(二十六)聖女の夢
――リタ姉さん!
あまり聞かないトレの悲鳴のような声が確かに聞こえた。
どうしたの、と聞いてあげたかったのに、自分の身体が動かない。今自分が握っているのはなんだろうか。
誰かにその手を取られて引き剥がされるのを鬱陶しく思い、振り払うと同時に何かを蹴飛ばして地面に降り立った。
目の前でごほごほと咳き込みながらうずくまっている背中は、どこか見覚えがある。誰かが近づいてくるのが目の端に見えて、すかさず殴り飛ばしたとき――血の気が引いた。
サンク!?
待って!どういうこと!?
ひっ、と内心で悲鳴を上げているのに、身体はそのままサンクをさらに殴りつけようと拳を振りかざし、間に入ったフィーアとアインスを殴り飛ばした。
――やめて!なにするの!?
弟よ! どうして止められないの!?
内心叫び回っているのに、身体はリタの思うように動かない。
アインスの絶望した顔に、リタも絶望する。
やめて!誰か止めて!私を止めて!!
この子達にこんな顔させないで――!!
血を吐くような思いで叫ぶのに、誰にもこの声は届かない。
誰か……誰か!! フィリシアさま!!
その名を叫んだ時、頭の中にフラッシュバックする光景。
アインスの絶望した顔と、フィリシア様の絶望に染まった顔が重なった。
……私のせいで。
――私のせいで、またこんな顔をさせた。
どうしていつも、私はこうなの……
* * *
フィリシア様付きの見習い聖女になったのは、十歳になったときだ。見習い聖女は多くは孤児で、神聖力がある女子が選ばれた。実際に聖女の力が顕現するかはわからなかったが、一人でも多くの聖女を得ようと、正教会が多くの見習い聖女を集めていたのは事実だ。
フィリシア様は、すでにこの世界で知らぬ者はいない女神様のお気に入りで、その力の発現に神聖な白とも白金ともとれる色を纏ったため「白の聖女」と呼ばれていた。
その神聖力は凄まじく、上位魔族とも対等に渡り合える力を持っていた。
美しく優しいフィリシア様は、見習い聖女達の憧れの的だ。
もちろん自分もフィリシア様に憧れているうちの一人だった。
自分からすれば、フィリシア様のおっしゃる事もなされることもすべて正しく素敵なことだと思うのに、正教会の神官達はいつもフィリシア様に苦言を呈し、細々とフィリシア様のやることを邪魔する嫌な人達だった。
自分に聖女の力が顕現したのは、十二歳の時だ。
これでフィリシア様の手伝いができる、と思った。神聖力が強くないと色を纏わない。自分は残念ながらフィリシア様の白とは異なる色だったけれど、フィリシア様が似合うと言ってくれた黄色――黄金色を纏うほど、強い神聖力を持つに至った。
それが少し誇らしくもあり、フィリシア様がやっているのと同じように人々を助け、動いた。すべてフィリシア様の手助けをするために。
――それが他ならぬフィリシア様の立場を脅かすことになるとは、夢にも思わなかった。
いつしか、正教会には「白の聖女」と「金の聖女」が存在すると言われ、権力を二分するようになっていた。
自分達の思うように動かせないフィリシア様を追い落とすために自分が利用されたと知ったのは、フィリシア様を断罪する場に立ち会わされた時だ。
あの時のフィリシア様の絶望に染まった顔を見て、自分は壊れた。
壊れる音を聞いた。
暴走した神聖力は自分の制御を離れ、正教会の建物を吹き飛ばし、周囲を砂塵に変えた。
――いらない! そんな力ならいらない! こんなことのために聖女になったんじゃない! 聖女なんか嫌! フィリシアさまのっ、フィリシアさまのために頑張ったのに……!!
暴走した自分を助けてくれたのも、フィリシア様だった。
荒れ狂う神聖力の中、傷つきながら自分を抱きしめてくれた。
結果として、自分は助かった。残念ながら死ななかった。
教会と街を破壊した自分は処罰されることもなく、フィリシア様付きの見習いに戻った。これもフィリシア様の意向が強く働いた結果だった。
自分はいつだって、フィリシア様に助けられてきた。
だから、フィリシア様が困っていたら自分が助ける。
今度は絶対、間違えない。だから自分は――
* * *
沈んでいた意識がゆらゆらと夢の中から浮上したのを感じて、リタは静かに目を開けた。
身体が自由に動かないせいか、意識は常に夢うつつを行き来する。自由に動くのは瞼だけで、意識が夢の中をたゆたう時は自然と目を閉じる形になった。
……そうだった。
自分がずっと感じていた「聖女」への忌避感。自分は一度間違えたのだ。
弟達を攻撃したときの絶望感と、フィリシア様と敵対したときの絶望感がシンクロしたせいか、普段の夢では味わったことのない絶望感に、だがこれが現実のことだと理解できた。
自分は夢を見ながら、思い出しているのだ。
――どこかに存在したフィリシア様と自分。実際にあった出来事。
でなければ、これほどまでに夢にいる自分の気持ちが、狂おしいほど理解できるわけがない。夢の中でリタはいつだって、フィリシア様の見習い聖女で「金の聖女」と呼ばれた「自分」であった。
フィリシア様はどうなったのだろう。
夢の中の時系列はまだわからない。
自分の力が暴走した後と前では何が違ったのか。
ふと、人の気配を感じた。
見える範囲で周囲を見れば、豪華な設えの部屋だ。現れたのがシスター姿の女性だったので、ここが教会の一室であると知れた。
ぼんやりと、ゼノの言葉を思い出す。
――弟達が一人でも捕まっていたら、リタも今頃は連中に首輪を付けられていただろうさ
彼が言った「首輪」とは、人質のことだと思っていたが、つけられた今ならわかる。この身体の自由を奪う「首輪」のことだったのだろう。
悔しく思いながらも指一本自分の意志で動かせないリタは、けれどシスターのなすがままに身体を清め汚れた服を着替えさせられていた。
途中、彼女が足首に触れたとき、はっと意識が明瞭になった。
そこは、その符はトレに指示されて付けていたものだ。
奪われる訳にはいかない。あの子が、トレが「おまじない」だと言ったのだ。きっと何か意味がある。
動かない身体とは裏腹に気持ちは非常に焦ったが、シスターは足首の符を外すことなく、そのまま元のブーツを履かせると白い法衣を着せ付けた。
法衣は長いのでブーツもすっぽり隠れてしまった。
……外されなくて良かった。
シスターはリタの身体を綺麗に整えると、奥の続き間に移動したようだ。
あの後どうなったのだろう。
サンクは無事だろうか。自分は容赦なく殴り飛ばした。きっと大きな怪我を負っている。ドゥーエやフィーア、トレ、シス、シェラ、そして何よりアインス――七人兄弟の長兄として、いつも弟達を導いてきた責任感の強いあの子。
無事であって欲しい……
聖女であるという事実は、夢の中でもこの現実でも周囲を傷つけることしか出来ないのか。
フィリシア様……結局困った時はいつもあなたに縋ってしまう。
だけどどうか、どうか……!弟達を助けてください……! 払うべき代価なら、すべて私が払います!だからどうか、どうかあの子達が無事でありますように……!
「ああ、綺麗になったわね。まったく、あの脳筋どもときたら」
声が聞こえて、はっと意識をそちらに向けた。
視線の中に入ってきたのは、随分と雰囲気と姿が変わってはいたがアリーだった。彼女が教会関係者だったことは、考えれば容易に予想できたことだろう。自分が甘かったのだ。
アリーはリタの髪が気に入っているのか、手に取っては放すという動作を繰り返している。
「……どうして聖女であることを拒否したのかしら」
ぽつりと呟かれたその言葉は、悲しそうだった。
リタにとって、ハイネの町であのフェリモ司祭に宣言され、頭ごなしに色々決めつけられたことは腹立たしく、また夢を理解した今では自分が「聖女」であることが恐ろしかったのだとわかる。
だから最初から拒絶しかなかったのだ。
自分の魂が、自分が聖女であることを拒否している。
けれど、アリーのようにそれを悲しく思う人も、いたのかもしれない。
アリーの口からは自らを貶めるような言葉も紡がれた。
自分に首輪をつけた彼女だけれど、彼女は自分の立場を恥じている。
それは、夢の中で見知った情景だ。
あの夢の中でもそういう子達はいた。それをするために生かされている子ども達が存在した。フィリシア様が心を痛めていたのも覚えている。
レーヴェンシェルツのギルドで見せたあの快活な姿こそが、本来のアリーなのかもしれない。あるいは、そう生きたかった姿か。
彼女は色々と室内を検分しながら、最後にリタに告げた。
それは命令。
「いいこと、リタ。あなたに不埒な真似をしようとする者に一切の遠慮はいらないわ。叩きのめしなさい」
首元が熱を持ち、そのアリーの命令が通ったことがわかった。
自分に不埒な真似を「しようとする」者を叩きのめしていい。
ぼんやりとその命令を反芻していると、シスターがリタに近づいて来た。
「弟さん達は怪我をしたサンクも含めてみんな無事です。ご安心を」
耳元で囁かれた事実に目を見開く。
――無事。みんな無事。
――ああ、ありがとうございます、フィリシア様……!
よかった……!
心の中でフィリシア様に感謝の祈りを捧げ、安堵に胸をなで下ろす。
ノクトアドゥクスの者だと名乗ったシスターの言葉に、弟達が無事だと聞いて心が軽くなったからだろうか。ふ、とこんな時なのに笑いがこみ上げてきた。
ゼノのストーカー、あのハインリヒがひょっとしたら今頃慌てているのかもしれない、と思い至っておかしくなった。
そうだ。落ち込んでばかりもいられない。
聖女には絶対になりたくない。ならば、このまま教会にいるわけにはいかないのだ。逃げる方法を考えよう。
自分には味方がいる。
ハインリヒは手を貸すと言ってくれた。何より、ゼノが助けてくれると言った。自分は、ゼノを信じる。きっと彼と出会えたこともフィリシア様のお導きに違いない。ならば。
――最後まで、絶対に諦めないわ。
動けない身体で、リタは強く決意した。
* * *
念入りに衣装を整えられ連れ出されたのは教会前の広場だ。
昨夜、リタの様子を見に現れたミルデスタの司祭が、リタの手を取り執拗に撫で回して来たとき、自分の身体が自由に動くことに気付いた。
アリーや、あの暗殺者達が様子を見に来たときは動かせなかった。
シスターが触れても、他の神父がリタに触れたときもぴくりとも動かなかったのに、ミルデスタの司祭の動きには身体が動く。
アリーの命令の「不埒な真似」の判定は、リタが触れられて生理的嫌悪感を感じるかどうかのようだ。それも恐らく性的に。
だが、リタはじっと我慢した。
リタが自由に動けることは、なるべくなら隠しておきたい。手を撫で回される程度なら我慢しておこう、と思った。幸いどんなに嫌な顔をしたくても表情はぴくりとも動かないのだ。
だが、顔を――頬を撫で回すように触られ、唇に触れられた時――気がつけば殴り飛ばしていた。
側には司祭の他にも数人いて、彼らが顔を真っ赤にしてわめき散らしていたけれど、シュリーと名乗ったシスターが「司祭の行動はアネリーフェ様に報告の必要がございますね」と静かに告げたことで面白いほど黙り込んだ。
彼らでも教会の暗部に属するアリーは恐ろしいらしい。
その話を聞いたアリーが眦を吊り上げながら「ちゃんと消毒しておいて!穢らわしい!」と部屋に乗り込んで来たことからも、司祭を殴り飛ばしたことにお咎めがないことがわかった。
これを上手く利用出来ないだろうか。
考えてはみるが条件がなかなか難しい。ミルデスタの司祭のような者でなければ殴れない。そして殴り飛ばせても逃げることは出来ない。
あれこれ考えて夜を過ごしたリタの前に、困惑顔のアリーが現れたのはつい先程のことだ。
「教皇様のお考えがわからない」
そう呟いて、術のかかり具合の確認だろうか、リタの目を覗き込んだアリーの表情には不安と困惑がない交ぜになっていた。
「私はこれで失礼するのだけれど……あなた、今後もずっと聖女の側に付き従ってくれる?聖女をこの街より移動させることになっても。手配は私がしておくわ」
「心得ました――ですが、聖女は教皇様がお連れになるのでは?」
「それが……教皇様はお見えにならないのですって。ならば私が神事が終わるまで付き従うと進言したのだけれど、すぐに戻ってこいと仰せなの。この状態のリタを一人で置いておくのは不安なのだけれど……」
教皇様のお言葉ですもの、仕方がないわ。と呟くアリーの言葉に、これはチャンスなのではとリタは思った。
「では、神事はどなたが執り行うのでしょう? 当教会の司祭は、昨夜聖女様のお怒りを買い、未だ動ける状態ではございません。聖女様お一人では……」
シュリーの言葉にアリーがさらに困惑を深めるように眉をひそめた。
「それが、ハイネの町の司祭を呼びつけていらっしゃるの」
「――左様でございましたか」
ハイネの町の司祭、と聞いてリタはあのいやらしい男の顔を思い出した。
確かフェリモという名だったはず。
エルビス神父を押しのけるようにやってきて、裏で色々あくどい事を行い、あろうことか町の女性達に手を出そうとした許せない男だ。
……そうなの。あの男が来るの。
ならば、触れられるだけでも動けそうね。
粛々と神事が始まったと同時に起こった騒ぎに、ゼノ達だろうかと見える範囲で様子を窺う。広場の騒ぎは神事どころではなくなっていたが、人々はまだ残っている。そして――
「リタ姉! リタ=シグレン!! 迎えに来た! 帰ろう!」
アインスの言葉にリタの心が震えた。
馬鹿ね、放っておけばいいのに――だが、そんな子達じゃないことはリタが一番よく知っている。
帰りたい。
あの子達の元に、帰りたい。
だからその時も遠慮はなかった。
腕を引かれ、肩を抱かれた時に意識しなくても湧き上がる生理的嫌悪感。
ありがとう、アリー。あなたのおかげだわ。
父を殺し弟達を追い詰めすべての切っ掛けを作った男。
――私は絶対に、お前を許さない!
ミルデスタの司祭を殴った時よりも、渾身の力を込めて。
そして。
「リタを縛るものすべてを、斬り伏せてやる」
剣を手に自分の前に立つゼノと、目があった。
既視感。
私はこの光景を見たことがある。
ゼノの一閃を受けたとき、見えた。思い出した。
フィリシア様の叫ぶ声――だめよ、リタ、と。
そのまま力を暴走させたら、あなたが死んでしまう!
絶望のまま暴走させた神聖力。崩れ落ちる神殿。
あの荒れ狂う力の混沌の中、フィリシア様を守るために自分の前に立ちはだかった、その人。
ああ――そうだ。彼だった。
崩れ落ちる神殿の建物から、フィリシア様とリタを守った。
自分には出来なかった、フィリシア様の望みを叶えた人。
フィリシア様の護衛剣士――ゼノ。
思い出すと同時に、リタは夢の中で馴染んだ柔らかく強い力に包まれながら、フィリシア様が自分を呼ぶ声を確かに聞いた。




