(十一)箱庭の黒い鳥
さやさやと水の流れる音を聞きながら、娘達とリタが庭園の水路を覗き込みながらはしゃいでいるのを、ゼノは少し離れたガゼボから、ベンチに腰掛けてぼんやりと見つめていた。
娘達のいる風景に未だ現実味がない。夢じゃなかろうかとまだ疑う気持ちもある。
おまけに、この庭園も箱庭だと言われても初めて訪れた場所だ。
見慣れない庭園に娘達の姿。リタが横にいなければ、いつもの儚い夢かと思っただろう。
今のゼノには、この庭園でリタだけが現実味を帯びた存在だった。
前世がどうのとゼノに噛みつくリタこそが、ゼノに今が現実だと知らしめる存在だというのも皮肉なものだ。
庭園に対しても、見覚えも懐かしさもまったくなかった。
ただ長年住んでいた箱庭に、こんな場所があったのかと驚いただけだ。
塔の外、箱庭に広がる街はゼノの知る限り普通の街だ。特殊な動植物が存在する訳でもなく、外界で見かけるものと大差ない。正直まったく違いはないとゼノは感じている。
だが、この塔は別だ。
ここだけは箱庭の街とも、外界ともまったく異なる。
次元が異なるような感覚を、肌で感じる。
例えるなら、盟主達の居城のような、ヘルゼーエンの間のような、誰かを主として存在する空間。
ならばここ箱庭にも主が存在するのか。
だが、盟主やヘルゼーエンのような魔の気配は塔からは感じられなかったし、カグヅチも何も言わないので、彼らとは一線を画すと考えていいのだろう。
そこまで考えて、ゼノはガシガシと頭をかいた。
「わからん」
そもそもゼノは考えることは得意ではない。ノアやハインリヒが言うように、脳筋だ。自覚はある。アザレアにも散々、馬鹿にされてきた。考えたって無駄だと。
——お前さんは勘を大事にしていればいいんだよ
まだゼノが少年と呼ばれる年齢の頃に、アザレアに言われた言葉だ。
勘はあたる。
だから余計なことは考えるな、と。
考えれば考えるほど正解からは外れていく。知りたければ情報をすべてノアに渡して答えだけを得ろと、なかなか失礼なことを言われた。まあ、ゼノも否定はしないが。
カツン、とすぐ近くで音がして、なんだ?と視線をガゼボの中に向ければ、テーブルに一羽の黒い鳥。
カラスというには大きい。足も嘴も鋭く、中々しっかりとした体躯の鳥だ。猛禽類に区分される鳥だろうか。鷹や鷲とはまた色や形が異なるが、系統的には肉食系の鳥類だ。
黒く輝く羽に、透き通った紫色の目。
人を恐れないのか、その鳥は周囲を見渡し小首を傾げると、カツカツと足音を立てながらテーブルの上を歩いてゼノに近寄り、バサリと羽を広げて左肩に軽やかに着地した。広げられた羽が頬をくすぐって思わず仰反る。
「慣れてんな、お前。俺は割と生き物には嫌われるんだが」
ゼノの持つ剣呑な気を嫌がるのか、はたまた強者への恐れか、ゼノは生き物に嫌われる。特に野生の動物は近づいても来ない。むしろ逃げられる。
鳥は、まるでゼノの言葉を吟味するように頭を前に倒してゼノの顔に寄せたが、ふいにアーシェ達の方へ視線を向けた。ばさり、と肩の上で軽く羽を広げる。
「ん?なんだよ」
ゼノの顔を見てアーシェ達を見る、ということを繰り返す姿を見て、ゼノもこの鳥が何を言いたのかを知った。
「あっちに行かねえのかって?」
ピュイ、と肯定するように短く鳴かれて、ゼノは思わず苦笑した。
「まあ、まだ夢見心地ってのもあるな」
ゼノの言葉に小首を傾げる姿が人っぽい。ばさりと頭を叩くように肩で羽ばたかれて、羽がばさばさと顔にあたる。
「おい、ちょ、やめろって」
だが鳥は止める事なく、ばさばさと羽で叩き続ける。
「だぁっ、もう、わかったって! 行くからよ!!」
叫んだ途端にぴたりと羽ばたきが止んだ。
「……」
これはもう、明らかにわかってやっている。
言葉どころか色々わかってそうだな、この鳥……
この鳥を見たのはゼノも初めてだが、箱庭の、それも塔の中で出会った生物なら他と違っても不思議はない。
そういえば、塔の中でデュティ以外の生物——街の人間を除く——には、初めて会うな。
二百年も経って今更初めてってこともあるんだな、とガシガシと頭をかきながら、ゼノは左肩に鳥を乗せてアーシェ達の方へ歩いていった。
「お父さん!——どうしたの、その鳥」
「わあ、大きな鳥さん」
「初めて見る鳥ね」
「さっきひょっこり現れたんだよ。そっちはどうだ?何か面白いもんでも見つけたか?」
三人は先程まで水路を覗き込んではしゃいでいたように思う。
「魚がいるの!」
「さっきまで水鳥の親子もいたのよ」
「今はあっちの水草の影に隠れちゃったみたいだわ」
それはひょっとして俺が来たから逃げたんじゃねえのか、とゼノはちらりと思ったが、まあよくある事なので気にしない。
「見る限りでは、外と変わらない植物や生き物のようだわ」
リタは外界との違いを確認していたらしい。ゼノも同じように感じていたので、やはり変わらないのだろう。
特別なのは肩のコイツか? とゼノが視線を寄越したのをどう思ったのか、鳥はとん、っとゼノの肩を蹴って飛び立つと、そのまますぐ近くのガゼボの中に入って行った。
「デュティさんは大丈夫なのかな? いつもどれぐらい時間がかかるの?」
水路に右手をひたしながら、少し不安そうなアーシェの問いに、いつも?とゼノも首を捻る。
「あんまり、襲われたとか言わねえ奴だからな。実際どの程度の頻度でどんな攻撃を受けてるのかは俺も知らねえが……あいつに魔術で勝てる奴なんざいねえんじゃねえか」
過去に第三盟主と対峙した時、ゼノが想像していたよりもずっとデュティが強かったことを思い出す。少なくとも、デュティとやり合うなら盟主以上の実力がなければ難しいだろう。
「それほど——なにっ?」
リタの言葉を遮るように、ガチャンと大きな音がして皆が一斉に音のした方へ目を向けた。
音は先程鳥が飛んで行ったガゼボの辺りから聞こえた。
件のガゼボは下半分に囲いがあって、ここからでは中の様子は見えない。
ゼノは大股でガゼボまで歩み寄ると、中を覗き込んでその惨状に目を見開いた。
「——お前、何やってんだ?」
ガゼボの中に置いてあったらしい大きな観葉植物の植木鉢が複数倒れて鉢が割れ、土が散らばっている。倒れた観葉植物の枝葉がテーブルや椅子の上で折り重なり、まるで檻のようになっていた。その中に先程の鳥が鎮座している。
鳥はゼノの姿を認めると「ピュイ」とどこか困ったように短く鳴き、羽を広げようとして観葉植物が邪魔で上手く広げられないようだ。
「あ〜、ちょっと待ってろ」
倒れた植物をひょいひょいと持ち上げ、だが鉢が割れているので元には戻せない。このまま中に置いておくと邪魔になると判断して一旦ガゼボの外に置き、囲いに立てかけた。
「どうしたの」
遅れてやってきたリタ達が同じようにガゼボを覗き込んで「あら」と驚きの声をあげた。
「アーシェとサラは中に入ってはダメよ。鉢が割れているから危ないわ」
ゼノが植物をのけている傍らで、リタが割れた植木鉢の欠片を集め始めた。
ようやくテーブルの上に脱出できた鳥が、その様子をどこか申し訳無さそうな雰囲気で見つめている。
「この子賢いのね。自分がやっちゃったことわかってるみたい」
やんちゃな弟達がいるのでこういったことに慣れているリタは、てきぱきと手際よく片付けながら、感心するように鳥を見やった。
「植物は強いから植え直せば大丈夫だよ」
「鳥さんは怪我してないの?大丈夫?」
アーシェやサラに声をかけられ、「ピュイ」と短く鳴いて羽ばたきをする姿は「大丈夫」と言っているようにも見える。
ちゃんとコミュニケーションが取れるらしい鳥に話しかけながら、鉢の破片を取るために椅子を動かしたリタは、その後ろに何かが落ちている事に気付いた。
「なにかしら、これ」
本——というよりは帳面だろうか。複数枚の紙が片側だけ紐で綴じられている。
少し埃を被っているのを軽く手で払い、ぱらぱらと一度中をめくったリタは、テーブルの上にそれを置くと、今度は最初からじっくりと目を通し始めた。
「どうした?」
片付ける手を止め、急に何かを読み出したリタの手元をゼノも覗き込む。
そこには文字が書きつけられていて、ゼノも見知った文字——やや古いか?——に、見知らぬ記号。知っている文字を拾い読めば、植物の名前らしい。
リタが熱心にそれに目を通す理由がわからず、ゼノは早々に興味を失って片付けを再開する。アーシェ達はリタの見つけた物が気になるようで、テーブルに近寄り同じように覗き込んでいる。
破片をあらかたガゼボの外に積み上げると、鳥がまたゼノの肩にやってきて一声鳴く。まるですまなかった、と言われているようで、ゼノは「気にすんな」と小さく笑って応えてやった。
「これ……辞書みたいだわ。あちらの世界とこちらの世界の言葉で植物の名前が書いてある」
「植物だけなのか?」
「そうね……ひょっとしたらこの庭園にある動植物の名前なんじゃないかしら」
ふうん、と興味のないゼノは適当に相槌を打ったが、アーシェがはっとして顔をあげた。
「もしかして、リタさんのいうフィリシア様が、こちらの文字を覚えるために書かれたものでしょうか?」
「そうかもしれないわ。フィリシアさまの手跡までは覚えていないんだけど……あら?」
すべてのページを注意深く見ていたリタが、最後のページで手を止めた。
書かれている文字をなぞりながら口の中でぶつぶつと何かを言っているが、アーシェにもサラにも聞き取れなかった。
しばらく一人ぶつぶつとやっていたリタは、はあと大きくため息をついてゼノを見た。
「ゼノ、これを見て」
ずいと帳面を向けられ指し示された箇所を見れば、記号が書いてある。
記号、と言う認識になるのはきっとあちらの世界の文字だろう。
「俺には読めねえが、なんて書いてあるんだ?」
「フィリシア」
「人名か」
読み上げられた言葉に問い返すと頷き返され、だが、リタの指が指し示す先には、もう一名分あることが確認できる。
「……もう一人、いる?」
「恐らく」
ゼノは、リタが最初に受け取ったメッセージを思い出す。
——我々は君を歓迎する
やはりあっちの世界の人間が複数人いるということか。
「もう一人の名は?」
「ア……ベン、ティリー……」
「あ? なんて?」
「……ルべ……スー……ト」
「んん?」
リタの読み上げる言葉が聞き取れなくて、ゼノはリタの方に身を寄せた。左肩の鳥が自身が落ちないように、肩の上で器用にバランスを取る。
リタは眉根を寄せて頭を振った。
「どうあっても読み上げられないの」
「どういうことだ?」
「恐らく……私では呼べないのよ」
「呼べない? 名前がか??」
ええ、と頷かれてもゼノにはわからない。
「名前に力があるんじゃないのかな?」
サラに言われて、ああ、とゼノも得心する。確かに時に名前は特別だ。ここに刻まれている名の人物が何者かは知らないが、そういうことがあっても不思議ではない。
というか、リタで呼べないってんなら相当力を持ったものの真名だってことじゃねえのか? あまり穏やかじゃねえな。
ガシガシと頭をかいて、リタが読み上げた音から拾いあげた言葉を思い返す。ア、なんとかトだったか?
「あ~……じゃあ、仮にアルトって事にして」
「物凄く短くなってる上に、最初と最後じゃない」
「仮名を舌噛みそうな物にする必要性があるか?」
ジト目で突っ込まれて、ゼノは口を尖らせながら反論する。
仮名が必要かな?というアーシェの呟きにサラがくすくすと笑った。
「そこにあるフィリシアとアルトってのが、リタの言うところの前世の世界の奴で、歓迎するってメッセージを寄越したことに間違いねえって事かな」
「その仮名は譲らないのね。まあいいけれど。——ええ、私もそう思うわ。この二人がきっとそう」
「デュティさんは入らないの?」
サラの問いに、ゼノは顎をさすりながら「多分な」と返した。
「歓迎する側には入ってるかもしれねえが、あいつは、生まれも育ちも箱庭だって確か言ってた気がする」
ゼノが箱庭の子供達に外界の話をせがまれた時に、デュティも外界の事はあまり詳しくないからぜひ聞きたいと言っていた筈だ。
「そうなの?……でも、長生きよね、彼も」
「ああ、そうだな。二百年前もあんなだったし、フィリシアと直接会ってるなら、少なくとも二百五十年は生きてるわな」
そう考えるとデュティも一体何者なんだという疑念が湧くが、少なくとも魔族ではない。
魔核もないし、魔族であればゼノにはわかる。おまけにリタと同じく魂が読めるということなので、浄化は出来なくてもどちらかと言えば聖女寄りか。
「デュティに聞いたら、この人物の事を教えてくれるかしら」
「聞いてみりゃいいさ。あいつに教える気がなければ煙に巻かれる。気にするこたあねえよ」
「お父さんは常にそうやって誤魔化されてきたのね」
なんとなくデュティとゼノのやりとりが想像できたアーシェは、くすりと笑いながら言った。図星だ。
「あいつはそういう奴なんだよ」
不貞腐れたようにゼノは言い放つと、リタの示した人名らしき名が刻まれた箇所を指でなぞる。
「フィリシアにアルトねえ……」
言われてみればフィリシアの名前は、先日ハインリヒ経由で渡された紙にあったのと同じ文字のように見える。
ポーチを漁って紙を取り出し見比べれば、なるほど、確かに同じだ。
「確かに、フィリシアって書いてあるな」
「それは?」
「リタにもらったあっちとこっちの文字だ」
興味深そうに覗き込むサラに手渡してやれば、アーシェ共々帳面と紙を交互に見ながら解読を始めた。
「構成する文字から見れば、確かにもう一人はアから始まってんな。フィリシアより長え名前だが……呼べねえんじゃ解読する意味もねえよな」
「そう……かしら??」
「あっちの世界でも知らなかった可能性が高いぜ」
「ああ、それもそうね。確かに、これを読めても私には誰だかわからないもの」
「リタが知らねえのか、仮名で呼ばれていたかだな」
「名前に力があるのなら、別名や愛称で呼ばれていても不思議じゃないわね」
だとしてもゼノが今つけた仮名は違うでしょうけど、と言われてゼノは肩をすくめた。
そんなゼノを慰めるように、肩の鳥がゼノの頭の後ろで羽を広げて、まるで撫でるように触れたあと、羽を畳んだ。
その時、入口の方から足音が聞こえてそちらに目をむければ、デュティが庭園に入ってくるところだった。
「おう、片付いたのか」
ガゼボまで歩み寄ってくるのを待ってゼノが問い掛ければ、ぐったりお疲れ顔の黒ウサギ姿で、うん、とデュティが軽く頷く。
「今回はなんとかね~……って」
俯きがちだった黒ウサギの頭が揺れて、正面からゼノ達を見て固まった。
「……何してるの?」
ガゼボの惨状に呆れたのだろうか。ゼノは右手で左肩の鳥を撫でながら「壊したのはコイツだぞ」と一応釈明しておく。
庭園の生き物がしたことなら怒らないだろうとの判断からだ。
「それは別にいいんだけど……」
戸惑うようにゼノの方を見ていた被り物が、テーブルの上の帳面に移動して固まったのがわかった。
「……それ、どこにあったの?」
「この椅子の後ろに落ちていたのを見つけたんだけど、見たらマズかったかしら?植物の名前が書き付けられている感じだったわよ」
「ああ、うん。問題ないよ。ただ、それなくしたと思ってたから」
そうなの?とリタから帳面を手渡されたデュティは、パラパラとめくって小首を傾げた。
「全部読めた?」
「読むのはね。最後にある一人の名前以外はわかったわ」
そう、と頷いたデュティの様子を窺うように見ながら、リタが口を開きかけたとき「ピュイ」と鳥が鳴いた。
「そういや、こいつ結構賢そうだが、名前はあるのか?」
鳥を撫でながら尋ねたゼノは、ぎぎぎ、と音がしそうな感じで振り返ったデュティに思わず後ずさった。
「名前? それの?」
なんだろうか。何かデュティから怒りのようなものを感じる。鳥も驚いたのか、ゼノの肩を掴む足に力が入ったのがわかった。
「名前、名前ね……それ、『アルト』って言うんだよ」
「「「「え?」」」」
どこか意地悪そうに告げられた名に、しかしゼノ達は驚いて固まった。
想像していた反応と違ったからか、告げたデュティも逆に驚いて一歩後ずさった。
「え、何?どうしたの?——うわ!」
ゼノの肩に大人しく止まっていた鳥が、バサバサと羽ばたきながらデュティの被り物を突いたり蹴ったりし始めて、デュティが悲鳴をあげる。
だが、デュティのそんな様子を気にもとめずに、四人は顔を見合わせた。




