第十五話 汝にいずるものは汝に返る(4)
昏倒する司、それを抱き起しただけなのに息も絶え絶えな様子の秋子に、佐川と白舟が駆けよる。
「秋子さん? きちんと深く呼吸をしなさい。秋子さんっ」
白舟の呼びかけに返事はなかった。秋子は蒼白な上に唇が紫色に変色していて、医師である白舟には、秋子が十分に呼吸できていないように見える。原因は何も見当たらないのにだ。
――何が起こっている?
「どうしたんですか? 秋子さん、何が起こっているんです?」
佐川が秋子を強く揺すぶって呼びかけるが、目を見開いたまま急速に蒼白になっていく秋子からは、何の返事もない。
――まさか、二人ともヒルコに引きずられているのか?
佐川はすぐに退魔の印を結び始めるが、益々苦しげな表情になる秋子に気づいて、手を止める。
その時、白舟が手に持っていた携帯から声が聞こえた。
『白舟? もう祓い詞は詠じなくてもよかとか?』
鳴春の声だ。龍生は携帯を白舟から取り上げると鳴春に呼びかけた。
「鳴春、悪いが、もう少し詠じていてくれるか」
『そ、そん声は宗主ね? 分かりましたっ』
鳴春は慌てて、再び祓い詞を詠じ始める。
「四聖獣とは、所詮、神器を束ねる為の存在にすぎないのだろう。力を持っているのは、むしろ三種の神器の方だ。そうは思わんかね?」
もの問いたげな佐川に、龍生はそう言うと、携帯を秋子の耳にしっかりと押しあてた。
「しっかりせい、神器のおまえにしか、それを救えぬ」
鳴春の祓い詞に呼応するかのように、秋子の左腕が幽かに明滅した。その光を受けて胸元のタリスマンが光りを乱反射する。司はふと我に返った。
――駄目だ、これは攻撃できない……
急に力を弱める司の脳裏に、ヒルコの声が響く。
『コロセ クビリコロせ!』
『駄目だ、できない。ヒルコやめてくれ。シュウだけは……シュウだけは殺さないでくれ!』
殺そうとする意志と生かそうとする意志が拮抗して、秋子の首にかかった司の手がブルブルと震える。
その時、どこからか涼やかな鈴の音が鳴り響いた。
りーん ちりーん
りーん ちりりーん
三つの光が野いちごの結界の中から現れた。
『ヒルコ、もうやめよう』
『逝きましょう。時が満ちているわ』
『一人じゃないぜ。俺たちも一緒だからなっ』
涼やかな声が響き渡る。
――鈴守か?
司は瞠目する。
三つの光は、ふわふわ漂いながら司に近寄ると、背中に張り付いて、『せーのっ』と掛け声をかけるとヒルコを引っぱり出した。ずるりと引き出された黒く凝った影のヒルコは、未だに司の魂を掴んでいるらしく、白い霞みのようなものがつられて一緒に出てくる。時を同じくして、司にしがみついている秋子の左腕が白く強い光を放った。影と光に引っ張られる司の顔が苦悶に歪む。
『さあ、その手を離して』
『それじゃ、向こう側に行けないぜ?』
『ムコウ……がわ……?』
ヒルコは小さく首を傾げる。
『もう、一人じゃないから。一人で怖い思いをしなくていいの。私たちが一緒だから』
穏やかに、涼やかに、柔らかに三つの光はヒルコに話しかける。徐々にヒルコから発散されていた強烈な邪気が鎮まっていく。
『ヒトリジゃない……ひとりジャナイ……』
何度も繰り返し呟くヒルコの昏い瞳から、透明な粒子が飛散した。
『サビシかった……ダレ一人……オヤでさえ、ワタシをカエリミては……クレナかった。ツラい、苦シイ、淋シイ……。ナマエを呼ンでホシかった……つけてサエもらえなかっタ、ワタシの名前ヲ……』
秋子の光の腕とヒルコの闇の手に掴まれて、苦悶に顔を歪めたまま、司は涙を流した。
『ヒルコ、すまなかった。霊魂であるおまえを利用するだけ利用して、俺は何もしてやれなかった……おまえの孤独を知りながら、俺にはどうしてやることもできなかった……すまない……すまなかった……』
司の言葉を聞いた途端、ヒルコから邪気が完全に消失した。
『ヒルコ、ヒルコという名にしよう。おまえと同じように生まれてすぐに捨てられた子だ。だけど、正真正銘、神の子なんだ』
まだ高校生だった司は、そう言った。
『神の……コ?……カミの子……ヒルコ』
依り代を移ったその日に、ヒルコという名をもらった。それを思い出す。
『……司はワタシにナマエをくれた……イッショニ逝ってもイイと言ってクレタ……わたしのタメに泣いてクレタ……もう、イイ。もう、それでジュウブン……』
ヒルコは、はらりと司の魂を掴む手を離した。
途端に、光の粒子を纏ってヒルコも輝き始める。やがて三つ連なった光がヒルコと融合した。輪になった四つの光は、クルクル回転しつつ上昇し始めた。そして、それに従うように何処からともなく無数の小さな光の粒が集まってきて、これらもやはり回転しながら上昇し始める。光の渦は窓を透過し、やがて戸外に溢れている光の中に溶け込んで行った。
それを待っていたかのように、一際激しい疾風が吹き始めた。激しく泣きわめく赤子の声と、朗々と詠いあげられる祓い詞。それまで緩く明滅していた土偶から、爆発したのかと思うほどの閃光が放たれ、辺り一面を真っ白に包み込んだ。その場の誰もが、あまりの眩しさに目を瞑る。
屋敷中の窓ガラスと言う窓ガラスがガタガタと振動し、同時に野いちごの結界が木っ端みじんに飛び散った。飛散した粒子は、すべて秋子が作った土偶に吸い込まれた。すべてを吸収した土偶は急速に光を失い、やがて赤みを帯びた金色に輝く土偶となったのだった。
静寂が訪れた。
放心したように黙り込む大人たちの中で、小さなしゃくり声が響く。甘えているような泣き声だ。
「……マメ太? マメ太なの?」
突然聞こえた涼やかな声に、その場の誰もが振り返る。
唐突にその場に現れて、赤ん坊に駆け寄るいずみに、みんなが驚愕の目を向けた。
「いずみさん? どこから出て来たんです?」
素っ頓狂な声を出す佐川に、
「どうやら、うまく封印できたらしいな」と青洲が満面の笑顔で声を掛けた。
「吉田さんっ、あなたもどこから……あぁ、もうそんなこと、どうでもいいですよ。二人とも無事で良かった」
佐川は緊張が一気に緩んだようで、その場にへたり込んだ。
龍生からマメ太を受け取って、ぎこちなく抱くいずみに、マメ太は、
「あぁぁ、あーあー」と満足げな声を上げた。
マメ太の稚い声が、場の空気を緩ませる。青洲は、いずみに抱かれているマメ太のふっくりした頬をちょんちょんとつついた。鳶色の瞳がくるくる動いて、ぐーに握られた両手がぐるんぐるん振りまわされる。
「君にそっくりだろ?」
そう言って笑う青洲に、いずみもほほ笑んだ。
二人の笑顔を合図にしたように、沈黙していた大人たちが口々にしゃべり始める。それぞれに声を掛け合って無事を喜び合った。
「おい、白舟。ちょっと来い」
和やかな雰囲気の中、龍生が緊張した声を上げる。
「なんですか? お父さん」
龍生の指した方を見ると、華陽が蒼白な顔色で倒れていた。
「華陽……」
青洲が瞠目する。
かつて妻だった華陽だ。しかし、わだかまりは解消するどころかひどくなる一方だ。青洲は庇うようにいずみの肩をそっと抱き寄せた。
「志木……華陽……?」
白舟も目を見張る。
「診てやれ」
龍生の言葉に少し当惑したように頷くと、白舟は近寄って脈をとる。
「状態が良くないようだ。すぐに出せる車はありますか? 救急車を待つよりもその方が早いかもしれない。うちの病院で診ることもできますが、どうしますか?」
白舟の問いかけに、司が返答する。
「階下が病室になっているので運ばせます。医療器具は一式揃っているはずなので、応急処置をお願いできますか? すぐにかかりつけの医師を呼びますので……」
白舟は頷いた。
華陽は志木家の家人によってバタバタと運び出された。それに司と白舟が続く。
「こんなことをしなければ、無事で済んだんだろうに……」
佐川は、ビリビリに破られたスケッチブックの、華陽の顔が描かれているページを拾い集めた。ジグソーパズルのように繋ぎ合わせる。
「これは……名和家の封印じゃな?」
龍生がそれを手伝う。
「……ごめんなさい、私が……私が華陽さんを恨んで、そんなものを描いたばっかりに……」
おろおろと呟くいずみに、佐川は弱く笑んで首を振った。
「いずみさんが罪悪感をもつ必要はありませんよ。彼女は、恨まれて当然なことをしたのだし、それに、むしろこの封印があったからこそ、彼女は今この世にかろうじて繋ぎとめられているんだと思います。縄によって繋ぎとめられていた封印を破って、自らの命を危険にさらしてしまったのは、自業自得なんですよ」
「テープで止めてみてはどうかな?」
龍生の提案に、そうですねと言いながら佐川が立ち上がる。その時、マメ太が悲しそうに泣きだした。
「あぎゃあ、んぎゃあ」
先ほどまでの、重く大気を震わせた声とは全く違う、普通の赤ん坊の泣き声だ。
「どうしたの? 馨。お腹がすいたの? おっぱいが欲しいの?」
軽くあやしながら、いずみは何気なくブラウスのボタンを外し始める。
「い、いずみちゃんっ」
その場で胸を肌蹴ようとしているいずみに、青洲が慌てて駆け寄る。
ふと気づいて顔を上げると、佐川と龍生の、少しばかりぎょっとした、少しばかり期待の籠った視線が、自分に集まっていることに気がついた。いずみは「あっ」と小さく叫んで真っ赤になる。二人が慌てて目をそらした。
軽く吹きだした秋子がいずみに声を掛ける。
「良かったら、私の部屋へ。ご案内しますわ」
「馨ちゃんって言うの? 女の子? 男の子?」
「男の子です」
秋子のこじんまりした部屋は、心地よい光に溢れていて、草原のようないい匂いがした。居心地が良いのか、馨もすっかり安心したようにおっぱいを飲む。佐藤看護師長に母乳の飲ませ方を特訓してもらっておいて良かったと、いずみは思う。抱くのも初めてなら、母乳を飲ませるのも初めてだ。だけど、数週間のブランクなど感じさせないかのように、馨はいずみの手にすんなりと馴染んだ。
「凄く小さいのね」
お腹がいっぱいになってスヤスヤと眠る馨の手を、秋子はしげしげと見つめて小さく笑う。
「羨ましいわ。優しそうな旦那様に、可愛らしい赤ちゃん……」
秋子の言葉にいずみは軽く当惑する。
――青洲さんは旦那様ではないんだけど……
でも、否定するのも肯定するのも違うような気がして、いずみは小さく笑って問いかけた。
「秋子さんにも、素敵な旦那様がいらっしゃるじゃないですか。赤ちゃんはまだですか?」
「旦那……様?」
秋子は複雑な表情で問い返す。
――旦那様……大旦那様の事かしら……
「さっきだって、秋子さんに無事で良かったって、何度もおっしゃっていたじゃないですか」
ヒルコから解放されて、意識がこちら側に戻ってきた秋子は、司に抱きしめられていた。何度も何度も、無事で良かったと言ってくれたのは司だ。
彼は旦那様ではないと言いかけて、秋子は口をつぐんだ。関係は、ひどくややこしく、こんがらがっているのだ。それを、いずみに正しく説明できる自信が、秋子には無い。
――崇さんが言ったことも、まだ確認できていない……
秋子は以前聞いた崇の言葉を思い出す。
『……司はあなたのことが本当に欲しかったんですね。司は、そうとは言い出せないでしょうから、あなたは司の気持ちが分からなくて苦労したんじゃないですか?』
――あれは、崇の勘違いだったんだろうか。それとも何か別の事実があるの?
秋子は小さくため息をつく。
――そもそも、私は司さんの気持ちを分かったことなど、一度だってない。
理解しようとする意志が希薄だったのだ。今になってようやく気付く。自分の不幸にばかりに目が行って、周りを見る余裕がなかった。志木家の事も、自分の結婚の事も、そして司の事も。自分のことなのに、何一つ正しく説明できないことに、秋子は苦笑する。
その時、激しくドアをノックする音がした。開けると、司が蒼白な様子で立っている。
「シュウ! 君は大丈夫なのか?」
司は秋子の腕を掴んだ。
「は? 何が、ですか?」
きょとんとする秋子に、司が顔を顰める。
「二階の窓から落ちたそうじゃないか!」
「ああぁ~、気づいてしまいましたか。あの……すぐに謝ろうとは思っていたんですよ? でも、私、慌てていて……もしかして、かなり酷いことになってました?」
秋子は顔を強ばらせた。
「君は……何の事を言っているんだ?」
司は怪訝そうに首を傾げる。
「私が下敷きにしてしまった木ですよ。根元から折れていたようだったので、ちょっとまずいかも……とは思ったんですが……」
秋子が脱出した窓の下に広がっている裏庭は、幾何学的な形に刈り込まれた樹木で構成されたトピアリーの庭になっている。庭師が丹精込めて作った庭なのだと一目で分かるものだ。秋子が下敷きにしてしまったトピアリーは、志木家の家紋を模して、イチイの木を刈り込んで造ったものだった。お陰で秋子はかすり傷程度で済んだ訳なのだが。
「木の事など、誰も訊いていないだろう? 君の事だ!」
「私は、かすり傷程度だったので……」
司は小さく舌打ちすると、秋子の手首を掴むと歩き出した。
「あ、あの、どこへ?」
「病院だ。頭でも打っていたら大変だ」
「あの、でも、まだいずみさんが、部屋に……」
秋子が当惑して振り返ると、いずみが馨を抱いて廊下に出て来た。
「私はもう大丈夫です。秋子さんがそんな目に遭っていたなんて知らなくて、ごめんなさい、すっかりご迷惑をかけてしまいました。早く病院へいらしてください」
廊下には青洲が待っていて、いずみの姿を見つけるとホッとした様子でほほ笑んだ。いずみもほほ笑み返す。
「じゃあ、俺たちは帰ろうか」
青洲の言葉に、いずみは笑顔で頷いた。