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ユーティリシアの箱庭  作者: 村上いつき
第二章

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(五)お仕事はトントン拍子には進まない



 リンデス王国の後片付けが終わり、ようやく一息ついていたクライツの元にハインリヒから回されてきた仕事は、クライツの記憶が正しければ、別の者が担当していた筈のものだ。


 何故わざわざ今頃こっちに?


 その案件はこのままだと情報を得られず加担した騒動にケリをつけられないことが確実となる。ノクトアドゥクスとしては非常に面目丸潰れとなる事態だ。

 わざわざクライツに回してきたとてそれは変わらない。


 師匠はなんでまたこう、読めない案件を振ってくるかな。


 首筋を撫でならが渋面を作って指令書を睨みつけていれば、背後で武器の手入れをしていたデルが苦笑する声が聞こえた。


「また難しい案件ですか?」

「ああ。こっちに振られたところで、情報を入手出来なければ解決は見ないだろう」

「クライツさんなら情報を得られるという事では?」


 ことりと紅茶の注がれたカップが机に置かれ、シュリーが揶揄うような視線で顔を覗き込んでくる。軽く手を挙げて礼を述べながら、ため息を返した。


「いや、これは難しいんじゃないかな」

「そう言いながら、先日も片付けていたじゃないですか」


 シュリーはクライツの言葉を軽く流して笑う。

 買い被りだ。

 ハインリヒやシュリーの信頼は有難いが、自分はそこまで有能ではないとクライツは思う。毎回ギリギリの所でなんとか踏みとどまっているだけで、いつだって綱渡りだ。

 特に最近はゼノの関係で貴重な——あえて貴重と考えておく——貴重な経験ばかりをしているが、それこそ一歩間違えれば命も危うい。

 シュリーとデルの安全を考慮することだって、クライツの重要な仕事のひとつだと考えている以上、この綱渡り感は冷や汗ものだ。


「だが、これはかなり難しいな—— 一人は死人だ」


 指令書を差し出せば、シュリーが目を通して顔を曇らせた。


「バーンアイトのお家騒動ですか……これは令嬢を助けてあげたい案件ですけれど」

「確実な証拠がいるヤツですね」


 指令書を覗き込んだデルもため息を吐いた。


「あと五日の間に証拠と情報をかき集める必要がある、と」


 場所は確かに近い。近いが、関係者の洗い出しが引き継いだ資料以外に存在しないのか確認から始めねばなるまい。


「拒否権はないしな……」

「でもゼノ殿案件じゃないので、高位魔族が関わらないのはホッとしますね」


 苦笑しながら告げられたシュリーの言葉に、クライツもデルも固まった。


 ——それは本当にシャレにならない


 まだ先日のヘスの引き渡し現場が地味に堪えていて、今でもたまに思い出してしまっては背筋が凍るのを止められない。

 ああいった体験はできれば今後御免被りたい。だが。


 それは無理なんだろうな。


 軽く息を吐き、指令書を手の中で燃やしてシュリーが淹れてくれた紅茶に口をつければ、温かくふくよかな香りに、つい思い出してしまった光景で凍えた心が落ち着きを取り戻す。

 愚痴っていても進まない。ならばさっさと取りかかってしまうに限る。降ってくる案件がこのひとつとは限らない場合もあるのだ。

 新聞を端に追いやって紅茶を飲みながら頭の中で算段を整えてゆく。

 それでもギリギリだ。件のバーンアイト家の使用人を何人確保出来るだろうか。

 背後でカチャカチャとデルが準備を整える音がする。シュリーもゴソゴソと準備を始めた。

 クライツも目を閉じ指でテーブルを叩きながら、考えを巡らせてゆく。

 しばらく室内には物音だけが響き渡った。

 不意に、クライツの指の音が止む。

 静かに息を吐き、すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干すと立ち上がった。


「ならまずはお膝元、シュールデリア国に向かうか」

「はい」

「転移陣のあるベルートイ行きの馬車便が、ちょうど半刻後にあります」


 即座に添えられた言葉に頷き返した。


「ならばそれまでに出来うる限りの情報を収集しておくか」


 そう言ってノクトアドゥクス本部の自室を後にした。



 * * *



 シュールデリア国での情報収集は困難を極めた。

 先に潜伏していたノクトアドゥクスの情報屋から得られる物は限られる。そもそもそこから得られるなら、前任者が当に解決しているだろう。


「旦那も貧乏くじですな」


 オープンカフェでコーヒーを飲みながら新聞を開いているクライツの、斜め後ろに背中合わせに座る情報屋から、ぼそりと気の毒そうに言われる始末だ。


「情勢は厳しいか」

「あちら側が非常に警戒してますから、あちらの不利になる情報や証拠はすべて片付けられた後かと。なにせ既に死人が出てやすし、それで怯えて逃げちまったのもいるようだ」


 この国の高位貴族の家がいくつも関係している案件だ。当然と言えば当然か。

 デルとシュリーをそれぞれ忍ばせたが、果たして収穫があるか怪しいな。

 おまけに。

 クライツは気付かれないように背後をチラリと見遣る。


 ()()はどうやら別件のようだが、張り付かれるのは鬱陶しいな。


 リンデス王国でリタが癒やしを行った神殿広場で見た顔だ。ヘスの行方を追っているのか。

 だが、オープンカフェの端のテーブルからチラチラと落ち着きなくクライツに視線を寄越しているようでは、間諜としての質は知れている。それよりも——

 前方左手側の屋台客に紛れている二人は帝国の諜報機関の者ではなかったか。

 帝国が動いているのは今回の件かはたまたヘスの関係か。


 注視すべきはあっちだな。

 ならば背後の者は帝国に押しつけてしまおう。


 本を読んでいた情報屋がコーヒーを飲み干し立ち上がり去っていっても、クライツはしばらくコーヒーを飲みながら新聞を眺めていた。その間にメモ用紙にクズ魔石を包んでおく。

 情報屋に引っ付いていく者はいなかったことを確認し、十分に時間をおいてから新聞を畳み小脇に挟んで立ち上がった。

 帝国情報部の者に気付かないフリをして、クライツはゆっくりとした足取りでカフェにいる間諜の方に近づいていった。

 慌てて視線をそらす姿に内心で苦笑する。


 見た目も若い。どこの機関か国かは知らないが、こんなお粗末な者しか寄越せないとは気の毒に。


 テーブルの横をすり抜ける際に、するりと脇に抱えた新聞を落とす。


「おっと」


 ばさりと足下に落ちた新聞に、相手がびくりと肩を跳ねさせた。


「これは失礼を」


 そう言って男の足下にかがんで新聞を拾い上げ、身を起こす際に相手を見てにこりと笑って見せた。


「おや、()()お会いしましたね」


そう言ってやれば相手が目に見えて顔色をなくしたので、微笑したまま軽く頭を下げ、その隙に先程準備した折り畳んだメモ用紙を相手のポケットに忍ばせると、そのまま通り過ぎた。

 これであの男は速やかにクライツとは別方向に逃げていくだろう。帝国情報部もクライツに接触した男の素性確認でこの場は二手に分かれるに違いない。


 —— 一人なら撒くのはもっと簡単だ


 背後の動きを確認しながら、そのまま大通りを抜けて入り組んだ路地に入って行く。

 ここは帝国にとっても遠い第三国。さすがにあの女豹もまだ足がかりは作れていない筈だが、と考えつつ路地裏をどんどん進みゆき、すいとある建物の塀を軽々と乗り越えてひょいと取りだした帽子を被ってそのまま別の通りに抜けていく。

 こういったことは複雑にする必要はない。一瞬目先を奪ってやればそれで撒けるのだ。後は勝手に右往左往してくれる。

 人混みに紛れてしまえばそれでもうわからない。

 だが帝国がうろついているなら事は尚更そう簡単には進みそうもないなと嘆息して、クライツ自身も更なる情報を入手すべく動き出した。



 シュリーが、重要なキーマンがとある茶会に参加するとの情報を得てきたのは翌日のことだ。既に潜入の手立ても整えているとは、流石の手腕だ。


「いつだって?」

「明日の午後です」


 ギリギリだな。

 そこを抑えなければあと二日しか猶予がなくなる。だがこのタイミングは罠ともとれるなとクライツは考え込んだ。シュリーも都合の良すぎる点が気になっているようだ。——だが。


「そこでひとつは証拠を押さえなければ立ちゆかなくなるか……」

「他を当たりましたが難しいですね」


 デルの言葉にう~んとクライツも唸るしかない。

 本当にハインリヒは何を考えてこのようなギリギリの状態でクライツに回してきたのか。


 流石に読めないですよ、師匠。


 内心でハインリヒのすまし顔に恨み言を呟くも、それで事態が好転する訳でもない。

 彼の狙いが読めないのだ。

 この件を解決したいのか放置したいのか、あるいは目的は別のところにあるのか。件の令嬢に接触を図る状態ですらない。

 結論を出せずに首の後ろを撫でながらじっと考え込んでいた時、クライツの通信魔道具が震えた。確認すれば、ゼノを示す魔石が光っている。

 彼からの連絡は初めてだなと思いつつ、魔道具を起動して応じる。


「クライツです」

『おう。悪い。頼みてえことがあるんだが』


 こちらの状況を確認するでなく、いきなり本題を切り出そうとするゼノに、知らず頬が引き攣った。


 —— 今か。


 よりにもよって今なのか、と一瞬遠い目になったクライツの耳に、不意にハインリヒの言葉が蘇る。


 ——常に彼の要望を第一に対応して欲しい


 ゼノの担当者を引き継ぐ時に念押しされた言葉。

 それがどのようなことでも、例外なくすべてにおいてゼノの頼みが優先されると。そう言われた。

 我々ノクトアドゥクスは、我々の世代でも返しきれないほどの大きな借りがゼノにあるのだと。それが理解出来なければ、我々組織もこれまでだと()()ハインリヒに言わしめたのだ。

 それを思い出しても、心の中を落ち着けてその言葉を述べるのに、クライツは呼吸を整える必要があった。現状を考えるなら先延ばしにしたいところだが、ゼノの担当者を引き受けたならば絶対の。


「構いませんよ。なんでしょう」


 間をおかずに返せたことに内心で安堵する。

 ここで躊躇いを一瞬でもみせれば、あるいはゼノにこちらの状況が伝わったかもしれない。だがそれでは恐らく、ハインリヒの言に逆らう形になる。


 ゼノの話をまとめるとこうだ。

 早急にまとまった数の魔石が必要になったので、ランクB以上の魔族が多く出没する場所を教えて欲しい。付け加えるなら、そこまで案内して欲しいということも含まれていた。


 —— 今か。


 先程から何度か繰り返した言葉を無理矢理心の奥に押し込めて、声に動揺の欠片ものせずにクライツは頷いた。


「わかりました。では今から確認し、すぐに手配しましょう」

『本当か! いやあ、助かるわ!それなら頼んだ』

「はい。折り返しまたご連絡いたします」


 そう応えて通信を終えれば、シュリーとデルが緊張した面持ちでクライツを見つめていた。


「なんだったんですか?」

「——シュリー。今からすぐにクラスB以上の魔族が多く出現する場所を調べてくれ。数が必要になったのでゼノが狩りに行くらしい。ついでに我々も案内することになった」

「——今から、ですか」


 困惑するシュリーの気持ちもわかる。

 ゼノを案内するならば、明日の午後にあるという茶会でキーマンを押さえられない。こっちの案件を完全に放棄することになる。

 加えて言うなら、この程度の情報ならば、ゼノが今いるはずのルクシリア皇国にあるレーヴェンシェルツギルド本部に尋ねれば入手は可能だ。

 それがわかるシュリーとデルが不満そうな顔で見つめてくるのに、クライツも苦笑を返した。


「ゼノの担当者に指名されたときの、師匠——長官の言葉を覚えているか?」


 自身の気持ちを切り替えるように微笑しながら問えば、シュリーとデルもハッとしたように表情を改めて頷いた。


「そういうことだ。——案外、我々は師匠に試されているのかもしれないな」


 彼にとって重要だったのは、もしかすると今回の案件の成否ではなく、クライツ達にゼノの担当者として正しい判断が出来るかどうかを試すことなのかもしれない。


 ——いや、あの師匠がそのためだけに仕事を回すとも思えないな。


 ひとつの事で二つも三つもまとめて片付けてしまうのは彼の常套手段だ。ならば、クライツの読めない何かがまだあるのかもしれない。

 油断なく、気合いをいれて臨まねば。

 ふう、と嘆息してクライツは気を引き締めた。



 * * *



「俺は急ぎ魔石を狩りに行く必要ができた」


 そんな事を苦渋の顔で告げたゼノは、昨夜のうちにクライツに連絡をとり、今日の午後にはランクB以上の魔族が出没する場所にクライツ達と共に赴くことになったらしい。


「私も一緒に行くわよ」


 コテージの使用料だと聞けば、リタとて放置できない。快適に過ごさせて貰ったのはリタも同じだ。

 だがゼノは頭を振ってリタの申し出を断った。


「ちゃっちゃと行ってちゃっちゃと斬ってくるから問題ねえ。御使いのお前さんが動くと色々他に準備が必要になるかもしれねえからな」

「ええ……自由に動けないのって面倒」


 ゼノと一緒ならそういうのはなんとかなるのではないのか、とリタは渋面を作りながら不満を口にする。


「気になるならまずハインリヒに聞けよ。お前さん、今はハインリヒ預かりなんだろ」


 そういえばそんな事を言っていたかしら。

 ゼノの言葉に若干の不満を感じながらも、流石にハインリヒに逆らう気力はない。彼はシグレン家が厄介事に巻き込まれないよう、常に心を砕いてくれていることがわかるからだ。

 おまけにトレの視線が痛い。


 すっかりハインリヒの部下になってるんだから。


 むすっとしながらも、とりあえず午前中は一緒に皇城に行って話を聞く予定だ。


「ハインリヒのおっさんがいるのに、クライツに頼むんだな?」


 アインスが不思議そうにゼノに尋ねる。確かに、二人ともノクトアドゥクスには違いない。おまけに、アインスの言う通りハインリヒとはこの後皇城で会うことになっている。

 それは確かに、とリタも思った。わざわざどこにいるのか知れないクライツよりも、同じルクシリア皇国にいるハインリヒに確認すれば良かったんじゃないのかと。

 ゼノは頭をガシガシとかきながら肩をすくめた。


「俺の今の担当者はクライツだからな。それを飛び越してハインリヒには頼めねえよ。俺の担当っていうのは、他にも()()()役割がある。いつまでも長官のハインリヒにさせとくもんでもねえよ」


 ゼノの言葉にそんなものなのかと軽く頷いたリタと異なり、アインスとトレが気の毒そうな顔をしたのは、クライツに同情したためかもしれない。

 ゼノが「面倒な」というなら普通に考えるよりもずっと厄介事に違いない。


 シュリーは大丈夫かしら。


 クライツとデルになら、ハインリヒに任された以上はキリキリ働きなさいよ!と言えるリタだが、巻き込まれるのがシュリーも一緒だと考えると心配だ。


「面倒な役割って、危険が伴うの?」

「危険……危険はどうかな。ある、といえばあるし、ない、とも言えるか」


 なんともスッキリしない回答だ。

 一体どんな危険がと聞こうとしたとき、ベアトリーチェが迎えに来たので、この話はそこで終わってしまった。


「おはようございます!リタ殿。今日もとても麗しく素敵です!」

「おはよう、リーチェ。あら、今日はピアスを替えたのね。そのグリーン、リーチェの瞳とおそろいでとても似合っているわ」


 女性に関しては目敏いリタがすかさず褒めれば、ベアトリーチェは無表情ながら顔を真っ赤にして一歩後ずさった。


「はうっ……リタ殿にお褒めいただくとは……」

「おう、おはよーさん。馬車出してくれたんだな」


 ぬっとゼノがリタの背後から現れてベアトリーチェに声をかければ、途端にベアトリーチェが険しい顔をしてゼノを睨み付けた。


「麗しい顔の背後からむさい顔を覗かせるのは暴力です。リタ殿から最低二メートルは離れやがりませ」

「朝から飛ばすな!?」


 背後でアインスが「ゼノにも容赦ないんだ……」と呟く声が聞こえたが、リタはスルーして家を出た。


「早く城に行きましょう。ゼノは午後から魔族狩りに行く用事が出来たのよ。あのコテージ、結構魔石が必要だったみたいなの」

「ならば今後のためにも狩りつくしておけばいいです」


 狩りつくすってお前な、とゼノが呆れたように呟いたがベアトリーチェはそれを無視して、リタを馬車にエスコートしようと手を伸ばし、逆にリタに手を掴まれエスコートされる側に早変わりした。


「女性にはこうするのでしょう?」


 ふふ、と悪戯っぽく笑いながら馬車にベアトリーチェをエスコートすれば、ベアトリーチェは顔を真っ赤にしてふるふると震えて今にも倒れそうだ。


「ほら、リーチェ。足下には気を付けて。——どう?様になってるかしら。ローグマイヤー公爵に教わったの」

「いや、なんでお前さんがエスコートする側を教わってんだよ」


 ゼノが後ろで突っ込んでいるが、そんな事は当たり前だ。

 リタは自分が女性扱いをされたい訳ではない。常に女性を幸せにしたいのだ。そうすべき男性が側にいる場合は控えるが、今のメンバーならベアトリーチェをリタがエスコートしても問題あるまい。

 こういうチャンスは逃さない。


「ああ……!! リタ殿が眩しすぎます……!」

「いいから早く馬車に乗れ」


 顔を片手で覆って空を仰いだベアトリーチェに、ゼノはげんなりとして言い捨てた。

 皇城の騎士団の詰め所には、すでにハインリヒが待っていた。

 いつも本当にどこから現れるのかリタには謎だ。

 彼の拠点が皇国のどこにあるのかも知らないし、ノクトアドゥクスの本部の場所もリタは知らない。

 まあ今日は来るだろうことがわかっていたので別に驚きはしない。

 騎士団からは団長のヴォルフライトと三人の副団長が揃っていた。

 騎士団長に副騎士団長三人とは、皇国側でも今回の事態を重く見ているらしい。その事にリタも気持ちを改めた。


「残りの盗賊はこちらの牢に。——正気を失った者は、一時は錯乱が酷かったので個別に隔離している。今は大人しくなっているが、目は虚ろで反応もない」


 ヴォルフライトの説明を受けながら、牢の前にやってきたリタ達は、中に青ざめた顔をした五人の残党がいるのを見た。生け捕って送還したのは頭領を含め十人だったので、頭領が消え、四人が正気を失っていると言っていたので間違いない。

 魔法士が見当たらないところを見ると、彼は正気を失った側か。


「幹部はあの魔術師だけかしら」


 リタの言葉にのろのろと顔を上げた魔術師は、ゼノとリタを見ても青ざめたまま何の反応も返さなかった。正気を保っているとは判断されたようだが、その様相はまるで死人のようだ。


「彼は頭領の側にいて黒い何かに触れた者のひとりだが、辛うじて正気を保っている。だが、あれから一言も口を開かぬ」


 ヴォルフライトの説明に、リタはゼノと目を見交わした。ゼノが視線で頷く。

 彼らから瘴気は感じない。

 だが、微かに——本当に微かだが、瘴気とは異なる何かを、魔術師の男から感じた。ゼノが感じたという異質な気配はこれではないのか。


「間違いねえ」

「そう——ならゼノが感じた気配は『黒い何か』ということね」


 二人の会話にハインリヒが眉をひそめた。


「何か感じるのかね」

「ああ。俺が感じた異質な気配を、あの魔術師から感じる」

「私も感じるわ。瘴気とは別の力ね。——ねえ、私がちょっと彼に癒やしを行ってもいいかしら」


 魔術師を見つめたままリタがそう問えば、ヴォルフライトが戸惑うように頷くより先に、ハインリヒが頷いた。


「ふむ。癒やしの力が効くかどうかも試してみたい。やりたまえ」


 許可を得て、魔術師に向かって癒やしを行う。浄化と治癒だ。

 黄金(きん)色の光が魔術師を包み込むと同時に、張り付いていた異質な気配が霧散する。

 リタの癒やしは異質な何かにも効果があるようだ。

 先程まで死人のような顔をしていた魔術師の顔色に血色が戻って来て、そこでようやく男が大きな息を吐き出した。

 まるでようやっと呼吸が出来たかのような様子に、ゼノが眉をひそめた。


「……はっ……はぁ……」

「喋れるようになった?」

「……あぁ……今まで、何かにゆっくりと息の根を止められるような感じだった……」


 両手をつき、肩で大きな息を吐く男が落ち着くのを待ちながら、ならば正気を失った者も同様の感じだろうか。


「あの時牢で一体何が起こったの?あなたは側で見ていたんでしょう?」


 リタの問いに、男の目が恐れで揺れた。


「……突然お頭の上に黒い物が降ってきたんだ」


 ぽつりと呟いたのは別の男だ。見れば、女性に不埒な事をしようとしてリタに蹴り飛ばされた内の一人だ。もう一人はいないので、正気を失った側だろう。


「形のない何かで……お頭を呑み込み、周りにいた兄貴達に触れて……消えちまった! あ、あれはなんなんだ!? 魔族なのか!?」

「瘴気がねえから魔族じゃねえだろ」


 ゼノがキッパリと否定するが、残党の目には怯えが見える。


「あれは意志を持って動いているように見えた」


 ぼそりと呟いたのは魔術師だ。


「生物か」

「わからない。ただただ真っ黒で……顔も形もなかった。臭いも何も……ただのしかかるような重苦しさと恐ろしさを感じただけだ」


 震えながら頭を抱え込み、絞り出すように告げる魔術師の様子に、これ以上聞いたところで正体は掴めなさそうだ。


「ねえ、あなた達の頭領について聞きたいんだけど」


 話題を変えるように、牢の中にいる残党達にも視線を投げながら、やや明るい口調でリタは尋ねた。


「頭領の右腕にあったマーク。あれはただの刺青?それとも何か魔術的な意味があったの?」


 だが、牢の中にいた者達は顔を見合わせた。


「マーク? お頭の右腕に?」

「そんなものあったか?」

「左腕に、罪人を表す焼き印ならあったが……」

「そんなものはなかった」


 口々に返される言葉にリタが目を瞬く。

 右腕にマークなどなかった?それなら、私が見たものは一体何なの?


「なかったの?割と目立つところに——このあたりに、こう円形の……」


 自分の二の腕を示しながら尋ねても、盗賊達は首を傾げるばかりだ。

 リタは困惑しながらゼノを見上げる。

 それならば、ゼノやベアトリーチェが気付かなかったのいうのは、見落としでなく、本当に見えていなかった可能性がある。


「どうやら、君にしか見えない印であったようだな」


 興味深い、とハインリヒに呟かれてリタは呆然とした。

 ゼノとリタにしか感じられなかった異質な気配。

 そしてリタにしか見えなかったマーク。

 無関係と判断するにはきな臭すぎる。


「もっとよく見ておくんだったわ……マークの詳細を覚えていない……」

「もう一回見ればわかるか?」

「どうかしら……ただ、魔力を帯びていたのは確かよ」

「お頭からそんなものを感じ取ったことはなかった」 


 魔術師からもそう返されると、ますますリタにしか見えていなかった可能性が高い。

 結局それ以上のことは掴めなかった。

 どことなく嫌な感じで牢を後にし——正気を失った盗賊に癒やしをかけてみたが、彼らが元に戻ることはなかった——騎士団の詰め所に戻ってきた。


「結局何もわからずじまいね……」


 圧迫感のある牢から離れて大きく息を吐きながら、リタが残念そうに呟いた。


「あれから各地に点在する者に情報を集めさせてみたが、東大陸のとある田舎町で、黒い何かに人が呑まれたという噂が流れたことがあったようだ」


 この短時間で情報をかき集められるとはさすがハインリヒ。ノクトアドゥクスの長官だ。


「他でもあったのか」

「同じとはまだ言い切れないがね。黄昏時に、森の入口で黒い何かに人が呑まれるのを見たと。噂された人物はそれ以降行方知れずになっているのは確からしい」

「どんな人?」

「普通の村人だったようだ」


 ならば、盗賊かどうかは関係ないということだろうか。

 ただ確かにそうだと言い切るには情報が足りなさすぎる。


「この件に関しては噂レベルでももう少し情報を集めた方がよさそうだ。君達も、異質な気配については注意を払っておいてくれたまえ」

「わかった」

「ええ」


 今の所これ以上は出来ることはなさそうだ。

 リタはあの根城で異質な気配を感じなかったが、あの時あの場に存在していたのだろうか。それともリタ達の下山間際に現れたのだろうか。

 ゼノから身を隠したのか、現れる予兆だったのか。

 それすらも今はわからない。


 女性の犠牲者が出たり、弟達が遭遇しなければそれでいいけれど。


 リタの心配はその点のみだ。


「そういえば、クライツに声をかけてやってはくれないかね」


 ハインリヒの言葉に、言われたゼノが、ん?と片眉を上げてハインリヒを見た。


「……ちょうど今から会う予定だったんだが。ふぅん? ()()()()状況だったか」

「——ほう。ちょうどゼノからも依頼事項があったのかね」


 ——ひっ!?


 リタには詳しい話はわからない。

 だがなぜだろうか。ハインリヒの声に非常に冷ややかなものを感じて、リタは思わず背筋を伸ばした。


「あいつ何も言わなかったけどな」

「ほう、そうかね。ゼノの用事とは?」


 ——え、ちょっと待って。怖い怖い怖い。何かわからないけど、これは試されてる?クライツが試されてるの?クライツがどうなろうと私の知ったことじゃないけど、クライツの側にはシュリーがいるのよ。


 状況がまったくわからないが、何故だか嫌な汗が背筋を流れる。


 対応間違えてないでしょうね、クライツ。ストーカーは怒らせると怖いのよ!


 一人ハラハラしているのに、ゼノはまったく気になっていないようで、大きくため息を吐きながらハインリヒに事の次第を説明している。


「——そういうわけで、ランクB以上の魔石を大量に請求されてな……その場所の選定と案内を頼んでんだ」

「そのようなコテージを出現させるとは、箱庭の魔術は恐ろしいな」

「魔石を大量に食うみたいだけどな」


 感心するヴォルフライトに、ゼノは先に言っとけってんだ、とぶつぶつ文句を言っているが、リタはハインリヒの微笑が怖くてたまらない。


 なんであの微笑に誰も気付かないの?ここには脳筋ばかりなの?それとも、ハインリヒのその変化に気付くほど付き合いの深い人はいないの?


 ゼノはともかくとして、他の誰もが何も感じていない事実に、自分が見分けがつくようになっていること自体もリタには衝撃だ。


「ふむ。それで、アレはすぐに動いたのかね?」

「そうなんじゃねえか。朝一番に第五領域のバーレン平原に案内するって連絡来たからな。俺も午前はこっちに顔を出す必要があったし、クライツ達も移動の必要があるってんで、転移陣のあるドーナで待ち合わせてる」

「あそこは確か強い魔族が多く出現するので、国側で立ち入り規制がかかっていたはずだ」

「マジか」


 ヴォルフライトの言葉にゼノがえっ!?と驚いたが、ハインリヒがふむ、とどこか満足そうに頷いた。


「問題なかろう。案内すると言った以上はそこも対応済みの筈だ」


 都市名諸々リタにはわからなかったが、ハインリヒの様子を見るにクライツの対応はどうやら正解だったらしい。そのことに他人事ながらほっと胸を撫で下ろす。


 本当に、他人事ながら冷や汗をかいたわ。


「なら、俺の用事が終わった後に声をかけてみるわ」

「頼んだ」

「いや、俺もそろそろヤバいんじゃねえかと思ってたんでな」


 頭をガシガシかきながら応えるゼノの言葉の意味はわからないが、ノクトアドゥクスとゼノ間に決まり事でもあるのだろう。ひょっとするとここに来る前にゼノが言っていた「面倒な」役割に関係しているのかもしれない。

 ここまでの対応が問題ないなら、その後も問題はないはずだが、シュリーのために出来ることはしておきたい。

 リタはハインリヒをチラリと見遣ってから、軽く咳払いをしてゼノに声をかけた。


「私もハインリヒに負けないよう頑張るから、デルにも引き続き頑張るよう伝えてくれる?」

「あ? ——デルにか?」


 シュリーでなく?とゼノが不思議なものを見る目で首を傾げ、ハインリヒが目を細めた。

 リタはドキドキしながらハインリヒの視線をやり過ごす。


「ええ。デルとはそういう話をしたの。リンデス王国で」


 ハインリヒと目を合わせないようにそう伝えれば、ゼノはハインリヒとリタを交互に見つめて首を傾げつつも「わかった」と応えてくれたが、ハインリヒとベルンハルトは苦笑を隠さなかった。


「まあ、及第点としておこう」


 どうやらクライツに向けたリタの渾身のメッセージは、ハインリヒにはバレバレだったらしい。

 だが苦笑した程度で見逃してくれたのは、ハインリヒにはバレバレでも、他の者には気付かれにくい方法だったので良しとされたのだろう。


 うう、本当に心臓に悪いんだから。


 ゼノは未だ意味がわかっていないようだったが、そこは深く問い返すことはせずに、用事が終わったならもう行くわ、と詰め所を出て行った。街の転移陣の場所までは騎士団の馬車を利用するらしい。

 リタ達もこれ以上皇城にいても仕方がないので一度ギルドに戻る事にした。


『そういえば、君は皇国語が出来るとモーリー夫人から聞いたのだが、本当かね?』


 詰め所を後にしギルドの馬車に乗ったところで、ハインリヒに突然皇国語で問われた。


『ええ。出来るみたい』


 リタも皇国語で返せば、何故か大仰にハインリヒにため息をつかれた。


『それも君の聖女としての能力か』

『流石です、リタ殿』


 キラキラと目を輝かせるベアトリーチェに、流石と言われる程じゃないんだけどと苦笑を返した。

 正直なところ、リタだって初めて知った能力だ。


「今まで共通語しか使ったことなかったから、わからなかったのよ」


 今度は共通語でそう返せば、ふむ、とハインリヒが首を傾げた。


「勉強した事実はないのかね」

「ないわ。そもそもここに来るまで使う必要性もなかったもの」


 皇国語が使えるということがわかったのは、先日アーシェやサラ、モーリー夫人と一緒に買い物に行った際に、小さな子供に皇国語で話しかけられた時だ。それまで共通語以外で話しかけられたことがなかったので、わかるとは思ってもみなかった。

 その後モーリー夫人に他の言葉で話しかけられたり、文字を見せられても理解できたのが決定打となった。その話を彼女がハインリヒにしたのだろう。


「やはり、女性の言葉はどのような言葉でも理解したいという想いのおかげだと思うの!女性を救うためには言葉が通じなければ意味がないでしょう?」


 フィリシア様も前世ではそうだった。どのような言葉も理解していた。リタも神聖力が上手に使えなくても、言葉はわかっていた気がする。ならばきっと、聖女の特殊能力なのだろう。その点をゼノに羨ましがられた記憶がある。


「機会がないのでゼノ本人は意識していないようだが、彼も共通語以外の言葉を認識している節があった。これも、フィリシアの加護のお陰かね」

「ゼノも!? ——ああ、でもきっとそうだわ。フィリシア様ならそんな加護をゼノに与えそう。だって——」


 言いかけてリタはピタリと口を噤んだ。


 ——だって、前世のゼノは文字の読み書きが出来なかったんだもの


 続く筈だった言葉に自分で愕然とする。


 ……そうだ。ゼノは読み書きが出来なかった。

 ——オレのこと学がねえって相手にしてくれねえんだ!


 何故かオルグの叫びを思い出したが、前世でリタは、ゼノから似た言葉を聞いたことがあった事を思い出す。


 俺ぁ、学がねえ。だから、欺されても仕方ねえさ——


 何もかもを諦めたような、あの表情。


「……でも、ゼノはあちらの世界の文字は読めなかったわね」


 デュティからのメッセージカードも、ハインリヒに頼まれて作成した、あちらの文字とこちらの共通語の簡単な訳語表も読めているようには見えなかった。


「君にはその理由に心当たりがありそうだ」


 突然黙り込んで、元気なく呟いたリタにそう述べるだけで、ハインリヒはそれ以上を追及してこなかった。

 きっと彼の中ではある程度の予測がついたのだろう。

 ゼノは今も、あの世界の文字は読めないのだ。それはフィリシアの加護があっても読めないのか、彼自身が読めないものだと深く諦めているのか。

 どちらなのかリタにはわからない。

 だがきっと、このことはゼノの前世の苦い記憶に直結している。

 ゼノがオルグをすぐに懐に入れたのは、前世の自分に重なるところがあったからではないかと、リタは考えて静かに目を閉じた。


  


いつもお読みいただきありがとうございます。

そろそろサブタイトルをつけるのが苦しくなってきた……

ちらほら地名とか出てきますが、会話の中で必要だから出してるだけ、という意味合いが今回のお話しでは特に強いです。



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