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ユーティリシアの箱庭  作者: 村上いつき
第三章

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(二十九)感じる気配



 部屋の中にいても聞こえてくる声に、リタは舌打ちを落とした。

 ゼノが屍操術によりセレーネの盾になった教会関係者を斬り捨てるレコードが流れてから一日経ったが、表通りを含めて裏通りにまでゼノを糾弾する声が上がっている。


「ちょっと早すぎない?」

「事前に準備していたんでしょうね。けれど、これほど糾弾する声が上がるのは不思議だわ。表向き信者は多くても、熱心な人はそう多くない筈なのだけれど」


 首を傾げるフランシスに、ほんに、と黒鳳蝶も頷く。


「先日の聖女の出現で増えたのかしら」


 アザレアが鳴らした鐘の音は、信者の心を揺さぶったのだと聞いている。それから日は経っていない事を考えれば、十分にあり得る話だ。


「少し、様子を見てくるわ」


 中にいては実際の状況がわからない。ゼノは花街にいる筈だが、まさかあそこも似たような状況だろうか。

 二人はここにいて、と言い置き部屋を出て屋敷の入口に向かえば、セリオンの執事である魔族のルニエットが笑顔を浮かべて現れた。

 見た目老執事のルニエットは第四盟主の側近であるチェシャよりも魔族の気配が薄い。薄いという事はそれだけ実力があるという事だ。実力者ほど人に擬態した際に魔の気配を抑えられるのだとゼノが言っていた。


「お一人では危険ですので、ご一緒いたします」

「大丈夫よ。ちょっと街の様子を見るだけだから」

「御使い殿に何かあればゼノ殿に顔向けが出来ません」


 我が主をも危険に晒す事になりますゆえ、と言われればリタも強く拒否は出来ない。確かに、万が一リタがトラブルに巻き込まれようものなら、ゼノはきっとセリオンに怒る。魔族とはいえこの屋敷に来てから良くしてくれているルニエットに、リタの勝手な振る舞いで迷惑をかけるのも忍びない。


「わかったわ。なら、一緒に来てくれるかしら。この騒ぎの様子を確認したいの」

「承知いたしました」


 胸に手を当て頷いたルニエットと共に屋敷を後にし、大通りに向かった。

 リタはバルチェスタの教会から黒蝶屋に転移させられてきたし、セリオンの屋敷への移動も転移によるものだ。おまけに屋敷に来てからずっと外にはでていない。アンノデスタの街には初めて足を踏み入れることになる。

 花街からも見えていた東大陸と西大陸を結ぶ大橋は、都市の南側を通っていてここ中心地からは少し外れにあたるが、ここからでもわかるその大きさに思わず感嘆の息を吐く。


「馬車で通った時も思ったけれど、本当に大きな橋ね」


 アンノデスタにいればどこからでも目に入る大橋だ。ここからでは見えないが、その大橋から東、西大陸それぞれに近い場所に、アンノデスタに入る道が伸びているらしい。街を素通りするのと入るのとで道も通行料も違うとハインリヒから教わった。そして大橋の下、橋脚の周囲一帯に花街やスラムといった歓楽街や低所得層の住宅や商店が、北側にアンノデスタの主要施設が広がっている。

 花街の五丁目より上は橋の下からは外れるため空が見えるが、六丁目より下に向かうほど大橋の下になっていくので空が限られた範囲でしか見えなくなる。大橋によって隔てられる住民の違いが、そのままアンノデスタという都市の特徴の表れとも言えた。

 そして決定的に他の街とは異なる魔の気配。


「……こんな街中なのに魔物の気が普通に感じられるのが他とは違うわね。連中、悪さはしないの?」 


 他の街では、街中で魔物の気配を感じる事などない。感じた場合は街が襲撃を受けている証拠だ。——もっとも、人が気づきにくいだけで高位魔族が溶け込むように存在している事はあるのだが、その場合でも気配はなるべく隠すように動いているのが普通だ。 


「この都市は少々特殊なのですよ。バランスとは相反するものが存在するからこそ保たれるものですから」

「魔物がいるからこそ、上手くいっているというの?」

「時に人々が結束せねばならない敵がいるという意味では」


 人側をまとめるための必要悪だとのルニエットの言葉に、そう、と頷き返しながらも、それほど都合よくいくものだろうかと内心で首を傾げる。管理できるなどと考えていれば簡単に魔物や魔獣に蹂躙されるのではと思うが、黒鳳蝶から聞いた花街の話はともかく、ここアンノデスタが魔性の手に落ちた事は過去に一度も起きていない。それはレーヴェンシェルツのアンノデスタ支部に所属する冒険者達の実力もあるだろうし、今ならばセリオンが抑えているのかもしれない。

 元より第一盟主の領域なのだから、敵対する高位魔族は側近のベルガントに消された可能性だってある。


「アンノデスタで大規模な魔物襲撃があったといいう話は確かに聞いたことがないけれど……」

「存在するだけで、役割となる」


 そういうものです、と説明されても腑には落ちない。

 力ある者がそこに存在するだけで牽制になる、という事は確かにある。

 アンノデスタではそれが魔性の役割だと言われても、本当にそれが必要なのかと疑問が残る。

 それにこの気持ち悪さ。

 まるで土地に染みついたような魔性の気——瘴気ではない。いる、という気配だ——それを強く感じとってしまうのは、リタが聖女だからだろうか。

 姿は見えないし敵意もない。周囲にいないのはわかっている。なのに、何故だか数多くの魔性のモノがいるという気配だけは感じられるのだ。それこそ、隣にいるルニエットの微かな気配よりも濃密に。このような事はこれまでになかった。


「落ち着かないわ。都市にいるという気配だけは強く感じ取れるのに、姿形は見えない。それどころか、周囲には——近くにはいないとはっきりわかる。こんな感じ方は初めてだわ。都市の人はこの存在感を無視してよく普通に生活していられるわね」


 これほど気配が感じられるなら、それを放つモノがどこにいるのかわかりそうなものなのに、それがわからない。感知する感覚を狂わされているような感じではなく、煙に巻かれているような、そんな感じだ。

 花街にいたときはそんな気配はなかったし、セリオンの屋敷でも感じなかった。言い知れぬ感覚に眉根を寄せながら周囲を窺うが、これ以上何もわからない。


「なるほど。流石は御使い殿。魔を感じ取る力が他の者より圧倒的に優れているようですな」


 切り揃えられた口髭を撫でながら、ルニエットが感心したように、ふむふむ、と頷く。その言葉にリタは肩をすくめた。


「やはり普通の人は感じ取れないって事なのね」

「そうですな。ゼノ殿は初めてアンノデスタを訪れた時に同じような反応を返し——暴れたみたいです。まあ、魔女が抑えましたがね」


 リタが感じるぐらいだ。より魔族の気配に敏感なゼノが気づかない訳がない。それに、アザレアも気づいている事が今の話からもわかる。


「他はそうですな。ルクシリア皇国の隊長クラスにレーヴェンシェルツのクラスS以上の冒険者ぐらいでしょうか。それでも御使い殿やゼノ殿ほど詳細に感じ取れてはいないようです」


 流石です、と重ねて褒められても落ち着かないのは変わらない。


「じゃあ、ここに住む人は感じていないし、不調をきたすこともないのね?」

「瘴気はありませんし、先程も言ったように余程の強者でなければ感じ取れない種類の気配です。——ですが、今ここにはゼノ殿と御使い殿がいらっしゃるので、浮き足だっているのは確かでしょう。常より活発なのは否めません」

「攻撃してくる事はあるかしら」


 聖女であるリタは元々魔族に忌み嫌われているし、ゼノはその強さから言うまでもなく警戒されている。野良魔族がリタを狙ったように、ここの魔族達もリタを狙って襲ってくるだろうか。


「御使い殿がこの地の魔族を消滅させようと動くのであれば、それもあり得るでしょう」

「私が動かなければ連中も動かないと?」

「ええ、間違いなく」


 キッパリと断言されて息を吐く。

 別にリタとて見つけ次第魔族に攻撃を仕掛けるような無謀な事はしない。彼らが女性に——人々に危害を加えていない限りは。


「無闇に攻撃を仕掛けたりはしないわよ。それに、セリオンがある程度抑えているのでしょう?」

「——花街は」


 その答えに眉をひそめる。

 花街のみ、というのは単に彼が面倒臭いと思っているからか、それとも他に理由があるのか。

 ルニエットの表情からは何も読み取れない。


「大通りですよ」


 探るような視線をルニエットに向けていたリタが通りに意識を向けるまでもなく、騒ぎ声が大きくなってきた事でそれを知る。

 アンノデスタの大通りに並ぶのは大きな商会の店舗ばかりだが、そこにも勿論ランクがある。商会ギルド本部が都市の中心部にあたるので、そこにければ近いほど大きな商会——アンノデスタでは力を持つ商会の店がある。

 セリオンの邸宅は少し外れにあるので、大通りに出ても周囲にあるのは中小規模の商会の店だ。それでもアンノデスタに店を構えられるだけで各国では力を持つ商会と言えるのだ。


「教会に仇なす男を許すな!」

「このような暴挙に出る男がなぜ野放しなのか!」

「剣聖を捕まえろ!」


 そんな事を叫びながら通りを練り歩く集団に、リタの表情が険しくなる。

 ここで怒ったって意味がないわ。この集団の主導者はどいつ?

 練り歩く集団は普通の市民に見える。アンノデスタには確かに商人が多いが、普通の人々も生活している。パッと見た感じ、商会に籍を置くような者はこの集団には含まれていないように見えるし、また、冒険者の姿も見られない。


「教会の信者は一般市民が多いの?」

「商会にも勿論存在しますが、彼らは忙しいのでこのような事に参加している暇などないのでしょう」


 そういう問題だろうか。たとえ商会に属していなくとも、彼らにだって仕事がある筈だ。それを投げ打ってでもゼノを糾弾しなければと思うほど敬虔な信者が多いというのか。


「アンノデスタに敬虔な信者がこれほど多いとは思わなかったわ」

「敬虔な信者ほどこういったことには参加しないものではありませんかな。他者を徒に糾弾するような教えはないでしょう。それに、全員がアンノデスタに住んでいる者とは限りますまい」


 練り歩く集団を睨め付けながらルニエットの言葉を反芻し、ますます表情が険しくなる。


「なら——参加してるのはよその地域の者達で、教会に雇われているということ?」

「さて。今の段階ではなんとも申し上げられませんな」


 ルニエットはそう言うと大通りに向かって歩き出した。リタも慌てて後に続く。

 通りに面する商店の者達はどちらかと言えば迷惑そうな、困ったような表情でこの集団を見ている者が多い。彼らが練り歩くと一般の客が近寄れないのだ。集団そのものは横に広がらず整然と列を作っているのだが、後ろの間隔がそこそこあってそれが長い。けれども間を横切るには微妙で、この集団が通り過ぎるまでは道を渡れない。


「邪魔ね。これって営業妨害にならないの?」

「そうですな……本来であればこういったデモは憲兵隊が取り締まるのですが、動きが見られませんね。であれば、教会が既に憲兵隊を抑えているのでしょう」

「商人の都市で商人よりも教会を優先するなんて馬鹿じゃないの」


 馬鹿にしたように吐き捨てたリタに、ルニエットが思わずといった体で忍び笑いを落とす。御使いという名であるが実質聖女であるというのに、教会に対する嫌悪感を隠しもしないリタがおかしかったのだ。


「まあ、暫くすれば——おや?」


 突然そう呟いてルニエットの視線が集団の先頭に向けられ、リタもつられてそちらに目を向ける。何かあったのかざわついている。


「——すぐに教会へ戻る! 剣聖が現れたらしい!!」

「はあ!?」


  ——ゼノが教会に現れたですって!?


 物凄い形相と殺気を纏って声をあげたリタに同調するように、ルニエットも眉をひそめた。

 こんな時にわざわざ教会に赴くなど、絶対にひと騒動起こるに違いない。誰も止めなかったのかと内心で苦言を呈しつつ、これがセリオンにどのような面倒事をもたらすだろうかと計算を始める。


「通り魔はどうしたのよ!?」

「……そっちですか」


 通り魔が既に捕縛されていることを伝えていなかったとはいえ、リタにとっての優先事項はゼノのことよりそちらなのかと、少し遠い目になったルニエットである。



 * * *



 アンノデスタの教会は、さすが商人の都市だけあって立派な教会が建立されている。それも成金のような下品な豪奢さではなく、シンプルな造りながら細部に贅を尽くしているので、パッと見ただけではその素晴らしさに気づかないだろう。

 現在主任司祭を務めるトリニスタは、初老に差し掛かった穏やかな性質の敬虔な信者だ。二年前に赴任してきてから布教活動と慈善事業に尽力していて、都市の評議会とも上手くやってきた人物だ。

 彼は誰もいない聖堂で、一人神像の前に膝をつき祈りを捧げていた。だがその目はどこか虚ろでぼんやりとソリタルア神像を見つめている。

 その目に炎が映り込む。教会ならば神像の前に必ず奉じられる、本部最奥の聖堂に祀られている原初の火を分配されたものだ。

 教会を、ソリタルア神を象徴する「原初の火」。魔性のモノから人々を守るために神より齎された、魔を寄せ付けず、決して消えることのない神火だ。司祭や神父、また敬虔な信者は皆、原初の火を象ったフランメをペンダントとして身につけている。

 ゆらゆら揺れるその炎を見つめていると靄がかかったような思考が少しずつ明瞭になってくる。

 この炎に触れなければ、と唐突に湧き起こった想いに衝き動かされ、ふらふらと立ち上がった。炎だけを見つめたまま躊躇うように一歩足を踏み出す。一歩、また一歩と徐々に確かな足取りで原初の火を灯す燭台の側まで歩み寄り、その火に触れようと手を伸ばし——


「まあ、なりませんわ、トリニスタ様」


 やんわりとその手を握られた。

 この教会で聖女の如く慕われる美しいシスターソレルが、微笑を湛えてすぐ隣に立っていた。


「なりませんわ。原初の火に触れるなど」


 微笑と共にふわりと漂う香りに、先程まで確かにあった衝動が急速に失われてゆく。


「ああ……」


 くらりと目眩を感じて、ソレルに握られていない手で額を押さえ目を閉じる。

 そうだ、原初の火に触れるなど恐れ多いことだ。なぜ急にそんな衝動に駆られたのかとくらくらする頭で静かに目を開ければ、指の間から見える炎が目に焼き付く。

 ああ、そうであった。この炎に()()()()()()()()のだ。

 よろり、とよろけながら掴まれた手でシスターソレルを押しやり、さらに一歩足を踏み出し手を伸ばす。——それは、ブレスレットを付けた方の腕だ。


「なりません——う゛っ」

「っ!」


 強引に止めようとしたソレルとトリニスタ主任司祭に向かって、原初の炎が突然燃えさかり襲いかかった。

 音もなく、ごうっと広がり二人を飲み込むように広がる。

 ——だが、それは一瞬のこと。

 瞬きの後には、先程の炎は錯覚だったかと疑うほどに、いつも通り静かに揺らめく炎があるだけだ。

 何が起こったのかとしばし呆然と佇む二人であったが、先に我に返ったのはソレルだった。


「っ……! お、お怪我は、ございませんか、トリニスタ様」


 美しい柳眉を僅かに歪め右手を押さえたのは一瞬。すぐさま共に襲われたトリニスタを案じる姿は、人々に聖女の如く慕われるいつものシスターの表情(かお)だ。

 トリニスタはそんなソレルに見向きもせずに、ただ呆然と原初の火を見つめ目を瞬かせていたが、軽く頭を振り額を押さえた。


「……ああ、大事ない」


 絞り出した声は精彩を欠いたままだ。


「どうやら疲れが出たようだ。少し部屋で休ませて貰おう」

「それはいけません。件の剣聖が教会にやって来た際にはお声をおかけしますので、それまでどうぞお休みくださいませ」

「すまぬが、頼んだ」


 トリニスタ主任司祭は額を押さえたまま神像と原初の火に背を向けると、背を支えようとするシスターソレルの手を制し、そのままゆっくりと聖堂を出て行った。出る間際にチラリと聖堂の中に視線を投げれば、頭を下げてトリニスタを見送るソレルの姿が見えた。左手を上に手を重ね姿勢よく佇む姿は特段変わったところは見られない。

 だが、トリニスタはハッキリと見た。

 あの時慌てて押さえたその白く美しい右手の甲に、まるで刻印のように赤黒い傷跡が出来ているのを。

 それは、先程の瞬きの間に炎に襲われた手であった。

 聖堂を出てソレルの視界から完全に消えた事を確認してから、同じように襲われた自身の左腕に目を落とす。

 熱さも痛みも感じなかったその腕には、いつの間につけていたのか自分でもわからないブレスレットがひとつ。元は金色であったろうそのブレスレットが、見るも無惨に焼け焦げている。

 まだふらつく頭を一振りし、とにかく何が起きたのかを整理せねばと、先程よりもしっかりとした足取りで自室を目指した。




 トリニスタが完全に立ち去ったのを確認してから頭を上げたソレルは、まだジクジクと痛む右手の甲を押さえていた手をそっと外す。

 炎が触れた形で赤黒い傷跡が出来ているのに内心で舌打ちを落とす。

 非常に冷ややかな目で原初の炎と神像を見上げる姿には、優しさの欠片も感じられない。

 カタリ、とトリニスタが出て行った扉とは別の方向から音がして、すぐさま柔らかな微笑を浮かべて振り返れば、ソレルも良く知る神父が柱の陰から現れるところだった。


「まあ。ヤルニアス様」


 教会ではシスターよりも神父の方が常に地位が高い。もちろん修道女機関(シュエルディスタ)のマルリエやリリーディアほどになれば、一介の神父など太刀打ちできない実権を持っているが、司祭や神父を数多く抱える教会では、シスターの地位は低い。もちろんそれはここアンノデスタでも同じで、いかにソレルが聖女の如く民衆に慕われていても、神父より地位が低いのは変わらない。

 だが。


「ああ、ソレル……!」


 ヤルニアスが抱きつかんばかりの勢いで駆け寄ってくると、足下に跪きソレルの左手を恭しく取り額を寄せる。突然の行動にも驚くことなく、右手をそっと隠しながらソレルは微笑を返した。


「いけませんわ、ヤルニアス様。このようなところを誰かに見咎められては、ヤルニアス様にとって不名誉な噂が立ってしまいます」

「大丈夫だよ。みんな表でデモ活動を取り仕切っているからね。今この教会には私とソレルしかいないよ」


 掴んだ手に今度は頬をすり寄せ鼻息の荒いヤルニアスを、口元に微笑を浮かべたまま見下ろす。実際にはまだトリニスタがいるし下働きの者達もいる筈だが、そういった連中はヤルニアスにとってどうでもいいのだろう。


「最近忙しいといって全然構ってくれないじゃないか。ねぇ、今ならいいだろう?」


 頬にあてていた手を今度は撫で回しながら、請うようにソレルを見上げる。その目は色欲にまみれとても聖職者には見えない。

 もっとも、()()したのはソレルだ。

 この教会にはソレルによって色に溺れた神父や司祭が数多く存在する。

 重要な役職の者はソレル自身が相手をし、他の者は配下のシスター達を使って籠絡した。故に、この教会の実質的な支配者はソレルだと言っていい。

 二年前に主任司祭として赴任してきたトリニスタは敬虔な信者で俗世の色欲や金銭欲、権力欲などに興味がなく付けいる隙はなかったが、副司祭は金銭欲があったため、ソレルの動きが阻害されるものではなかった。順調に神父達の弱みを握りセレスフィーネの信者とすることに成功している。実際にセレスフィーネと会い完全なる宗旨替えをした者はまだ一握りしかおらず、欲で縛りつけた者の信用度はまだ低いが、それでも大半の者はソレルの手駒には違いない。

 このヤルニアスも欲から宗旨替えを行った者の一人だ。この教会の財務を担当する者なのでソレルが直接相手をして縛り付けているうちの一人だ。

 セレスフィーネが顕現してからというものソレルは忙しく動き回っていたため、ヤルニアスのような面々を放置していた。我慢がきかなくなったのだろうが、大事な計画の前に鬱陶しい男だ。

 周囲に人の気配がないことを素早く確認すると、ぐいとヤルニアスの手を掴んだ。その強い力に、ヤルニアスの目が期待に輝く。


「本当にいけない方ね。ここは聖堂でしてよ」


 神の前で堂々と強請るなど、と耳元に唇を寄せて囁き息を吹きかける。


「我らが信仰する神なら、ここにはいないじゃないか。そう言ったのはソレルだろう?」

「ふふふ。よくわかっていらっしゃる」


 かぷりと耳を軽く噛んでやればヤルニアスの身体が震えた。


「ソレ——」

「ですが、今は偉大なる神のための重要な任務を遂行中です」


 抱きついてこようとしたヤルニアスをついと躱し、冷ややかな空気を纏って微笑する。


「何を優先すべきかはヤルニアス様もご理解されているかと存じます」

「し、しかしっ……」

「我々は神の忠実なる下僕。何よりも優先されるのは神の御心。その尊きお方のために今は尽力する時です」


 笑顔でありながら反論を許さぬ視線に、ヤルニアスも息を呑んで後ずさる。


「じきに剣聖が教会へやってきます。それまでにより多くの者を集めてください。ヤルニアス様なら可能ですわね?」

「こ、これ以上コッソリと人を雇うのは予算が——」

「ウェルゼル殿がいくらでも寄付してくださいますわ。ああ、前にお願いしていた女郎の免罪状は準備できまして?」


 免罪状とは神の御名において犯した罪を赦すと公にする書面だ。これがあれば過去の罪は教会ではなかった事にされるもので、ここアンノデスタでは主に遊郭に身を置く者達が一般市民の権利を有するために発行される事が多い。発行費用がそれなりにかかるので裕福な者に身請けされた者の証のようになっている。だが手に入れられれば春を売っていたという罪で不利益を被る事がないよう、名誉を教会が保証してくれるという優れものだ。もっともそんなもので人の意識から事実が消えるものでもないのだが、表立ってそれを責める事は教会に喧嘩を売ることにもなるので多少の効力はあった。


「あ、ああ、あの黒蝶屋の黒鳳蝶のものなら既に準備をしている。だ、だが、黒鳳蝶がウェルゼル殿に身請けされる話など聞いたことが——」

「ならばそれを持ってウェルゼル殿の元に赴き、代金を受け取って人を集めてください。事は急ぎますので早急に願いますわ」


 事実かどうかなどこの際どうでもいい。

 それをウェルゼルが持っているという事で身請けされたのだと周囲にアピール出来ればそれでいいのだ。黒蝶屋が金を受け取ったのに売り渋っていると流せばそれで事足りる。なんなら、黒蝶屋はゼノの協力者として共に潰してやったっていい。


「し、しかし、免罪状は……」

「ヤルニアス様」


 なおも食い下がるヤルニアスを、名を呼ぶ事で黙らせる。

 その声音に含まれる侮蔑に、ヤルニアスはぎくりと身体を震わせた。


「心配はご無用ですわ。——ヤルニアス様の(ねぎら)いは、剣聖の事が片付いた後に、ゆるりと、お好きなだけ」


 微笑し、それからちろり、と唇を舐めて見せれば、ヤルニアスがゴクリと生唾を飲み込み、こくこくと頷いた。


「わ、わかった。すぐに手配するから、これが終わったら、きっと、きっとだぞ」

「ええ、もちろんですわ。私の神に誓って」


 ソレルのその言葉を聞いてヤルニアスはぱあっと顔を輝かせ、すぐさま立ち上がった。


「では、すぐに動くとも! 待っていてくれ!」


 嬉しそうにそう言い置き聖堂からヤルニアスが駆け出して行くのを見送ると、ソレルはふっ、と気だるげに息を吐いた。

 使い勝手はいいが鬱陶しい男だ。だが利用価値が高いので手放せない。

 あの男はソレルの命令ひとつで動くから問題はないが、今気になっているのは別の事だ。

 まだズキズキと痛む右手の甲をそっと押さえ、チラリと背後の原初の火を振り返る。

 あの時、トリニスタとソレルを襲ったのはこの炎に違いない。ソレルはこの傷を負ったが、トリニスタは無傷に見えた。信者とそうでない者では受けた影響が異なるのか。ソリタルア神の信者ではないソレルには傷を追わせたのであれば、敬虔な信者であったトリニスタは——?


「まさか、恵みの効果がなくなったりはしていないでしょうね」


 受け取った量はあまりない。トリニスタを操るのに三分の二も使ったのだ。副司祭は改宗させるまでもなく金銭欲である程度制御が出来たため、残りの三分の一は評議会の者に使おうと残していたのに、トリニスタが正気に戻ってしまっては意味がない。


「そうね……ならば、そうしましょうか」


 邪魔者は消してしまえばいい。

 どのみち計画はしていた。利用価値があるから生かしておくつもりだったが、ここで殺してしまっても問題ない。

 ふふ、と笑い声を零せば、まるでそれを牽制するかのようにズキリと右手に痛みが走った。


「っ……! 忌々しい……」


 チッと舌打ちを落とて神像を睨みつける。

 セレスフィーネが無事に顕現した今、いつまでもこんな神を祀っておく必要もない。トリニスタさえ抑えてしまえばこの教会は完全にセレスフィーネのものとなる。ここがアンノデスタであるが故にいかな教会といえども武力で取り押さえる事は出来ないのだ。

 暗殺部隊(コルテリオ)の一人がこちらの味方になったのだ。ならば、連中を分断することも可能だろう。


「まずは剣聖。あの男を社会的に抹殺して、セレスフィーネ様の顕現を大々的に披露しなくては」


 ふふふ、と悪意に満ちたソレルの忍び笑いが聖堂にひそやかに広がった。


 

 


いつも拙作をお読みいただきありがとうございます。

毎回見出しに頭を悩ませます……

急に寒くなってきました。どうぞ皆様もご自愛くださいませ。

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