第二話 冬来たりなば春遠からじ(3)
――おじさんは、謎な人だ。
いずみは茶碗を洗いながら考える。
『キスだけで済まなくなっちゃいそうだ……』
などと色っぽく言った後、いきなり台所のシンクで頭から水を浴び始めた時は、正直あっけにとられた。
「いずみちゃんに何かあったら大変だから」とおじさんは、頭から水を滴らせながら言った。
どうやら、妊婦であるいずみの事を思っての行動だったらしいのだが、あまりにも突飛だったので、いずみはオロオロしてしまった。この寒い時期に頭から水なんてかぶったら風邪をひいてしまう。
おじさんの家には風呂がない。近所に遅くまで開いている銭湯があるので、そこに入りに行く。だから、あの後、気分転換も含めて二人で銭湯へ行った。
広い湯船は気持ちがいい。水色の四角いタイルのお風呂で、薬湯と白湯に分かれている。壁面には北斎の絵を真似たような富士山が描かれていた。
おじさんは大体朝八時に家を出ると、六時過ぎには帰ってくる。雨の日は休みだ。時々、お昼を食べに帰ってくることもある。何の仕事かと聞いたら、市の仕事を手伝っているんだと言っていた。よく日に焼けているところをみると、外回りの仕事なんだろうか? 雨の日は休みって、一体……。
天気が良かったので、蒲団を干してから掃除機をかけた。明日から天気が悪くなると予報で言っていたので、今日のうちにやってしまわなきゃ。
一とおり家事を終えると、いずみは縁側に出てスケッチブックを広げた。スケッチブックと三十六色の色鉛筆は、おじさんに買ってもらった。何か欲しいものを買ってあげると言われて、つい注文してしまったものだ。色鉛筆も三十六色になるとかなり値が張る、いずみは遠慮がちに言ったのだが、おじさんは気落ちしたようだった。
『そんなのでいいの?』と不思議そうな顔をしていたから。
いずみは縁側の下に、忘れもののように転がっていたドングリを拾い上げると、しげしげと見つめてから、スケッチブックに描きこんでいった。
輪郭を薄く書き込んで、色を重ねていく。
おじさんに買ってもらった色鉛筆は茶色だけでも四種類もある。光の当たり具合によって塗り分けて、影を付けていくと、質感や立体感が出てくる。
いずみは絵を描くのが得意だ。まるで写真のように、見たものを紙の中に閉じ込めてしまうことができる。フィクサチーフ(定着剤)を上からスプレーすると色落ちしにくくなるし、更に濃く色を乗せたい時にも有効だ。
いずみは、紙の中に閉じ込められたドングリを満足そうに見つめると、そっとおじさんの本棚に立てかけた。
前の奉公先では、色々な人の顔を描いて上げた。仲良しだった華陽さんは言うまでもなく、運転手の田中さんや、賄いのおばさん達。旦那様の似顔絵を描いてあげたら、すごく褒められて、その日からいずみは旦那様の身の回りのお世話をすることになった。
顔を早く覚えたいからと、旦那様は新しく入った使用人の顔を描いて欲しいと、いずみによく頼んだものだ。少しだけ特徴をデフォルメしたいずみの絵だと、写真よりも良く覚えられるのだと言っていた。旦那様は、いずみが奉公に上がって間もなく脳梗塞で半身不随になった。いずみは旦那様の介護に明け暮れた。
「随分リアルなドングリの絵だね。紙の中から今にも転がり落ちそうだ」
夕飯を一緒に食べながら、おじさんが感心したように言った。
「今度はおじさんの顔を描いてあげようか? いずみ、絵は得意なんだよ?」
「いや、いいよ」
「どうして? おじさんがその邪魔っけな前髪を何とかしてくれたら、リアルに描いてあげられるんだけど……」
おじさんの髪は、ぼさぼさに伸びていて、おじさんの目をほとんど隠している。そう言えば……いずみは考える。
――おじさんの目って、いつも髪の毛の隙間越しにしか見てないし、眉毛に至っては、その存在さえ確認したことがないよね。
「おじさん、どうしてそんなに前髪を伸ばしているの?」
「なるべく自分の顔を見たくないから」
おじさんは苦笑した。
「なにそれ?」
「そ、そう言えば、この挽肉の炒めもの美味しいね」
おじさんは慌てたように言った。
「それ、ハンバーグなんだけど……」
いずみは上目づかいで、おじさんを見つめて、がっくりと肩を落とす。
ひっくり返す時に分裂したのだ。それをまたひっくり返したらまた分裂した。分裂を繰り返すハンバーグに、いずみは為す術もなく溜息をついた。
「……」
おじさんは少し身を縮めて、黙々とご飯を食べた。
その日、目覚めるとやけに視界がさわやかなことに気づいて、青洲は目を擦った。
――あれ?……なんか足りないような……
薄明かりが入る窓に目をやる。カーテンはすでに開けられていて、台所でご飯の用意をしている気配が漂っていた。
――雨か……
雨が屋根を打つ音が聞こえていた。昨日の天気予報では、今日の雨はやがて雪に変わるらしいと告げていたのを思い出す。
「おじさん、御飯できたよ。今日は雨だから、まだ寝てる?」
いずみが、白いエプロン姿で台所から顔を出した。
いずみは、若い割に規則正しい生活をする人だ。家事はそれなりにこなす。まだまだ母親に頼り切った生活をしていてもおかしくない年頃なのに。
「もう起きるよ」
体を起こした所で、視界がさわやかな理由に気がついた。
「何だ? これ」
青洲は頭に手をやる。
「おじさん、前髪切りなさい。目が悪くなっちゃいますよ?」
いずみが母親のような口調で言う。青洲の前髪は、いずみのものと思われるオレンジ色のカラーゴムで結ばれていた。額の中央あたりで真上に一本で結ばれているので、噴水のように先がバラけている。
「……」
青洲は、苦笑してゴムを外した。
「おじさん、目を隠さない方がいいよ。その方がかっこいいのに……」
いずみは、不満そうにゴムを受け取った。
* * *
青洲はたじろいでいた。なんだか自分が、ものすごいことを言ってしまったような気がする。
「本当に? 本当に電車に乗るの?」
いずみは、呆然としているように見えた。
「いや、あの、その……本当は車があれば良かったんだけど、着いても駅から少し歩かなきゃならないから……今日は寒いし……やっぱり嫌……かな?」
「うっれしーい」
いずみは、ぴょんと青洲に抱きついた。まるでヨーロッパ旅行に連れて行ってやる、とでも言われたかのような喜びようだ。
「う、嬉しい?」
青洲は困惑する。
「うん、だって、いずみ、電車に乗ったことがないんだもん」
「え?」
今の時代に冗談みたいな話だった。いずみは電車を見たことはあるが、乗ったことがないのだと言う。
小学校も中学校も徒歩で通学だったし、休みにどこかに連れて行ってもらったこともないそうで、病気で寝込んでいた父親の看病と家事で、週末は終わっていたらしい。奉公先でも似たようなものだったと言う。
「でも、課外授業とか、修学旅行とかで電車に乗っただろ?」
「行かせてもらえなかったの」
「……」
いずみは、まるで籠の中の小鳥のような生活を強いられていたらしい。この子の親は、一体何を考えていたのだろうか。青洲は憤りを隠せない。
「おじさん? どうしたの? いずみ、何か悪いこと言った?」
いずみのオロオロした声に、眉間のしわを解いて見下ろすと、いずみの泣きそうな瞳と目が合った。
「ああ、ごめん。いずみちゃんは何も悪いことなんて言ってないよ。じゃあ、行こうか」
青洲は、気持ちを切り換えて微笑む。
最寄りの駅から電車に乗って三駅、今青洲が働いている現場に到着した。赤っぽい茶色の土がむき出しになっていて、ところどころに開けられた穴には、保全のためのシートが掛けられている。
「おじさん、ここで働いているの?」
「うん、今はほとんどここだね。あそこの穴からね、箱式石棺が出土したんだ」
青洲は、ひと際厳重にブルーシートが掛けられている場所を指さした。
「石棺って……遺体が入ってたの?」
「まあ、その為のものだから、入っていたんだろうね。掘り出した時には土が固まって入っているだけだった。この辺りはね、五世紀ごろに大和朝廷が勢力をのばしてきたんだけど、もともとこの地域を治めていた豪族がいてね、その豪族が朝廷から改めてこの地域の支配者として任命されたんだ。それが国造ってやつだ。この地方には十一の国造がいたそうだよ。この石棺に葬られた人もそのような人の一人だったんだろう」
「国造って、社会の時間に聞いたことがあるよ。社会は苦手だったから、あんまり詳しく覚えてないんだけど……」
そう言って、いずみは小さく舌を出した。
「ねぇ、おじさん、この石棺を埋めた人とか埋められた人とかは、この石棺が掘り起こされたことを怒っていないかな」
「……そうだね。その人が生きていれば怒っただろうね。こんなに時を隔てていなければ怒ったと思うよ。でも、これは千五百年以上も前のものだから……どうだろうね。後世に自分たちの様子を知らせられるなら、それでいいって思ってくれる心の広い人だったらいいね」
おじさんは少しだけ肩を竦めた。
「……死んだ人の辛さも、葬った人の悲しみも、全部理解してあげられるなら、きっと許してくれるよね」
「その気持ちは大切だね」
この中には千五百年前に起こった悲しい出来事が、涙と一緒に封印されているはずなのだ。青洲は死者と葬った人の無念に思いを馳せ、ぶるりと身震いをした。寒いせいばかりではなかったが、実際、寒いことは寒い。
「さすがに寒いな。疲れただろう? そろそろ戻ろうか? 駅前に美味しい手作りケーキの店があるから、そこで休もうか?」
「全然疲れてないよ。妊婦だって適度な運動は必要なんだって。でも手作りケーキには惹かれるなぁ」
「じゃあ、すぐに行かなくちゃ」
青洲は、ほほ笑んだ。