエンはふふふ、と楽しそうに笑った。
「たまにはこの頃を思い出すのも楽しいんじゃないかい?」
「言ってろ」
これはゼノがまだ時を刻んでいた頃の、二百年前の映像なのか。
映像は、その魔族の視点で映し出されていて、ゼノに暴言を浴びせているのも、ゼノがそれを鼻で笑い軽くあしらっているのも聞き取れた。
場所はどこかの街の中。場所は特定出来ないが、建物の中から様子を窺っている人物の姿など、周囲の様子もはっきりとわかる。
死紋はかなり詳細に記録されるようだ。言葉や動きも含めて匂いや場の空気などが鮮明に残っているようで、なるほど、これは価値がある。
やりとりの途中と思しき箇所から始まった映像は、時間にして十~十五分ほどの様子を記録していた。ゼノによって魔核がひとつずつ斬られていくわけだが、その魔族が体勢を崩した瞬間、視界が揺れて今までと違う方向が見えた。
「……!」
そこに、確かに見た。
「なるほどね……ふふふ。この頃のゼノの剣は今よりも荒々しいね。若さが溢れている感じだよ」
映像が終わり、腕を組み口許に手を当てながら鑑賞していたヘルゼーエンが満足そうに笑い、揶揄うように告げれば、ゼノは盛大に舌打ちを返した。
「うるせえ」
面白くなさそうに短く吐き捨てると、そっぽを向く。
確かに、ヘルゼーエンには楽しい見物だが、ゼノからすれば自分の過去映像を見せつけられて面白い訳がない。本人にはどのような映像が残されているのかわからないだろうし、今回のように昔の映像なら――懐かしい顔が映っている可能性もある。
それは、ゼノにとっては寂寥感を煽りこそすれ、楽しいものではないだろう。
だが。
確かにあの夥しい死紋には、それこそ貴重な情報が眠っている可能性がある。
ヘルゼーエンが読み尽くしたい、という気持ちも理解できた。
「これで今回の取引は終わり。君たちも帰るといいよ。どこに帰せばいいんだい?」
問われた言葉の意味を取り損ねてクライツは彼を見た。目が合うと、ん?と小首を傾げながら答えを促される。
ヘルゼーエンの天秤の間を出るときは、元いた場所――ノクトアドゥクスの例の間に戻されてきた。過去四度とも。それとも彼は、本当はどこにでも戻せるということだろうか。
「俺ぁ、ルクシリア皇国のギルド本部に頼む。――お前さん達は、俺の都合でバーレン平原まで来てただけなんだから、本当ならどっか動きやすい場所がいいんじゃねぇのか。情報も得たわけだし」
「それは……可能であればシュールデリア国の首都にある中央公園にしていただけると助かります」
その言葉を聞き、ヘルゼーエンはまずゼノに向き直った。
「じゃあゼノ。君ならいつだって大歓迎さ」
「二度と来たくないわ! ――じゃあな、クライツ。今回は助かった。また頼まぁ」
「こちらこそありがとうございました。またいつでもご連絡ください」
最後まで軽口のような挨拶を交わし、ヘルゼーエンはパチリと指を鳴らした。するとすうっとゼノの姿が薄くなり、最後には消えてなくなった。
ゼノはヘルゼーエンに自ら呼びかける手段を持っていた。あの時に見た左手の甲のタトゥは、組織の例の間にあった台座に刻まれていたものと同じ紋様だった。彼らの長い繋がりが伺える。
「何か面白いものは見えたかい?」
ゼノを見送りこちらを振り返ったヘルゼーエンの目には、面白がる色が浮かんでいる。
クライツも微笑を返した。
「ええ、まあ、それなりに」
お互いそれ以上を口にすることはなかったが、今回ヘルゼーエンがあの時代の映像を選んだのは、クライツに見せるためだろう。あの時、魔族が体勢を崩されブレた視界の端にいた姿は——まさしく自分だった。
――ノア=ジェスター。ゼノの親友の一人であり、ノクトアドゥクスの構成員。
そっくりだった。
ハインリヒは同じようにゼノの死紋の映像で彼を知ったのだろう。だからこそ、自分を選んだか。
――いや、師匠に限ってそれだけで選びはしないな。
即座にその考えを否定しながらも、目にとまったのは確実に知っていたからに違いない。
ゼノの担当者になるということは、望むと望まざるとに関わらず、機密情報を得ることに繋がりそうだ。
ふ、と息を吐いたクライツを興味深そうに見つめていたヘルゼーエンは、顎に手を当てたまま、微笑した。
「さて……次は君たちだね」
ヘルゼーエンには常の酷薄で冷徹な眼差しが宿っている。頭からノアの事を振り払い、クライツも目を細めて彼を見返した。
「……情報以外では信用していない」
静かに告げるクライツの言葉にも、ヘルゼーエンは微動だにしなかった。言葉に含まれる何事かを感じ取り微笑を履いたまま、視線でクライツに先を促した。
「死紋を読む機会を大人しく待っている、というのは信用出来ないな」
そう、今日の話を聞いて思いだしたのだ。クライツがこれまで懇意にしていたクラスA冒険者のダスターが、引退を余儀なくされた時に感じた違和感。
なぜダスターは命を落とさず左腕だけで済んだのか。
死紋がまず左腕に刻まれるものなら理由が変わってくる。
「ふふふふっ、ははははははっ!」
突然笑い出したヘルゼーエンに、シュリーとデルが驚いて固まる。クライツは無言のまま睨みつけた。
「はははははっ!流石だよ。ハインリヒ同様お前は聡いね!期待通りだよ!」
楽しそうに笑いながら、ヘルゼーエンは高らかに告げる。
「その通りさ!――死紋そのものを手に入れてしまえば、私は自由に閲覧できる。彼の左腕を切り落とすなりしてね。こんな面倒な情報の交換なんてする必要はないのさ」
笑いながら告げられた言葉にぴくりとも表情を動かすことなく、ご機嫌に続けるヘルゼーエンを見つめる。
「死紋を刻まれた人間が死んだところで、腕さえ無事なら死紋が消えることはない。死紋コレクターだって我々の中には存在する。現に私もいくつか持っている」
ふふふ、と笑いながら薄気味の悪い話を嬉々として続けていたヘルゼーエンが、
「だけどね」
がらりと突然雰囲気を変えて呟いた。
それまで笑い声が響いていた空間に途端に張りつめたような静けさが落ちた。
息づかいさえも響くほどの静寂に、三人は息を潜めたままヘルゼーエンの言葉を待った。
「彼の腕は売約済みなんだよ」
告げられた言葉の意味を理解するより先に「それに」と続けながら取り出された物に目が釘付けになった。
一粒の大きな魔石。恐ろしいほどの純度と、強力な力を持っていることが離れているクライツ達にも感じられた。背筋が凍るような、本能的に逃げたくなるような凶暴な力をただの魔石から感じる。
「その……魔石は……」
ごくりと息をのみながら、なんとか声を振り絞って問いかけるクライツに、魔石をすいと顔の高さまで持ち上げて笑みを浮かべた。
「どう?なかなかに綺麗だろう?――私の魔石だよ」
「っ!」
自分の魔石――それの意味するところは。
「まさか……」
「そう」
魔石に口づけながら、ヘルゼーエンは妖艶に微笑んだ。
「斬られたんだ、ゼノに」
衝撃の内容にぞわりと背筋が凍った。
「――君が言うように、こんな面倒なやりとりを毎回やるなんて私としても耐えられなくてね。さっさとゼノの左腕を切り落とそうとしたんだけど、ふふふ……返り討ちにあってね。その時できた魔石がこれだよ。その衝撃で彼の左手の甲には私の紋が刻まれたのさ。君も見ただろう?」
ちょっと細工をして、ここと繋がる機能に変えたんだけどね――
事もなげに言ってのけるヘルゼーエンはやはり魔族で、クライツ達とは感覚が異なることを嫌でも思い知らされる。確かに上位魔族になれば命とも言える核は複数あると聞いたことはある。ましてや、そのうちの一つを失ってなお、彼の力に衰えが見えないのだとすると、上位魔族を倒すことは並大抵のことではないのだと思い知らされる。
「……だから、面倒でも正しい手順を踏んでいるというわけか」
だが、ずる賢い魔族の中でもさらにこの知略に長けたヘルゼーエンがただの一度の失敗で諦めるものだろうか。
そんなクライツの疑問を読み取ったのか、くすりと笑った。
「君たちは、まだゼノの実力を過小評価しているね。それに――まだ彼について知らないことが多すぎるようだ」
「……そのようだ」
どういうことか思わず聞き返したくなるのをぐっとこらえて同意するにとどめた。彼に安易に情報を求めてはいけない。今は知らされた断片だけを心に留めておくべきだろう。おそらくハインリヒなら知っているはずだ。彼から聞き出すのは一筋縄ではいかないが、ヘルゼーエンから得ることを思えば苦ではない。
こちらが考えているよりも、ヘルゼーエンはゼノを出し抜いて事を進めることは出来ないらしいということだけ、今はわかればそれでいい。クライツはそう判断してこれ以上の問答を諦めた。
「そろそろ我々も帰してもらえると有り難いね」
「ふふふ。承知した。早い段階で再会できることを楽しみにしているよ」
「それは穏やかでないね」
くすくすと笑うヘルゼーエンの顔が薄れ、歪んだかと思えば、くらりと目眩に似た感覚に一瞬目を閉じ、次に目を開いた時には目の前にシュールデリア国の中央広場が広がっていた。
帰ってきたのだ。
「……本当に約束通りの場所に送ってくれたんですね……」
ようやく安心したようにシュリーが呼吸を整えながら呟く。
「これはゼノ殿と一緒に往来した時の特典でしょうか」
デルもなんともいえない表情で呟き、ふぅと緊張をほぐすように息を吐いた。
クライツも静かに息を吐くと、額の汗を拭った。知らず拳を握りしめていたことに今更ながら気づいてゆっくりと手を開き指を伸ばす。同時に肩の力が抜けていくのがわかった。
「……心の準備なしには行きたい場所じゃないね……」
「そうですね……助かりましたけど」
「俺はもう行きたくないです……」
はぁ、と大きく息をつくと、気持ちを切り替えるようにクライツは頭を振った。
「まずは片付けるべきことを片付けてしまおう。時間がない」
「「はい」」
力強く頷く二人に手に入れたばかりの情報を伝えながら、この件が片付いたら早急にハインリヒと連絡を取ることをクライツは決心した。
サブタイトルに「お仕事」を含めるかどうか悩みつつ……つけない場合は「死紋ホルダー」の予定でした。




