(二十七)聖女の目覚め
信じる、と決めた。
ゼノのことは信じる、と。
けれど、自分の姉が斬られる姿にひゅっと息を呑んだのは仕方ない。知らず拳を固く握りしめる。
ゼノが剣を振るった瞬間、リタを中心に大きな力が広場を包み込んだ。
優しく強い、そしてそれは白く光輝く色を纏い――
アインス達は目を見開いた。
「おお……、女神さまだ……!」
「ああ……!」
広場から次々に感嘆の声があがるのも耳に入らない。
流れるのは、ストロベリーブロンドの美しい髪。両手でリタを背中から優しく包み込むその淡い翠の瞳は慈愛に満ちている。
そらんじて語れるほどリタから聞かされた容貌。
「フィリシア……さま……?」
リタの語った通りの美しい姿。
強い浄化と治癒の力を持ち、弱き者を助け導くリタの敬愛する聖女。
姉を助けるために……現れた?
本当に存在したんだ……!
驚きと安堵に包まれて言葉を失い、ただただその姿を見つめた。
リタを大事に、大事に抱きしめてから、そっとその両腕を優しく、まるで蕾が開くように優雅にゆるりと広げれば、それにあわせて優しい力が周囲に広がってゆく。
……癒やしの力だ。
リタが持つ力と同じ、治癒の力。
リタと異なるのは纏う色か。
包み込まれるような柔らかく清浄な力に、怒りも悔しさも悲しさもすべて洗い流されていく心地だ。
そこに、リタの黄金の色が重なる。
見れば、リタがゆっくりと瞳を開き、自分を包み込むフィリシア様に気付いて微笑んだ。溢れる涙が宙を舞う。
まるでフィリシア様の力に誘導されて、リタも力を解放していくように、白い力に黄金の力が混ざり合い広場を越えて広がってゆく。
――リタ
柔らかな声。
「フィリシア様……!」
リタはフィリシア様と向き合うように立つと、叫んだ。
「私はっ……!」
――だめよ、リタ
ふふ、とフィリシア様が微笑んだ。
――なにより、あなたが幸せじゃないと
「……っ!」
その言葉に、リタが大きく目を見開く。
そうして、フィリシア様はゆっくりとリタから視線を前方に向け――ゼノを見て微笑んだ。
――お願いね、ゼノ
そう言い置くと、すうっと空に溶けるように、その姿はかき消えた。
それと同時に広場に満ちていた癒やしの力も緩やかに消えてゆく。
すべてが消えても、広場はまだその余韻に身を任せるように、誰も言葉を発せなかった。
「……フィリシア様……」
かき消えたその姿に手を伸ばしたままの状態でリタはその名を呼び、フィリシア様の残り香を閉じ込めるように、ぎゅっと自らの身体を抱きしめた。
自然と流れていた涙が頬をぬらしているのに気付き、アインスはぐいと涙を拭う。
そしてこの現象を起こしたゼノを見やった。
「ゼノ……」
彼も少し目を見開いたまま、フィリシア様が消えたあたりを見つめていた。
「おねえちゃん!」
静寂を破るようにサンクが叫び、リタに抱きついた。シェラやシスもリタの元に駆け寄る。
リタはもう、いつものリタで、弟達を泣きながら抱きしめていた。
アインスがゼノに近づくと、ゼノの手に既に剣はない。
ゼノは一体何をやったんだろう……あの時リタを斬ったように見えたが、怪我ひとつつ
いていない。それとも、傷は先程のフィリシア様の癒やしの力で治ったのか。
どこかまだふわふわした気持ちでアインスが考え込んだとき、広場に新たなざわめきがおき、よく通る声が響き渡った。
「これほど説明が不要なこともそうあるまい」
低い、威厳のある男の人の声が舞台の側から聞こえてそちらに目をやれば、そこには教会騎士団とも領主の騎士団とも異なる騎士達がいた。
中央に立つ一際威厳のある大柄な男性がそう言いながら背後を振り返り「そう思いませぬか、ヒミカ殿」と告げたことで、アインスは目を見開いた。
驚きでふわふわしていた気持ちも吹っ飛んだ。
まさか、ルクシリア皇国騎士団と、正神殿のヒミカ様!?
ハインリヒが言っていた裁判は確か明日だったはずだ。
それもルクシリア皇国内で行う予定であったのに、何故前日にこのミルデスタに?
騎士の言葉に合わせて、ショウエイとアキホを従え現れた女性は、同じように独特の白い衣装に身を包み、不思議な空気を纏っていた。
年齢はリタと変わらないように見える。
「ええ、ほんに。レーヴェンシェルツの長がおっしゃった通り、女神フィリシアの御使いというのは真のことでございましょう」
おっとりと相槌をうちながら、ヒミカ様は騎士にエスコートされながら舞台の上にあがってきた。
「ゼノ殿、お久しゅうござりまする」
「いやいやいやいや。なんで来てんだ、こんなとこまで」
「ほほほ。明日お会いできなくなっては残念でございましょう? ですが、心配は無用でございましたね。このように大勢の方々が女神をご覧になったのですもの」
扇で口許を隠しながら優雅に笑うヒミカの姿に、ゼノは口をへの字にまげて黙り込んだ。
「先程の癒やしの力は、ミルデスタ全体を包み込むほどのものであった。人の力では為し得ぬことであろう。まさしく女神の御技。教会の聖女でないことは誰もが疑うべくもない」
フェリモのように声を拡張する魔道具などなくても、騎士の声はよく通った。
その騎士の言葉に広場の住民達が興奮したように頷く姿が見えた。
広場を見渡せば、先程目にしたフィリシア様のお姿に興奮しているのが見て取れる。この状況で今更ソリタルア神の聖女だと言えるほど、教会も厚顔無恥ではないはずだ。
目の端に、よろよろとフェリモ司祭が立ち上がるのが見えた。
癒やしの力はこの男も治してしまったらしい。
「こんな……ことがっ、あるはずは……!」
じろりとリタを睨みつけるフェリモ司祭の姿に、アインスはリタと司祭の間に割って入った。
「これ以上、ねーちゃんに手出しはさせない」
「このガキ共がっ……!」
司祭が怒りに身体を震わせながら一歩こちらに足を踏み出したとき、背後から黒服の男達が教会騎士団の騎士達を率いてやってくるのが見えた。
まさか、まだやる気なのか。こんな状況で。
ぐっと拳を握りしめながら、こちらにやってくる黒服の男達を睨みつけた。
「ああ、よいところに!早くこの者たちと聖女を――な、何をするのです!?」
「そなたは拘束する、フェリモ司祭」
黒服の男達の中でも一際厳つい顔をした神経質そうな男が厳しい口調で司祭に告げた。
「なんですと!?」
騎士達はアインス達ではなく、わめき散らす司祭を拘束して床に押さえつけた。
「私は、教皇さまから――」
「言葉には重々気をつけられよ。 教皇様のお名前を騙るとは不届き者め。我々監察部門でそなたの悪事はすべて調査済みだ。そなたは自らの罪を誤魔化すために、カルデラント国と共謀して聖女をでっちあげたのであろう。彼女達一家への行為もすべて調べが付いている。そなたの悪事は教会内で裁きが下されるだろう。――連れて行け」
はっ、と騎士達が短く答え、そんな馬鹿な! 違う!としつこく喚き散らす司祭を引きずるように連れて行った。
……これ、どういうこと……?
「切り捨てたんだね」
ぽかんとして首を傾げたアインスに、いつの間にかすぐ後ろまで来ていたトレが呟いた。
「……ひょっとして、すべてあいつのせいにされる?」
恐らく、とトレは頷いた。
フェリモ司祭に同情する気なんかまったくないが、こうもあっさりと切り捨てるんだなと空恐ろしく感じてぶるりと震えた。ちらりと黒服の男を窺えば、ハインリヒに感じた一筋縄ではいかない何かを感じる。
「この黒服なら白でも黒にされそうだな……」
「あの司祭が黒なのは間違いないけどね」
トレが連行されていくフェリモ司祭を見ながら冷たく言い捨てた。
ぼそぼそとトレと囁きあっていると、黒服の男は舞台中央に進み出て広場に向かって説明を始めた。
「本日の神事は教会本部は関与しておらず、今回の聖女騒動とあわせてすべてハイネの町の司祭とミルデスタの司祭が共謀して行ったことである。教会はリタ=シグレンをソリタルア神の聖女だと認定していない。私利私欲から教会の信頼を傷つけ世間を騒がせた彼らには厳しい罰が下されるだろう」
そのように広場で住民に告げると、くるりとルクシリア皇国の騎士に向き直った。
「以上が教会の正式見解だ。ゆめゆめ誤解なきよう」
どちらかといえば不遜で高圧的な態度で、黒服の男は告げた。聞いているアインス達からすれば癇にさわる物言いだ。
悪いのはすべて司祭たちで、教会は何もしていない――とぬけぬけと言い放ったのだから。
だがルクシリア皇国の騎士は、ふ、と笑い頷いた。
「承知した。皇帝陛下にもお伝えしよう。――監察官ドレウェル殿が公言したのだ。よもや違える事もなかろう」
その言葉に黒服の男はふん、と鼻を鳴らすと、隣に立つヒミカに挨拶どころか目礼すらせずに、そのままさっさと舞台から退場して行った。
まるでもう興味などないと言わんばかりに、リタやアインス達には一瞥もくれなかった。
騎士は黒服の男ドレウェルが退場したのを見届けると、ばさりとマントを翻し、広場に向けて宣言した。
「ルクシリア皇国騎士団団長、ヴォルフライト=フォン=ハールヴェイツの名において今回の騒動の終結を宣言する。 女神フィリシアの祝福によりミルデスタの街の傷も癒えたであろう。 騒ぎを起こした元ハンタースギルドの冒険者達は領主騎士団に引き渡し厳罰に処す。 以上だ」
わっ、と広場から歓声があがり、アインス達は顔を見合わせて舞台の上に座り込んだ。
もう、なにがなんだか――
色々と展開が急すぎて、頭と気持ちが追いつかない。
はあ、と大きく息を吐いて同じように座り込んだトレと顔を見合わせた。
「これで終わり、でいいんだよな……?」
「多分……」
ゆっくりとサンク達に手を引かれこちらにやってくる泣き笑いのリタを見ながら、アインスは空を仰いだ。
* * *
ゼノ達はとうに広場から姿を消していたが、フィリシアの姿を見た住民達は未だ興奮醒めやらずといった体で、広場をはじめそこかしこでお祭り騒ぎだ。
その街の騒ぎを、教会の尖塔に立ち見下ろす影がひとつ。
黒いテールコートに身を包んだ第三盟主だ。
彼は口元に笑みを履きながら、広場での出来事を反芻していた。
「あれが『白の聖女』フィリシアか」
存在したとはね、と呟く。
「色を纏うという点からそうじゃないかと思ったけれど……」
彼女は来たのか。
聖女フィリシアを追って。人の身でありながら、幾星霜をかけて。
ならば――
「やはりこの世界にいるのは間違いないということかな」
手にした杖をくるりと回す。
探し物がこの世界にあるとの確信にふふ、と微笑する。ただそれだけを確認するのに随分と長い年月がかかったものだ。
「それにしても」
ゼノは何を斬ったんだろうねぇ……相変わらずの切れ味だったが。
あのフィリシアはリタの中からでてきた。
本物ではない。リタが持っていたフィリシアの残滓だ。
ならば、あれはリタの記憶。過去にあった出来事だ。
その過去の出来事に「ゼノが存在した」というのはどういうことだろうか。
「ゼノの存在にやけに反応すると思っていたが……これは第一を問い詰める必要があるね」
一体、なにを頑なに口を閉ざしているのだか……。
「これから面白くなりそうじゃないか」
いいね。
退屈は一番の敵だ。
ふふふ、と笑って空に溶けるように姿を消した。
* * *
道なき道をランチェスと二人、進み行く。
ミルデスタの教会から馬車を借りることも出来たし、辻馬車に乗ることも出来た。ただ一刻も早くミルデスタを出たかったのだ。
「……わからん」
珍しくランチェスが低く小さな声で呟く。
ルカはチラリと視線をやったが、またすぐに前に向き直った。
「監察部署と顔を合わす気はない」
「そんなことはわかっているとも!私だってあの辛気臭いドレウェルの顔など見たくもない!」
もちろんルカだってランチェスの言わんとすることはわかっている。
突然の撤退命令。
狐と遊びすぎたための警告かとも思ったが、そうではなかった。
だがなぜ、今その命令が下されたのか。負ける目などなかった。アネリーフェによる首輪だって問題なく機能していた。神事さえ行ってしまえば後は如何様にも処理が可能だったはずだ。
これまでこのような形で命令が撤回されたことはない。
そこが二人には納得がいかなかったのだ。
無言のまま歩き続きる二人の耳に、背後から近づいてくる馬車の音が聞こえた。
馬車は遠目からでも教会のものであると知れたので、二人は立ち止まって馬車を待つ。
馬車は二人の横を通り過ぎると、少し前で静かに停まった。
扉が開いて顔を覗かせたのはアネリーフェだ。
「近くまで送るわ」
常であれば絶対に声などかけてこないこの年下の同僚は、わざわざルカ達を追ってきたのだろう。ぶっきらぼうに言い捨てて馬車に手招きする。
ちょうど良い。
今回の件は彼女達以外からは情報は得られない。ルカとしてもこのまま戻るには消化不良だ。
無言のまま馬車に乗り込めば、進行方向に向かってアネリーフェとバイセンが座っており、すいと視線で反対側の椅子を示された。
二人を乗せて馬車が静かに動き出す。
「――お前は何か聞いているのか」
単刀直入に聞けば、アネリーフェが眉をひそめながら少しは、と答えた。
「教皇様はお見えにならなかった――代わりにやってきたのはあのドレウェルよ。邪魔が入らなければそのまま予定通りに、邪魔が入れば司祭を切る形で事態を終息するよう命を受けていたのですって」
不満げに語るアネリーフェに、ルカは眉をひそめた。
「あの男がそんなことを話したのか」
意外だな、と呟いたルカにアネリーフェは頭を振って否定した。
「まさか。西方方面騎士団の騎士団長よ。彼も困った顔をしていたわ」
「さもありなん。あの騎士団長は生真面目な男だからな」
邪魔が入る事は最初から想定内であった筈なのに、邪魔が入ればとは、最初から司祭にすべての罪をかぶせ聖女を諦めるつもりであったに違いない。
「う、うおおおお! 我々が!不甲斐ないばかりに! 諦めるなどという選択をさせてしまったのか! 教皇さまに!!」
「「五月蠅い」」
突然叫びだしたランチェスに、ルカとアネリーフェが同時に言い放つ。
そんなことはルカやアネリーフェだって思っている。
よりにもよって、教皇様に手を引かせるなど……そのようなことがあってよい筈がない。彼らは教会の――むしろ教皇様のために動いているのだ。その教皇様の予定を狂わせるなど、本来であればあってはならないことだ。
「――剣聖よ」
きっ、と眦を吊り上げて、アネリーフェは忌々しそうに呟いた。
ルカは片眉を上げてアネリーフェを見やる。
「教皇様は、剣聖がリタに関わっている事をお知りになって、ここへ来るのを取りやめられたの。すべては剣聖のせいよ」
剣聖――ゼノ=クロード。
一度対峙したが、恐ろしく強かった。
あれは次元が違う。
確かに、ルカ達では正直敵わないだろう。あの男とは直接対峙せずに搦手でやりあう事が望ましいのはよくわかる。
だが、武力だけならなんとでもなるはずだ。これまでもそうだった。なのに今回に限って手を引くというのは……それだけではない何かがあの男にはあるということか。
「調べねば」
あの男について知らなさすぎる。これでは戦えない。
短く告げたルカの言葉に、アネリーフェもバイセンも頷いた。
「我々の教皇様に、恐れるものがあってはならない」
「その通りだ!」
ランチェスが大声で同意する。
「我々は教皇様の憂いを晴らす者。今回の借りを必ずや剣聖に払わせてやる」
拳を握りしめながら宣言したルカの言葉に、他の三人も無言で頷いた。
その時、こつり、と馬車のドアを叩く音がした。
走行中の馬車の窓を叩けるものなど限られている。アネリーフェは隣に座るバイセンに視線をやると、バイセンが馬車を止めることなくドアを開けた。するりと馬車の中に一羽の鳥が飛び込んできて、アネリーフェの腕に止まった。
「目を報告のために残してきたの」
鳥の頭をひと撫でして足に結ばれた手紙を開き、書かれた内容に軽く息を呑み瞠目する。その様子を見ていたルカは眉をひそめた。
「……女神フィリシアが顕現したのですって」
「……誰だと?」
訝しげなルカに、アネリーフェは震える口元を押さえながら、手紙をルカに差し出した。
……違ったのだわ……本当に、別の神の使いだったのだわ。
アネリーフェは口元を押さえたまま、体が震えるのを隠すように隣のバイセンにしがみついた。
報告には、女神がリタを救うように姿を現し、大いなる力でミルデスタの街全体を癒したという。街全体を癒すなど、確かに人の所業ではない。
しかもその後広場には、正神殿のヒミカやルクシリア皇国騎士団の団長まで現れたという。
「――なるほど。だから撤退か」
あの場に教皇様がいたならば、耐えがたい屈辱を味わわされるところであった。よりにもよって正神殿と皇国の前で!
ぐしゃり、とルカが手紙を握りつぶすと、そのまま魔法で手紙を焼き尽くした。
「本当に聖女捜索部署の連中は役立たずばかりだな。教皇様の機転がなければどうなっていたか――」
「紛らわしいものが存在するのが悪いのだ」
ぼそり、とランチェスが怒りを抑えた低い声で呟いた。
「浄化能力を持つ者はソリタルア神の使いでなくてはなりませぬ。それ以外が存在するなど許されれぬこと――消さねば」
「そうね」
すぐさまアネリーフェが同意した。
「教皇様を脅かすなら、許されない」
消さなくては。
剣聖も、リタも。
「いずれ、必ず――」
馬車の中で、コルテリオの面々は決意を新たにした。
第一話はあとひとつでおわりますが、更新は早ければ週末に……




