第五話 夕暮れの治療
音が聞こえる。夕暮れ時に母が夕餉の支度をはじめていた時のような、何かを叩き、煮て、混ぜて。
赤く染まった空の色が皆を黒い影で塗りつぶしてしまっても、母が作る料理の香りで私の心は満たされていた。
年を経て、私に木工の技術を叩き込んだ厳しくも優しかった父が逝き、後を追うように母も逝った。
一人では料理をすることもろくにできず、もっぱら村の居酒屋で食事を済ませていた。
リエッタと出会い、娶り、二人で暮らすようになった。驚くことに、彼女はそれなりに料理ができた。野草が中心の菜食になりがちだったので、時折出される肉料理は心から染みた。
彼女はワインが好きだ。夕暮れ時の空のような赤いワインを好む。
あの日のワインの色はいつにもまして、鮮やかだった。
影絵のような妻が嬉しそうにワインを飲む。
人が変わったみたいに愚痴っぽくなる。
陽気にはしゃぐ娘が鬱々としている。
娘が倒れ、追うように妻も倒れる。
家の周りで嘲り笑う声とともに石礫が投げ込まれる。出ていけ、出ていけと、囃し立てる声、恫喝する声、火を注ぐように煽り立てる者。
臭いがする。嗅ぎなれない、苦く、鮮烈な青さを持った臭い。だが、今はそれが心地よく……
目が覚める。体のだるさと疲れはまだ残るが、森の中でへたり込んだ時ほどではない。
「こ、ここは……」
寝かされていた木の長椅子から体を起こし、あたりを見回す。見慣れない部屋。重厚な石造りの壁、一面に干した草花に大小の袋、棚には壺や瓶が並んでいる。見上げれば天井からも様々なものが吊るされている。
「あら、起こしてしまったかしら。ごめんなさい。そう、擦り合わせると匂いがね、少し強い薬草だから」
磨かれた乳鉢で、手慣れた手つきで薬草を擦り続ける老婆、ヤーナはロミィににこやかな微笑みで顔を向ける。
「私は――」
森で気を失い、年老いたヤーナがここまで担いできたのかと思うと、とんだ足手まといなことをしてしまったと悔やむ気持ちが湧き上がってくる。
「いえね、たまたま、あの後すぐにね、そう、すぐなのよ。森の知り合いが助けてくれたの。貴方と、仕留めた怪物大蛇グライパーを担いで持ってきてくれたの。だからね、まだ、今は夕暮れどき。それほど、時間はたっていないのよ。貴方の疲れも取れてはいない」
今は、もう少し休みなさいと、ヤーナはロミィへと告げる。しかし、疲れは残るものの、妻子の容態が不安でならないロミィは頭が回らなくとも、目が冴えてしまい再び眠ることはできずにいた。
考えがまとまらない意識の中で、うすらぼんやりとヤーナが薬を作るのを眺め、邪魔をしてしまうと思いつつも、ついつい、質問をしてしまう。
「……なんという薬草を用いているのですか」
妻子に用いられる薬だ、気にもなる。ヤーナは隠すこともなく当たり前のように薬となる植物の名と性質を告げる。
「ラブタリカ、黄色い小さな花をつける森の奥に咲く植物ね。みんなはキツネのペンダントとよく言うわ」
ぼぅとした思考のまとまらない頭が、一瞬さえる。それは、いわゆる、毒草だったはず――
「そう、毒をもつ植物ね。普通の人は薬として使わない。でもね、この草に一定の怪物の血と毒腺を適量混ぜてから、煮れば、ある症状の特効薬になるの」
怪物の血? 毒腺? この老婆は何を言っているのだろうか? そんなものを用いた薬など聞いたことはなく
「作っている人は多分、私だけ。だから、信じられないでしょうけど、そう、信じてほしいの。貴方の大事な奥様と娘さんを助けるためにも」
老婆はそう言うとロミィから目線を外し、いつも顔に浮かべていた微笑みを隠して、真剣なまなざしで手元にあった小さな器を手に取り、慎重に乳鉢の中へと注ぎ、手早く混ぜ合わせる。さらに、別の器の液体を注ぎ、また、混ぜ合わせ、小鍋へと移し、小さな炉に手から火をくべて、小鍋を火にかける。
「必要な怪物の血と毒は、怪物大蛇グライパーのもの。そう、貴方の住む村の近くの森では珍しくても、このあたりの森の奥には普通にいるのよ。でも、だからといって油断をしていい相手ではないわ」
あと少し待っていて頂戴と、ヤーナはロミィへと再び微笑みかける。先ほどまでとは違う柔和な表情。なにかを企んでいる様子はない。ロミィは不安と葛藤しながらもヤーナに託すしかないと思っている。
「富裕ワイン病は金属製の杯でワインを嗜む貴族達がかかりやすい病ね。そう、金属杯からでる毒が体内にたまると発症する病。
いま作っている薬はね、鉱毒症状の特効薬なの。そう、リエッタさんも、シェイアちゃんも尖耳族の血を持つ人種。鉱物毒には滅法弱いのよ」
そう語る、ヤーナの言葉にロミィは首をかしげる。二人が、そのような症状を訴える心当たりがないのだ。ワインは好むが、それほど頻繁に飲めるわけでもなく、ましてや家で使うのは手作りの木の杯だ。そもそも、高価な金属製の杯など持っていない。
「まあ、難しいことは考えないほうがいいわ。そう、今は、薬が出来上がるのもう少し待っていて。これから、回復の兆しが表れるまで何回か同じように薬を与え続けなければならないから」
ヤーナはそういうと少し煮立ち始めた小鍋を火からおろして、にこりとロミィに安らぐような微笑みを向けた。
煮立たせた液体を冷ましてから、水で少し薄める。水が入った瓶の中にも何かしらの薬草が仕込まれている。
「さあ、できたわ。これをね、そう、リエッタさんとシェイアちゃんに飲ませるわ。貴方も手伝ってちょうだい」
立ち上がることも億劫なほどに疲れた体を無理やり起こし、妻子が苦しそうに眠るベッドへと向かう。
フードを目深にかぶった子供がじっと付き添っている。
「ドーナ、そう、様子はどうかしら」
「変わらない」
ドーナと呼ばれた子供は、ロミィが戸を叩いた夜に応対をしたときと同じく、短い言葉を告げるだけだ。
「ロミィさん、二人の頭を抱えて持ち上げて、そう、薬が喉の奥に入らないようにしたいの」
ヤーナの言葉にロミィは、苦しそうにうめくリエッタの頭を掌で包むように抱えて優しく持ち上げる。
ヤーナは、先ほど作り上げた水薬を移した小さな水差しをリエッタの唇に差し込みゆっくりと傾け、飲み込ませる。
毒かもしれない、薬。だが、今は信じるしかない。注がれる薬をむせることなくリエッタは嚥下していく。わずかな量であったがすべてを飲み干すも、容態は変わらない。
「焦らないでね。何回かに分けて飲ませる必要があるから。そう、これから、朝まで」
さあ、シェイアちゃんにもとヤーナはロミィを催促する。水薬を二人に飲ませて、また、少し休んで頂戴とロミィにヤーナは告げる。そして、再び薬を作る作業に戻る。ラブタリカを刻み、叩き、すり合わせ始める。
「日持ちが悪い生薬なのよ。本当に取り扱いに困るの。だから、そう、飲む分だけその都度作る必要があるから」
ああ、そうなのかとロミィは思う。ヤーナの手際を見る限り自分が薬づくりに手伝えることはなさそうだと思うと、緊張の糸が少し切れて瞼が重くなり、ロミィは目を閉じる。
眠るときにふと思う、そういえばヤーナはいつからああしているのだろうと、昨晩からずっと寝ずにいたのではないだろうか? では、二人に飲ませる薬はいつまで作り続けるのだろう。
『そう、これから、朝まで』
先ほどのヤーナの言葉が脳裏に浮かぶも、抗いがたい眠気に誘われてロミィは再び眠りへとついてしまった。