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野いちご  作者: 立花招夏
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第三話 疑心、暗鬼を生ず(2)

 いずみが奉公していた石守家は、都内の高級住宅地にある。古くからある住宅地と言うよりは、比較的新興な住宅街で、一代で成り上がったような金持ちがかなり住んでいる。だから、その羽振りの良さを競って披露しているような、豪華さと、賑やかさと、多少の傲慢さが、街全体を包んでいた。


「はい、見つかりました。それが……少し厄介なところに転がりこんでまして……」

 今は亡き大旦那様の書斎で、一人声を潜めて通話中の女がいた。

「吉田グループの……いいえ、長男、青洲の所です……そう、あの青洲ですよ」

 女は書斎を掃除するふりをして部屋に入り込んでいた。

「いいえ、そんなことは決して……。ふふふ、冗談はおやめください。はい、承知しております。はい」

その時、階下から呼ぶ声がした。

「華陽ちゃんっ、書斎のお掃除、まだ終わらないの? もうお昼よ。冬君がお腹がすいたって言うの。華陽ちゃんも一緒に食べましょうよぅ」

「はぁい、昌代様、ただいまっ」

 華陽は階下に叫び返すと、再び声を潜める。

「では、また後ほど……はい、必ず」

 華陽は、大旦那様が亡くなる二年程前に住み込みの家政婦として石守家にやってきた。家政婦として、何でもそつなくこなす華陽だが、石守家の未亡人とは縁続きになる女で、そのせいもあって、奥様である昌代の華陽への信は厚い。だから家政婦仲間が陰で新参者のくせになどと悪口を言うことはあっても、彼女に面と向かって意見するものなど皆無なのだった。そもそも家政婦とは名ばかりで、昌代でさえ、華陽を妹くらいにしか思っていなかった。


――見たいっ、とびきり青い海!

 いずみは、東京湾さえ、まともに見たことがないと言う。初めて見るのなら、やはり水のきれいな青い海がいいだろうと言ったら、こう叫んで、青洲に抱きついた。


 死亡届について、いずみに確認したが、彼女はうろたえるばかりで、何も知らないと言った。

 密かに出されていた死亡届、籠の鳥の生活、何かの陰謀に巻き込まれているとしか考えられない。一体何に? いつから? それに、『鈴森』という姓……何もかもが引っかかっていた。


 電車の窓に顔をくっつけるようにして、流れてゆく景色を眺めているいずみの髪を、青洲は、そっと撫でた。振り返って小さく笑う鳶色の瞳。

 逃げるだけでは、彼女を守れないのかもしれない。そう思いつつ、足元の落ち穂を拾うように、小さな幸せを探してしまう。せめて無事子供が生まれるまで、このまま何もなければいい。青洲は願う。

 吉田に戻ってしまえば、今よりも格段に高い安全を手に入れることができるだろう。しかし、戻ってしまえば、また、あのしがらみの中に閉じ込められる、そんな気がするのだ。もう、そんなものは、すべて自分の人生から消去したはずなのに、何か痕跡のようなものが残っているような気がして、心の奥がざわざわする。

――もう二度と戻らない、戻りたくない。薫を死なせてしまった、あの頃の自分には……


 ホテルのフロントで青洲が書きこむ名前を、いずみは食い入るように見つめた。

――吉田青洲。妻、吉田いずみ

 青洲は、いずみの視線に気づいて、少し困ったような顔をした。


 ホテルはスペイン調のオレンジ色のまだら屋根に白い漆喰の壁、家具や調度品もスペインから取り寄せたというのが売りらしい。眼下にオーシャンビューが開けた気持ちのいい部屋に、いずみは目を見張る。

「どう? 気に入ったかな?」

「……言葉にならないよ。素晴らしすぎて……」

 いずみは窓の外を見ながら、ため息をついた。

「ねぇ、いずみちゃん。君は気に入らないかもしれないけど、しばらく、鈴森姓を名乗らない方がいいと思う。おじさん、気がかりだったから、君のことを少し調べさせてもらったんだけど……」

「しばらくじゃなくて、ずっと吉田いずみでいたいな。おじさんは気に入らないかもしれないけど……」

 いずみは青洲の言葉を遮った。

「……」

「ねぇ、おじさん。私、中学校を卒業した年に死んだことになっていたんでしょ? 私がいた奉公先の旦那様はそのことを知っていたのかな? 死人を雇ってたことがバレたら、迷惑をかけちゃわない? あ、でも、もう旦那様も亡くなっちゃってるから、大丈夫かな?」

 青洲は悲しげな目でいずみを見つめる。疑うことを知らないいずみ。

 仮にも、住み込みの家政婦を何人も雇う力のある家の主人が、死亡届がでている人間をそうだと知らずに雇うことなどあるだろうか。そんなことは考えられない。なんの身分の保証もないまま、いずみはその家に雇われていたに違いない。どんな虐待を受けても、いっそ殺されても、密かに処理されてしまえば、誰も罪を問わない、問われない状況だった……そういうことだ。

「いずみちゃんが心配することじゃないよ。自分とお腹の子の心配だけしていなさい」

 青洲は、いずみを背後から抱きしめた。

「でもねぇ、おじさん、いずみもっと心配なことがあるんだけど……」

 抱きしめられたまま、いずみが青洲を見上げる。

「何だい?」

「ここの部屋代、大丈夫?」

 青洲はかっくんと肩を落とす。あれだけ赤秀に色々言われていながら、相変わらず青洲のことを貧乏だと思っているらしい。青洲は苦笑する。

――そう、君は変わらない方がいい。そのままの方が……

「一晩くらい大丈夫だよ。そんなに心配なら、明日からは安い民宿にでもする?」

「民宿!」

 当然のことながら、いずみはホテルも民宿も泊ったことがないので、どちらにしても大喜びなのだった。


――あれは、何の音だろう……

 規則正しいようで規則正しくない、聞き慣れていない音なのに、なぜか懐かしい、寄せては引き、ひいては寄せる、心をなだめるように、解きほぐすように……。

 いずみは、潮騒の音で目を覚ました。隣のおじさんは、まだ良く眠っているようだ。いずみは、カバンの中からスケッチブックを取り出すと、ベランダの椅子に腰かけて絵を描き始めた。もうすぐ、海から生まれたての太陽が昇ってくる。その瞬間を紙の中に閉じ込めたいと、いずみは思ったのだ。

 ずず……ずず……ずずず

 そんな重そうな擬音がぴったりな緩慢さで、太陽はゆっくりと現れた。薄ぼんやりした大気の中を、光は、文字通り光の速さで駆け抜け、地上のありとあらゆる物に、深い影を刻み付けていく。その光と影の表裏一体性を、いずみは一心不乱に紙に書き写していく。

「……これは……」

 声に気づいて顔を上げると、後ろに青洲が立っていた。

「おじさん、おはよう」

 いずみは振り返ってほほ笑む。

「これは力作だね。鉛筆だけなのに……光が見えるよ」

「実際は、光が当たって影を作るでしょ? でも、絵だとね、影を描くと、光が現れるんだよ。不思議だよね」

「君、絵を誰かに教わったのかい?」

「正確には教わったわけじゃないの。父が絵描きだったの。死ぬ直前まで描いてたよ。風景画が得意な人でね、よく私に絵の説明をしてくれたの。ここはどこで、夕日がどっちから射してて、だからこうしたんだとか、この地方の海の成分はこうで地形がこうだから、こんな風に海の色が変化しているんだとかね。私、小さい頃、父はすごく有名な絵描きなんだって思ってたの。でも違ってた。名もない売れない絵描きだったの。そのうち絵具を買うのにも困るようになって、母が夜仕事に行くようになって……」

「そうだったのか……」

 青洲は、鈴森心という画家を聞いたことがなかった。確かに売れない画家だったのだろう。

「それはそうと、いずみちゃん、ここはすごく寒いよ。そろそろ中に入ろう」

 冬でも温暖な地域ではあるが、さすがに早朝のベランダは寒い。

「本当だ、さむーい」

 いずみは、今気づいたように肩を竦めた。


「兄さんにも困ったものだ」

 赤秀はオフィスの自分専用の部屋で、ため息をついていた。妹の薫を事故で失って、長男の青洲が失踪してから五年が過ぎていた。居所をようやく突き止めたと思えば、怪しげな得体の知れない女と一緒に住んでいる。人出を使って強引に連れ戻そうと出向けば、アパートはもぬけの殻。最近、色々不穏な噂が、吉田の家に届いていた。

――もっと早く情報を掴んでいれば……

 赤秀は顔を顰める。何かが水面下で蠢いている、そんな予感を赤秀は払拭できないでいるのだった。


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