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ユーティリシアの箱庭  作者: 村上いつき
第三章

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第六話(最終)もうひとつの邂逅



「今頃気づいたのかね」


 開口一番に呆れたように告げられ、うぐぅ、と呻いてゼノはテーブルに突っ伏した。

 久々に対面したハインリヒは変わらず元気で辛辣だ。

 教会本部にいたんじゃなかったのかよ、とブツブツ愚痴っても致し方ない。

 あの後通信の魔道具で連絡をとったハインリヒは「皇国で」とだけ短く告げて、一方的に通信を切った。

 皇国のどこでだよ!?という疑問の答えは、モーリー夫人が持っていた。見計らったように転移魔石を手渡されて鼻白む。

 彼らが開発を進めた物だから当然と言えば当然だが、世界機構会議での話などなかったかのように座標なんか無視してガッツリ使い込んでいるようだ。この様子だと帰り用の転移魔石も準備されているに違いない。

 実際、便利ではある。後を尾けるれる心配もないし、知られずに移動が可能だ。軍事使用されれば恐ろしい事になりそうだが、そのあたりはハインリヒが魔塔を含めてしっかり管理している筈だ。ひょっとしたら、転移魔法陣を刻めなくする魔道具だって既に開発済みかもしれない。


 はあ、とため息ついて身体を起こし頭をかく。

 ここは皇国内のハインリヒの隠れ家のひとつなのだろう。場所に興味はなかったが、設えが随分高価そうだなとテーブルや出されたティーセットを見ながら思う。


「すっかり忘れてたんだよ。お前さんとそういうのが結びつかなくてな」

「彼女の近況を聞かれもしなかったが?」


 存在を覚えていれば訊ねるぐらいはするだろう、と言われれば返す言葉はない。実際、キレイに抜け落ちてこれっぽっちも覚えてなかった。最初からモーリー夫人だと紹介されていたのに。

 本来のモーリー夫人は、ハインリヒにとって重要な人物だった。詳しい話はされなかったが、彼が最後まで勝てなかった相手だと聞いて驚愕したものだ。ハインリヒは頑としてそれ以上の話はしてくれなかったが、彼がまだ少年であった頃の話だと教えてくれたのは、現在モーリー夫人と名乗っている彼女が、まだ自身の名でハインリヒのサポートとして動いていた頃の事だ。

 モーリー夫人へのハインリヒの想いが尊敬なのか憧憬なのか、はたまた思慕なのかはわからなかったが、憎悪や敵対といった負の感情でない事は確かだ。そして強い信頼を向けていた。

 だからこそ、その名をコードネームとして名乗ることを許された彼女は、ハインリヒにとってそういう対象だという事だ。

 それは、ハインリヒが身を置く因果な世界において、彼女を守る術でもあるのだろう。

 彼女の事はゼノだってちゃんと覚えていた。ハインリヒにとって、そういう立場になり得る女性だと。——ただ、モーリー夫人の事を忘れていた上に、彼女がそう呼ばれるようになっていた、という事に頭が回らなかっただけだ。


「あ~……前に会った時はまだその名じゃなかったろ……」

「まあ、彼女も楽しんでいたようだが、あまりに気づかれないので痺れを切らしたらしい」


 リタに暴露しようかしらと言うから正体を明かせと伝えたのだ、と言われて納得する。それはハインリヒにとっても色々突っ込まれて大変な事になるのが目に見えている。

 ハインリヒに対して脅しを行うとは、強かさに磨きがかかっているのは間違いない。


「おっかねぇ」

「そういう者が側にいる事で、常人の感覚を忘れずにいられるのだよ」

「あぁ、違いねえ」


 満足そうに微笑しカップに口を付ける姿に心が温かくなる。

 冷徹な粛清者だとか呼ばれているが、彼は別に血も涙もない冷血漢ではない。——まあ、大多数の人にとっては悪魔のような男である事に間違いはないが。

 カチャリとカップをソーサーに戻すと、場の空気が変わった。雑談はここまでだという事で、ゼノも姿勢を正して彼を正面から見据える。


「亀裂を作ったのが、そこに現れた白い手ではないかという事だったな」

「ああ」


 モーリー夫人に伝えた内容は当然の如くハインリヒにも伝わっている。


「君とリタにだけ見えて、盟主達には見えてなかったと」

「第二はわからねえが」

「ふむ」


 腕組みした状態で指をトントンと叩き考え込むハインリヒを見つめながら、モーリー夫人に伏せた事を伝えるために口を開く。


「あの白い手から感じたヤバさは……俺が前世の事を思い出そうとする時に忍び寄ってくる気配に似ていた。もしかすると同じものかもしれねぇ」


 ピタリと指を止め、眉をひそめてゼノを見据える。その視線の鋭さを正面から受け止めて小さく頷いてみせる。


「なるほど……が座標となる、というのはそういう事か」

 ぼそりと呟かれた言葉がよく聞き取れずに眉をひそめた。

「……なんだって?」


 ハインリヒは無言でゼノの顔を見つめたまま、何事かを考え込んでいるようで答えは返ってこない。思慮深い青みがかった黒い瞳がすべてを見通すように見つめているのはゼノではなく、もっと遠い何かだろうか。微動だにしない様子とは異なり、その頭の中は目まぐるしく動いているに違いない。

 こうなったらしばらくは反応がないのはゼノもよく知っている。きっとゼノから得た情報で様々な情報を組み合わせ、その形を捕らえようとしているのだろう。

 ただ彼が放った「座標」という不穏な単語がゼノの心を落ち着かなくさせた。魔術に明るくはないが、座標というのは魔術において場所を特定するものであった筈だ。


「いや、まだ信憑性は五分五分の情報だ」


 思考に耽っていた筈のハインリヒから出た言葉に、それが先ほどの答えだとわかって眉根を寄せた。つまりはまだ説明する気はないという事だ。


「誰からの情報だ?」

「ふむ……君も知る者の筈だが、君が会った時の姿と名ではないかもしれないな」

「あ?」


 情報源を教えてもらえるとは思っていなかったが、予想外に答えが返ってきて目を瞬く。すぐに思い浮かんだのは、モーリー夫人のように名と容姿が変わったノクトアドゥクスの構成員の可能性だったが、ハインリヒの言葉から考えるにそうではなさそうだ。

 ふと、それは人ではないのかもしれないと思い至り、顎を擦りながら自分の知る魔族を思い浮かべる。ゼノの記憶に残っている魔族と言えば盟主とその側近達、そしてヘルゼーエン達ぐらいだ。彼らであればハインリヒがそんな言い方はしないだろう。

 ゼノの頭の中からルーリィの存在は綺麗に抜け落ちていたが、まあ絶対に違うので問題ない。


「今のところ誤りのない情報ばかりだが、完全に信用するには至っていない。アレの目的が判明したら、君にも改めて紹介しよう」


 誰だか思い浮かばなかったゼノにハインリヒはそう告げ、それから視線をテーブルに落とした。


「ネグレスの言葉に従い、リタと共に教会へは行って欲しい、と思っている」

「行った方がいいのなら行くさ」


 ゼノはそう気安く返したが、ハインリヒにしては珍しく少々躊躇っているように見えた。


「……そうだな。恐らく、最終的にそれが一番いい結果を産む筈だ」


 歯切れが悪い。

 珍しいなと思いつつ、ゼノは頭をガシガシとかいて――それから、笑った。


「心配いらねえよ。何が起こったとしても、お前さんの事は信じてる。疑いも恨みもしねえさ。まあ、ちっと怒るぐらいはするかもしれねえがな」


 そう言ってやれば、ハインリヒは呆れたような色をその目に浮かべ「生ぬるい」と吐き捨てながらも、口元に微笑を浮かべた。


「そうだな。君の信頼だけは裏切らないようにしたいものだ」



 * * *



 その部屋に漂うひやりとした空気がノクトアドゥクスの件の部屋に漂うものと同じで、クライツは嫌な気分になった。

 描かれた魔法陣と紋の間違いはないというところか。

 それでいて渡れなかったというのはどういう事だ?

 クライツの知る限り、ノクトアドゥクスのあの部屋から天秤の間に渡れなかったという話は聞いた事がない。

 ならばレントンの話していた通り、帝国——いや、ランハート=ネフェリエンがヘルゼーエンに忌避されているというのもあながち間違いではなさそうだ。

 理由は、恐らく。

 嫌な予感しかないんだが、と内心で舌打ちを落としても仕方ない。そもそもレントンはクライツを天秤の間に放り込むつもりでいる。この状況でそれ出し抜くのは無理だろう。

 だが言い換えるなら、それは()()()()()()()()()してくれたとも言えるのだ。


「なかなかいい出来栄えだと思うのだがな」


 ランハートが皮肉げな笑みを口の端に履いて、コツンと紋が刻まれた魔石を埋め込んだ台座を小突く。


「確かに、肌で感じる空気は同じ物ですねぇ」


 クライツも少し皮肉交じりの口調で答えてやる。

 鎖に繋がれていた時までは身体の随所がズキズキと痛んだのが、今はまったく痛みは感じない。ハリエスタが痛覚を弄ったのだろう。


 ——いや。どちらかと言えば、痛覚を元に戻した、というのが正しいか。


 お膳立てがなされれば為されるほど、これから起こる事が非常に面倒なのだと予測がたつ。逃げるのはやはり無理かな、と視線だけで周囲を窺ったのがバレたのか、後ろ手に掴んでいるハリエスタの手に力が籠もった。

 無駄な足掻きはやめろということだ。


「それで? 私と一緒にあちらへ渡るのはネフェリエン中将でよろしいんで?」

「その通り」


 ニヤリと笑ってこちらを見遣る男の顔を、クライツもジッと観察するように見据えた。

 ランハートの事はもちろん知っているが、正式に顔を合わせるのはこれが初めてだ。噂通りの精悍な顔立ちとゼノに比肩する引き締まった体躯。右目の額から頬にかけて走る刀傷がその勇猛さを証明しているかのようだ。

 そして何よりも目を惹くヘーゼルブラウンの右目と黒い左目のオッドアイ。


 ……初めて会う筈だが……


 誰かに似ている、と感じた自分の感覚に首を傾げる。

 だが、こういった感覚は無視しない方がいい。


「お一人でよろしいんです? 大勢で押しかけると機嫌を損ねる可能性はありますが、重要な情報を持っていれば、複数人でやって来ることは嫌がらないと思いますが」


 ランハートの背後に控える副官のシードスに窺うような目を向けたが、彼は無表情のままだ。この無表情さなら情報部としてもやっていけるだろうに、と表情豊かなダリウスの背後に控える青年を盗み見る。

 彼がノクトアドゥクス所属だというのも今ひとつピンとこない。

 ぐいとハリエスタに背を押され、魔法陣の中に押しやられた。どうやら考える時間もこれ以上はくれないらしい。

 ハリエスタと入れ替わるようにぽんとレントンに肩を叩かれた。


「資格を奪うのなら人数は少ない方がいい——だろう?」


 お気楽に言ってくれる。

 クライツは微笑を張り付けたままレントンを睨み付けたが、そんなもので動じる相手でもないし、逆に喜ばれそうなので困った顔だけはしないように気を付ける。

 クライツの態度に満足そうに頷きながら、ぐいと顔を寄せてきた。

 いつもの細く鋭い目で見据えられる。


「時間は過ぎた——そう、伝えてくれ」


 その言葉に思わず身体を強張らせ——内心で盛大に舌打ちするクライツに気付いたのかどうか、ぽんぽんと肩を叩いて魔法陣の外へと離れていく。

 薄らと口元に笑みを浮かべた副長官は魔法陣から出ると、ランハートに手を振った。


「ではそろそろ向かわれては? 後の事はシードス少将と仲良く対応しますので」


 クライツから見ても胡散臭い笑みを浮かべるレントンを、だが誰も咎める事はない。ランハートは鼻を鳴らしてクライツの肩を掴み台座へ押しやる。

 クライツも覚悟を決めたように台座に手を乗せた。

 台座の中央には、ノクトアドゥクスの例の部屋にあるのと同じように、ヘルゼーエンの紋が刻まれた大きな魔石。ゼノの左手の甲にも刻まれたこの紋を通じて呼びかければ、あの天秤の間に渡る事が出来る。

 決してあちらに渡る事のないレントンだが、副長官であるからか、やはりある程度の事は知っているようだ。でなければ、あんな伝言はしない。

 ランハートに肩を掴まれたまま、ふ、と静かに息を整える。


「ヘルゼーエン——っ」

「わっ」


 名を呼んだ瞬間に、短い叫び声と共に背中に何かがぶつかった。それを気にする間もなくぐにゃりと空間が歪むのを感じて目を閉じる。

 いつもよりも時間がかかる上にぐらぐらと頭を振り回されるような転移に、身体の感覚が狂わされる。

 そもそも無事に渡れるのだろうかと、今更ながらにクライツが危惧を抱いた時、肌を刺す殺気に気づいて本能に従うまましゃがみ込んだ。

 短い悲鳴が聞こえた気がしたが、それを気にする余裕はない。


「——は。招かれざる客を引き連れてとは……随分と大胆な事をするね」


 ヘルゼーエンの怒りに全身が凍りつく。

 これは交渉の余地すらないのでは、と慄きながら恐る恐るヘルゼーエンを仰ぎ見て後悔した。

 赤い双眸を怒りに染め上げ、白い焔がゆらゆら揺れながらヘルゼーエンの全身を覆っている。これは怒りによる力の発露だ。

 第一盟主と同じ白い魔力が、彼が神魔である事を如実に表していて、ごくりと息を呑んだ。

 ランハートはどこだと視線だけ巡らせれば、随分と離れた所にぽつんと立っていた。


「振り落とせればと思ったけれど、食いつく力が強過ぎて叶わなかったのが憎らしい」


 クライツの視線の動きに気づいたヘルゼーエンが、舌打ちを隠しもせずに言い放つ。

 なるほど。常とは違うあの酔いそうな酷い転移はわざとか。それほど嫌っている相手を連れて来たクライツの立場も微妙だなと嫌な汗が背を伝う。


「資格ある者の呼び掛けは無視出来ない、というのは本当のようだな」


 ひりつく殺気の中、ランハートの満足そうな声が落ちて目眩がする。


「どうせならハインリヒと共に渡ってくれば良かったものを」

「アレを捕まえるのは難しい話だ」

「能無しめ」

「だがこちらの望みは叶った」


 満足そうなランハートの言葉に、ヘルゼーエンが盛大に舌打ちを返す。

 ああ、もうこのまま帰りたい……とどこか現実逃避をしながら二人のやりとりを見つめていると、背後で身動ぎする気配を感じた。

 そういえば転移前に何かがぶつかった事を思い出し、それも一緒にここに転移したのかとそっと肩越しに振り返って目を瞠る。

 そこに転がっていたのはいつもダリウスの背後に控えていた青年だ。

 彼を放り込んだのはレントンだろうか。

 彼の仕業ならば、つまりはそういう事だろう。

 ——ここで消しておけ、と


「……うわっ、こ、ここは……?」

「お前の名は」


 周囲の状況に驚き声をあげる青年に向かって、ヘルゼーエンが冷ややかに誰何する。


「ひっ……ま、魔族……」

「名は」


 喉奥で悲鳴を噛み殺し、座り込んだまま後退りする青年に苛つきを隠そうともせずに、ヘルゼーエンが重ねて問う。


「……ニ、ニック=コルトバ……!」


 だが、この場を知る者であれば、ここで名乗る事がいかに愚かな行為かを知っている。

 案の定、それすら知らないニックと名乗った青年を、ヘルゼーエンがさらに冷ややかに見据え、不機嫌そうに腕組みをしながらトントンと指で腕を叩く。


「へぇ、()()()=()()()()。そういう名前かい、その外皮は。——ああ、やはり薄っぺらいな」


 言葉の内容よりも身体の異変に青年が固まる。

 外皮……?

 意味不明な単語はあったものの、何が起こるのかをハインリヒから聞いた事のあるクライツは、ごくりと息を呑んで視線をヘルゼーエンに戻した。フルネームをヘルゼーエンに名乗ると言うことは、自身の情報へのフルアクセスを許可したという事と同義なのだ。問われて反応を返すのも、その情報へのアクセスを許可するという事に他ならない。故に、絶対にヘルゼーエンの言葉に返事をしてはならないのだ。

 ここに渡るノクトアドゥクスの者であれば、その事は最初に教えられよく理解している。

 だがもちろん、この青年——ニックがそんなことを知る由もない。


「あ、あああああっ……!」


 いや、確かに情報を取られるとは聞いているが……

 背後の悲鳴に拳を握りしめた。

 物理的に何かされている気配に振り返るのが恐ろしいが、ノクトアドゥクスの構成員として無視する訳にもいかない。そろり、と再び肩越しにニックを見遣った。


「……!?」


 はっ……?と目を瞬いたのは、予想していた状況ではなかったからだ。

 顔を押さえ呻いているその姿は、先ほどまで見知っていた青年のそれではない。まるで何かが剥がれるように身体から溢れ出しているのは、瘴気を帯びた魔力ではないか。


「魔……族?」

「上手に擬態しているけれどね。君たちが設けたランクで言えばSはあるかもね」


 ランクSの魔族だと……!? だから外皮か!

 何故そんな者が人に擬態してダリウスの部下として動いていたのか。いや、それとも、ニック=コルトバという青年は本当に実在して成り代わったのか。 

 だがその答えは聞けそうにない。

 何故なら、青年であった魔族は床の上を転げ回るように苦しみ始め、その姿がどんどん変質していたからだ。以前天秤皿の上で紙切れに変えられた冒険者を見せられたが、それと同じように紙になるのかと見つめていたが、青年姿が完全に剥がれ落ち魔族本来の姿が現れるとピタリと動きを止めた。

 カサリ、と音がしてヘルゼーエンに視線を戻せば、彼の手には紙が一枚。それにチラリと目をやったヘルゼーエンが興味なさそうにクライツに投げて寄越す。

 ひらりと手元まで飛んで来た紙を一瞬躊躇ってから掴み、素早く目を通して納得する。魔族が擬態していたニック=コルトバであった者の情報。紙一枚に数行なのは元々その程度しか情報がないからだ。

 出身がオルトロイス帝国だとか、目的を持ってダリウスに近づいたとかそんな事はもうどうでもいい。重要なのはそれを指示したのがランハート=ネフェリエンだということだ。


「ぐぅ……よもや、このように無理矢理剥がされるとは……」


 ふらつきながらも立ち上がれるところは、さすがは魔族だ。奪われたのが外皮であったからか、魔族自身は核まで奪われてはいないらしい。


「たまに現れるんだよ。人に擬態して国や組織の中枢に入り込んで遊ぶ魔族っていうのはね。今回は下っ端だったようだけれど——ああ、それとも、複数人に擬態して使い分けていたのかな。——どっちだろうね?」


 そんな恐ろしいことをサラリと言い放ち、ランハートに意味ありげに視線をなげるが、ランハートは肩をすくめてみせた。


「さてな。ニックが魔族であったなど、こちらも今初めて知ったんだ」

 ——そんな筈はない


 ニックの正体を見てもちっとも驚きを見せず、しれっと返ってきた言葉をクライツは内心で即座に否定したが、ニックだった魔族はそうでもなかったらしい。突然響いた哄笑に、クライツはゆっくりと立ち上がって彼ら三人を見渡せる場所に立ち位置を変えた。


「はははは! 俺を魔族だと見破れる者などあの国にはいない! 俺の擬態は完璧だったしな! 加えて——俺には周囲にそう思い込ませる能力もある」


 随分と得意げに言い放った魔族は、ランハートを馬鹿にしたように見下ろし喚く。


「正面から力で叩くと色々面倒だからな。人に擬態して乗っ取る遊びよ。煩わしい盟主も存在せぬ地だ。手に入れるなど容易い」


 確かに、元第六盟主の支配地域だった場所は、今はどの盟主の支配も受けていない。過去にはそうやって人に擬態した魔族が国を支配した記録だってある。同じ事を彼らがしようとしても不思議ではない。不思議ではないが——


「人に擬態して国の中枢に食い込むには実力不足では? 中枢どころか軍でも下っ端だろう、貴様の擬態は」


 は、と思わず鼻で笑ってしまったのは、おめでたいヤツだとわかってしまったからだ。

 ダリウスに付いたニックの擬態を見る限り、適材適所に擬態出来ているとは言い難い。アレで上手く擬態したつもりならば、程度が知れる。


「くくくっ。やはり情報部に相応しくない擬態だったようだな」

「レントン副長官がついでに始末しておこうとするぐらいには」


 あの人の事だ。ニックが魔性の者だというのも気づいていたに違いない。ただ泳がせる気も失せるレベルだったというだけで。

 ノクトアドゥクスの者だとしたのが一番の失敗だな、とクライツは冷静に考える。


「黙れ!」


 クライツとランハートの馬鹿にする会話は流石に魔族の怒りを買ったらしい。攻撃される気配に身を屈めれば、カツン、カツンと硬質な音が響き渡った。

 この音は、ゼノといる時に耳にした音に似ている。

 クライツがそう思ったのは間違いなかったようで、魔族の左腕が消えてなくなっていた。床に転がっているのは魔族の魔石だ。


「——誰の空間で力を振るうつもりだ」


 ゾッとするその声に足が震える。ヘルゼーエンの怒りに息も詰まり、ぽたりと床に落ちた汗にぐいと額を拭った。そっと胸元に忍ばせたポーチに手を伸ばし、中にある精華石を握りしめる。それで少しは呼吸が楽になった。


「あ……あああああ!?」

「耳障りな」


 パチン、とヘルゼーエンが指を鳴らすと、魔族の体が宙に浮かび、それはそのまま青い焔に包まれた。以前も目にした、内側から焼き尽くす焔だ。情報を取る価値すらないと判断された者の末路。

 旧ハンタースギルドの担当者が焼かれた時は断末魔まで聞かされたが、この魔族は声さえも聞きたくないと評されたのか、一瞬で青い業火に焼き尽くされ、核さえも残らず灰燼に期した。

 後に残るのは痛いぐらいの静寂だけだ。

 息をするのも憚れる静寂の中で、クライツはゆっくりと静かに息を吐き出す。その僅かな身動ぎに、ヘルゼーエンの瞳がクライツを捉えた。ぎくりと身体を強張らせながらも、静かに睨み返す。


「私に始末を押し付けるとはノクトアドゥクスもいい度胸をしている。まあ、今回はいいよ。もっと大物が控えているしね」


 そう皮肉気に言い放ち、ランハートへ視線を送った。


「これで邪魔者はいなくなった。——そろそろ始めようか?」


 それはクライツにとっても恐ろしいゲームの始まりだったが、ここにこの男と一緒に送られた以上は避けて通れない道だ。


「ふむ。——そこの男とどちらがより有用な情報を持っているかを競うというゲームだったか? お前だけが美味しいゲームでは?」


 先程の魔族の事などとんと気にすることもなく、ランハートが顎を擦りながらヘルゼーエンに問いかける。

 この状況でそんな質問が出来る肝の座り具合はハインリヒに匹敵するかもしれない。


「少し違うね。君達が持っている情報の種類を知ることは出来るけれど、その中身までは提示する必要はないんだ」

「知っているかどうかなど、いくらでも誤魔化せるだろう?」

「——誤魔化す? 情報の真偽を、()()()()()()()?」


 ぶわっと一気に膨れ上がった殺気に、クライツは精華石を握りしめて歯を食いしばる。立つのがやっとのヘルゼーエンの殺気の中、平然と腕組みしながら立っている時点でランハートはただ者ではない。


 やはり()()か。


 クライツにはまったくわからなかったが、レントンのこれを見抜く力はずば抜けていて、これまで外した事はない。

 それがわかったところで、クライツが窮地に立たされていることに変わりはないのだが。


「誤魔化せないならいいんだ」


 尊大に言い放ったランハートに、ヘルゼーエンは厳しい視線を向けつつも殺気を収め、右手をひらりと振り、その場に天秤を顕現させた。

 だがいつもの見慣れた天秤とは色味が異なる。

 常は光沢のある白金であるのに対し、今は黒い天秤だ。色の違いは用途が異なることの表れか。

 クライツはごくりと息を呑んでその天秤を見据えた。

 このヘルゼーエンの図書館、天秤の間に初めて足を踏み入れる際にハインリヒから聞かされた中にあった。

 ヘルゼーエンから情報の売買をすること以外に、特定の人物から情報を奪い取ることが可能な場であると。拷問や自白などよりも信憑性も高く、その者が持つ有益な情報を()()()()得られる場所だと。


 ——それは、敗者が必ず情報に姿を変えるからだ。


 そうやって、かつてのノクトアドゥクス上層部から情報を搾り取り、叩き潰してきたのがハインリヒだ。彼ほどヘルゼーエンを活用している者はいるまい。

 先程の魔族相手なら負ける気は全然なかったんだが。

 口元にあえて不敵な笑みを浮かべながら、胸元で精華石を握りしめていた手を精華石ごとそっと下ろす。

 天秤を興味深く見つめていたランハートがニヤリと笑みを浮かべてクライツを見遣る。


「初手はクライツに」


 最初に提示する情報をクライツに決めさせるのは、程度を探るためか。ランハートの言葉にクライツも頷いてヘルゼーエンを見遣った。

 ヘルゼーエンは冷ややかに二人を見つめ、右手を軽く挙げる。


「では始めようか。ヴァーゲ・ライ・ヴェティア(情報の価値を比較せよ)」


 ずん、とこの場の空気が重くなり、ごくりと息を呑み込む。

 ヘルゼーエンに視線で促されて、ふう、と小さく息を吐きランハートを睨み付ける。

 ヘーゼルブラウンの右目に黒い左目。それが面白そうな色を浮かべてクライツを見ている。

 何から秤にかけるべきか。考えたのは一瞬。


「帝国情報部の西大陸における拠点について」


 一度クライツが叩き潰したが、新たな拠点づくりを始めているのは掴んでいる。まず帝国関係の情報にしたのは、ここで開示する情報の項目を誘導するためだ。

 クライツが紡いだ言葉が、小さな白い珠になって左の天秤皿に収まり、小さく天秤が左に傾ぐ。

 ほぉ、とどこか感心したように呟くランハートはこの状況を楽しんでいるようだ。


「なるほど。情報の項目を告げるだけでその情報を引き出し、重要性で重量が決まり分銅の役割を果たすと。情報が賭のチップになるわけか。面白いが——その重要性を決めるのは貴様の主観という訳か?」


 それが公平だと言えるのかとの挑発的な態度は、ヘルゼーエンを恐れていないためか。だがヘルゼーエンはランハートの言葉を鼻で笑い飛ばした。


「場の提供をしている者の特権だよ」

「彼は知の魔族。情報に対する評価は何よりも公平だと思いますが」


 ランハートの事をいくら嫌っていようとも、彼がクライツに肩入れすることなどあり得ないと、クライツも言葉を添える。


「公平ねぇ」

「嫌なら放棄して帰ればいい。今なら特別に叩き出してあげよう」


 それは珍しい。余程ランハートを追い出したいと見える。——だが無事に追い出すとは言っていないところが流石は曲者だ。


「そうは言っていないとも。じゃあ、そうだな」


 ランハートは顎を擦りながら天秤を睨み付け、ニヤリと笑った。


「帝国におけるノクトアドゥクスの三箇所の拠点について」


 口にした途端に、ランハートの頭部で光が弾けて血が散った。


「……っ!?」


 短く声を上げそうになって唇を噛みしめる。なにが、というのはヘルゼーエンから感じた冷ややかな殺気で悟る。


「酔狂だね」

「——なるほど。偽りを述べると情報が引き出される際に攻撃されるという仕組みか」 

 額から流れる血を拭き取りもせずに、感心するように述べるランハートに、わざわざ試したのかと呆れと共に感心する。クライツなら間違ってもそんな危険は侵さない。


「まったくの嘘ではなかったからそれだけで済んでいるんだよ。口に乗せる言葉には注意するといい」

「個数を言わなければ怪我はしなかったということだな」


 納得するランハートに、いくつかは知られているということかと内心で舌打ちする。

 レントンが釣り上げるためにあえて放置している拠点なら問題ないが、ダリウスによって流された情報なら問題だなと考えて、ああ、そうではないと意識を切り替える。この程度で揺さぶられていては先が思いやられる。

 なるほど。内容がわからないからこそ、項目だけでも勘ぐり冷静さを保ちにくくなるのかとこのゲームの嫌らしさを理解した。


「ならば、帝国におけるノクトアドゥクスの拠点について」


 個数を省いて言い直した言葉は、今度はクライツの時と同じく白い珠になって右側の天秤皿に収まる。ゆらり、と揺れた天秤はゆっくりと右側に傾いだ。

 帝国の拠点よりもノクトアの拠点の方が重要度が高いという事だ。

 まあ、そうだろうな。

 暴かれた拠点は三箇所より多いのか少ないのか——少ないとクライツは見ているが、帝国とノクトアでは重要度がより高いのは一般的に見てもノクトアに決まっている。これは順当な判定だとクライツも内心で頷く。

 頷きつつも、拠点よりも重要度の高い情報か、と首筋を撫でた。


 なるほど。これは難しいな。

 もちろんノクトアの拠点の話だけをするならば、当たり前だがクライツの方が知っている。だがそんな内情をここでチップにする訳にはいかない。開示されるされないという問題ではなく、構成員としての心構えの問題だ。なんらかの抜け道や不具合でヘルゼーエンやランハートに知られる可能性がないとも言えないし、裏切り行為ともとれる姿勢を()()()でする訳にはいかない。

 こちらの不利にはならずに、かつ相手にダメージを与える情報を。

 それをチップに出来ねば負ける。

 チラリとヘルゼーエンを盗み見てからランハートを見据えた。額から血を流しながらも落ち着き払った態度からは、負けることなど少しも考えてもいないことが窺える。

 ランハートがどのような情報をチップにするのかはわからないが、レントンにより示された彼の正体を考えるとクライツも油断は出来ない。

 それにいくつもの情報項目をヘルゼーエンに提示するのも避けたい。

 ならば。


「では、こちらからはノア=ジェスターから引き継いだレコードの内容を」


 一気に片を付けようと、クライツはその項目を口にする。

 その言葉にぴくりと反応したのはヘルゼーエンだけでなく、何故かランハートもだった。

 ほう。ランハートもノア=ジェスターを知る者か。

 それを確信し、天秤皿の行方を追えば大きく左側に傾いだ。

 どうやら随分と興味を惹いたらしい。

 まあ当然だ。ヘルゼーエン達にはそこに「ある」とわかっていても、得られない情報がある。それに該当すれば思った通り重要度は高くなる。


「随分と傾いだね。さて——では君はどうする?」


 これを均すには重要な情報が必要だよ、とヘルゼーエンに揶揄されても、ランハートは口元に笑みを浮かべたまま動じた様子は無い。


「確かに、これを覆すのは情報を選ぶな」


 目を細めて天秤を見つめながら顎をする。


「こいつはひとつの情報で覆す必要があるのか? それとも複数でも?」

「複数でも問題ないよ。——持っているならね」


 皮肉げな口調で返すヘルゼーエンを気にする事もなく、ふむ、とひとつ頷いて口を開いた。


「帝国側の死の森の対応状況について」


 先程のノクトアの拠点情報よりも低かったのか、白い珠の大きさは小さく天秤が動く気配もない。

 それを見ながら続けざまに口を開く。


「死の森にいる魔物の種類」

「死の森における瘴気の広がるスピード」

「死の森の第五盟主の活動範囲」


 いずれも死の森に関する情報ばかりだが、天秤は僅かに動くだけで傾きを変えるほどの動きはない。

 随分と死の森に関する情報を集めているらしいな。

 それが知れただけでも収穫か。

 まあ入手したとて使い道が限られそうな情報ばかりだし、魔族であるヘルゼーエンの興味を惹くには至っていないようだ。

 天秤の僅かな動きに落胆することもなく、まるで何かを計るかのような選択にクライツも油断せずにランハートの様子を窺う。


 レントンから齎された情報は、ランハートが魔族であるという事のみだ。

 加えて、先程のニックに擬態したランクSの魔族がそれを知らなかったことを考慮すれば、ランハートは彼以上の力を持った魔族ということになる。

 チップにされた情報も、魔族なら調べることも可能だろう。

 ふぅん、と頷きランハートがぐいと額の血を拭えば、血の跡どころか傷さえもかき消えた。魔族である事を隠さなくなった態度に、ぴくりとクライツの眉が上がる。

 ヘルゼーエンはランハートの正体などとうに知っているのだろう。だからこそここに渡ってくるのを拒否していた。

 ヘルゼーエンでさえも嫌がる魔族。


「ならば……今回の亀裂から現れた魔族の末路」

 それは——教会主導で行われたという討伐か。


 その情報は、ある程度の重さを持って天秤を動かした。まだひっくり返される程ではないが、かなり重要度が高かったことを示す動き。

 これはまずい、と瞬時に察した。

 きっと彼はこれ以上の情報をまだ隠し持っている。

 クライツがぴくりと反応したのに気付かれ、ランハートがニヤリと笑った。


「では——亀裂に存在したモノの正体を」


 だんっ、と音がしそうな程の勢いで天秤が右に傾いだ。

 いや、実際に音はしなかったのだが、それほどの勢いで、空気が動いたのだ。

 ぶわりと嫌な汗が背を流れ、クライツの口元に知らず笑みが浮かぶ。


 ——やられた……!


 そんな情報、ハインリヒだって持っていない可能性が高い。

 何故ランハートがそれを持っているのか。彼は何者だ?

 何より、クライツにこれを覆す情報があるのか……?

 天秤が示すとおり、ヘルゼーエンにとっても非常に重要な情報だと知れる。

 マズい。非常にマズい。

 彼が余裕の態度を崩さなかった理由はこれか。


「……ふぅん。思ったよりもちゃんとした情報を選んだんだね」


 チップの情報を得られずとも、ヘルゼーエンにその情報を持っていると知らせたことになる。その危険性を負ってでも、ランハートはここに来る「資格」を得たかったということだ。


「さて」


 ヘルゼーエンの言葉に拳を握りしめる。

 こちらにかかる無言の圧に、否が応でも焦りが募る。


「どうする? これ以上の情報を提供出来るかい?」


 ノア=ジェスターの情報は、いわば過去の情報だ。現在に通じる情報もあるにはあるが、ランハートが提示した情報には及ばないだろう。

 数を重ねる愚を犯すのは得策ではない。先程の情報よりインパクトを与えてヘルゼーエンの興味を惹き、重要度の高い情報を。加えるなら、ランハートにすら納得させねば意味がない。

 じわりと額に浮かぶ汗も気にせず、ランハートを見据えたまま目まぐるしく思考を巡らせる。

 ここでその情報を提示出来なければクライツは終わりだ。ヘルゼーエンの天秤の間で情報に関するやり取りに例外はない。


 考えろ。考えつかなければ確実に死ぬ。

 ここで死ねば——またしてもアザレアを置いていく事になるのだ。今度は自分の力不足で。

 そんなこと、絶対にしたくない。

 内心焦りながら脳裏に浮かんだ愛しい女性(ひと)の姿にぎゅっと拳を握りしめた時、手の中にある精華石の存在に我に返る。

 手の平から感じる清澄な気に、焦って空転していた思考がクリアになってゆく。

 握りしめた拳で額に流れる汗を拭い、ふう、と大きく息を吐いた。

 改めてランハートを見据える。

 高位魔族であることは疑いようもない。

 ふと、初めて見たときにも感じた既視感を思い出す。

 何に既視感を感じた?

 彼のことは情報としてもちろん知っていたし、顔も知っていた。だがその絵を見ても何も感じなかったのに、実際に会って感じたもの。


 ああ——


 それが何かに思い至った時、唐突に理解した。

 ヘルゼーエンが嫌がった理由。

 そうか。

 一度目を閉じ、呼吸を整える。

 そして、アザレアに感謝を。

 す、と目を開いて微笑してみせる。その笑顔に不穏なものを感じたか、ランハートが初めて眉をひそめた。


「では、私からはランハート=ネフェリエン中将の……いや」


 そこで一度言葉を切り、ランハートを見据えて言い放つ。


()()()()()()()を」


 たーん……、と天秤が再び大きく傾いだ。——左側、クライツの方に。

 息を呑んだのはランハートか。


エンシャーレン(比較は決した)


 厳かに裁定を告げるヘルゼーエンの言葉に、ふう〜、と大きく息を吐いて空を仰ぐ。

 助かった……!!


「中々に興味深い勝負だった」


 勝利を噛み締める間もなく突然落ちた耳慣れた声に、クライツは慌てて振り返る。

 果たして、そこには予想通りこれまで行方をくらましていたハインリヒの姿があった。

 見てたのか!とわかって更に背筋が凍ったのは致し方ない。


「師匠……!」

「よく気付いたな」


 感心したように頷かれ、だがハインリヒがとっくに気付いていた事を匂わせる言葉に鼻白む。ハインリヒが知っていたなら、まさかレントンも知っていたのか。


「……馬鹿な」


 だが驚いた表情のランハートは、まさかバレているとは考えもしなかったらしい。


「いや。百歩譲って俺の正体がわかったとして、何故貴様らが真名を知っている」


 キン、と張りつめた殺気を、ヘルゼーエンが左手で邪険に払う。それだけでこの場に漂った殺気は霧散した。

 第二盟主と言えども神魔の力には敵わないということだ。


「真名なら最初からわかっていました。——あるところに記されているんですよ」

「なんだと?」


 クライツの答えに目を瞠る第二盟主は、恐らく知らないのだろう。それも当然だ。それを読める人物は限られるし、()()()は知り得たその情報を公にすることはしない。

 故に盟主達でさえ知らなくても不思議はないのだ。

 その理由をここで述べるべきかを躊躇ったクライツに、ハインリヒが頷いて促した。ヘルゼーエンにも教えてやれ、と。

 珍しいことだったが、それはつまり貸しを作っておけという事だ。

 そういうことならと、クライツも頷いて未だランハートの姿のままの第二盟主を見遣る。


「あなたの右目。——あなたに感じた既視感は、その目だ。そのヘーゼルブラウンの瞳は、ゼノと同じですね。いや、ひょっとしてゼノの目なのでは」


 これ以上ないぐらいに目を見開き驚く第二盟主に、やはりか、と内心で頷く。

 本来の第二盟主の姿の時には両眼とも黒であったので気付かなかったが、魔族の気配を完全に消して擬態したせいか、ゼノに奪われた右目を擬態することは叶わなかったのだろう。本来の第二盟主の右目は、()()()()()()いる。


「ゼノの魂に、刻まれていましたよ」

 ——あなたの眼の簒奪者、と


 ぐしゃりと頭を掻き上げ、チッと舌打ちをした第二盟主は想像もしていなかっただろう。よもやそんな所に自身の真名が刻まれるとは。


 まあ、何があってそうなっているのかはアザレアも知らなかったんだが。


 そして驚くべきことに、きっとゼノも知らない。

 ゼノの記憶を奪ったのかそこはハッキリとしないが、それが二百年前の、彼がまだ十代の少年であった頃の事だとアザレが断言したので間違いない。


 ——ちょっと目を離した隙に、そんな言葉が魂に刻まれてたのさ


 当時ゼノの保護者代わりであったアザレアも、驚くより先に呆れてしまったのだという。恐らく第二盟主に何かをされそうになって返り討ちにしたのだろうが、本人はまったく記憶にない上にけろっとしている。当時はゼノの右目から違和感を感じていたが、いつの間にか馴染んでしまったのだと、真面目に心配する方が馬鹿を見る、と匙を投げたらしい。

 うんまあ、気持ちはわかる。

 本人は至って不具合なくこの二百年過ごしているのだから。


「ああ……なるほど」


 ここで納得したように声を上げたのはヘルゼーエンだ。


「あれは何かと思っていたんだけれど……そうか。あれは、ゼノの右目に宿るのは、()()()なんだね」

 ——はい? 核?

「は、ちょっと、そんな事が……」

「ふむ。ゼノであれば可能だろうな」


 出来るわけない、と否定しようとした言葉をハインリヒが肯定するので、慌てて振り返った。

 いや、魔族の核をゼノが持てると? いくら人間離れしているゼノと言えども、彼もれっきとした人なのに?


「第二盟主の核ごと瞳を交換した状態なのだよ。ゼノが平気でいられるのは、『魔王の加護』のお陰に他ならない」

「なんでもありですね……」


 最早それしか言葉がでない。ちょっと加護で片付き過ぎでは?と思ったのだが、アザレアが馬鹿馬鹿しい、と投げやりなのも頷ける。


「失態だとするならば、何をしようとしたのかは喋らないだろうがね」


 と、口元に笑みを履くハインリヒに、第二盟主は眉根を寄せたままだんまりだ。


「とりあえず、今回の勝負にランハート=ネフェリエンは破れた。その始末はつけないとね」

「っ……!」


 そう言ってヘルゼーエンが右手をパチリと鳴らせば、第二盟主から黒い魔力と瘴気が立ち上り、それが右側の天秤皿の白い珠に吸い込まれてゆく。

 もがくでも呻くでもないところは流石は第二盟主といったところか。黒い魔力が完全に白い珠に吸い込まれると、皿の上にはそれなりの紙の束が現れた。

 黒い魔力が消えた後には、クライツの記憶にある第二盟主の姿があった。

 そして左の皿の白い珠と紙の束がクライツに吸い込まれるように消えていく。


「!?」


 突然、情報の奔流に呑み込まれて思わず膝をついた。

 これは、この情報は……!


「ランハートの情報だよ。彼が君に負けたので、彼が持っていた情報はすべて君のものさ。——残念ながら、第二盟主が持ち得る情報までは渡らないけれどね」

 ただし。

「チップとした情報は得られた筈だ」

 後を継いだハインリヒの言葉に、ああ……!とその言葉の意味を知り震撼する。

「は……よもや破れる上に、真名まで知られているとは」


 ぐしゃりと髪を乱暴に掻き上げ、忌々しげに吐き捨てる第二盟主には、破れた影響は見られない。消されたのはランハート=ネフェリエンであって第二盟主ではないからだろう。

 こちらは負ければ確実に命を落とすことを考えれば、なんだか割に合わない勝負だな、と頭の隅で考えつつも、怒濤の情報をなんとか処理して息を吐く。

 帝国の情報が入手出来たのは僥倖だった。


「そこでだが」


 ハインリヒが口元に微笑を履いたまま、クライツよりも前に出て窺うように第二盟主とヘルゼーエンを見遣る。

 これは良からぬことを企んでいる顔だと内心で引きつつ、ふと、ハインリヒがここに現れたのは何故だろうかとようやく疑問に思った。

 そもそもハインリヒはどこからここに渡って来たのか。

 ここの主であるヘルゼーエンが勝負の最中に誰かを招くなど考えにくい。しかもあいては警戒すべき黒を纏う第二盟主だ。

 レントンはハインリヒがここに現れる事を知っていたのかというのも疑問だ。ハインリヒ宛に託された伝言。

 ハインリヒの子飼いや、副長官達であれば意味は通じるあの伝言。


「我々の間で取引をしないかね」


 突拍子もないその提案に、二人の魔族が眉をひそめてハインリヒを睨み付ける。だがそんな事を気にした風もなく、すいと招くように片手を前に出す。


「ヘルゼーエン。君には第二盟主の真名を渡そう」


 第二盟主が射殺さんばかりの鋭さでハインリヒを睨み付ける。

 上位の者に真名を知られることは、時に支配される可能性すら孕む。


「そして第二盟主。君にはここに来る資格を与えよう」


 その言葉に不快そうにヘルゼーエンが顔を歪めた。

 神魔であるヘルゼーエンの空間へアクセスする資格を、よりにもよってハインリヒが与えるという。


 いやいやいやいや。何言っちゃってんですか、師匠……!

 膨大な情報を受け入れたばかりでただでさえ頭が重かったクライツは、ハインリヒの提案を聞いて本気で頭痛をもよおしてきた。膝をついて俯いたまま顔を上げられない。


「馬鹿にしてるのかい、ハインリヒ」

「随分とこちらを舐めているようだ」


 ハインリヒをこの場でくびり殺しそうな勢いの白と黒を纏う高位魔族達の怒りに、クライツは卒倒したい気持ちだったが、ハインリヒは微笑したまま彼らの怒りをやり過ごす。

 ああ、そう言えばランハートが消えてしまった事をどう対処するんだろうか。抜け目ないレントンの事だ。これさえも足掛かりにさらに事を起こしそうだ。

 そんなことを考えて遠い目をするクライツは、完全に現実逃避をしていた。


「私が望むのは、第二盟主には目的を含めた情報提供を。そしてヘルゼーエンには私への協力だ」


 そんな取引が成立するとでも……!?


 ますます殺気だった空間に、クライツの顔色もどんどん悪くなってゆく。

 おかしいな。先程の勝負には勝利した筈なのに、もしかして俺はこのままここで命を落とすんだろうか。折角今度こそアザレアと共に生きられるかと考えていたのにな。

 現実逃避をしながらアザレアに想いを馳せていたクライツは、その気配に気付いてゆっくりと振り返った。そこに立つ見知った顔に目を瞬く。なぜ彼がハインリヒと共にここにいるのか。


「私から君達に紹介したい人物がいてね。君達にとっても有用だと思うんだが」


 そうして振り返ったハインリヒの視線を追うように、その人物に目を向けたヘルゼーエンと第二盟主が訝しげに首を傾げる。

 だがクライツは驚いて固まったままだ。

 何故なら、彼はノクトアドゥクスに所属する研究員で、何を隠そう、魔塔と協力して転移魔石を開発した者だ。クライツにウザ絡みしてきて、転移魔石の試作品を押しつけてきた人物でもある。

 だが、よく見知った筈の青年の瞳が、みるみるうちに紅く変化するのを見て息を呑む。


 待て。纏うその気配はなんだ。それはまるで——


 その変質した気配に、ヘルゼーエンと第二盟主も驚愕に目を見開く。

 もしこの場にルーリィがいたならば、心配しているフリをする嘘つき男だと叫んだことだろう。そう、魔境に棲まう古代種達を護る魔族。

 その場に集う者の驚愕の表情に、ハインリヒと青年が笑う。


「紹介しよう。彼の名は()()()()()()——フィリシアの世界の知の魔族だ」


 

 


一応補足としまして、天秤の間に来る資格とアーケイシアレコードに触れる資格は別物です。

前に冒険者達が即座に紙に変えられたのは、ギルド職員に最初から情報として連れてこられていたためなのです。


……この天秤の間を書く時は、毎回緊張しています。


言葉足らずなところが多いように思いますが、まあそこは置いといて誤字とかちまちま気付いた時に修正していきます。

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