第三話 疑心、暗鬼を生ず(1)
「ちゃんと調べてくれたんだろうな?」
情報収集をさせれば右に出るものはいないと言われる有能秘書中川を、青洲は疑わしそうに見つめた。
「私の情報が疑わしいとおっしゃるのですか?」
中川は、心外だと言う風に眉間にしわを寄せた。
差し出された調査資料には、こう書いてあった。
鈴森いずみ (父)鈴森心、(母)秋乃、の長女
心は、いずみが小学生の頃病気で他界。秋乃が働いて生計を立てていたらしい。働いていた先は、所謂、夜の仕事というやつだ。現在は行方不明。ここまではよくある話で、特に問題といえるようなものはないのだ。問題は次だ。
三年前、つまり、いずみが中学を卒業した年の春、鈴森いずみは、病死していた。
「……生きているんだよ」
青洲は眉間にしわを寄せた。
「は?」
「鈴森いずみは、生きてる」
「その女性のお母さまを探している、というお話だったのではないのですか?」
「ああ、そうだよ」
首を傾げる中川に青洲は続けた。
「今、その女性、鈴森いずみと暮らしている」
「そんな……」
有能秘書の中川は絶句した。
五か月目に入ったと同時に、今までのことが嘘みたいにふっと楽になった。つわりというものは、そう言うものらしい。昨日の自分と今日の自分が別人みたいだ。
気分の悪さがおさまると、食欲がわく。しかし、妊婦と言うものはあまり食事を余分に食べてはいけないものなのだそうだ。昔は二人分だからと本能のままに食べていたらしいが、そんなことをしていたら妊娠中毒症になるのだと、本に書いてあると、おじさんが言った。
――おじさんは読書家だ。そんな本読まなくていいのに……。
いずみは保険証を持っていない。それでも今まで困ったことはなかった。子供のころから、医者にも歯医者にもかかることがなかったからだ。母親に口うるさく言われて歯磨きと、うがいと、手洗いをマメにしたせいかもしれない。お金がないんだから、病院にはいけないよというのが、母親の口癖だった。
余ったフランスパンをこんがりトーストして、少し甘めに作ったオレンジソースに浸して冷やしておく。夕べ作ったクリームシチューに入れた生クリームを、少しばかり残しておいたのがあるのだ。いずみはニンマリする。今夜はデザート付夕飯だ。
クリームシチューの翌日、必ずと言っていいほど、華陽が作ってくれた賄いデザート。オレンジは安く手に入るし、フランスパンも生クリームも奥様や旦那様の料理に使ったあまりものだ。
いずみは、このオレンジデザートが大好物だった。味だけでなく、幸せで甘やかな気分になるからだ。まるで自分が大事にされている子供になったみたいに……。華陽は、いずみを甘やかせてくれた初めての大人だった。
呼び鈴の音がした。
「はぁい」
――今日、おじさんは少し遅くなると言っていた。誰だろう?
扉を開くと、青洲に良く似た人が立っていた。青洲と違うと分かるのは、その人がスーツ姿で、前髪で目を隠していなかったからだ。青洲と違う鋭く険しい瞳。
「こんにちは。あなたが鈴森いずみさんですか?」
その人は、青洲とそっくりな深い良い声で言った。
「はい。さようでございます。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
いずみは戸惑いながらも、奉公先で仕込まれた基本の挨拶を返す。
「僕は吉田赤秀、青洲の弟です。あなたが転がり込んでいるこの部屋の主のね」
「……」
いずみは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「お邪魔しても構いませんか? 立ち話で話せるような内容を話に来たわけではないのでね」
赤秀は、いずみの返事を待たずに部屋に上がり込み、部屋の中を不躾なまでにじろじろと見まわした。
「随分狭い所に住んでいるんだな」
赤秀は嘲るでもなく、笑うでもなく、呟くようにそう言った。
「あの、お茶でよろしいですか?」
「よろしいですよ」
赤秀は面白そうに返答した。
いずみは、ぎこちなく部屋の隅の台所へ向かうと、ほうじ茶を入れ始めた。背中に痛いくらいの赤秀の視線を感じる。
いずみは、卓袱台にほうじ茶と、お茶請けがなかったので、先ほど作ったオレンジデザートを添えた。ほうじ茶には合いそうもなかったので生クリームはやめて、粉砂糖を掛けてミントの葉を飾った。
「これはあなたが作ったんですか?」
赤秀は、オレンジデザートを見つめて言った。
「はい。本当は生クリームを添える予定だったんですけど、ほうじ茶には合わないかと思って……でも生クリームの方がお好きなら、泡立てますけど……」
躊躇いがちにいずみが問うと、
「いいえ、結構です」とそっけない言葉が返ってきた。
赤秀はほうじ茶をすすり、デザートを一口食べて目を細めた。
「なるほど、美味しいですよ……」
「ありがとうございます」
いずみが、笑顔で答えたのとほぼ同時に、
「これで兄をたぶらかしている訳だ」と赤秀が言った。
「……はい?」
「何が狙いですか? やはり吉田グループでの兄の地位ですか?」
「は?」
「それとも財産ですか?」
「あの……」
「兄のことをどこで知ったんですか? 心に深い傷を負って吉田を飛び出した兄をたぶらかすのは、随分簡単だったでしょう? 兄は弱っていた。あなたの魅力的な笑顔や優しげな言葉や美味しい料理に引っかからないはずはなかったんだ」
赤秀はフォークを静かに置いて、鋭い瞳でいずみを睨みつけた。
「あの、ごめんなさい。何の事を言っているのか分からないんですけど。私はおじさんのことは何も知らないんですよ?」
「君は、何も知らない、得体の知れない男と暮らしているんですか?」
赤秀は侮蔑の表情を露わにした。
「それは……」
「しかも、こんなデザートを作っておきながら、何も知らないと言う君の態度が気に食わない」
赤秀は吐き捨てるように言い放った。
「……このデザートがどうかしたんですか?」
ほとんど涙ぐみながら、いずみは問い返す。
――吉田グループとか弱っていたとか……さっぱり分からない。
「今日、僕は兄を連れ戻すためにここに来ました。あなたには兄を諦めてもらいたい。その為の手切れ金を用意しました」
いずみは息を止めて、卓袱台の上に置かれた封筒を見つめた。
「そんなもの……受け取れません」
奉公先を出た時にもらった金額の三倍はありそうな分厚さだ。
「あなたのような得体の知れない女性を、兄の身辺に置いておきたくないんですよ。その為のお金です。受け取ってください。そしてもう二度と兄の周りをうろつかないでいただきたい」
赤秀は冷酷な瞳でそう言った。
「……そんなものいただかなくても結構です。おじさんが、私に出て行けと言うなら、私はすぐにでも出て行きます。何をいただく気もありません。でも、それはあなたに言われることではないと思います」
いずみは涙を振りはらい、毅然とした態度でそう言った。赤秀は片眉をあげてから、顔を顰めた。
「足らないのですか?」
赤秀の言葉に、いずみの中で何かが、ふつりと切れた音がした。
「あなた、サイテー。お金を出せば、何でも思い通りになるって思っているんだわ。おじさんと同じような顔をしているのに、あなたはおじさんと全然ちがう。こんな最低な弟がいるから、おじさんは家を出たんじゃないですか?」
いきなり豹変してまくし立てるいずみに、赤秀が顔を赤らめて応戦する。
「金が目的でないなら何が目的だ? 君はお金で解決できないものが、この世にたくさんあると思っている人種のようだが、じゃあ、金なしにこのお茶が買えたか? このオレンジが買えたか? 世の中はきれい事だけでは生きていけない。そんなこと君が一番身にしみていることなんじゃないのか? 母親に見捨てられて、この世に存在しない、得体の知れない鈴森いずみさん」
「なに? なんのことを言っているの?」
――この世に存在しない? 何のこと?
いずみは呆然とする。
「赤秀、もうやめろ」
突然、ドア口で声がした。
「いずみちゃん、ごめんよ。弟が随分ひどいことを言ったみたいで……」
青洲は申し訳なさそうに部屋に上がり込むと、いずみの傍に座り込み、ポンポンといずみの頭を撫でた。
「……いずみちゃん、おじさんと一緒に逃げようか……って言ったらどうする?」
その夜、おじさんがぽつりと呟いた。
「いずみ、おじさんに付いて行くよ。だって、もういずみには、おじさん以外に、一緒に居たい人もいないし、居る場所もないし……」
おじさんとその弟は、あまり仲が良くないようだ。二人してしばらく睨みあった後、弟の赤秀さんは、また来るから、と言い残して去って行った。顔はそっくりなのに、おじさんとその弟は、性格が全く似ていないようだった。