(二十)聖女と七人の弟たち2
突然響き渡ったその声は、アインスがこれまで聞いてきたアリーとは声音も口調もまったく異なるものだった。
……そうだ。
先程の女が符号が合うなら、アリー達だって符号があう。
じっとりと汗ばむ拳を握りしめながら、アインスはそろそろと立ち上がった。
「アリー……いや、お前は何者だ」
「今から死にゆく者に伝える意味があって?」
ぎりっと奥歯を噛み締めたアインスの耳に、だんっ、と修道士の男の地面を叩きつける音が飛び込んできた。目の端にゆらり、と起き上がるモノクルの男の姿も見える。
……最悪だ。
チラリと背後に目をやれば、トレが殴られたサンクを介抱し、フィーアがシスとシェラと肩を寄せ合っている。ドゥーエは座り込んだまま呆然とリタを見上げていた。
こっちはこれ以上動ける状況じゃない。手加減されていないリタに殴られたサンクの様子も気になる。
この状態で、あの二人にアリーとリタ。
――逃げ切れる目がない。
どうしようどうしようどうしよう……何か、何か手はないのか……なんとかして弟達を逃がさないと。
……どうしよう……どうしたらいい、とーちゃん……
心の中で問いかけても、答えなど返ってくる訳がない。
アインスは父の最期の姿を思い出し、ぎゅっと拳を握りしめた。
それでも。
諦めるわけにはいかない。自分がなんとかしなければ。
一度目を閉じて深呼吸すると、ぐっと唇を引き結んで双剣を構えながら弟達を庇うように前に進み出た。修道士の男がこちらに向かってくるのを見てとって、腕に身体強化をかけて身構える。
もう、ここからは一歩も引かない。
――狙うなら、首だ。
ぐ、とダガーを投げる準備をしていたアインスだったが、修道士の男は横合いから飛んできた何かを受け、その場に立ち止まった。
「!」
誰が、と視線を巡らせれば、不機嫌そうなアリーの手に鞭が握られていた。
鞭は男を止めるほどの威力はないように見えたが、修道士の男は動かない。
「――なんのつもりだ」
モノクルの男が不機嫌そうに問う。
「それには私も怒っていてよ。よくも私のお人形を乱暴に扱ったわね? よりにもよって髪を掴んで投げ飛ばすなんて」
アリーが怒りの滲んだ声で告げながらリタの元まで歩み寄ると、さらりと流れる金糸をすくう。
「この美しい金糸を乱暴に扱うなんて……脳筋には物の価値がわからないようね」
ばしっと鞭で地面を打ち鳴らすと、修道士の男はその場にしゃがみ込んだ。
その様はまるで猛獣使いのようで、そういえばモノクルの男は話すのに、修道士の男は一言も言葉を発していなかったことに気が付いた。
「それに」
リタの髪に唇を寄せながら、アリーはぞっとするような笑みを浮かべてアインスを見た。
「聖女自身の手で弟を殺した方が、罪悪感で首輪がより強固になってよ。余計な手出しは無用」
「……っ!」
「――相変わらず悪趣味だな」
眉間にシワを寄せながら呆れるようにモノクルの男が言ったが、悪趣味という点だけはアインスも同意だ。
だが状況はアインスにとってますます悪くなった。
アインスはよりにもよって、リタの手から弟達を守らなければならない。しかも相打ちにすら持ち込めなくなった。
「バイセン、背後に回りなさい。ここから一人でも逃がしてはならないわ」
先程まで壁際に倒れているように見えたバイセンが、声もなくのそりと起き上がった。その表情はアインスが馬車で見た快活なものではなく、修道士の男と同じだ。
つまりは、そういうことか。
モノクルの男にとっての修道士。アリーにとっての修道士がバイセンか。
バイセンは無言のまま、アインス達が逃げようとしていた通路の入口を塞ぐように立ちはだかった。
じわりと嫌な汗が背を流れる。アインスはゆっくりとダガーをホルダーに仕舞い込んだ。リタを相手に使えない。
アリーがするりとリタの髪から手を離したのを合図に、リタの身体がぴくりと動くのを見た。
――くる!
息を詰めて素早く全身に身体強化をかけ直すと、リタの拳を受け止めるべく両腕を前に構えた。
こうなったらリタを気絶させるしかない。
たとえそれがどれほど難しいことでも。
覚悟を決めて、アインスは歯を食いしばった。
すると、突然。
――ひらり、と。
悲壮な覚悟を決めたアインスの目の前に、この場に不似合いな蝶が舞った。
「え?」
なに?
突然目の前に現れた蝶に目を奪われ、アインスは一瞬現状を忘れた。
黒い、蝶。
最初は一羽だったものが、そこからだんだんと増えていく。
増えた蝶はひらひらと舞いながらアインス達を囲むように円を描いていき、そのまま地面に溶け込むように姿を消した。
途端に、きん、と何かに覆われたのを感じた。
「――狐!」
へ? 狐?
アリーの鋭い叫び声と共に、モノクルの男や座り込んでいた修道士の男が臨戦態勢になるのを見てアインスは周囲を見渡した。
突然のことにアインス同様動きを止めたリタの横に、初めて見る先に反りのある剣がついた槍のような武器を持ち、独特の衣装を着た女がふわりと舞い降りた。その顔には白い狐の面。
「遅くなってすまない! 大丈夫か? フィーア」
その声に振り返ると、こちらも狐面の女と同じような衣装に身を包んだ青年が巻物のような物を手に立っていた。
「ショウエイさん!」
フィーアが名を呼んだことと、張られた防御結界で彼らは自分達の味方らしいことがわかって、アインスの肩から力が抜けた。
この衣装って……もしかして、正神殿?
状況はまだ好転したわけじゃないけど、弟達が助かる可能性が高くなったのならありがたい。
リタがどうなったかとそちらに目をやれば、狐面の女に拳を繰り出しているが同士討ちになるよう上手くあしらわれている。常のリタならばもっと上手に動けるはずだが、これはアリーが操っている弊害か。
修道士の男は先ほどアリーに怒られたせいか、リタには手出しが出来ないようで、狐面の女はそのあたりを上手に利用して二対二の状況に誘導している。
この人凄い……かなり強いぞ……!
「心配いらない。アキホはあれで強いんだ。おまけに、あそこにいるアネリーフェは確か調教士だから、実質的な戦闘能力はないに等しい。彼女の護衛にあたるこっちの男を止めておけば問題ない」
戦況を気にするアインスを安心させるように、ショウエイと呼ばれた青年がそう告げる。見れば、バイセンは既に地面に転がっていた。
アネリーフェというのがアリーの本当の名前なのか……それに調教士。
その響きにぞっとする。
「この結界の中にいれば攻撃は届かない。時間はそう持たないから治療を先に済ませよう」
ショウエイの言葉にハッとしてアインスはトレを見やった。
「トレ、サンクの様子は?」
「……かなり酷い。傷薬を飲ませたいけど、痛みで飲める状態じゃないみたいで……」
リタの全力だ。下手したら内臓まで傷ついているかもしれない――
サンクの青い顔と苦しそうな呼吸音に不安を煽られる。
トレもわかっているのだろう。サンクの肩を抱く手が震えているのがわかった。
「大丈夫。ちょっと待って」
青ざめる兄弟達を安心させるように、ショウエイは巻物から何か符のようなものを取り出すと、サンクのお腹にそれを置き親指で薬指を抑えて指を立てて符を押さえると、聞き取れなかったが詠唱とは異なる言葉を呟いた。
符を中心にふわりと癒しの力が働くのを感じる。
すると、先ほどまで呼吸もままならなかったサンクがうっすらと目を開いた。
「応急処置だけど、これで治療薬が飲めるようになるはずだ」
そうすればほとんど治るから大丈夫。
ショウエイの言葉にほっと胸を撫で下ろし、トレから治療薬を受け取った。
「サンク! 大丈夫か? 薬飲めるか?」
そっと顔についた血や涙を撫でるように拭ってやりながら問いかけると、サンクは何かを探すように周囲に視線を巡らせる。
「……ちゃ……、お、ねー……ちゃん、は?」
「今はまだだめだ。このお薬飲んでもっと怪我を治そう」
「ねー……ちゃ、だいじょ……ぶ? 泣いて……な、い?」
「大丈夫だ。サンクの無事な姿を見れば泣かない」
トレの言葉にサンクがアインスの方に手を伸ばしてきたので、そっとサンクの手に治療薬を持たせてやる。トレが背を支えるのに合わせて、アインスも手を添えたままゆっくりとサンクに治療薬を飲ませた。
「時間切れだわ」
アリーの――アネリーフェの忌々しそうな声が聞こえた。
「引くわよ――来なさい」
「あ! ねーちゃん!」
ドゥーエの声でリタの方を振り返ったアインスは、ばしっ、と打ち鳴らされた鞭の音に、弾かれたようにリタとバイセンがアネリーフェの元に走り出すのを見た。それと同時にモノクルの男が腕を振ると霧のようなものが周囲に立ち込め、周りの景色も濃い霧に閉ざされて見えなくなった。
アキホがすぐさま武器を振り回して霧を払うが、そこにはもうリタの姿も男達の姿も見られなかった。
……ねーちゃんを連れ去られた。
ぎりっと奥歯を噛みしめると、ぎゅっと上着の裾を引っ張られた。振り返れば、シェラと滅多に涙を見せないシスまで目に涙を浮かべていた。
「……ど……しよー……アインス兄……」
「お、おねーちゃん……がっ、……つれ、つれっ……て、いかれっ、ちゃったよぅ……」
うええええええん、と二人がアインスの背中に取り縋って泣きだした。
つい、とサンクの手に添えていた手からショウエイに薬ビンを取り上げられ、自由になった両手でアインスはシスとシェラを抱きしめた。
「ごめん……俺のせいだ……」
アリーをリタに引き合わせたのはアインスだ。アインスがもっと注意していればリタが操られることもなかったはずだ。
迂闊だった。もっと疑ってかかるべきだったのに……!
「そんな、ことっ、言ったら……僕が……からだ弱くてっ、熱なんかだしたからぁっ……に、ちゃは、わるく、ないよぉ……」
「にーちゃんもシェラも悪くねえよ! 悪いのはあいつらなんだから!!」
ドゥーエがシェラの言葉をかき消すように怒鳴った。
「その通りですし~! 悪いのは教会ですし~、君たちみたいないい子が自分を責める必要なんかまったくないですし~!!」
いつの間にか狐面を外したアキホが、よしよしとドゥーエの頭を撫でながら、力強く同意してくれるが、アインスは素直に受け取れなかった。
どう考えても自分に考えが足りなかった。
「……そうだよ。アインス兄さんが自分を責める必要はないよ。僕……本当は怪しいと聞いていたんだ」
躊躇うようにトレが告げた言葉に、ふと、リタの左手小指に巻かれた「おまじない」を思い出した。
「誰から?」
「それは……」
「ハインリヒさんでしょう。彼はノクトアドゥクスのトップです。あらゆる情報を元に先読みして手を打つことに優れています。ヒミカ様も認める御仁ですから、その彼が読んでいたなら、心配ありません」
ショウエイが躊躇うトレの代わりに答えてくれるのを聞きながら、ぼんやりとタンザライ支部のスヴェンのボスとはあの人だろうかと考える。
ノクトアドゥクスと言えば、アインスも知識として知っている情報組織だ。彼らに入手できない情報はないと言われるほどであると同時に、組織の実態は杳として知れない。
「それに~、ショウエイくんの~精神干渉系の魔術を阻止する符を持たせていると聞いてますし~、完全に乗っ取られることはないですし~」
独特の口調で、みんなを安心させるようにアキホが明るく告げた。
「残念なショウエイくんですが〜、こういう符術に関しては〜、一応使える奴なので心配いらないですし〜」
「誰が残念だ訂正しろこの暴力女が」
ぼそり、と間髪入れずにショウエイが反論すれば、アキホが大仰にため息をつきながら肩をすくめた。
「現実を見れない男は〜、本当に〜、ざ〜ん〜ね〜ん〜で〜す〜し〜」
わざわざ強調するようにふざけた物言いをするのは、この場を和ませるためだろうか。なんとなくそんな気がして、アインスは、ふ、と微笑するとシスとシェラを抱きしめたまま、トレの頭を撫でた。
「悪かった、ドゥーエ。今は誰が悪いとか言ってる場合じゃないよな。俺が変な話した」
よし!と声を出して二人の背を軽く叩き、アインスは立ち上がった。
裏通りの広場には行商人家族が無残な姿で倒れていて、相手がどれほど恐ろしいのか現実を突きつけられる。
だがそれでも、先程の絶体絶命な状態からすれば。
アインスはにっと笑って弟達を振り返った。
「俺達生きてる。サンクも助かった。ねーちゃんは浚われたけど、トレがつけたショウエイさんのおまじないもある。俺達はこれでちゃんと七人揃った——だったら、今から力を合わせて反撃するぞ!! シグレン家の男達の底力を見せてやるんだ!!」
ぐっ、と右腕を突き上げて宣言すれば、ドゥーエも拳を突き上げた。
「それでこそにーちゃん!」
「そうだね、アインス兄さんの言うとおりだ」
「兄さんたちやみんなと一緒ならできるよ!」
「そうだよ。やられっぱなしはうちらしくないよ!」
「僕も頑張る!」
「ぼくも……おねーちゃんを、たすける……!」
弟たちみんなが力強く同意してくれた。
その顔にはさっきまでの陰鬱な表情は見られない。
アインスはそれを見て、にぱっと笑ってみせた。
実際に自分達だけでは難しいだろうが、この際使える力はなんだって使ってやる! きっとギルドにいた人達は力を貸してくれるはずだ。ここにいるショウエイさん達も——と二人を見て、ぎょっとした。
二人がぼろぼろと泣いている!
「え、あの……し、ショウエイ、さん……?」
「ぐぅ……こんな……なんて健気な……」
「感動ですし〜〜〜!! みんななんていい子ですし〜〜〜!」
「これはもう、ヒミカ様の命令だからという理由だけではすまされない……!我々はもっと本気を出すべきじゃないか……!?」
「同意するですし〜〜〜!激しく同意するですし〜〜! ショウエイくんの割にはいいこと言ったですし〜〜!」
泣きながら叫ぶ二人にみんながびっくりして固まった。
え?え? あれ、これどうしたらいいの……?
どう対応すればいいのか困って、確かフィーアが知り合いだったはずだと見れば、フィーアもぽかん、と口を開けて見ているだけだ。
あ、これダメだ。どうしようもない。
うわああああ!となぜか泣き叫んで頷き合う二人を、アインス達は遠巻きに見つめることしか出来なかった。
——結局、騎士団を引き連れたゴルドンがその場にやってくるまで、アインス達はそのままだった。
意外と涙もろく情に厚いショウエイとアキホ。
アインスはやっぱり七人兄弟のお兄ちゃんということで、一番しっかりしています。




