(十九)気付く想い
夕食後、三人は大きな客間に移動する事になった。
元々一人用の部屋(それでも十分すぎる広さがあった)であったが、三人で利用するにはベッドが足りなかったのだ。
リタ達がお茶と夕食を取っている間に準備をしてくれたようで、そちらに移動した。
後は寝るだけとなった状態で、並んだベッドの上でパジャマパーティだ。
大きなベッドの真ん中で三人はそれぞれのパジャマで寛いでいた。
「眼福……」
ほぅ、とフランシスが黒鳳蝶とリタを見てうっとりとしているが、リタもリタで満面の笑顔だ。その二人を若いっていいものねぇ、と黒鳳蝶が微笑ましく見ている。
リタは持参している簡易な服装だが、黒鳳蝶は昼間とは違った白く柔らかい着物で、差し色の赤が色っぽさを引き立てている。フランシスは黒蝶屋から直接ここにやって来たので身の回りの物を一切持参していなかったため、すべてセリオンが用意したものだ。急に用意した筈なのに、そのパジャマ——ネグリジェがとても似合っている。
「それにしてもセリオンはわかりやすいわね」
ニマニマしながらリタが言えば、「ええ、ほんに」と黒鳳蝶が微笑しながら相槌を打つ。
それはもちろん、フランシスのために用意した部屋やこの服であったりもするが、共に夕食をとったときの挙動不審っぷりがなかなか愉快だった。
「え? 何が?」
キョトンと、全然気づいてなさそうなフランシスは、そういった事にまったく興味がないのだろうか。
「ねえ、フランシス嬢は貴族よね? 貴族だと親の決めた婚約者とかいそうなんだけど、いないって本当?」
女将に聞いた話を思い出しながら尋ねれば、ええ、とフランシスはあっさりと頷いた。
「我が家は跡取りの兄もいるし、政略結婚は求められていないの。私に向いていないし、父も母も別にいいと言ってくれているわ」
「理解のあるご両親なのね」
国によって違うのかもしれないが、随分自由な気風のようだ。リタの中でアンドリューの株が上がる。
「なら、恋愛も結婚もフランシス嬢の心一つという訳ね」
「私には無縁のものよ」
肩をすくめてそんな事を言うフランシスは本気でセリオンの気持ちには気付いていないようで、ふぅん、とリタは内心で呟いた。
セリオンから聞いた、自身の髪の色を気に入っていないことや、自分と目を合わさないセリオンは顔が嫌いなのだと考えるあたり、容姿にコンプレックスを持っているのかもしれない。
造作、という意味では確かに世間一般で言われる美女とは異なるだろう。けれどリタからすれば、その生き生きとした瞳はとても魅力的でくるくる変わる表情や笑顔はチャーミングだ。美醜にしか拘りのないクズ男はそれを理解できないかもしれないが、十分に魅力的だと思う。何より、絵を描くために対象を見つめる眼差しには溢れんばかりの愛情が見える。それがとても暖かい。
「そうかしら。絶対に恋愛が嫌、という訳ではないのよね? もし愛を囁かれたらどうする?」
「それはないわ」
「フランシス嬢の魅力に参ってる男がいると思うわ」
「あり得ないわ」
食い下がるリタに、やれやれと聞き分けのない子を見るような眼差しでフランシスが微笑する。
「私に恋愛感情を抱く人がいるなんてあり得ないわ。私にはシャノア公爵家の娘としての価値しかないの。これまでにもシャノア家と繋がりを持ちたい家からなら縁談もあったけれど、すべて丁重にお断りした今、そんな奇特な事を考える人はいないわ」
どうやらフランシスの周りにはこれまでそういった残念な男しかいなかったらしい。リタにはよくわからないが、貴族というのは価値観がちょっと違うようだ。
「もし現れたら? どういう人とだったらお付き合いしてもいいと思ってる?」
「そんな益体もない話を……」
「私でしたら、心落ち着ける人の側に居られるのが一番の幸せにござりますが、フランシス嬢は何が優先されるのでしょうや」
取り付く島もなさそうなフランシスに、黒鳳蝶がそのように切り返した。
「それって、剣聖様のこと?」
途端に瞳をキラキラと輝かせてフランシスが尋ねる。
自身の恋愛話には興味を示さないが、黒鳳蝶の話には大いに興味があるらしい。
「さて。いかがにござりましょう」
ふふ、と笑って躱す。
「フランシス嬢であれば、やはり絵に理解ある方がよございましょうか。これまでにそういった方はいらしゃいませぬでしたか」
誘導するような尋ね方に、うんうんとリタも頷く。
「絵ねぇ……そういう人は大体仕事関係で既婚者だから」
そうねぇ、と考え込んだフランシスに思い浮かばれないあたり、セリオンはまだまだ壁を持たれているのか。
「あら、セリオンはどうなの? だって絵の話をするんでしょう?」
少々強引だったかと思いつつも、フランシスの交友範囲を知らないリタなら知っている者の名を上げたという事で許されるだろう、とそのものズバリと尋ねてみた。
「セリオン殿? 彼とは確かに絵の話をするけれど……彼は絵にとても興味があるようで色々質問されるの。ただそれだけよ」
そう笑って流したフランシスの言葉にふと引っ掛かりを覚えたリタは、チラリと黒鳳蝶に視線を送る。黒鳳蝶は瞬きでそっと頷き返した。
「あらあら。セリオン殿が絵に興味をお持ちなど、フランシス嬢がアンノデスタにお見えになるまでは誰も存じ上げませぬ。娼館にも絵を飾っておられなかったと聞き及んでおりますからねぇ」
フランシスが来てから絵を娼館や自分の家にも飾るようになったそうだと意味ありげに言われても、フランシスは笑いながら頭を振った。
「ちょっと烏滸がましいけれど、私の絵を気に入ったみたいなので、そこから絵画に興味を持つようになったんじゃないかしら」
あくまでもセリオンが気に入っているのはフランシスの絵であり絵画という分野だと譲らない。ある意味頑なだ。
だがフランシスが頑ななのは認めたくない何かがあるからだ。それに気づきたくないと無意識で目を逸らしている。
「ならきっと、その素晴らしい絵を描くフランシス嬢にも興味津々ね。夕食時もなんとか話そうと必死だったじゃないの」
夕食時に必死でフランシスに話を振るが、フランシスが華麗にリタや黒鳳蝶に回してしまうので、セリオンとの会話は続かなかった。このあたりの会話術はさすがは貴族令嬢だと感心する。
セリオンももっとぐいぐい押せばいいのにと思いつつも、嫌われるのが怖いと尻込みしている様子は彼が色付き魔族であるからこそ余計に微笑ましい。フランシスを対等な相手と認識していることの表れだ。
「それは御使い様や黒鳳蝶に緊張するから、気安い私に会話の糸口を作って欲しかっただけじゃないかしら」
「それはないわ」
「ありぃせん」
二人が即座にキッパリと否定する。
「最初っからこっちが引くほどフレンドリーで気安かったわよ、セリオンは」
「特に花街の者には遠慮などされぬ御仁ですからねぇ」
「フレンドリー……」
え、とどこか傷ついたような色をその瞳に感じ取り、リタと黒鳳蝶は素早く目を見交わした。
やはり。
「セリオンはどうでもいい相手には最初から気安いのよ。相手にどう思われようと気にならないから、自分の好きなようにぐいぐいくるの」
他の高位魔族と比べたらそれでも人を慮ってくれている方だが、そもそも彼らは人など歯牙にもかけない。
「出会って日が浅い私から見ても、セリオンは随分とフランシス嬢の事を気にしているように見えるわ」
「……っ」
ぐ、と唇を引き結んだフランシスは、やはり薄々とは感づいていたのだ。セリオンはちょっとこう、自分に好意的なようだ、と。
ただそれは恋愛感情からくるものではなく、単にフランシスの絵が気に入ったからだと言い聞かせて、そちらに向きかけた気持ちに蓋をした。勘違いしてはいけないと。彼にそんな気はないし、自分も彼に特別な感情は持っていないのだと。
逃げるようにリタ達から視線を逸らしたフランシスの手を、黒鳳蝶がそっと上から包み込む。
「怖いものでしょう?」
囁き、フランシスの顔を覗き込む黒鳳蝶は微笑を浮かべている。
「相手にどう思われるかよりも、まず自分の気持ちが恐ろしゅうござりましょう? 認めてしまえば、知らなかった頃には戻りぃせん。自分でも儘ならぬ狂おしい程の相手への想いが恐ろしくもあり——幸せでもあり」
「……しあわ、せ……?」
虚を突かれたような表情でフランシスが黒鳳蝶を見つめ返す。黒鳳蝶はフランシスの手を取り、胸元に寄せた。
「あの方の話を耳にした、あの方の姿をお見掛けした。あの方とお会いして言葉を交わせた。そのたびにここが嬉しいと騒ぎ、幸せな気持ちになりぃす。この幸せな気持ちは、他では味わえはしぃしませぬ」
ふわり、と浮かべた微笑がとても美しく幸せそうで、見ていたリタも頬を染めて思わず胸を押さえた。
人づてでも話を聞くと嬉しい。姿を見掛けたらもっと嬉しい。会って、言葉を交わせたらもっともっと嬉しくて幸せになる——
ああ、わかる……
リタにとって、フィリシアがまさしくそういう存在だった。
それは恋愛ではなかったけれど、敬愛するフィリシアと共に過ごした時間はリタの短い人生の中で一番豊かで幸せなものだった。
フィリシアがいて、ゼノがいて。世界は徐々に破滅への道を歩んでいたのだろうが、あのひとときは何物にも代えがたい大事なものだった。
黒鳳蝶の言葉でリタが自然とフィリシアを思い浮かべたように、フランシスもそう感じる誰かを思い浮かべたのだろう。その瞳が揺れている。
「頑なに心から目を背けるのではなく、もう少し素直に感じてくださりませ。それがきっと、フランシス嬢の心をもっと豊かにしてくれましょう」
縫い止められたように黒鳳蝶を見つめていたフランシスは、瞳を揺らしたままゆっくりと視線を落として唇を噛みしめた。
「……でも……」
言い訳めいた言葉が出るのは、その感情を認めた証拠だ。
「私なんかが想いを寄せるのは失礼だわ……」
「は? 何言ってるの?」
思わずドスの利いた声がでてしまい、フランシスがびくりと肩を跳ねさせた。
「好きになることが失礼なんて、あってたまるもんですか! 相手に迷惑をかける行為を行うのは別の話だけど、想うことは迷惑でもなんでもないわ。それすら失礼だと相手が言うなら私が許さないし、自分を卑下するような言葉を吐いちゃだめ。自分の味方はまず自分よ」
フランシスを怖がらせない程度まで声音を改め、けれどもしっかりと釘差しをしておく。セリオンはフランシスに想われていると知ったら失礼どころか喜びすぎて何をするかわからない心配はあるが、他の誰かであっても、想いを寄せることが失礼なんて考える事は許せない。
フランシスが自分を卑下するのは、これまでに誰かに心ないことを言われたせいかもしれないが、そんな事を引きずっていては勿体ない。
「フランシス嬢は十分に魅力的よ! どこかの馬鹿が何かを言ったのかもしれないけれど、馬鹿の言葉に捕らわれる必要はないわ。相手は馬鹿なんだから」
憤慨するように馬鹿馬鹿と言い捨てたリタに、くすくすと黒鳳蝶が笑った。
「想うのは自由。行動とは別の話よ。想いを押しつけて相手を屈服拘束するような実力行使は論外だけれどね。それは恋愛なんかじゃなくただの執着。ウェルゼルみたいに断られたら攫おうなんて考えるような輩は、人を人とも思わぬただのクズよ」
ウェルゼルだって、黒鳳蝶を想うだけならリタもとやかく言わない。
黒鳳蝶の妖艶さに心奪われる者は多いだろうし、惹かれる気持ちもとてもわかる。けれど、黒蝶屋に用心棒を押しつけようとしたり自警団に圧力をかけたりするのは、黒鳳蝶を振り向かせるための行動ではなく、単に自分の思い通りにするための実力行使だ。黒鳳蝶の気持ちなど一欠片とて考えていないし、そんなものはどうでもいいのだ。対等などとはこれっぽっちも考えていないのだから。
「フランシス嬢は自分の気持ちがウェルゼルなんかと同じだと思うの?」
「まさか!」
「だったら、誰に憚ることもないわ。——それで、やっぱりセリオンのことは気になってるのね?」
がらりと口調をかえ、小声でそっと尋ねる。比較対象が酷すぎるが、これぐらい言えばフランシスも自分の想いが良くないものだとは思わない筈だ。
そのリタの期待に満ちた眼差しに、うう、とフランシスが頬を染めて後ずさる。けれど、手は黒鳳蝶に握りしめられたままでそれ以上は後退できずに、美しい顔に挟まれてフランシスは今にも卒倒しそうだ。
そろそろ危なそう、とこれまでの付き合いからそう判断した黒鳳蝶は、ぎゅ、と一度強く手を握りしめてからそっと離すと小首を傾げた。
「ただ、他の魔族と違うとはいえセリオン殿は高位魔族。一緒になるなら様々な障害もありましょう」
「い、一緒になる!? あ、あり得ないわ、そんなこと!」
一足飛びに結婚の話に持っていった黒鳳蝶にフランシスが動揺しながらぶんぶんと身体全体で否定するが、そうね、とリタは頷いた。
「人と同じように姿を成長させていくと言っていたから、寿命の違いは気にしなくてもいいかしら」
人と魔族ではまず寿命が違う。
長い年月を生きる魔族は姿もそもそも変わらないが、セリオンは人に擬態して年を重ね適度に死んで別の人として再び生きるのだとゼノが言っていた。ならば一番のネックとなる寿命の差は無視していいだろう。
むしろ、セリオンが本気であればあるほど、フランシス嬢を喪った時の方が心配だけど。
ふと、アルトもそれを恐れていたのだろうかと思う。
フィリシアが千年以上も生き続けているという理由はよくわからないが、そこには女神様やアルトの力が関係している筈だ。なにせアザレアが主神の力で今なお生き続けているのだから、似たことがフィリシアの身の上に起こっていても不思議ではない。休眠期、というのがそのあたりと関係していそうだ。
あら? けれどディルフィリートは今の見た目になるまで成長はしているのよね? 一定年齢になったら成長が止まるのかしら。
それに……
はた、とリタはそれに気付いた。
ディルフィリートはこれからもずっとあの姿で箱庭に——あの塔で生きていくのだろうが、リタはいずれ年老いて彼より先にこの世から姿を消すだろう。寿命の違いとはそういうものだ。
ゼノだって、カグヅチがあの剣から抜け出せなければ、これまでと変わらず生き続けて行く。アーシェやサラが自分の見た目を追い越し寿命が訪れても、ずっとそのまま、一人——
ゾッとした。
それはとても恐ろしい。
これまではアーシェとサラが時を止めて箱庭で眠りについたままだからこそ、ゼノは耐えられていた筈だ。二人が本当にいなくなってしまった時のことなど考えたくもない。
ディルフィリートも。
リタは胸元で拳を握りしめた。
アインスがヘス魔王を倒したら箱庭はなくなる。幾度も生まれ変わりながらも存在してきたジェニーやカレン、ザック達箱庭の面々もいなくなるのだ。
アルトやフィリシアはずっと同じく存在するかもしれないが、ディルフィリートは一人になる。
最近箱庭では被り物をとってリタと会話することも増えたし、交換日記は今だって頻繁にやり取りしていてすっかり打ち解けた。楽しそうな彼を、また一人にしてしまう。
——箱庭がなくなれば、塔から出られないという制限もなくなり、自由に世界を移動出来るのなら……そんな心配はいらないのかしら。
これまで出られなかった外へ出て、新しい人と会い様々なことを体験して彼の世界は広がっていくのだろうか。ゼノ以外の友人を作り、そしていつかは恋人や家族を……
それは嫌かも。
するっと自然に過った思い。
——えっ
一瞬固まった後に、リタは心の中を反芻して驚いた。
えっ……? 今、私何を思った……? えっ……ええっ……?
ええええええーーーーーーっ!?
声には出さなかったが激しく動揺したリタの様子に、黒鳳蝶がその綺麗な柳眉を寄せてそっとリタの顔を覗き込んだ。
「寿命以外にも、魔族との婚姻には気になることがござりましたか」
「えっ!? いえっ、あ、別にセリオンとフランシス嬢の事じゃなく、その、……ゼノ。そう、ゼノの事を考えていて!」
完全に挙動不審だ。
だがゼノの事を考えたというのも嘘ではない。
「セリオンは共に年を重ねていけるし、人に擬態して何度も人生を送ってきたのなら、ある程度人の営みを理解しているでしょうから心配はしていないわ。ちょっと交友関係に気になる点があるけれど、彼が高位魔族である以上、他の高位魔族との遭遇は避けられない。けれどセリオンが何を置いてもフランシス嬢を守る筈だから、そこは心配していないわ!」
捲し立てるように一気にそこまで話すと、ふぅ、と大きく深呼吸を繰り返す。
「人だってまったくの他人と生活を共にしていくのに衝突があるものよ。まあ、その衝突の理由が普通の結婚とは異なる可能性はあるけれど……お互いを良く知り相手を思いやって解決していく点はかわらないでしょう?」
それが出来ていれば大きなトラブルにはならない筈だ。
人のコミュニティで夫婦として生きていくなら、力を持つセリオンが譲歩と理解を示す場面が多くはなるだろう。
だがフランシスを娶るという栄誉を勝ち取ったなら当然の努力義務だとリタは思う。
まあ、まだ二人の仲は現状進捗はないのだが。
いえ。フランシス嬢が自分の恋心に気付いたのは進歩かしら。
そしてそれはブーメランとなってリタ自身にも返ってきたが、今は横に置いておく。
「御使い殿のおっしゃる通りにござります。基本はコミュニケーション。ふふ。フランシス嬢が絵を描く時のモデルに対するように接していれば問題はござりませんでしょう」
ふふふ、と笑ってから、それで、と黒鳳蝶はリタを見た。
「御使い殿が気になさったゼノ殿のこととは」
ゼノに想いを寄せている黒鳳蝶にはそちらも聞き流せない話だったようで、ついと流し目で問われ、んんんっ、とその色っぽさに当てられて変な声を上げそうになるのを抑える。
これは落ちるわ。ぽろぽろ落ちるでしょう、男どもが。
変なところに納得しながら、どこまで話したものかと考える。
「ゼノは今、カグヅチ様の——お力で時が止まっているんだけど」
カグヅチのせいで、と言いかけて改める。ゼノが二百年を生きているというのは、箱庭の伝説と共に有名だ。
「カグヅチ様? それはゼノ殿の剣に宿る神様の名前かと記憶しておりぃすが……箱庭に住んでいるからではないのでござりましょうか」
ああ、世間一般ではそう考えられているのだったかしら。
色々知ってしまったのですっかり失念していたが、箱庭には不老不死の力があると誤解されているのだ。
「箱庭とゼノの時が止まっているのは無関係なの」
「でしたら……これからも、ずっと……?」
黒鳳蝶はゼノが箱庭から出さえすれば、自分達と同じように時を紡ぐのだと信じていたらしい。さっと変わった顔色に、リタが心配した内容に思い至ったことが知れる。
「このままならね」
魔王の出現やセレーネの事を考えれば現状どおりでいられるかはリタにもわからない。なんらかの事態が動き出しているのは間違いないので、変わらないとの保障もない。
「そうでしたか……」
考え込むように目を伏せたその長い睫毛の影にドキドキしつつ、リタは先程気付いてしまった想いを押さえ込むように胸を押さえた。
とにかく、今は考えてはダメだ。
そう。まずは、フランシス嬢とセリオンの事よ!
そう言い訳しながら。
* * *
教会に聖女が現れたとの報せがあってから、ここ正神殿の空気もどこか落ち着きがない。
箒で庭の石畳の枯れ葉を掃きながら、サノヤも内心複雑だ。
神官長まで務めた自分が庭掃除をさせられていることに不満をもっているのは今さらだが、習慣として根付いた今は、まあ当初より嫌ではない。なにせ正神殿にいるのはサノヤよりも位の高い者ばかりで罪を犯したサノヤは下っ端だ。
それにこういった掃除は侍女達もやっている。普段はあまり接しない若い侍女達が熱心に掃除をしている姿を眺められるのは癒やしだ。
サノヤがモヤモヤと感じているのは、死の森討伐に参加したニダが神殿の影に襲撃され、あわや命を落とすところだったとか、護衛として付き従ったショウエイとアキホが意気消沈して構ってこないことだとか、教会の聖女が現れてからヒミカがどこか近寄りがたい雰囲気を纏っているとか、いつもとは違うそういう雰囲気だ。
いつもと空気が異なるので居心地が悪いというか、普段元気な者が元気がないのは落ち着かないというか、とにかくもサノヤも気分が落ち着かない。
ニダを救ったのはリタの癒やしだが、明らかに即死してもおかしくない攻撃からニダを守ったのは、サノヤが作った護符のお陰だという。もちろんサノヤは書いただけで、その符にササラエが力を込めなければいくら符を持っていたとて効果が違っただろう。
ニダが神殿の影の攻撃を受けて死にかけた、というのはサノヤにとって衝撃だった。
リンデス王国にいたときはニダは目の上のたんこぶで自身が神殿長にあがるのを阻む邪魔者でしかなかった。ニダが辞めるなり異動するなりすれば現神官長のサノヤが繰り上がって神殿長になれるというのは慣習だったから、大人しく待っていれば良かった。
雲行きが怪しくなったのは、ニダの人気のせいだ。
いつもならそろそろ異動する筈のニダがなかなか動かない。
どうやらリンデス王国のマリノア女王が神殿に交渉して、ニダを留め置いているようだとの情報を当時筆頭神官のカゲモリから聞いた。
王国民からも王室からも信頼の厚いニダが神殿長として居座り続けるため、サノヤはいつまでも神殿長になれない。
実のところは、ルイーシャリア王女がラロブラッドであったため、それを心配したニダがリンデス王国に留まっていたのだが、サノヤはもちろん知らない。
情報に疎いサノヤに様々な話をしてくれたのはカゲモリだ。
神殿が追っている神剣のこと。神剣を盗んだ剣聖のこと。そしてレイモンが剣聖を嫌っていること。剣聖を擁護しているニダを疎ましく思っていること。
ニダを排除するならレイモンが手を貸してくれるだろう、と教えられその気になった。ニダを捕まえて閉じ込めるのは簡単だ。彼はサノヤのことを少しも疑わないので、地下に瘴気の強い者を休ませているから助けてやって欲しいと頼めば自ら地下牢に足を運んだし、元々体調を悪くしていたから閉じ込めても出てくる元気はなかった。
カゲモリは積極的に手を貸してくれる訳ではなかったが、止められることもなく、様々な情報だけを提供してくれた。カゲモリはサノヤが直接手を下す度胸がないことを知っていたのか、魔族が現れる場所に放置すれば運が悪ければ命を落とすだろう、と入れ知恵をしてくれたが、それを実行する度胸も実のところサノヤにはなかった。
疎ましく思いながらも、人の命を奪う行為に抵抗を感じていたし、ニダの事は邪魔だし嫌いだが、だからといって殺したいほどかと問われればそんなことはない。サノヤの上からいなくなってくれればいい、という程度だ。
故に、地下牢に閉じ込めながらも食事を与え生かし続けた。
だからこそ、今回死にかけたと聞いて動揺したのだ。
ニダがこの世からいなくなってしまうところだったという事実に衝撃を受けている自分に、何より動揺した。
あの賑やかで巫山戯た態度のちんまりとした老人らしくない老人が、自分の側から消えてなくなる。
——それはなんと恐ろしいことか。
どんなに悪巧みを巡らせようとも、あの飄々とした態度で軽く躱していくのがニダという者の筈で、だからこそサノヤは彼に平然と悪態をつけるのだ。
そう、サノヤにとってニダは自分よりも何枚も上手で、自分を揶揄うように笑って辛辣な言葉を投げかけていなくてはならない存在だったのだ。
他の者にとってもそうである筈で、何より、自分と同じく影達も実際にニダには手が出せないとサノヤは思っていたのだ。
それがまさか、実際にニダを害するなど。
庭の端まで掃き進めたサノヤは、ふぅ、と大きなため息を吐いて手近な庭石に腰を落とす。
正神殿の石庭は静謐さが漂い、色づく葉が無彩色の庭に鮮やかな色彩を添えている。はらはらと散る葉が一幅の絵画のようで目を奪われる光景だ。
箒を手に座り込んだままぼんやりと見つめていたサノヤは、背後で葉の揺れる音に気付いてゆっくりと振り返った。
「お久しぶりにございます、サノヤ様」
「お主……」
そこに佇む男に目を瞬く。
その男はリンデス王国の神殿で、カゲモリの下にいた神官の一人だ。
「神官長にまでなられたサノヤ様が庭掃除とは……正神殿も随分と酷な事を課せられる」
口の端にうっすらと笑みを浮かべながらそんな事をいう男を、訝しげに見返す。彼は正神殿の所属ではなかった筈だが、なぜここにいるのだろうか。
「んんっ、まあ、ここは動ける者が少ないでな、仕方ないのだ」
咳払いをしながらそう返すが、そもそもサノヤは罪人扱いなので当然と言えば当然で、ササラエの神子であるニダに手をだしたのにこのような罰で済まされている事が逆に幸運だと言っていい。
ここに来た当初は、ササラエやオオヒルメ、ヒミカにどのような罰を課せられるかと戦々恐々としていたのだが、蓋を開ければニダの付き人で掃除や写経などが課せられただけだ。まあ、ニダに振り回される、という役割もあったが。
「サノヤ様は非常に優秀な符術師であらせられるのに、酷い扱いです」
神殿にいた時、この神官はカゲモリに付き従っていたので直接話す機会はほとんどなかったが、サノヤの事をそんな風に見ているようには見えなかった。
故に訝しむ表情を崩さない。
「そなた、どのようにしてここまで来たのだ。ここは正神殿の奥の院。正神殿に属する者か客人でなければ立ち入る事は出来ぬ。本日神殿の使いが来る予定などなかった筈だが」
サノヤの疑うような視線に、神官は驚いたように目を瞠った。
「サノヤ様がそのように物事をご覧になるとは知りませなんだ」
そこには明らかにサノヤを見下す色が宿っていて、サノヤも不快そうに眉根を寄せた。
「私はカゲモリ様からの伝言をお持ちしただけにございます」
「カゲモリから……?」
サノヤはあの後カゲモリ達どころかリンデス王国の神殿がどうなっているのかを知らない。だがわざわざカゲモリが正神殿にいるサノヤに連絡を取るほど、こちらを気にしているようには感じなかったので、今さら何の用かと訝る。
ニダに手を出したのは神殿の影なのだ。
そろりと周囲に目を向けても、掃除をしていた侍女の姿はもうない。今この奥の院にはサノヤとこの神官だけだ。
ごくり、と息を呑む。
「はい。サノヤ様にシャレーゼの神殿長をお任せしたいとお話しが出ているとのことです」
——神殿長!
それは、サノヤの長年の夢だった。一介の神官から長きにわたって真面目とは言いにくいが勤めを果たし、最終的には神殿長に上り詰める。それ以上の望みはないが小さな町でもいいからとにもかくにも神殿長になりたかった。
それがわかりやすいサノヤにとってのゴールであったのだ。
ぶわっと胸の高鳴りを感じて箒を掴んでいた拳に力が籠もる。
「そこで私がお迎えにあがりました」
胸に手を当てにっこりと微笑する神官に、だがサノヤは急速に興奮した気持ちが冷めていくのを感じた。
神殿長。
確かにそれに憧れてリンデスではニダを閉じ込めた。
だが。
——この者の手跡は非常に美しく、符も美しいのじゃ
——符づくりにおいてこれほどの逸材はそうそうおりませぬ
——サノヤの符のお陰でニダ様が無事でした。お礼を申します。今後もこの才能を伸ばしてくださりませ
ササラエやオオヒルメ、なによりヒミカに褒められる事と比べれば、神殿長などちっぽけな話でもはや魅力を感じない。
サノヤっち!と快活に笑うアキホやショウエイ、そしてニダの顔が次々と浮かぶ。
——お主はほんに手跡はすばらしいのじゃがのう。残念な性格よ
三柱には及ばないまでもスズカケ神をはじめとする神々もサノヤの写経を見ては惚れ惚れとしながら、サノヤを弄る。正神殿の者はみなサノヤの態度を改めさせようとはせずに呆れたように見るのだが、そこに嘲りはない。この目の前の神官のように、見下すようなことはしないのだ。
「さぁ、サノヤ様」
すいと差し出された手を見つめながら、ぎゅうっと箒を握りしめた。
「わ、儂は……」
ごくりと唾を飲み込み、キッと神官を睨み付けた。
「儂は、冬が来るまでの間にこの奥の院の落ち葉をかき集めて、毎日芋が焼けるようにすると、スズカケ様と約束をしておるのだ!」
「……は?」
芋?と首を傾げる神官に向かって、ビシッと箒の柄を向ける。
「落ち葉かきに忙しい! 神殿長などやっておる暇などない!!」
ビシッと怒鳴りつけたサノヤに、神官は何を聞いたのかわからないとばかりにぽかん、と間抜けにも口をあけてサノヤを見つめた。
「さっさと帰れ!」
怒りも露わに叫んだサノヤをなんだコイツと見つめていた神官は、先程までの嘘くさい笑顔を消し去ると、冷ややかな視線でサノヤを見据えた。こちらがこの神官の本性なのだろう。
「——たかだが贄の分際で偉そうに」
ぼそり、と神官が何かを呟き右手を上げようとしたところで、サノヤはがくんと意識を失った。今まさに攻撃を仕掛けようとした神官もぴくりと動きを止める。
「……なんの真似だ?」
その場に頽れたサノヤの身体を背後から抱き留めた黒い狐面の影——タツオミに、神官が殺気を纏って問う。
「徒に傷つける事はお勧めいたしかねます」
「ふん。利き手のひとつでも失えば、必死に試練に取り組むので良いのではないか」
「試練は失敗させるのが目的ではなかったのですか」
第一盟主の試練に失敗し、その姿を剣に変えたモノにカグヅチは宿った。その柄頭が非常に良い依代になっていた。依代は本来神の力が必要だったが、正神殿の神々の助力は願えない。ならば、同じように作ってしまえばいいとレイモン達は考えて、次から次へと適当な者を第一盟主の試練に放り込んだ。当然、皆失敗して命を落とす。だがそうして出来たモノは、カグヅチの剣と異なり依代になり得なかった。
何が違うのか。どのような者であれば神の依代に姿を変えるのか。
カグヅチの剣であった人は、優秀な剣士であったという。ならば、一芸に秀でた者なら良いのではないか。
ゼノのように優秀すぎて試練に成功しては意味がない。
一芸に秀でながらも試練には失敗する者が都合がいい。
そこで狙いを定めたのがこのサノヤだ。
符術師として優秀ではあるが人物的には大したことはない。彼ならば試練に成功することはまずないだろう。
「今のサノヤ様であれば、利き手を失えば試練に成功する可能性があります」
タツオミが静かに告げれば、神官は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ふん。こんな小物がどう足掻いたところで試練に成功する訳がない」
まあいい、と言い捨てるとタツオミに背を向けた。
「それはちゃんと運び出せ」
「御意に」
小さく頷けば、神官は現れたときと同じように庭園の奥に姿を隠す。奥に転移陣が仕掛けられているのだ。
タツオミは神官が完全にいなくなったのを確認すると、ふ、と小さく息を吐いた。
「アキホ」
名を呼べば、白い狐面をつけたアキホがすっとタツオミの背後に姿を現し、膝をつき控える。先程から飛び出して神官を襲いそうなところをタツオミが牽制していたのだ。
「サノヤ様は渡せません」
「案ずるな。試練の間になど放り込ませはしない。だが、カゲモリ達を一度安心させねばならぬ。俺が責任もって守るから今は見逃せ。それより」
右肩にサノヤを抱え上げ、胸元から巻物を取りだしアキホに差し出す。アキホは険しい表情のままそれを受け取った。
「死の森討伐でニダ様を襲撃した者達の真実と——カグヅチ様の柄頭だ」
「! では——」
「ああ。ナダヒメ神が宿っておられる。それをヒミカ様に」
「心得ました」
ぎゅと握りしめ深々と頭を下げる。
「レイモンは意識がなく、今過激派を動かしているのはカゲモリだ。今のあの男は何をするか知れない。こちらも十分に警戒せよ」
その忠告にアキホは訝しげな表情でタツオミを見上げた。何故レイモンが意識を失っているのか話が見えない。
「レイモンが? 何故」
「ヒヨリに返り討ちにあったのさ」
「ではまさか、ニダ様を襲ったのは……」
ああ、とタツオミは頷いて返す。
「仔細はそこに記しているがすべては教会の仕業だ」
「ヒヨリ……」
呟き、どこか困ったような雰囲気を纏ったアキホに、タツオミが首を傾げる。思っていた反応と違う。
「ヒヨリは……もう死んだのです」
「——聖女にやられたか」
ソリタルア神の聖女が現れたことはタツオミとて知っている。それが、アルカントの魔女と呼ばれるアザレアであることも。彼女達の間に友好関係がないのは裏の世界では有名で、アザレアが聖女として名乗りを上げた今、ヒヨリが死んだというのならアザレアに破れたということだろう。
だが、アキホはふるふると頭を振った。
「ヒミカ様やオオヒルメ様のお話では、何かよからぬ者がヒヨリの身体を乗っ取ったということです」
「……よからぬ者?」
なんだその不穏な情報は、と眉根を寄せたタツオミに、アキホもそれ以上はわからないと頭を振る。
「剣聖様やリタ殿はそれが何者かご存じのようです。セレーネという者だというところまではわかっていますが……」
セレーネ。初耳だ。
ふむ、と口元に手を当て記憶を探るが聞いたことのない名だ。
「わかった。その件に関しても探ってみる」
「お気を付けください。オオヒルメ様が非常に警戒する相手です。そのためにヒミカ様も大祓の準備を進めると」
「それほどの相手か」
サノヤの引き取りを申し出ようとして大祓の儀を承諾されたとは聞いていたが、ヒミカが元々大祓の儀を行うつもりだったというのであれば、早くから警戒していたことになる。
「わかった。こちらも気を付ける。——アキホ」
そのままサノヤを担いでその場を辞そうとして思いとどまり、タツオミはくるりと振り返った。これまでと異なる口調で名を呼ばれ、アキホもついと顔を上げた。
「ニダ様の件はあまり気にするな。責任があるとするなら、影が放たれたのを知りつつ放置した俺にある。ショウエイにもそう伝えておけ」
「なにをっ……!」
「ニダ様よりレイモンを優先した」
「……それは我々がいたからでは。期待に添えなかった我らの落ち度」
元より、タツオミを当てになどしていなかったし、アキホとショウエイが対応すべき事で責任を代わりに取られるなど逆に屈辱だ。
「お前達はそれまでもずっと動いていた。疲れていたので無理もない。加えて相手はストッパーを外された影が四人」
だがそれでも護衛として守り切らねばならなかった。
不甲斐なかったのは自分達だ。ぎりっ、と奥歯を噛みしめたアキホにタツオミは微笑を浮かべた。
「今回は俺に責任を取らせろ。それから、サノヤ様の事は案ずるな。必ず守ってみせる。——故に、正神殿のことは頼んだ」
事態が大きく動いている今、正神殿も無事では済まないかもしれない。
タツオミはもう少し過激派の動向を探っておきたい。それがカグヅチやゼノ達へのけじめでもある。
「ヒミカ様以上の霊力を持つヒヨリの身体が乗っ取られたというのは非常に不穏だ。過去の事よりこれから起こるかもしれない事への注意を怠るな」
「——心得ました」
頼んだ、と言い置くと、今度こそタツオミはその場から姿を消した。
後には、サノヤが使っていた箒だけがころん、と残された。
転がった箒を拾い上げ、アキホは静かに息を吐いた。
毎日暑い日が続きますね……皆様もご自愛ください。
ちょっと色恋が匂うと途端に筆が進まない不思議。




