第十六話 災い転じて福となす(1)
秋子は、一人部屋のベッドの上でため息をついていた。
今現在、この病院には志木家の人間が四人も入院している。まずは、大旦那様、志木聖は、いずみの来訪時、昏倒した直後、既に病院に運ばれていた。その時からずっと意識は無いままで、危篤状態だ。そして華陽、彼女もかなり重篤らしい。未だに意識が戻らないと言っていた。それから、野上メイド長、彼女は除霊後すぐに意識を取り戻した。本人は平気だと言い張ったらしいが、司の指示で検査入院をしているのだそうだ。これらの情報はすべて、佐川崇から聞いた。司は聖の部屋につきっきりだ。
――どうしよう……誰かに相談したい。でも……誰に?
秋子は、再度大きなため息をつく。
受けられる検査はすべて終わって、結果も問題なしだった。
――否、まったく問題がないわけではなかったのだけれど……。
秋子は更に深いため息をついた。
夜更けに、司がやってきた。
「シュウ、父が亡くなった」
「……」
秋子は痛々しい思いで司を見上げる。
志木聖はもう永くない。それは司も分かっていたことだったので、その表情には悲しみだけでなく、既に諦めの色も混ざり込んでいた。
「俺は色々準備があるから、今から一旦家に戻る。君はここでゆっくりしているといい。まだ顔色が悪いようだ」
いつになく優しさのこもった司の表情に励まされるように、秋子は声を掛けた。
「司さん……一つ聞いていいですか?」
「一つなのか? すべてが終わったら全部聞くと言っていたようだが……」
司が苦笑する。
「とりあえず、今は一つです。今回の事で、封印と三種の神器と四聖獣の伝承の片はついたことになるんですか?」
秋子の問いに軽く顔を顰めてから、司は力なく笑った。
「……志木家から出て行きたいと言う訳だ」
「だって、私は志木家とはもうなんの関係もない人間でしょ? いつまでも厄介になっている訳にはいきませんよね。でも今の私には行く当てがなくって……それでも、私一人なら何とかできるだろうとは思っているんです。だけど……」
「もし君が、一人でやっていくつもりなら、それなりの支援はする。佐藤の家への支援が必要なら、それもする。難しいかもしれないけど、もし君が元婚約者との和解を計りたいなら……」
秋子は司の言葉を遮った。
「司さん、教えてください。私が婚約破棄までさせられて志木家に入ったのは、何の為だったんですか? やっぱり私が名和の人間だったからですか? 名和の力が必要だったから……」
切羽詰まった様子の秋子を、今度は司が遮る。
「シュウ……一度しか言わないよ。それは……俺が君に一目ぼれしたからだ。俺は君が……欲しかった」
司の言葉に、秋子は瞠目する。
「……でも、だったらどうして……」
ならば何故、秋子が結婚した相手は、司ではなく聖だったのか。
「俺には、その時配偶者がいた。結婚してから数度しか顔を合わせたことのない人だ。彼女は父が決めた相手だった。そして、君には婚約者がいた。結婚までもう時間がないと知った。だから……君が名和家の血筋であることを理由に、親父を焚きつけたんだ……監視するべきだと……」
「そんな……そんなことって……」
秋子は絶句した。
司は言いづらそうに、しかし、ぽつりぽつりと呟くように言葉を続けた。
「許されないのは分かっている。言い訳をさせてもらえるなら……君に関しては、自分の感情をコントロールすることができなかった。だから、君の事を手に入れたいと……口にしてしまったんだ」
一旦口にしてしまえば、後は司を依り代にしていた霊魂たちが、勝手に事を起こしてしまう。
「まさか、そのせいで佐藤の父と母は……」
秋子ははっと顔を上げた。佐藤の養父母は、突然人が変わってしまったのだ。説明がつかないくらい、突然。
「だから、どんな償いもすると言っている。霊魂が祓われてしまえば、君の養父母も元通りになることだろう」
「なんてことなの……」
秋子は、この二年間に、自分の周りで起こった諸々の事を思い出していた。あれらの悪夢のようだった出来事は、すべて運が悪かったのだと思っていた。自分がその原因だったなど、夢にも思わなかった。
秋子の元婚約者は、既に別の人と結婚している。その時にも色々あったのだし、元の鞘に戻ろうなどとはこれっぽっちも考えていない。霊の仕業だったのだとしたら、養父母は、いずれ元通りになるのだろう。問題は、秋子自身にあった。
「……随分辛い思いをしたんですよ?」
ようやくの思いで紡いだ言葉は、ひどく震えていた。
「幾重にも謝罪する。償いもする」
「謝罪も償いも欲しくないですっ」
真摯な司の言葉が、逆に秋子をイラつかせる。
「……では、どうしたらいい?」
「私は……私は、ただ……教えてほしいんですよ……」
秋子は泣きながら、消え入りそうな声で言葉を繋ぐ。
「……私のお腹にいる子どもをどうしたらいいのか……教えてほしいんです」
「……」
司は目を見張った。
ずっと生理が来ていなかった。しかし元々不順だった秋子は、あまり気にしていなかったのだ。ここ数日、軽く吐き気がしていた。窓から落ちた時の状況や体調を病院で色々聞かれた時に、そう説明したら、すぐに検査に回されて、妊娠が発覚した。元夫の息子の子ども……秋子の頭の中で、複雑で悲しい境遇の子どものイメージが渦巻いた。
「……それって、俺の子?」
呆然とした様子の司を、秋子はきっと睨みつける。
「私はっ、あなた以外の方とそのようなことをしたことは、一度もありませんっっ。どうしたらいいんですか? 私は元夫だった人の息子の子を……なんてややこしいの……」
秋子はさめざめと泣いた。
しばらく放心した後、司は一枚の紙を懐から取り出した。
「これを……」
取り出した紙を一瞥して、秋子は弾かれたように司を見上げた。
「責任をとって私と結婚するってことですか? そんなこと、できる訳がないじゃないですか。私たち親子だったんですよ?」
秋子は傷ついた瞳で問う。
「良く見なさい。これは離婚届だ」
確かに、その紙の上部には、離婚届と書いてある。名前の欄には司の名前が書かれていた。
「……これって……どういう……」
秋子は困惑した瞳で離婚届を見つめた。
司の説明を聞いて、秋子は泣きたくなった。実際泣いた。
秋子は、志木聖と結婚などしていなかったのだ。
志木聖と結婚する際、秋子は結婚届けに二回署名をしていた。書き損じたので、再度署名して欲しいと言われたのだ。しかし、当然のことながら、二通のうち一通は提出されなかった。当然でなかったのは、志木聖と秋子の署名がある方が提出されなかったということだ。二度目の婚姻届に秋子が署名した時には、確かまだ誰の署名も書かれていなかった。秋子の署名だけがされた婚姻届。それが後日、司の手によって署名され届け出されたと言う訳だ。秋子は司の説明に眩暈を覚えた。
志木聖との離婚届を署名した際に、秋子は、他のどの書類にも言われるまま署名をした。実は、あれは逆に、志木家の財産を相続する為の諸々の手続きの書類だったのだ。もし、秋子がきちんと確認さえしていれば、司の企みは、あの時点で露見していたはずだったのだ。
「じゃあ、今、私は司さんの……」
「法律上、配偶者ということになっている。もし君が、どうしても俺の子どもなど産みたくない、志木家から出ていきたいと思うのなら、その書類に署名をして出すといい」
司は、紙を丁寧に広げるとサイドテーブルに置いた。
「……司さんは、それでいいんですか?」
「シュウ……その質問には意味がない。俺の気持ちはもう話した。問題なのは君の気持だろう?」
秋子はしゃくりあげながら、懸命に言葉を紡ぐ。
「意味ならありますよ、大ありです。私は、ずっと……ずっと、司さんの気持ちを知りたくて……ジタバタしていたんですよ? この先、あなたの傍に、居られる可能性が一つでもないかって、ずっとずっと考えていたんです。さっき、どうしたらいいかって訊いたのは司さんじゃないですか。私は司さんの気持ちが知りたいんです。私は、私がここに居てもいい人間なのかを知りたいんです。だから、ちゃんと教えてください。私が納得できるまで、何度でも、司さんの本当の気持ちを……聞かせてください」
司は、涙でびしょぬれの秋子の頬に手を這わせた。
「……すまなかったシュウ。君に傍にいてほしい。俺と一緒に生きてほしい。俺には君が……必要だ」
二人は、初めて告白した恋人同士のようにぎこちなく抱き合うと、飽きることなく何度も口づけを交わした。