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ユーティリシアの箱庭  作者: 村上いつき
第三章

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223/236

(十七)魔剣を引き抜いた者

いやぁ……予告なくお休みすることがあります、との予告はしましたが、実際にやるとちょっとドキドキしますね。



 花街が一番に賑わう時間帯。花を選ぶ男たちと客引きする店の者。そして一丁目名物の女見世。それぞれの妓楼や娼館に属する下っ端の女達を見る事が出来て、今宵の相手を選べるのだ。

 そんな華やかな時間帯に、ゼノは一人五丁目の通用門近くにいた。

 二日前にゼノに邪魔されてから、魔剣は誰も狩っていない筈だ。

 引き抜いた魔剣は貪欲に魂を欲する。使い手もその欲望に引きずられ徐々に理性を失って暴走するのが常だった。少なくとも二百年前はそうで、そうやって使い手を取り込み潰していきながら次々と使い手を乗り換えていたのだ。

 だが、今回は制御しているように見える。

 そう思ったのは、昨日の午前中にフランシスのアトリエを襲撃した際に人を傷つけていないからだ。

 通常なら居合わせた警護の者は斬られている。だが実際には、空間を閉じて締め出すだけで誰も傷つけていない。使い手に思惑があったとしても、それを通せるほど魔剣に振り回されていないという事だ。


 アイツ(エド)にその素養があったってことか?

 そいつぁしっくりこねぇんだよな。


 顎を擦りながら偽物の事を思い返す。

 剣士とは到底呼ぶ事の出来ない腕前に心構え。昨日対峙した時に見た剣筋はかつてのエドとは似ても似つかない達人のそれで、どちらかと言えば魔剣に操られた者の剣筋に似ている。


 だが暴走はしてねえんだよな。おまけに、空間を閉じるような力なんざあったか?

 まあ、これまでの者がそんな力を振るう前に飲み込まれて潰された可能性はある。

 だが、まったくあの男の気配を感じられねえのはなんでだ?


 リタが通り魔がエドだと断定するまで——いやむしろ断定してからも、ゼノにはあの男とエドが結びつかない。

 顔が見えないせいじゃない。

 剣筋どころか構えや握り、重心の置き方足の運びなど細部に至るまで重なるところがないというのはおかしい。

 だが、アイツじゃないとも断定出来ないのだ。

 はあ、とため息を落として頭をガシガシとかいた。


「捕まえてみりゃあわかるか」


 独りごち、空を仰いだ。

 昨日は動きはなかった。

 だが餌も必要な筈なのだ。力を振るったのなら尚更に。

 神経を研ぎ澄ませた状態でゆっくりと歩き出す。

 魔剣の気配を完全に遮断する事は叶わない。

 あの負の気配と独特の禍々しさは隠し切れるものではないのだ。

 彼らは空間を閉じる事は出来ても、渡る——転移する事は出来ないようだ。ならば、必ず徒歩で移動している。

 アッカードほどではないが、ゼノも魔族の気配なら嗅ぎ分けるのは得意だ。魔剣の力を解放していなくても周囲にいれば感じ取れるだろう。

 ただまあ、アンノデスタには花街に限らず数多くの魔族が潜んでいるので、嗅ぎ分けるのは骨が折れる。基本の探知はそれを得意としているアッカードにお任せだ。

 ふるりと通信の魔道具が震えた。アッカードだ。


『動いたよ~。予想通りウェルゼル関係の屋敷から現れたね』


 これで決まりだ。

 状況から見てウェルゼルが匿っている可能性がある、とアッカードに報告すれば、じゃあ花街の外も探知するようにしてみるよ、と軽く言われた。媒介となる魔道具——魔石入り——を置いておけばそこの周囲を探知出来るようになるらしい。一度に複数の場所を探知する事は出来ないし、魔石を大量に消費するので普段はそんなことはしないが、幸いにもゼノが魔石を大量に持っていたので、今回は早く片付けるために魔道具を使ってくれた。

 匿うならこの辺り、とアッカードが予想したいくつかのウェルゼル関連の屋敷周辺に魔道具を設置していたら、そこが当たりだったらしい。

 流石アッカード、読み通りだなと感心する。

 アンノデスタを知り尽くした者ならではだ。


『ん~、でも花街に向かってないね、これは。ははぁ……スラムかな』

「スラム? ああ、あったな、そう言えば」


 アンノデスタは商業都市で華やかな街だ。商人が多くそこに住む一般人も裕福な者が多い。だが、商業都市ゆえに競争に破れた者、また国に支配されない事から裏社会も形成され流れ者も多く抱えている。そこには貧民だとて存在する。


「なるほど。餌の本命はそっちだったか」


 ならば花街での通り魔の目的はアッカードを引き摺り下ろして自警団を手中に収めることだったか。


『時期が来たら魔剣の使い手を自分達で取り押さえるつもりだったってことかい? いやいや、無謀だね。取り押さえる事も無謀だけど、その後彼らが暴露しない保証もないだろうに』

「使い手は犯罪者だ。どうとでもなると思ったのかもしれねえな」


 逃げたエドを捕まえられるなら、監獄側も面目が立つ。ウェルゼルと監獄側で取引出来る可能性は十分にあるだろう。


『利用できるモノはなんでも利用しようという考え方は生きるためには必要な事ではあるけれど……そこにある程度の倫理観は持って欲しいところだね』


 は~、嫌だ嫌だ、と大袈裟にため息をつく。

 スラムで人が殺されるのは珍しくないし、まともに捜査なぞされない。アッカードの捜査権は花街限定なので、街中の事は求められない限り手出しも口出しも出来ないのだ。


『一応、レーヴェンのギルドには注意喚起してるんだけどね』


 それでも魔剣を持った相手と依頼でもないのに対峙させる訳にはいかない。そういう者がアンノデスタにいる、としか今の段階では言えないし、ウェルゼルを叩くには証拠が必要だ。

 昨日から自警団員を二名ほど屋敷の周辺に配置して、現れた場合は魔道具を持って十分な距離を取って尾行させる手筈になっていた。魔剣の相手はゼノ以外には危険すぎるからだ。


 しばらくしてアッカードが、魔道具を持ち尾行する団員にそこで待てと強く指示を出す声が聞こえた。恐らく、魔剣の魔力が解放されたのを感じたんだろう。距離もあるのでここからではゼノには感じ取れなかった。

 そこからしばらく無言だったのは、凶行が行われるのを黙って待つしかないやるせなさを押し殺すためだろうか。スラムへ行くとは思っていなかったので、なんの手も打てていないし、憲兵でも現場に居合わせるのは危険なのだ。


『——動いた。犯行は僅かな時間のようだね。ああ、今度は間違いなく花街に向かっている。……懇意にしてる憲兵にスラムの周辺を巡回するように連絡しておいたよ』


 せめて早く発見してやりたいとの言葉に、そうだな、とゼノも頷いた。その後に花街に向かっているというのならば、ここでの凶行は何であろうともゼノが絶対に防いで見せる。

 ウェルゼルが噛んでいるなら客が使う道ではなく、通用門のある道を利用しているんじゃないかとアッカードは考えているようだ。評議会のメンバーや女将連はフリーパスの通行証を持っていて、各通りの門番を介さずに内郭まで自由に出入りが可能だ。

 各門の通行手形を確認してもそれらしき人物がいなかった事から、恐らくその一つを持っているのではというアッカードの予想に、ゼノもそうだろうと思う。

 ならばとこうして内郭と外郭を分ける五丁目の通用門付近に陣取り、どこの通りへ行こうとしても対応出来るように待機していた。

 どれぐらい経っただろうか。魔剣の魔力を追うことに注力していたアッカードが鼻を鳴らした。


『——これ、転移を使ったね。今三丁目あたりに出たよ』

 三丁目?


 その言葉にゼノはすぐさま駆け出した。各通りの通用門へ続く道は一本道ではないし入り組んでいるが、それでも内郭と外郭が別れるこの五丁目の通用門は必ず通る筈だった。それを通らずに内郭に行ったというのであれば、確かに転移しかあり得ない。


「転移は出来ねえと思ったが」

『不法に転移陣を敷いたみたいだね。ふぅん。色々勝手してくれるなぁ』


 魔剣の新たな力か、と思ったが違うらしい。

 底冷えのする怒りの滲んだ声に、ああ、コイツを怒らせると怖えのになとチラリと思ったがゼノが気にしてやる必要もない。

 転移陣を個人で勝手に設置するのはもちろん違法だが、裏社会や教会、神殿などはもちろんそんなこと気にせず自分達の都合のいいように設置する連中もいる。それこそ使い捨ての簡易転移陣だって裏では取引されている。

 リタを捕まえるために暗殺部署(コルテリオ)のルカがミルデスタで用意していたのは、この簡易転移陣だ。転移元と転移先に魔紙で転移陣を写し利用する。使用後は証拠も残らない。ただ移動距離が短いうえに十分に準備をしておかないと動作しないので実用性という意味ではイマイチだが、その場から一旦引く、という意味では重宝される。

 それとは別に死の森討伐時に魔塔の魔術師が設置したような転移陣が存在する。だがそういった魔法陣の設置には都市に届け出が必要で、加えるならここアンノデスタでは花街への設置は様々な理由から許可されていない。

 移動距離からみて、簡易転移陣ではないと判断したのだろう。そもそも魔剣が転移の力を持っているならもっと早く利用している筈だ。

 つらつらとそんなことを考えながら三丁目に向かって走り続ける。


「狙いは三丁目か?」

『いや、もっと奥だね。三丁目に入らずにそのまま二丁目の通用門を目指しているみたいだ』


 五丁目で失敗したからもっと内を目指したのか? アッカード達自警団のいる内郭で被害者を出すために。

 あるいは。

 ゼノは身体強化を含めた魔法を使うことは出来ないが、それに近しい身体能力を持っている。本人がそれと知らぬ間に、放出され続けている魔力が常に身体強化のような働きをしているのだ。リタが知れば、何それ、ずるい!と理不尽に怒りそうだが。

 故に、ゼノが全力で駆ければかなり速い。魔剣で強化されたエドはともかく、キャシーの身体強化では話にならない。

 だからすぐに追いつける筈だ。

 そう考えていたゼノの耳に半鐘の音が飛び込んで来て、音のする方に視線を飛ばした。

 この半鐘は花街で危険が差し迫った時——火事や魔族の襲撃などが起こった時に避難を促すために鳴らされるものだ。


「何があった!」

『——火事だ! ゼノはそのまま彼らを追って。狙いは一丁目みたいだ! 各通りに団員を配置しているから火事はすぐ収める。騒ぎの隙になにかやるかもしれないよ!』

「わかった!」


 ならば狙いは黒蝶屋だなとアタリをつけると、立ち止まってポーチから魔石を取りだした。

 モーリー夫人からアンノデスタで使うといい、とわざわざ持たされた転移魔石だ。魔塔とノクトアドゥクスが共同開発した、移動距離は魔石の質に左右されるが簡易転移陣よりも圧倒的に移動距離が長く、使い勝手も改良されたものだ。一般には魔王の塔とその周辺でしか使えないように座標を設定されているが、開発者のノクトアドゥクスはもちろん座標制限のない物を持っている。むしろそのために開発したと言っていい。

 ありがたく使わせてもらおうと、リタと相談して黒蝶屋に事前に設置していたものだ。 


「一丁目だとわかってんなら話は別だ!」

 ゼノは思いきり足下に転移魔石を叩き付けた。



 * * *



 剣の動きは、キャシーには見えない。ただ、昏い紫色の燐光が走ることで、剣が振り下ろされたのだと知れる。

 一刀のもとに斬り伏せられて(くずお)れたモノを見て、エドの剣技の素晴らしさに酔いしれる。


 そうよ。エドこそが剣聖なんだから。みんな目が曇ってる。


 目の前で事切れたスラムの男を横目に、魔剣の輝きが落ち着いた事を見てとってキャシーは満足げに頷いた。

 輝きが増すとエドの制御を振り切って周囲の人をすべて切り刻もうとするので、定期的に餌を与えねばならない。これまでは二、三日に一人で良かったのが、数日前から一日で数人の命を必要とするようになり困っていたが、一昨日あたりからまた二日に一人で事足りるようになった。

 何が原因かわからないが、一人で足りるのは助かる。最初は花街だけでよかったのが最近はスラムで幾人もを餌にする必要があったからだ。スラムで人が死ぬのは目立たないが、派手にやりすぎると裏社会に目をつけられて面倒なことになる。いざとなったらすべて切り捨ててもいいが、それは今じゃない。特に、世間で剣聖と持て囃されるゼノがここアンノデスタに滞在している間は、いたずらに敵を増やすべきではない。


「これで餌は十分ね。じゃあ、黒蝶屋へ行きましょう」


 キャシーの言葉に、エドがこくりと頷いて魔剣を消す。

 いや、消したのではなく自身の身体の中に収めたのだ。

 その様子を見るたびにキャシーはとても誇らしい気持ちになる。

 ゼノがあの第一盟主の試練を得た大剣を何もないところから出した時、まったく理解出来なかった。だが、あれはゼノ自身を鞘にしているのだとフォルトザンガギルドのラエルや副ギルド長のニシアが話しているのを聞き、あれがあの男の剣なのだという意味を理解した。エドは同じ試練で得た剣をそんな風に収めることは出来なかった。あれは、あの剣は正しいエドの剣ではなかったのだ。


 ——それは本来得る手段で得ていないがためだったからだが、もちろんキャシーにそんな事はわからない。

 ただ、エドが魔剣を体内に収納出来るようになったことで、この魔剣こそがエドの剣であったのだと理解した。

 正しい剣をエドは手に入れたんだから、あの剣聖とだってちゃんとやり合える。前は剣が良くなかったんだわ。

 今度こそエドが勝つだろう、と以前よりも鋭い剣筋にキャシーはその確信を強めていた。

 それにはまずウェルゼルの望みを叶えておく必要がある。

 黒蝶屋に期間限定で雇われたのが剣聖であり、黒鳳蝶(くろあげは)の想い人だと知ったウェルゼルは、ゼノをなんとかして追い落とそうと考えたようで、キャシー達があの男を倒すのに手を貸して欲しいと申し入れれば、一も二もなく快諾してくれた。ちょうど教会からもあの男を社会的に抹殺したいとの要望もあったようで、教会とウェルゼル、そしてキャシー達の意見は一致しているのだ。

 まずは黒鳳蝶を攫い自警団と剣聖の評判を落とす。さらに自警団の実権を握り花街を掌握する。それから後は教会がゼノを社会的に制裁するのだという。ゼノを物理的に害するのは教会が社会的に制裁する前でも後でもいいと言われているので、早々にケリをつけたいとキャシーは考えていた。

 ウェルゼルはいずれは評議会も牛耳りたいと考えているようだ。そうなれば、キャシーやエドもここで平和に暮らしていけるに違いない。


 スラムから少し歩いたところでウェルゼルが設置した転移陣を用いて花街に移動する。これももう慣れたものだ。場末と呼ばれるあたりで人を斬る時は徒歩で移動していたが、内郭に近い通りに移動する時にはこの転移陣の使用を勧められた。こんなものをどうしてウェルゼルが設置しているのかは知らないが、キャシーからすればどうでもいい。大事なのは目的を速やかに達成することだ。

 転移陣は三丁目の通用門の近くに出る。そのまま、目的の一丁目に向かってエドと共に駆け出した。

 一丁目に入れば二丁目で発生した火事を知らせる半鐘が鳴り響いた。


 どうやら計画通り進んでいるみたいね。


 ウェルゼルの手の者が先に花街に潜り込んで、騒ぎを起こすために火を放つ手筈になっていた。二丁目と三丁目、それから最後に一丁目と時間をずらして火を放ち、自警団を分散させる予定だ。その隙にキャシー達が黒蝶屋に押し入り黒鳳蝶を攫う。

 空間を閉じて移動すれば人に見咎められる事もない。

 閉じたまま移動出来るかをフランシスのアトリエから逃げる時に試したので問題ない。騒ぎを起こさずに黒鳳蝶の元まで辿り着ける筈だ。

 一丁目は流石というべきか、二丁目で火事が起こっても大きな騒ぎにはなっていなかった。半鐘に客達がざわついているが、何が起こりどう対処すべきかをわかっている一丁目の遊郭や娼館の者は動じる事はない。

 そのあたりはさすが一流といったところか。キャシーからすれば少々忌々しい。

 だがしばらくすると、離れた三丁目からも半鐘が鳴り響いた。

 その続いて鳴った半鐘に、一丁目も少し賑やかになった。

 仮面姿だと却って目立つのでキャシーとエドは今は素顔を晒しているが、エドは前髪の長い黒髪のカツラを着用しているので誰かと目を合わせる心配はない。

 目的とする黒蝶屋の近くまでゆっくりと歩きながら、周囲の様子を窺う。通りの影にチラホラと自警団員の姿が見える。彼らは派手な衣装を身に纏っているのでわかりやすい。

 彼らを横目に見ながら歩いていけば、やがて大きな黒い格子戸が現れた。

 立派な玄関に大きな黒い格子戸。そこでは下っ端の遊女が美しい着物を身に纏い、優雅に煙管を吹かせながら半鐘が聞こえる二丁目の方に目を向けているのが見えた。 

 見世で客引きをする下っ端遊女といっても、黒蝶屋に所属するだけでその身分は二丁目の遊女達よりも遥かに上だ。美貌だけでも他の所の売れっ子にも引けを取らない。同じ身体を売る商売をしていながら、その扱いは雲泥の差だ。


 この花街で女としての格付けを見せられるたびに、かつていいように男どもに蹂躙されたキャシーには、彼女達への暗い憎しみのような情念が湧き起こるのを止められなかった。エドによって救われ、キャシーを蹂躙した者達への復讐も済んで終わった筈の事であったのに、この花街を見たらあの時の怒りと憎しみが蘇る。

 同じ女で男と寝るのが仕事のくせに、かたや大事な商品として扱われ、キャシーは望みもしないのに蹂躙され命すらも搾取されようとした。彼女たちとて望んで今の状況になっている訳ではないと頭では理解していても、この違いが女としての価値を突きつけられたようで腹立たしい。

 外郭の娼婦達には感じなかった苛立ちだ。

 ぎりっと歯を噛み締めれば、ぎゅ、とエドに肩を抱かれた。ハッとして顔を上げればキャシーを心配そうに見下ろしている目と合った。


「平気。それより、エドも大変だけどもうひと頑張りお願いね」


 ニコッと笑ってみせれば、こくりと頷いた。

 その時、シャン、とその第一声が一丁目に鳴り響いた。

 人々の注意がその半鐘に逸れた瞬間に、エドが魔剣を顕現させて二人の姿をすっぽりと隠すように空間を閉じた。

 一丁目でも火事が、とにわかに慌ただしくなった中、二人は姿を隠したまま黒蝶屋の中に入って行く。黒鳳蝶の部屋は見世の奥の方にあるとだけ聞いていたので、とりあえず奥へと店の者と堂々とすれ違いながら歩みを進めていると、魔剣がぴくりと反応を返した。


「餌に対する反応とは違う……?」


 自分の餌は自分で見つける魔剣のおかげで、誰を対象にすべきかを迷った事はない。その魔剣が常とは異なる反応を示している。まさか黒鳳蝶の居場所がわかるのかと、エドと顔を見合わせてから魔剣が示す方向へ歩を進めた。

 導かれたのは一階の奥の間だ。二階は客の対応をする部屋ばかりだと聞いているので、客を取らなくなった黒鳳蝶の部屋が一階にあるのは十分に考えられる。

 中に人がいる気配がある。

 黒鳳蝶の顔はフランシスの肖像画で見た。花街の中でも一、二を争う格の高い妓楼の中で、最高級の花魁として名を馳せ、男どもを手玉に取ってきた高級娼婦。それに相応しい美しい女だと、絵を見てキャシーも思った。引退して五十手前の筈だが今でも引く手数多で、彼女のためならばいくら金を積んでも構わないという男も多いというのに、剣聖に惚れているからとすべてを袖にしてきた女が、無理やり毛嫌いする商人風情の妾にされるのはいい気味だ。

 ふん、と鼻で笑いながらすらりと襖戸を開け放った。


 ——だが、中にいたのは黒鳳蝶ではなかった。

 障子窓の縁に腰を下ろし腕組みしてこちらを見据えていたのは、彼女達にとって忌々しい存在のゼノだった。


「……っ!」


 なんでコイツがここに!と叫びそうになるのを、慌てて口を押さえて思いとどまる。

 大丈夫。今あの男に自分たちの姿は見えていない筈だ。


 ——だったら、今斬りかかれば()れる?


 そのキャシーの思いが伝わったかのように、魔剣を握るエドの手がぴくりと動いた。


「やはり来たか」


 まるで見えているかのように、ひたりとキャシー達を見据えてゼノが呟く。その声にエドの手もぴたりと止まる。

 次の瞬間、パンっと何かが弾ける音がした。


「ああ——確かに、リタの言う通りあの時の偽物だな」


 ぱさり、と何かが足下に落ちる音に視線を向ければ、それは黒いカツラだった。何コレ、と考えてハッと隣に立つエドを見上げた。

 エドの地毛である金髪が露わになっている。


「えっ……」


 何が起こったのかキャシーはまだ理解出来なかった。

 だが、目の前で縁に座っているゼノの手に、いつか見たあの特殊な剣が握られていることに気づいて、ザッと血の気が引く。

 まさか——斬られた? 今? あの位置から一瞬で、エドのカツラを斬り捨てた? カツラどころか……閉じていた空間も、斬ら、れた……?


「うそ……」


 ゼノがいつ剣を振ったのか全然わからなかった。

 エドだってまったく反応してなかった。

 その事実にヒヤリと冷たいものが背を流れる。


「……あ? もしかして——()()()()()()か?」


 エドとキャシーの様子を交互に見ていたゼノが、驚いたようにそう呟いたが、その意味はわからない。ただ、この男とやり合うのは危険だと本能が告げるまま、逃げを打とうとエドの腕を取り一歩後ずさった。

 だが、ぐいと逆に腕を引かれてよろける。


「っ……、エド……」


 見上げた顔はゼノを見据えたままだ。


"思い出せ"

 不意に心の中で声がした。

"思い出せ、怒りを、憎しみを! お前がずっと燻らせてきた思いをここで吐き出せ! 逃げる必要などない!!"


 叱咤というよりは頬を両手で張られるような感覚のお陰で、キャシーは先程まで抱いていた一丁目の遊女達への妬みとゼノへの憎しみを思い出す。その怒りや憎しみが炎のように全身を駆け抜け、怖気付いた心を焼き尽くす。それに呼応するかのようにエドが手にした魔剣が怪しい光を帯びて輝きを増した。


「黒鳳蝶をどこへやったの?」


 もうキャシーに怯えはなかった。


「安全な所へやった。お前さん達が黒鳳蝶に何の用だ?」


 じりじりと距離を測るエドにはチラリと目を向けただけで、キッと睨みつけたキャシーにゼノの注意はあるようだ。


「お前には関係ないわ」

「そうもいかねぇ。俺は今、ここ黒蝶屋の用心棒でもあるからな」

「あはは! ならあんたの仕事を失敗させてあげる!」

「その自信は魔剣があるがゆえ、か? ——魔剣に惑わされやがって。ソレはお前さんが考えているような生優しいもんじゃねえぞ」

「黙れ! いい気になっていられるのも今のうちよ! 魔剣はエドのものとなった! 偉そうに剣聖だと名乗るお前だって今度はエドに敵わないわ!!」


 キャシーの叫びに合わせてゼノに襲いかかってきたエドの剣を受け止めると、ぎぃいいん……!と鈍い音が室内に響いた。

 震えているのは魔剣だ。

 ゼノはそれを興味なさそうにチラとだけ見て、キャシーを見据える。


「第三盟主の口車に乗ってコイツを監獄から出すために魔剣を引き抜いたか? それほどお前さんにとってコイツが大事だったか?」

「そうよ! エドだけがあたしを助けてくれた! あたしはエドさえ側にいてくれれば良かったのに! そのあたしの幸せを奪ったあんた達を絶対に許さない! エドをあたしに返してくれるなら、相手が誰だろうが手段がどうであろうが構わないわ!!」


 キャシーに提案を持ちかけてきたあの魔族は第三盟主だったのかと、彼の正体を知って一瞬ヒヤリとしたが、そんなもの今更だ。エドを助け出してくれるなら、相手が誰だろうと構わないのは本当だ。望みのために必要であれば魔王にだって味方してやる。

 彼の魔族は魔剣に餌さえ与えてくれればいいと言ったのだ。エドのためならば、他の誰が命を落とそうが今のキャシーにはどうでも良かった。

 そんなキャシーの思いを読んで、はぁ、とゼノが大きなため息を吐いた。


「魔剣の見せる都合のいい状況に飲まれて、何が起こっているのかすら判断できなくなったか。魔剣を手にする前と後では、コイツの様子も、お前さんの怒りも随分と変わった筈だがな」

「うるさい! 説得なんかで魔剣を手放すと思ったら大間違いよ! コレはもうエドの剣! エドを鞘としてエドがちゃんと使いこなしているんだから!!」


 イライラしながら叫べば、ゼノが眉根を寄せた。その表情に憐れみを感じて益々キャシーの苛立ちが募る。


「……そうか。()()()()()()()()か」


 その言葉の意味はキャシーには理解出来なかったが、その多分に憐れみを含んだ視線と声音に怒りが爆発した。憐れみは、格下だと思っているモノに感じる感情だ。自分の方がキャシーやエドよりも上だと、憐れんでやる立場にいると思っているからこそだ。


「黙れ! お前なんかここで殺してやる!」


 エドが魔剣で何度も斬りつけてくるのを、ぎぃん……!と正面から受け止められた。その度に魔剣が震えるが、このゼノの剣が傷つくことも折れる事もない。むしろ受け止め魔剣が震えるたびに魔剣から力が散らされてゆく。


「元々怒りっぽいヤツだとは思っちゃいたが……今はなおさらだな。ここに来た目的も忘れてんじゃねえのか」

「うるさい!!」


 だんっ、とエドが踏み込み鋭い一撃をゼノに繰り出したのを、今度は受け止めるのではなく魔剣ごと弾き飛ばした。エドはそのまま壁に叩きつけられて低く唸ってうずくまる。


「エド! おのれ、よくもっ——」


 エドの元に駆け寄りたかったが、まずはゼノの足止めを、と振り返ったキャシーはぎくりと固まった。

 振り返ったすぐ側で、ゼノが剣を振り上げてキャシーを見下ろしている。

 キャシーを見下ろすその瞳に浮かぶのは憐れみ。

 怒りや憎しみ、そんなものは微塵もない。ただただ残念そうに、唇を引き結んで気の毒そうにキャシーを見下ろしている。

 その瞳に縫い止められたようにキャシーは動けなかった。


 なによ。

 その目は何よ。何だって言うの。

 お前なんかに憐れまれるいわれはないわ。

 あたしはこれからもずっと、エドと二人で生きていくのよ。これ以上、あんた達なんかに邪魔なんかさせないわ!


 そう、叫びたかったのに、一瞬で喉がカラカラに乾いて言葉が滑り出てこない。

 目を逸らせば、その剣が振り下ろされキャシーは終わる。

 それがわかる。

 怪我をするとか命を落とすとか、そういった恐怖ではない。

 終わりを感じる。

 ふぅ、とゼノが小さく息を吐き、あっ、とキャシーは小さく呟いた。

 それは実際には声にならなかったのだけれど。


 だが、その剣が振り下ろされるより先に、キャシーはぐいとエドに引き寄せられ、抱き抱えられてそのまま部屋を飛び出した。


「! え、エドっ……」


 エドはキャシーを見る事なく、その身体を抱えたまま走り抜けていく。途中店の者とぶつかったりもしたが、エドは気にする事なく黒蝶屋を飛び出すと、そのまま来た道を走り続けた。

 それでようやくキャシーも感覚が戻ってきた。

 あのままあそこにいたらゼノにやられていた。


「ありがとう、エド。あたし、アイツに呑まれて動けなかった。助かったわ」


 こちらをチラとも見てくれなかったが、キャシーを抱く腕に力が籠った事が返事だろう。そっと背後を振り返ってみたが、ゼノが追ってくる気配はない。このまま逃げ切れそうだ。

 ホッと息を吐いた時、エドの舌打ちが聞こえた。


「エド?」


 どうしたの、と問う前にキャシーも気づいた。

 目の前に突如として現れた美貌の青年。

 キャシーに魔剣の事を教え、エドを監獄から連れ去ってくれた魔族。ゼノが第三盟主だと言ったその魔族が、口元に意地の悪そうな笑みを履いて立っている。


「僕としてはもう少し様子を見てみたかったんだけどね」


 やっぱり怒らせるとマズイからさ、との言葉と共に右腕を振り——キャシーとエドは第三盟主の空間転移に飲み込まれた。




 逃げ出したエドとキャシーを追うでもなく、剣を肩に担いだままゼノは空間を睨みつけた。


「いるんだろ、第三」


 呼びかければ、ふふっと忍び笑いが聞こえた。


「どうりで暴走してねえ訳だな」

「ねぇ? 試した事がなかったから知らなかったよ。ああなるんだね。新たな発見さ」


 まあ、あそこまでになれる器がそもそもいなかったんだけど、と楽しそうに笑いながら姿を現した第三盟主に舌打ちを落とす。


「てめえが何を考えてあの魔剣を存在させてんのかは知らねえが、今回はこれで仕舞いだ。これ以上の犠牲は許さねぇ」

「もう少し見てみたいんだけどね。アレがどこまで動けるようになるのか」


 彼女にはほんの少し人の意識を自分と同調させる力があるらしい。共感させる力というべきか。強いものではない。彼女の言葉を頭から疑ってさえいなければそう信じる程度で、それもハッキリと誤りだとわかればすぐになくなる程度のものだ。

 先のコダマ神の力が合わさればそれが強い影響を持った。コダマの洗脳が通りやすかったのはキャシーによって下地を作られたからだ。

 それが魔剣にも面白い影響を与えた。

 興味深そうに二人の出ていった後を見ていた第三盟主は、しかしゼノから立ち昇る剣呑な気に肩を竦める。どうやらこれ以上は許されそうもない。

 どんな手段を取っても、結局ゼノ以外にあの魔剣を扱える者はいなさそうだというのがわかっただけでも良しとすべきか。

 本当はもうちょっと力を付けた魔剣をゼノが屈服させられるのかが知りたかったんだけど。

 強制的に力を上げるために彼女の憎しみを煽ってみようかな。


「おい」


 そんな悪巧みを気づいた訳ではないと思うが、不機嫌な声でゼノに呼びかけられ、なんだい、とにこやかに振り返る。


「決着をつける。俺とアイツらを人のいねえとこに飛ばせ」

「仕方ないね」


 はあ、と大仰にため息を吐きながら肩をすくめ、アンノデスタで人気のない所といえばあそこかな、とゼノをそこに送り込むために道を開いた。



 

 


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