第十六話 災い転じて福となす(2)
野いちごの結界を封印したその日、いずみは初めて吉田本家へ連れて行かれた。もう病人は誰もいなかったので病院には用がなかったし、前に住んでいたアパートは既に引き払っていたからだ。
吉田家は、いずみが想像していたよりも、ずっと格式が高かった。車を付ける出入り口だけで三か所もあるし、回廊で繋がれた和風建築は広大で一体何部屋あるのか見当もつかない。いずみは南側の通用口から入ると、長い回廊を通って一番東にある青洲の部屋へと通された。
通用口では、赤秀とその妻の冴子が出迎えてくれた。その時、赤秀夫妻に馨を連れて行かれていたので、青洲の部屋で、いずみは一人ぼっちで長い時間を過ごすことになった。柔らかに灯りがともる部屋から、闇に沈む和庭を眺めながら、いずみは何度も小さくため息をつく。
既に退院して、数日を赤秀夫妻とともに過ごした馨は、すっかり夫妻に懐いていた。三歳になる赤秀夫妻の一人娘の晴香が馨をとても気に入っているということらしいのだが、更に、馨がいると晴香が夜泣きをしなくて助かるのだそうで、是非預からせてほしいと夫妻に懇願された。とても断れる状況ではなかった。青洲が、久しぶりの親子水入らずなんだからと止めてくれたが、久しぶりの夫婦水入らずだろうと軽くいなされて、馨は連れ去られてしまった。
なんと言っても、少しぐずり気味だった馨が、赤秀の腕に抱かれた途端、ピタリと泣きやんだのだ。その時の、赤秀の勝ち誇った顔を思い出して、いずみはがっくりと項垂れる。いつの間にか、馨は吉田家にすんなりと馴染んでいた。
「青洲さん、遅いなぁ……」
いずみは一人、心細げに呟く。青洲は用事があるとかで、いずみは一人で青洲の部屋に取り残されてしまっていた。
青洲の部屋からは、南側に面した庭が見える。趣のある人工滝が流れ込む池、不自然なくらい自然に置かれた庭石、趣ある樹形にしつらえられた樹木、時折、池の水面に閃く優美なヒレが、いずみを居心地悪くさせる。
何もかもが立派過ぎるのだ。いずみは視線を室内に戻した。書棚には、難しそうな経営関係の本や、経済の本がずらりと並んでいて、いずみが読んで暇を潰せそうな軽い読み物はなさそうだ。
考えてみれば、いずみが読みそうな本など、この部屋にはちっとも似つかわしくない。
――似つかわしくない……これは私にこそぴったりな言葉だ。
いずみはそう考えて身を縮めた。心がどんどん委縮する。いたたまれなくなって、書棚からも目をそらした。
――逃げ出してしまいたい……
以前、島で感じた「身分違い」という言葉が、更なる圧力をもっていずみにのしかかっていた。中卒という学歴、身寄りのない天涯孤独な身の上、しかも、子持ちだ。これ以上ないというくらい、自分は青洲に相応しくない。
――馨を置いて逃げてしまおうか……いっそ私などいない方が、馨にとっては幸せなんじゃないだろうか……。
思った以上に長引いてしまった話し合いに、青洲は顔を顰めながら、回廊を足早に歩く。こんなことなら、やはりいずみから馨を離さなければ良かった。さぞかし、心細い思いで待っていることだろう。
――馨が一緒だったら安心だったのに……。
生まれて間もないはずの馨は、しかし誰もが頼りにしてしまうほど不思議な力を持った赤ん坊だった。実によく空気を読むのだ。笑うべきところで笑い、泣くべきところで泣く。あの赤秀をあっという間に味方につけてしまったのだから、その実力は折り紙つきだ。
青洲はノックとともに自室のドアを開けた。
「いずみちゃん、遅くなってごめん」
青洲はドアを開けて、部屋中に視線をさまよわせる。ソファを見、自分のデスクを見、奥の寝室を覗き、洗面所も覗く。青洲の部屋には、こじんまりはしていたが、奥にバスもトイレも付いていた。しかし、いずみはどこにも居ない。
「いずみちゃん? いずみちゃん!」
――いない?
青洲が慌てて探しに出ようとドアノブを回したところで、自分を呼ぶ小さな声を聞いた。青洲は振り返って、デスクまで歩み寄り、しゃがみこむ。
「いずみちゃん、何してるんだ?……かくれんぼ?」
いずみはデスクの椅子の脇で、膝を抱えて蹲っていた。青洲は小さく笑んで、その細い肩に手を掛けた途端息を呑む。いずみは小刻みに震えていた。こもった熱と湿気が掌に伝わってくる。
「いずみちゃん? 具合が悪いのか?」
青洲の問いに、いずみは黙ったまま首を振る。
「いずみちゃん?」
いずみは少し上気した顔を上げて、無理やりのように笑んで見せた。泣いていたらしい。青洲は驚いて、いずみの湿った頬に手を這わせる。
「どうした?」
「青洲さんちって、すっごい立派なお屋敷なんだね。びっくりしちゃって……」
青洲は苦笑する。
「もう何十年も前から建て増し建て増しで棟も増えたから、回廊でつないであるんだ。大抵の人はびっくりするけど、要は古いだけだよ」
しかし、青洲の説明を聞いているのかいないのか、いずみは余裕のない表情で言葉をつなぐ。
「……私、住むところを見つけなきゃだね。できれば、馨は青洲さんで面倒を見てもらえたらいいなと思うんだけど、初めて会った時に面倒を見てくれるって言ったよね?」
いずみは青洲を見ずに俯いたまま捲し立てる。いずみの何かを思いつめたような、少し頑なな言いように、青洲は小さくため息をついた。
「……いずみちゃん、俺、そのうち落ち着いてから、君にきちんと言っておかなきゃならないと思っていたんだけど、今言うことにするよ。俺は約束を守らない人間は嫌いだ」
いずみは小さく息を呑んで青洲を見上げた。
「俺、君に何度も言ったよね。絶対に一人で行動しない、それだけは約束して欲しいって……」
病院に居た頃、青洲は何度もいずみにそう言った。忘れていた訳ではなかったが、事情が事情だっただけに、いずみは一人で病室を飛び出した。結果として、いずみは青洲との約束を破ってしまったことになる。いずみは項垂れた。
「……ごめんなさい」
「君が病院からいなくなってから、俺がどれだけ君の事を心配して、探しまわったか分かるかい?」
それを恐れていた。だからこそ、青洲が心配したくなくなるような、もうあんなやつどうでもいいやと思えるような態度をとって、いずみは病院を出たつもりだった。でも、それでも尚、青洲は自分を心配し、探してくれたのだという事実に、いずみは、更に更に項垂れていく。
「それに、すごくショックだった。どうして華陽が君にした事を話してくれなかったのかって……そりゃ、俺も悪かったと思ってるよ。君に華陽の事を話せていなかったからね。だけど、もう少し俺の事を信頼してくれても良かったんじゃないかって、悲しかった」
「だって、私、華陽さんに復讐したいと思っちゃったから。だけど、もうこれ以上青洲さんや、吉田家の人に迷惑を掛けられないと思ったから……だから……」
「俺との約束なんてその程度だったんだ。復讐する為なら、俺との約束なんてどうでも良かった?」
「違う……そうじゃなくて、私、どうしても華陽さんが許せなかったから……だけど、それは私だけの問題で……だから青洲さんを、そんなのに巻きこんじゃいけないって……」
懸命に説明するいずみの頬に涙がつたう。
「俺が、君や馨を傷つけた華陽を許すとでも思ったのか? どうして自分だけの問題だなんて思うんだよ!」
「それは……」
「いずみちゃん、悪いけど、俺、今回の君の行動には物凄く怒ってる。君はどんな理由があろうと、一人で行動しちゃいけなかったんだ。俺を信頼してくれなかった君にも、信頼してもらえなかった俺自身にも、酷く落胆している」
「青洲さん、それは違う。私は青洲さんを信頼していなかった訳じゃない!」
「いや、君は俺を信頼してなかったんだよ。一人で行動したのがその証拠じゃないか。俺では君の無念を晴らせないと、君はそう判断したんだろう?」
いずみは力なく何度も首を振る。青洲は大きなため息をついた。
「……だから、俺を信頼しなかった罰として、君には吉田家から出て行ってもらう」
「馨は……」
怯えたように、いずみは青洲を泣きぬれた瞳で見つめた。
「馨ももちろん一緒だ」
「……青洲さん、馨だけは、どうか馨だけは……」
「そして……俺も一緒だ」
青洲はそう言うと、苦笑していずみの頭をくしゃっと撫でた。
「……青洲さん?」
「俺は吉田を出て、トーワの社員として働こうと思っている。トーワは諸々の理由で、今経営状態が悪化しているんだ。元の経営者が服役を終えて戻ってくるまでに、建て直しておきたいと思ってる。多くのトーワの社員は、経営悪化の端緒が俺にあると思ってて、だから建て直すと一口に言っても、簡単ではないはずだ。マイナスからの出発になるだろう。信頼させられなかった俺も罰を受けなきゃフェアじゃないからね。できれば、君には、その手助けをしてもらいたいと思っている」
「……青洲さん」
「当然、ここのような設備の整った家には住めないかもしれない。俺に悪感情を持っているトーワの社員は君にまで冷たく当たるかもしれない。だけど、俺は君と馨と三人で、挑戦してみたいと思っている。どうかな?」
青洲と一緒にいられる。安堵のあまり放心して、それでも懸命に、いずみは言葉を紡いだ。
「……私でできることなら、何でもお手伝いします」
「それから、もう一つ。俺、君に、もう何か月も我慢していることがあるんだけど……」
青洲は顔を顰めた。
「なんですか? 何でも言ってください……できることなら直します。だから……」
「今夜、俺、君を眠らせてあげられないかもしれない」
言われたことの意味を図りかねて、一瞬ぽかんとした様子のいずみに、青洲は軽く口づけてから抱き上げると、そのまま寝室へと運んだ。
* * *
クレーン船がギリギリとワイヤーを巻きあげる。島の西側の海底から、巨大な石の鳥居が浮上する。それを海岸から双眼鏡で覗きながら、赤秀は歓声を上げた。
「おおー、本当に鳥居があったんだなー」
「失礼ですね、僕が嘘を言ったと思っていたんですか?」
隣で佐川が口をとがらせた。
「本当に良かったんですか? サルベージ代を出してもらって……」
佐川の隣で、司が赤秀に問いかける。
「吉田でもつのはサルベージ代だけだ。まぁ、言わば見舞い金のようなものかな? まぁ、日出る処の神社より日没する処の神社への恩賜ってことで……」
ニヤリと笑う赤秀に、司は涼しげな目元を更に涼しくして返答する。
「それは光栄ですね。しかし、歴史的、地理的に鑑みるに、日出る処の某は、日没する処の某よりも随分矮小だったかと……どうかご無理をなさいませんよう」
「なんだとう!」
「大人げないぞ、赤秀。そもそも、おまえが先に言い出したんだろ?」
青洲が苦笑する。
「秋子さんの具合はどうだ?」
「離れで少し休ませてもらったら、随分良いようです。お気づかい痛み入ります」
青洲は、そうかと頷いて笑んだ。
「吉田さんは、本当にまた吉田を出るつもりなんですか?」
「ああ」
司の問いに青洲は頷いた。島から帰ったら引っ越しの準備だ。
「もし……華陽とのことで志木家に何か遠慮しているのなら、不要なお気づかいだと申し上げますが……」
あれからしばらくして、華陽は意識を回復した。しかし、彼女は左半身が麻痺し、しかも記憶の大半を失った状態になっていた。今は実家がある島の近くの地方都市に戻ってリハビリを受けているらしい。
「いや、そうじゃないよ。吉田の事はもう赤秀に任せてあるし、俺は俺でやりたいことがあるから……」
「そうですか」
司は納得したように頷いた。
「なぁ、佐川、俺ずっとおまえに聞きたいことがあるんだが……」
青洲が佐川に話しかける。なんですか? と問う佐川に青洲は続けた。
「この前、ここで俺についた水子の霊なんだけど、どうして俺に憑いたのか理由が分かったっておまえ言ってただろ? どうして俺に憑いたんだ? なんか気になるから、聞いておきたいんだが……」
青洲は、少し気味悪げに背後を気にしながら問う。
「ああ、そのことですか。まぁ、僕の私見ですがね。何らかの理由で魂が成仏できずにこちら側に残ってしまったのが霊なのなら、やはりその性は人なんだと、そう思ったんですよ。人ならば、自分の望みを叶えてくれる可能性の高い立場の人間に憑くんだろうと……」
「俺が霊の望みを叶えられるか?」
「少なくとも、あの場では僕よりもいずみさんよりも金は持ってたでしょ?」
へらへら笑う佐川に、俺は金づるかよ、と青洲が顔を顰める。
「まぁ、金だけ持っていても何もしてくれない人もいる訳だから、少なくとも、吉田さんはそんな人ではないと霊に認められた訳ですよ。良かったですね」
あしらうような佐川の言葉に、わざわざ聞いた俺が馬鹿だった、と青洲は一人ごちた。
鳥居を乗せたクレーン船が西海岸に接岸した頃、鳴春が運転する軽自動車がやってきた。鳴春の息子の夏生は、いずみと馨と佐川の祓いで声が出せるようになった。
「青洲さーん」
馨を抱いたいずみが後部座席から降りて手を振る。反対側のドアからは、マタニティドレスを着た秋子が降りた。
「鈴、縄、石、最強トリオのお出ましですね」
手を振り返しながら佐川が破顔する。そう言えばそうだな、と司も笑う。西日を背後に受けて手を振るいずみを眩しげに見やりながら、青洲もほほ笑んで手を振った。
その昔、凶なるもの、西海より流れ着きし
悪しき心満ち溢れ、妬みあい、憎み合い、奪い合った
四聖獣のもとに集まりし三つの神器
すなわち、鈴、縄、石もて
そのものを鎮め、縛り、封印せし
封印を解かれし鬼、再び現世に蘇えりし
悪しき心満ち溢れ、妬みあい、憎み合い、奪い合った
四聖獣によって、束ねられし三つの神器
すなわち、鈴、縄、石もて
再度、そのものを鎮め、縛り、封印せし
赤き金色の封印、禁足地にて祀られん
二度と解かるることなきこと願ふ
(了)