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ユーティリシアの箱庭  作者: 村上いつき
第三章

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224/236

(十八)二十数年前の花街で



 水色だけでもこんなに色があるのか。

 そう感心したような声に振り返ると、着流しを着た見たことのない美丈夫が、腕組みをしてフランシスが作ったいくつもの色を乗せた紙を覗き込んでいる。

 花街で美女を見慣れているフランシスでも、その男の美貌に畏れを抱いた。

 男の持つ美しさにどこか禍々しさを感じ取ったのは、芸術家としてのフランシスの研ぎ澄まされた感覚のおかげかもしれない。

 だが禍々しさに反して色を見つめる男の瞳がきらきらと輝いていて、彼が本当に色に興味を引かれたことがわかり、ひとつひとつに名前があるのよと、フランシスはここアンノデスタの花街特有の色の呼び名を教えてやった。

 その色の下に名を記してみせた紙を欲しいと強請られ、子供のような熱心さにフランシスも思わず笑顔で了承した。


 それが、フランシスとセリオンの出会いだ。

 彼が色を纏い盟主に近い力を持つ高位の魔族だと、父アンドリューから教えられたのはその後だ。

 正体を知り畏れを抱いたものの、その後ちょくちょく顔を合わせたセリオンは、とても魔族とは思えないほど父や黒蝶屋の女将達と馴染んでいて、フランシスもつい彼が魔族であるという事実を忘れてしまう。

 父とどのような付き合いがあるのかは詳しく知らないが、父に会いに屋敷を訪れた際にはアトリエにも必ず顔を出して、フランシスが絵を描く様子を眺めて帰って行くのが常だった。フランシスの絵を気に入っているようだ、とは父から聞いた。

 セリオンはフランシスの、というよりも絵というものに興味を持っているのだと思う。画家が珍しいからわざわざアトリエを覗きにきて絵の話をするのだろう。魔族として長く生きているためか知識も豊富で話術も巧みだ。話していてフランシスも楽しい。

 ——ただ、彼と目が合うことだけは絶対になかったのだけれど。




 どんな所に連れて行かれるのかと密かに案じていたリタは、落ち着いた設えの室内にホッと息を吐いた。

 セリオンはなかなか趣味が良さそうだ。


「フランシス嬢はこの部屋を使ってください。他の二人は——」


「あら、三人一緒で構いませんわ。だってこんな機会でもなければ黒鳳蝶と寝食を共にする事など出来ないし、御使い様ともゆっくりお話出来る機会も訪れませんもの」


 ご機嫌な笑顔でお二人はいかが?と問われ、リタも笑顔で頷いた。


「私も嬉しいわ! それに、何かが起こらないとも言えないから、一緒の方がいいと思うの。——流石に男性に部屋に張り付かれるのはいただけないもの」

 プライバシーは守りなさいよと、しっかりセリオンに釘を刺しておく。まあ、セリオンがいるなら侵入者などないだろうが、それでもフランシスと黒鳳蝶はリタが守りたい。

 リタは護衛のつもりでもあるのだ。


「フランシス嬢がそれでいいなら構わないが……絵ばかり描いて寝食を忘れる事があるんだ。黒鳳蝶と同室ならずっと絵筆を握っていそうで心配だ」

「そ、そんな事、しないわ!」


 ぎくりとフランシスが固まったが、ふふ、と黒鳳蝶が袂で口元を押さえて笑う。


「お話はアンドリュー殿より伺っております故に、ご心配には及びませぬ」

「ええ。そういう事なら規則正しい生活になるよう、キッチリ見ておくわ」


 胸を叩いて請け負えば、えええ、とフランシスが情けない声を上げた。まったく貴族令嬢らしくない。

 ここは花街の外にあるセリオンの屋敷だ。彼はアンノデスタの大通りから少し外れた場所に居を構えているらしい。もちろん娼館のある花街四丁目にも住居兼店舗があるが、淫魔ばかりの建物にフランシスや黒鳳蝶は元より、リタを招き入れればいらぬ騒動が起きるという事で、真っ先にゼノによって却下されていた。

 この屋敷の使用人は基本人で、執事の役割を担う者だけが魔族のようだ。恐らくセリオンの側近なのだろう。第四盟主のところのチェシャ達と似た存在感を感じる。


「夕食は、ぜひ一緒に取りたいと思っている」


 少し緊張した面持ちで、失礼にならない程度にフランシスから視線を外しそう告げるセリオンに、リタと黒鳳蝶、そして執事の魔族が生温かい目で笑った。


「光栄ですわ」


 そんな視線には気づいていないのか、フランシスは淑女らしく微笑した。

 その笑顔にギクシャクとしながら、ではどうぞゆるりとしてくれといい置いて、ふらふらと去っていく姿にリタは苦笑しかない。


「セリオン殿は私と話はしてくれるのだけれど、いつも目を合わせてくれないの。よほど私の顔が嫌いなのかしら」

「そうきたか」


 んんっ、と唸りながらリタは思わず呟いた。

 ただヘタレなだけなのに、フランシスにそんな誤解を与えているのはいただけない。


「セリオン殿は美醜に拘りなどお持ちじゃございませんよ。フランシス嬢を画家として尊敬されているが故の気恥ずかしさでございましょう」


 可愛らしい御仁です、と笑う黒鳳蝶にリタもうんうんと頷いて見せる。


「その通りよ。彼はどうもシャイなようね」

「セリオン殿が!?」


 ええ!?とフランシスが驚くのも無理はない。高位魔族でもあり黒鳳蝶のような美女を前にしてもまったく動じる様子を見せないセリオンが、フランシスと目を合わせるのが恥ずかしいと考えているなどとても信じられない。


「その解釈は無理があるんじゃないかしら」

「でなければ、足繁くフランシス嬢のアトリエに通ったりしぃしませぬ」

「足繁く通ってるの」


 へぇ、とニンマリと笑ったリタに、フランシスはきょとんと首を傾げた。


「少し違うわ。セリオン殿は父に用事があって屋敷を訪れているだけで、目的はアトリエではないの」

「アンドリュー様と仕事のお話であれば、お屋敷ではなく商会へ足を運ぶのが道理にございましょう」


 ふふ、と意味ありげな笑顔でフランシスに流し目を送る黒鳳蝶に、はうっ……!とリタは胸を押さえ、フランシスは顔を真っ赤に染め上げた。


「ま……待って、それ、反則っ……」

 ちょ……素敵! 色っぽい! ああああ、わかる! 黒鳳蝶にならいくらお金を積んでもいいっていう男達の気持ちがわかる! 素敵すぎるでしょう!!!!


「か、紙……、紙を……! あああ、目に焼き付けておかなくてはっ……!」


 わたわたと慌てる様子では、先ほどの黒鳳蝶の言葉はフランシスの耳には届いていなさそうだ。

 セリオン殿はあんなにわかりやすいのに、フランシスの中では父の仕事仲間という認識に収まったままのようで残念だ、と黒鳳蝶は内心で嘆息する。


「は~……尊いものを見たわ……ああ。とりあえず荷物を片付けたらお茶にしましょう。今後の事も含めて少し話し合いたいわ」


 満足げに頷いてから、てきぱきと動き出したリタにフランシスもハッと我に返って動き出す。


「そうね。その通り魔と魔剣の話を私ももっと詳しく聞きたいわ」


 父アンドリューが不在にしている今、ここで起こった事は後で正しく報告せねばならない。少しでも情報を得ておきたいとフランシスもリタに同意して動きだせば、きょとんとリタが小首を傾げた。


「え? そんな物騒な話じゃなくてまずは女子トークが先でしょう?」


 なんだかどこかで聞いたようなやり取りだねえと黒鳳蝶は内心で思ったが、まあよいでしょうとスルーした。


「ええ? だって危険なんでしょう? 黒鳳蝶を避難させるぐらい」

「だってここに黒鳳蝶がいるなんて知らない筈よ。セリオンが転移を使ったんだもの」


 黒鳳蝶の移動を誰にも知られずに行う、というのが実のところとても難しかった。

 黒鳳蝶は既に花魁ではないので花街の外に出ることになんの問題もない。そもそも、特別な理由があれば花魁などの高級娼婦は花街の外に出ることが出来る(もちろん娼館の関係者が張り付くが)。商人ギルド主催の夜会は花街の力——ひいてはアンノデスタの権力を示すもののひとつとして顔を出すことが求められることもある。

 花魁どころか現在は娼婦ですらない黒鳳蝶は、本当であれば自由に動くことが出来るのだ。ただ、自由に動くには顔を知られすぎていて護衛なしの移動は危険が伴うし、なにより目立つ。

 その場にいるだけでパッと衆目を集める隠しきれない華やかさが黒鳳蝶にはあるのだ。


 その黒鳳蝶を知られないように移動させる。

 最初は転移魔石を使おうかとリタは考えたのだが、それは勿体ないと黒鳳蝶に却下された。変装して移動すれば、いやすぐばれる、などとごちゃごちゃやっていたときに、セリオンが、なら私が転移を使おう、と申し出た。

 高位魔族は転移が使える。第三盟主の空間魔術とは少々異なるようだが、アンノデスタ内なら一瞬で移動可能だと言われセリオンの言葉に甘える事にした。ゼノは最後まで難色を示していたが、リタの「フランシス嬢と一緒に転移するんだもの、安全よ」との言葉に最終的に折れた。それを信じるぐらいには、セリオンのフランシスへの想いを認めたようだ。

 くれぐれも危害を加えるんじゃねえぞ、としつこいぐらいに釘刺しはしていたけれど。


 そんな訳で、黒鳳蝶が花街の外に、それもセリオンの屋敷にいる事を知っているのはゼノと黒蝶屋の女将だけだ。たとえウェルゼルがアンノデスタ内に情報網を持っていたとしても知り得る筈がない。


「完全に気を抜く訳にはいかないけれど、緊迫した状況ではないわ。だからさあ、おしゃべりしましょう!」

「えええ……」


 今はそういう話ではなく通り魔やウェルゼルへの対応なんかを話し合うべきだろうと考えるぐらいには、フランシスは真面目である。


(わたくし)も、御使い殿に賛成いたしぃす。ここであれば、廓では話題にしにくい事も話せますゆえに」


 ふ、と微笑した黒鳳蝶の言葉に、呆れていたフランシスもハッと何かに気づいたようにこくこくと大きく頷いた。

 そうだ、と思い直した。

 黒鳳蝶から剣聖への想いやら何があったのかを前々から詳しく聞きたいと考えていた事を思い出したのだ。

 一方の黒鳳蝶も、ゼノと随分親しいリタの事やゼノの娘の事など、ゼノがいれば邪魔される内容をリタから聞き出したいと考えていた。

 そしてリタもリタで、フランシスとセリオンの話は元より黒鳳蝶とゼノの間に何があったのかを聞き出したいと目論んでいたのだ。

 かくして三人の利害は一致し、女性陣は顔を見合わせてにっこりと微笑した。




「ゼノと黒鳳蝶の出会いっていつなの?」


 リタがお茶の準備をしようとした際に、侍女がやって来て手早くお茶の準備をして下がっていった。そのタイミングのよさに、まさか覗いているんじゃないでしょうねとリタは警戒を強めたのだが、二人はこういった事に慣れているのか気にした風もない。貴族令嬢や最高位花魁であった彼女達からすれば当たり前のことなのかもしれない。

 まあそんな訳で夕食前にお茶会とあいなり、口火を切ったのはリタだ。


「アンノデスタで以前に魔族絡みの事件があったみたいだけど、その時?」


 ゼノが怒り気味に、あの時の事を忘れたのかと女将に食ってかかっていたのは記憶に新しい。

 リタの問いに、黒鳳蝶はええ、と静かに頷き、フランシスもああ、と記憶を探りながら手を打った。


「父から聞いたことがあります。確か、ハルエンディガーというランクS以上の魔族が花街に棲みついていたと」

「ランクS……」


 それは穏やかに済むわけがない。

 ごくりと唾を飲み込み、これから語られるであろう非道な内容に心構えをする。


「そうですねぇ」


 黒鳳蝶はことりと茶器を置くとテーブルの上に視線を落とした。



 * * *



 アンノデスタは東大陸と西大陸を陸路で結ぶ唯一の交通の要衝であるため、古くからどこの国の支配も受けない商人ギルドが管理を行ってきた自治都市だ。

 各国の騎士団のような軍隊を持たない代わりに、商人ギルドで組織する憲兵や、世界最大規模の管轄冒険者数を誇るレーヴェンシェルツの支部が存在し、いざという時の軍事力は小国のそれを凌駕する。

 人や金が集まる地には当然魔族も集まる。アンノデスタには魔獣や魔族もよく集まるが、これまでランクS以上の魔族がやって来る事は稀であった。それは高クラス冒険者の登録が多いため、襲撃されてもギルド総出で対処してしまうことと、第一盟主の領域という事で魔族にも恐れがあったためだ。


 だが、二十数年ほど前に現れたハルエンディガーは違った。

 彼は花街に棲みつき、アンノデスタの表の街には一切手を出さなかった。高位ランクの魔族が棲みついているなど、気取らせぬように花街でのみ活動していた。そもそも彼は第一盟主に喧嘩を売る気もなければ、アンノデスタを支配する気もなかった。表で他の魔族や魔獣が暴れようともどうでも良かったし、彼らとつるむ気もなかった。

 彼の目的はただひとつ。

 女だ。


 このアンノデスタの花街には色に長けた美しい女が数多くいる。彼はその女達を貪る事が目的だった。

 高位魔族は体のつくりも人と同じようなものだから、普通に人と交われるし魔族が望めば子供も作れる。淫魔が存在するように、性の快楽ももちろん味わえる。魔物や低位の魔族と異なり、力を持たない人風情にそういった興味を示す者が高位になればなるほど少ないだけで、いない訳ではない。

 そしてハルエンディガーは女に対して並々ならぬ興味を持っていた。——要するに、非常に好色だったのだ。

 彼は魔族の配下は置かなかったが、自身の愉しみに専念するために花街に居を構え、今もスラムに存在する裏組織のひとつを部下として抱え込んだ。面倒な事はすべて彼らに任せて、自身は好みの女を時に連れ込み、時に娼館に押し入っては好き勝手に女を貪った。花街全体が彼のハーレムだったと言っていい。

 そんな状態を花街の者達が許していた訳ではない。

 彼らは彼らでこんな馬鹿げた状態を打ち崩すため、レーヴェンシェルツギルドに討伐依頼を出そうと動いた事は一度や二度ではない。だが、ハルエンディガーは色付きには及ばずともそれに近い力を持っていたし、何より彼の抱えた者達が花街からの依頼はすべて握りつぶしていたので、花街の声が外に届く事はなかった。ハルエンディガーはそういう意味での花街と外の繋がりを完全に掌握していたのだ。


 そして反逆の意思を見せた花街に待っていたのは酷い報復だ。

 見せしめとして複数の娼館主を八つ裂きにして身体の部位を各娼館や見世に送りつけた。加えて実際に動いた者達を瘴気まみれにして苦しめて殺して見せた。

 人では出来ない殺し方を見せつけ、誰に逆らおうとしているのかをわからせたのだ。

 高位魔族ともなれば、瘴気を自由に操れる。

 加えて、これまで味が落ちるという理由で女達を抱く時に瘴気を纏う事はなかったが、娼婦を抱く際に、あえて僅かではあるが瘴気を注ぎ込んだ。

 そうすれば女達は体調不良に陥り、客を取れなくなる。一度注ぎ込んだ瘴気は薄れる事はないので、教会や神殿の浄化石を用いねば瘴気を消す事は出来ない。自然と花街での浄化石の購入量が増加し、ハルエンディガーはアンノデスタの教会や神殿とも暗黙裡に協力関係となって花街から金すらも巻き上げる事に成功したのだ。

 当時は自警団などもなかったので、ハルエンディガー率いるならず者達とも各娼館の用心棒で対応せねばならなかったし、彼らを倒せたとしてもハルエンディガーはただの魔族ではない。冒険者でもクラスS以上、もしくはルクシリア皇国の騎士団でなければ対応が出来ないだろう。


 だがそんな中でも立場を崩さなかったのは一丁目の高級娼婦達だ。

 ハルエンディガーは十丁目と呼ばれる娼婦から手をつけ、徐々に中へ中へと入っていったので、最後に一丁目の娼婦に手を出そうとして、こっぴどくやられる羽目になる。

 当時アンノデスタ花街の最高位花魁と謳われた黒鳳蝶に手を出すため、黒蝶屋に押し入ったハルエンディガーは、初めて自分を恐れない娼婦に面食らった。


「このアンノデスタの花街で道理を無視する野暮な男は、いかな力を持つ者だろうとも、誰も本気で相手にしぃしやりませぬ。盛りのついた魔獣のようにただ穴に入れたいだけなら他を当たりなんし」


 伸ばされた手をピシリと扇で叩き落とし、冷ややかに見据えて言い放った黒鳳蝶に、共に押し入った配下のならず者達が息を呑む。ハルエンディガーに付いてうまい汁を吸ってきた彼らも、本心ではハルエンディガーを何よりも恐れているのだ。


「……ハッ。たかだか人の分際で俺に盾突く気か」

「誰であろうとも、花街での不調法は許しゃりませぬ」


 ピシャリと言い捨て、すいと立ち上がって軽蔑の眼差しで見下ろす黒鳳蝶は息を呑むほどの妖艶さで、ハルエンディガーも思わずごくりと生唾を飲み込んだ。


 ——この女は骨の髄までむしゃぶり尽くしたい


 そんな欲を魔族から読み取り、黒鳳蝶は目を眇めて裾を捌いた。


「わっちらにも矜持がありぃす。理解せぬ者は客でもありぃせん。とっとと去ねさらせ」


 そんな拒絶の言葉を人から投げられたことのないハルエンディガーは、射貫かれたように動けなくなった。そんなハルエンディガーの様子に怯えを見せたのは黒鳳蝶や女将たち黒蝶屋の者ではなく、背後に控えるならず者達だった。ここで大人しくしていれば後で咎められるかもしれないと、我に返って黒鳳蝶を睨み付けた。


「何をほざくか! 娼婦風情が!!」

「貴様っ、ボスを馬鹿に——」

「お黙り」


 色めきたったならず者達に、女将が座したまま冷ややかに言葉を投げ付ける。怒鳴るでもないその声は、だが不思議と室内によく通り、ならず者達の出鼻を挫くのに十分だった。


「声のデカさと暴力で優位に立とうと思ったら大間違いだよ。ここは花街、女にとっては苦界。相手が人であろうが魔族であろうが大差ない。ここで生きていく女達には覚悟がある。そちらの流儀をまかり通そうとするならば叩き出すまでさ」


 その気迫に呑まれて思わず後ずさった彼らはそれ以上の言葉が出てこなかった。

 明らかにこれまでの娼館とは異なる。

 一丁目とは、こういった連中が集まっているのかとたじろいだのを見逃す女将ではない。


「こちらの流儀に則った対応を見せるのならば客として扱いましょうが——そうでないなら排除するまで」

「……ふ、ふん。排除だと? 力持たぬ者が我らを排除出来るとでも?」


 馬鹿にしたような笑みを浮かべた男の鼻っ面を、女将が右手を振って()()()()()()


「がっ……!」


 無詠唱の風の魔法だ。


「虎の威を借るしか脳のない狐の分際で、黒蝶屋の女将を舐めるでないよ」

「き、貴様っ……」

「うるせぇ」


 ヒヤリとした殺気を纏った声が室内に落ち、男達はびくりと身体を震わせて固まった。ビリビリと空気を震わせるほどの殺気を同じように受けながら、女将も黒鳳蝶も微動だにしない。黒鳳蝶は冷ややかな視線でハルエンディガーを見据えるのみだ。自分に怯えた様子を見せない二人に、ハルエンディガーは口の端に笑みを浮かべた。

 これまでの女達は明らかに自分を恐れ怯えを見せて、ただただ震えてハルエンディガーに媚びたり命乞いをしたり、諦めただ人形のように身を投げ打つだけだった。中には共に快楽に溺れる者もいたが、事が終わった後には怯えが見えた。魔族の気を抑えてみせても本能で生物としての命の危機を感じ取るのか、どんなに気丈に振る舞う女からも怯えは消えなかった。

 自分の快楽を優先するハルエンディガーにはそれでも十分に楽しめたので別に構わなかったのだが、黒鳳蝶を見て()()のだと理解した。


「なるほど。確かにそうだな。俺はもっと愉しみたい」 


 ニヤリと笑ったハルエンディガーを冷ややかに見据えたまま、黒鳳蝶は扇を開いて口元を隠した。


「この一丁目で楽しむつもりなら、流儀を学んでから出直しなんし」


 そう言い捨て、そのままくるりとハルエンディガーに背を向けて部屋から出て行った。

 室内がしん、と嫌な静寂に包まれた。


「……はっ。流儀を学べだと?」


 しばらくしてから、くくく、とハルエンディガーが低く笑う。

 その笑い声に男達がぎくりと体を強ばらせた。彼に楯突いた男達を踏み潰す前にこぼした笑いに似ていてごくりと息を呑む。彼らとて好きでハルエンディガーに従っている訳ではなかった。面倒事の対処をするために無理矢理従わされているにすぎない。——もっとも、女将の言う通りハルエンディガーの影で好き勝手やっているのは事実だ。


「ここは女と遊ぶ街。遊びは流儀に則るからこそ楽しいものにございましょう。力持つ者がそれに理解もみせずにただ蹂躙するだけというのは、村を襲う魔物に同じと、他の高位魔族からも蔑まれましょうや」


 女将の物言いにギョッとして男達が狼狽える。命が惜しくないのかと、この場で共に斬り刻まれるのではとの恐怖で震え上がる。


「一理ある」


 だが、ハルエンディガーは女将の言葉に頷いた。

 自分の行いが魔物の所業だと言われれば否定のしようもない。力でねじ伏せ好き勝手しているのはその通りでそこに高度な遊びはない。高度な遊びが出来る知能を持ちながらそれをしないのは、高位魔族であれば呆れられるだろう。ここに、それに対応出来るだけの者達がいるなら尚更だ。


「いいだろう。ここ一丁目とやらではその流儀に従ってやろうじゃないか」


 尊大に言い放ったハルエンディガーに、女将は深々と頭を下げた。



 * * *



「殺す」


 冷ややかな殺気と共にリタが真顔で言い放った。


「え!? いや、もう斃されてるでしょう、昔の事だから」


 ギョッとしたフランシスの言葉に、くすくすと黒鳳蝶が笑った。


「ええ。かの魔族はゼノ殿に斃されておりぃすから心配は無用にございます」

「くっ……! そんな女性の敵なら私も八つ裂きにしてやりたかった……!!」


 拳を握りしめ、ぎりぎりと歯を食いしばって心底悔しそうなリタに黒鳳蝶は微笑し、だがすぐに真顔で緩く頭を振った。


「御使い殿の美しさと気高さであればどのような仕打ちを受けたかわかりぃせん。女性(にょしょう)で遊ぶは魔物だけと思うておりんしたが、高位魔族にも一定数いるとゼノ殿より聞き及んでおりぃす。そのような輩には遭わぬが一番」

「ええ。よく()()()()()()


 するりと口をついて出た言葉に、リタ自身が一瞬戸惑いを覚えたが、何故かそのことを良く知っている、と思った。特に聖女や聖女候補に対しての扱いは非道を極めたとリタの中で納得している部分がある。

 その非道の内容までは全然思い出せないのに、心の奥深いところがぎゅうっと締め付けられる痛烈な痛みは覚えている。

 手を差し伸べられなかった。

 救えなかった。

 その苦しみを鮮明に覚えている。

 ああ、きっと。

 胸元でぎゅっと拳を握りしめ静かに目を閉じる。


 私がこんなにも女性を守り慈しむことが使命だと強く感じているのは……虐げられた女性達を見てきたからだわ。


 恐らく前世の混沌の時期に。

 秩序が崩れ荒れ果てた世界で、真っ先に蹂躙され命を落としていったのは女性や子供だったに違いない。

 それをきっと、リタは見てきた。——女神様の元で。

 根拠はない。だがきっと間違ってはいない筈だ。

 でなければこれほど強烈に女性を助けたいとは思わない筈だ。

 きっと前世のリタが、今度は絶対に助けたいと魂かけて誓ったからに違いない。


「だからこそ、私はそんな連中を屠りたい」


 今度こそ。

 誰へともなく虚空を見据え宣誓のように告げる。

 その鋭い眼差しに、黒鳳蝶もそれ以上は何も言えずに口を閉ざした。

 御使いだからという甘っちょろい正義感や義務感からの言葉ではないと感じ取った以上、安易な心配はリタに対する侮辱だ。


 ゼノ殿が認めるだけの御仁でありぃす。


 その事に強烈な羨望を覚えた。

 二人の様子を黙って見ていたフランシスはぐぐぐっと唇を噛みしめ耐えていた。


 何この場面……! ちょっと尊いでしょ!? 御使い殿も黒鳳蝶も素敵すぎる! 今ここでスケッチしたらダメ? お茶の途中だもの、失礼よね……! ああ、御使い殿もなんて絵心をくすぐるモデルなの!? うあぁぁあぁっ……猛烈に書き留めたい! 


 三者三様の心の内は、お互い知らぬまま。



 * * *



 魔族が恐ろしくなかった訳ではない。

 ただ黒鳳蝶は、かつて魔族と遭遇したことがあった。それも最悪な状況で。

 まだ十にもならぬ頃、住んでいた町が魔物達に襲撃された。その中にはランクBの魔族もいて、町の男達は八つ裂きにされ、女達は蹂躙され子供は魔物の餌になった。年齢の割に発育の早かった黒鳳蝶は餌ではなく魔族の玩具とされた。

 地獄だった。

 何もわからぬまま魔族や魔物に数週間蹂躙され続け、近隣の騎士団によって魔族が退治された時には身も心もぼろぼろだった。家族は既に殺されていたし頼れる親族も同じ町に住んでいたので同じように殺された。

 身寄りのない黒鳳蝶は神殿の孤児院に預けられたが、幾度となく蹂躙され続けた彼女の身体は瘴気まみれで瘴気の核まで出来ていて、そのあまりに強い瘴気に、慣れている筈の神殿の者すら近寄れない程だった。

 治癒はされたが瘴気は浄化石でなければ祓えない。

 瘴気の強さに黒鳳蝶に近寄ることを忌避した神官たちに自分で浄化するようにと浄化石を渡されたところで気休め程度しか楽にはならなかったし、彼女を見る度に顔を歪める神殿関係者の視線に耐えかねて神殿を飛び出した。だが外にでたところで瘴気が強くて誰も近寄ってはこない。


 黒鳳蝶に居場所などなかった。

 ならばこのままここで死んでしまおうと崖から飛び下りようとした黒鳳蝶を助けたのは、黒蝶屋の女将だ。

 黒鳳蝶が身を投げようとしていたのはアンノデスタすぐ側の絶壁で、珍しく用事で外へ出ていた女将に拾われた。

 黒鳳蝶の状態から何があったのかをすぐに察した女将は、ふむ、と頷き笑った。


「魔物に()()()()()()()んなら、もう普通には生きていけないね。だが、その瞳に絶望だけじゃなく怒りがある。なら、あんたはやっていけるよ。うちに来ないかい? 今度は()()()しながら相手を手玉にとってやるってのはどうだい?」


 その言葉の意味を理解していた訳じゃない。ただ、神殿の者すら気分を悪くするほどの瘴気を厭いもせず、同情でもなく焚き付けるようにニヤリと笑って黒鳳蝶と目を合わせた女将の提案を、受けてみるのも一興だと思っただけだ。

 同情や憐れみなど求めていない。

 死にたくないと思っても今の状態であれば遠からず瘴気で命を落とす。それに金も食べ物もないので飢え死にの可能性も高い。そんな外的要因で死ぬぐらいなら、自らの意志で死んでやろうとした黒鳳蝶の気概を女将は見抜いたのだ。

 その後は必死だ。

 女将の計らいで神殿から定期的に浄化石による浄化を受け、近寄るだけで感じていた瘴気は完全に浄化された。残念ながら核は残ったままだが、時折激しい苦痛を感じる程度で、すぐに命を落とすほどのものではなかった。

 教養と作法を身につけ、元より美しさを兼ね備えていた黒鳳蝶はたちまちのうちに花街でのし上がっていった。

 この仕事を惨めだとは思わなかった。

 なにより、あの時死ななかったとしても、花街の外では黒鳳蝶は惨めに生きねばならなかっただろう。明らかに魔物に蹂躙されたとわかる女が、まともに扱われる訳がない。

 黒鳳蝶が黒鳳蝶として立っていられるのは女将のお陰だ。女将には感謝してもしきれない。


 故に、この一丁目にハルエンディガーが現れた時、真っ先に対応するのは自分がいいと思った。

 魔族からの暴力を受けたことのある自分であれば、他の者と違ってその恐ろしさに多少の免疫がある。黒鳳蝶の町を襲った魔族とはレベルが違いすぎたが、魔族は魔族だ。怒りこそあれ、怯えなどはとうにない。命を奪うなら奪えばいい。蹂躙するならすればいい。魔族にだけは絶対に折られてやらぬとの意地がある故に、そんな事で最早黒鳳蝶の矜持や尊厳を折ることなど出来やしない。こちらの流儀に則り客となるなら、数多の客と等しくただの糧としてやるのみだ。


 その目論見は半分成功し、花街の一丁目でハルエンディガーが無理を通すことはなくなった。その隙になんらかの手を打とうと女将連も水面下で動きだしていた。

 そして女将や黒鳳蝶の想定外だったのは、ハルエンディガーが流儀に則り、黒鳳蝶を身請けしたいと言い出した事だ。

 随分と黒鳳蝶の事を気に入ったらしい魔族に内心舌打ちを落としながら、だが身請けは本人の承諾も必要だと女将が突っぱねることで何度か蹴った。だがそれがいつまでも持たないことは黒鳳蝶がよくわかっている。

 相手は魔族だ。今は機嫌良くこちらの流儀に乗っかる遊びを愉しんでいるが、元々我慢などしたことのない連中だ。いつまでも拒否し続ければいずれは力任せに事を進めるに違いない。


 そんな時にふらりとこの花街に現れたのが、剣聖——ゼノだった。

 もちろん偶然などではない。女将連と繋がりのあったノクトアドゥクスのハインリヒの差し金だ。

 剣聖などと言われても黒鳳蝶は最初信用などしていなかった。

 この花街ではどのような身分の男も同じだ。黒鳳蝶からすればハルエンディガーも偉そうな貴族も裕福な商人も、腕の立つ冒険者も聖職者とて大差ない。みななんらかの欲にまみれた同レベルの生き物だ。 


 故に、初めて会った際にゼノが眉根を寄せ「そんな核を持った状態でよく平静に取り繕ってきたもんだな」と痛ましい表情で感嘆ともとれるため息を吐いたのにまず驚いた。

 瘴気まみれの時はともかくも、表面上瘴気が浄化された今、そんな事に気付いたのは魔族であるハルエンディガーぐらいだ。

 瘴気の核による体調不良は今でもたびたび黒鳳蝶を襲い、そのたびに女将が神殿から高額な浄化石を購入し、治めてきた。そうした体調不良の時は決まって、あの子供の頃の悍ましい記憶に苛まされ数日寝込むのが常だ。


「まずはその核を斬っちまおう」


 一も二もなくそう言ったゼノを、ふ、と鼻で笑った。


「斬る? 瘴気の核を持つわっちが目障りだから消し去ろうって腹かい? お生憎だねぇ。終わりはわっちが自分で決める。余計な手出しは無用だぇ」

「かなりでけぇ核だ。相当負担がかかっているだろうに、お前さん中々に我慢強いな」


 だがゼノは気を悪くした風もなく、おい、と背後のハインリヒを振り返った。


「こいつぁ、カグヅチの力を借りる必要がある。後のことは任せていいか?」

「どれぐらい休む必要がある?」


 そうだな、と顎を擦りながらしげしげと黒鳳蝶を見据える。


「数時間はかかりそうだな」

「ふん。その程度なら問題ない。例の魔族を含めお前が休んでいる部屋に誰も踏み入れさせぬよ」


 言うなり、ハインリヒが指を鳴らした。途端に、室内が何かに包まれたのがわかった。

 これは?と女将を見遣ったが、女将は厳しい表情でゼノを睨み付けている。


「本当に核だけを斬り捨てられるのだろうね」

「ああ、問題ねぇ」


 核だけを斬り捨てる? 何を言っているのかこの男は、と呆れた時、その手に現れた剣を目にして息を呑んだ。

 説明などされなくてもその剣が特別なのだとすぐにわかった。

 そして、神殿に保護された時に聞いた、剣聖にまつわるよろしくない話が思い出された。

 神剣を盗み出し、魔族に蹂躙された女性をさらに蹂躙するのだと、口汚く罵っていたのを黒鳳蝶は耳にした。これが、その盗まれた神剣だろうかと、そう思えるほどその剣は美しくとても強い神聖な気を感じた。


「カグヅチ」


 ゼノは短くそう告げると、掲げた剣身をひと撫でするように触れた。

 それから、しばらく無言で黒鳳蝶を見据えていたが——


「っ!?」


 次の瞬間、がくりと黒鳳蝶はその場に頽れた。


「黒鳳蝶!?」


 それと同時にゼノがふうぅっと息を吐き倒れるように床に手を付く。


「……相変わらず見事なものだな。剣を振ったのはやはり見えなかった」

 感心したように頷くハインリヒを女将がキッと睨み付けたが、くく、と短く笑うだけだ。


「なに。心配はいらない。核を持っていたというのは重い荷物をずっと背負っていたようなものだ。急にそれが取り払われた反動でバランスを崩したに過ぎない。身体は明らかに軽くなっている筈だ」


 何をあり得ない話を、とハインリヒを睨み上げたが、ハインリヒは黒鳳蝶に目もくれずに「深刻なのは」と肩で息をするゼノを見下ろしている。


「こっちはしばらく動けまい。治療薬は飲めるか?」

「……くれ」


 はあっと大きく息を吐き、のろのろと身体を起こしたゼノに治療薬の瓶を手渡す。


「その剣自体が特別でも、カグヅチ殿の力を纏うというのは負担がかかるものなのか」

「ああ……。ヒミカが言うには、神の力をそのまま下ろしてるから負担が大きいんだと。だが、人の体内に出来た瘴気の核は、そうしねえとこの剣で斬っても体内に散るだけで消えねえんだ。散っちまうとそれこそ聖女やヒミカの浄化じゃねえと消せねえ」


 怠そうに治療薬を煽りながら、そう言うとその場に倒れるように寝転がった。


「久々に深く大きい核だった……アレをよく耐えてたもんだ……ああ、後は頼んだ……」


 そのまま、眠るように意識を手放したゼノに苦笑しながら、黒鳳蝶に目を向ける。


「相当に酷い核だったようだな」

「……さっきの剣が、神剣でありぃすか」

「いや」


 さらりと否定すると、皮肉げな笑みを口元に履く。


「神殿はいつまでもそう勘違いしていたいようだが、これは第一盟主の試練を乗り越えて得たゼノの剣だ。まぁ、神殿に愛想を尽かしたカグヅチ神が宿っているので、神剣と言っても誤りではないが、神殿が探している剣ではない。あの連中は都合の悪い真実は無視する傾向があってね」


 侮蔑したような物言いに、ハインリヒが神殿を嫌っていることが垣間見える。彼がノクトアドゥクスの者だと女将から聞いていたので、その彼が口にしたのならそれは真実だろう。少なくとも、子供の頃に悪し様に罵っていた神官達よりも彼の言葉の方に信が置けた。


「では、もうひとつの」


 ポツリと呟いた言葉にハインリヒが片眉を上げて、ああ、と呟いた。


「君のような女性を手籠めにしているという話か」

「……」


 頷くのが躊躇われたのは、頷くことで信じているのだと肯定するように思えたからだ。少なくとも鵜呑みには出来ないと考えている黒鳳蝶の思考を読んだのか、ハインリヒが低く笑った。


「君はどう思う? 瘴気も浄化されていない者を好んで手籠めにする者がいると思うか」


 思わない、と内心で答える。

 瘴気まみれの黒鳳蝶に近寄る事さえ嫌がったのは神官達で、身体を清拭してくれた女性達も、近寄る事を恐れた。助け出されたときだって、布でぐるぐる巻きにされ、騎士達だって直接触れるのを嫌がった。

 そんな状態の女性を手籠めにしようなどと普通は考えない。瘴気はそれほど恐ろしいものだ。


「我々も伝聞とゼノからの話でしか知らないが、魔族に蹂躙された女性達は、身にこびりついた瘴気を払われても、なおその身体の奥底、心の奥深くに穢れを宿し続けるらしい。ゼノはそういった女性達と関係を持つ事で、身に張り付いた瘴気もその穢れも引き受けることが出来るそうだ。何故なのかは本人にもわからないということだがな」


 穢れ、と聞いてハッとする。幾年月を経てもなお、当時の記憶が忍び寄り身も心も打ちのめされる。張り付いた何かを剥ぎ取りたい衝動におかしくなりそうな時期が、確かにある。

 それが奥深くに刻まれた穢れだというのであれば納得だ。

 固まった黒鳳蝶に、ハインリヒは目を細めて笑みを浮かべた。


「気になるなら、試してみればいい。——神殿は頑なに否定するが、ゼノに穢れを祓われた女性達は、憑きものが落ちたように平静さを取り戻し、その後は普通の生活を取り戻したと記録に残っている」


 普通の生活。そんなもの、黒鳳蝶には関係のないものだ。だが、定期的にやってくるあの不調と記憶。いや、瘴気の核が本当になくなったのであれば、身体の不調はもうないのかもしれない。けれど、今なお残るあの悍ましさ。あれが、消し去れるというのだろうか。


 この男と寝ることで……?

 青い顔をしたまま寝転がるゼノを見つめる。


「利用しろと……?」

「さて」


 ハインリヒは肯定も否定もせずに肩をすくめると女将を見遣った。


「ゼノはこのままここに寝かせておいてくれ。防御結界を張ったので、我ら四人しかこの部屋には入れない。私は今後の準備を進めるため明日まで戻らない。女将、君にも手伝ってもらいたいことがある」


 それだけ言い置いてそのまま部屋を出て行くハインリヒに、女将もちらりと黒鳳蝶とゼノに目をやってから、すぐに立ち上がった。


「ではここは黒鳳蝶に任せるよ。必要があれば人をお呼び」

「あっ……」


 引き留める間もなく二人はさっさと部屋を出て行き、黒鳳蝶はゼノと二人きりとなった。

 ふ、と息を吐いたところで、随分と呼吸がしやすいことに気付く。

 いや、呼吸が楽になって初めて、苦しかったのだと知った。

 あの時からずっと、呼吸一つ満足に出来ていなかったのだ。

 心なしか纏う着物も軽く感じる。

 ゆっくりと立ち上がり、随分と身体が軽くなっていることに驚く。


「本当に、瘴気の核がなくなりぃしたと……?」


 あの一瞬で剣を振り、核を斬ったというのか。

 剣聖。ルクシリア皇国の剣士。

 神剣の盗人。

 黒鳳蝶や女将を見下しながら浄化石を高く売りつける神殿の者と、何の交渉もなく核を斬って昏倒するように寝転がる目の前の男。どちらの評価が正当なものかは自然と知れる。

 神の力を下ろし剣を振るって昏倒するのは、負担がかかっていることの表れだ。ならば、瘴気や穢れを引き受けるのは、ゼノの負担になりはしないのか。

 そう考えられるほど、自然にハインリヒの言葉を信じられた。

 ならば、わっちは。

 黒鳳蝶は唇を引き結んだ。



 程なくして、ハルエンディガーはゼノにより斬り伏せられた。

 対峙して、あっという間だ。

 それほどゼノの強さは圧倒的だった。

 今後こんな馬鹿げたことが起こらないようにと花街に元冒険者をメンバーとする自警団を設置し、商業ギルドの評議会と対等に渡り合えるように花街の女将連の地位を確固たるものとした。そこはノクトアドゥクスがアンノデスタの情報を牛耳る思惑もあってのことだ。

 花街だけでなくアンノデスタに蔓延っていた野良魔族は、ゼノによって一掃され、アンノデスタは平穏を取り戻した。



 * * *



「その後、なんらかの取引が行われたのか、第一盟主の側近であるセリオン殿がアンノデスタに来られて、それ以降アンノデスタで好き勝手する高位魔族はいなくなりんした」


 そのように結び、二十年前の事件を簡単に話し終えると、黒鳳蝶はゆっくりとお茶で喉を潤した。

 リタとフランシスはしばらく無表情で黙り込んでいた。

 黒鳳蝶の身の上話は女将以外は知らない。話すかどうかは迷ったが、ゼノが核を斬って助けてくれたことと、自分がなぜハルエンディガーに臆することなく対応出来たのかは話しておいた方がいいと判断したからだ。だが、二人がいつまでも黙り込んでいるので話しすぎたかと、ことりと茶器を置いて軽く息を吐いた。


「耳汚しな——」

「肝心なところが抜けてるわ、黒鳳蝶……」


 フランシスがふるふると震えながらようやく絞り出すように呟いた声に、え?と小首を傾げた。


「ゼノ殿とのロマンスは!? そこ大事な部分でしょう!? まだ続きがあるのかと待ってたのに!」


 フランシスが黙り込んでいたのはその先があるだろうと思ってのことだったらしい。


「女郎にロマンスなぞありぃしません」


 くすくすと笑ってみせても、フランシスは不満顔だ。

 まあ、話さなくてもいい部分を匂わせてしまったのは事実だ。ただ、ゼノと付き合いの深そうなリタには正しく知ってもらっていた方がいいだろうと思ってのことだ。神殿はまだゼノを敵視している。最近では新たに神子となったニダのおかげで随分誤解が解けてきたようだが、まだまだ根強く悪者にしている連中はいるのだ。加えて、教会もなにやらきな臭い。今はゴシップ紙程度のことだが、それだけでは収まらない何かを感じる。

 ならば、ゼノの味方であるリタには、ゼノへの信頼が少しの揺らぎも生じないようにしておきたかった。


「……浄化の力……」


 だがリタが気になったのは少し別のところのようだ。


「ゼノに持たせておきたいとお考えになった……? どちらのお力かしら。それとも、ゼノが大事な人を守れるように……?」


 何かを考えながらブツブツと一人呟いている。

 見る限りでは話を聞いてもゼノへの嫌悪感は感じていないようで安心だ。リタはハインリヒ同様ゼノの味方で間違いない。


「絶対もっと色っぽいことがあったでしょう? 黒鳳蝶に言い寄られたらいくら剣聖でも落ちるに違いないもの! そのあたりのやり取りを! もっと詳しく!!」

「ゼノ殿は堅物でござりぃすから」


 諦め悪く食ってかかるフランシスに、ふふふ、と朗らかに笑って躱す黒鳳蝶を見ながら、リタは口には出さなかったがゼノは手はだしただろうと確信している。

 何より先程の黒鳳蝶とゼノの距離感は関係を持った者のそれだし、ゼノの態度が明らかに他の女性とは異なる。

 それに。

 黒鳳蝶からは瘴気はもちろん穢れのようなものも一切感じられない。ゼノがすべて祓ったのだろう。

 そこまでは望まなかった黒鳳蝶を逆に放っておけなくなったに違いない。そこでどのようなやり取りがあったのかはちょっと、いや、非常に気になるしぜひ聞きたいとも思うのだが、黒鳳蝶がそこは話さないと決めてしまった以上、絶対に口を割らないに違いない。

 恋愛感情はともかくとして、その状況で苦しんでいる女性を見て見ぬ振りをするような男ではないだろう。むしろ放っておいたのなら幻滅する。

 ともかく黒鳳蝶のおかげで神殿がばら撒く噂の真実を知れたのはありがたい。

 ゼノが瘴気に侵されないのはフィリシアの加護のお陰だが(カグヅチの加護もあるのだけれど)、加えて他者の瘴気を取り込めるというのも不思議な話だ。


 フィリシア様の加護のお力ではないのかしら。


 ゼノにはまだリタの知らないあれこれがありそうだ。

 ゼノの魂には色々刻まれているので、どれが何を齎しているのか複雑すぎてリタにもわからない。

 本人は何も気にしてなさそうなのが腹立つけれど。

 チラリと窓の外へ向けため息を吐く。

 ゼノの魂に刻まれた「魔剣の使い手」。それがある以上、魔剣の取り扱いはゼノに任せておけば大丈夫の筈だが、キャシーの事は気になる。

 どのような結果になろうとも揺るぐまいと心を決めているが、それでも願わずにはいられない。

 どうか、少しでも救われますように、と。



 

 

 

いつもお読みいただきありがとうございます。

ちょっと長々といつも以上に読みづらい回ですみません。

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