第十五話 汝にいずるものは汝に返る(3)
秋子は落下していた。
見開いた瞳に中空で輝く太陽が焼きつく。
光が炭酸水のように泡立って、秋子の視界を真っ白にかき消して行く。
――何も……見えない……
両手が空しく宙を掻く。
薄れていく意識の中で、秋子は幽かな声を聞いた。
――ナンジニイマシメラルルナワサズケム
声に続いて、白い紐のようなものが光の中から飛び出してきて、それはまるで蛇のように秋子の左腕に巻きついた。真っ白な光輝く蛇
――なんて綺麗……
誰かの声が聞こえた。低い、男の人の声だ。
「あ、気がつきましたよ。大丈夫そうだ。なんて運がいい人なんだ」
それに応えるように、もう一人の、もっと年老いた男の声も聞こえる。
「運だめしにも程があろう。なんという無茶なことをする娘なのだ」
秋子は、ぼんやりと目を開いて辺りを見回す。
秋子は植え込みの上に落下したようで、なぎ倒されてひしゃげた木の無残な様子が目に映った。秋子を植え込みから引っ張り出してくれたのは若い男の方らしい。年寄りの男の方は、何か布にくるんだものを大事そうに抱えていた。
秋子は、ぼんやりしたまま左腕に目をやる。先ほど、窓から脱出した時に持ちだした白い延長コードが巻きつけられたままだ。
「……夢……だったのね」
秋子は小さく呟く。延長コードを蛇だと勘違いした夢を見たらしい。苦笑する。しかし、すぐに大事なことを思い出した。
――そうだ! 司さん。急がなきゃ!
秋子はにわかに跳ね起きると、大丈夫なのかと驚いて問う二人の男に軽く礼を告げて走り出した。秋子の後を、何故か二人の男もついて走る。
「君っ、君はこの家から逃げ出したんじゃないんですか?」
裏口から入ろうとしている秋子に、若い方の男が声を掛ける。
「あのっ、志木家にご用の方ですか? 今、私すごく取り込んでいるので、申し訳ありませんが、ご自分で玄関の方に回っていただけますか? 階下には家人がおりますので、声を掛けて頂ければ……」
秋子は階段を駆け上がりながら、早口で二人に説明する。
「我々も急いでいるんです。こちらに、吉田青洲がお邪魔していると思いますが、どちらにおりますかねっ」
若い男の方が、やはり階段を駆け上がりながら秋子に問いかける。秋子は驚いて足を止めた。
「吉田さんの関係者の方ですか?」
「僕は吉田白舟、青洲の弟です。こちらは父の龍生です。一刻も早く兄の無事を確認したいのですがっ」
男が説明した途端、息を切らしながら後を追っていた老人の腕の中の荷物が、声を上げた。
「ふわぁぁー、あぅぁ」
――赤ちゃん?
秋子は目を見開く。
「二階なのじゃな?」
老人は、布に包まれた赤ん坊に問いかけると、一人頷いて、軽く呆然としている秋子を追い越すと二階へあがって行った。それを白舟が追いかけ、秋子もそれに続いた。
佐川は、先ほどから祓い詞を延々と繰り返していた。何度も何度も封印の印を結び直す。印を結ぶ度に、屋敷のあちらこちらで軋む音はするのだが、際立った変化が起こらない。野いちごの結界の劣化は進み、徐々に顔色が悪くなっていく司の小さなため息ばかりが頻繁になる。
「司、大丈夫ですか?」
佐川が振り返る。
「……正直言うと、実に不快な気分だ。真綿で首を絞められているような気がする」
司は眉間にしわを寄せてそう言うと、喉に手を当てた。
「やはり、僕では駄目なのかもしれませんね。いずみさんも吉田さんも戻ってくる気配がないし……石守がいれば……」
どんな汚い手を使ってでも、石守夏紀を連れてくれば良かったのかもしれない。佐川は唇をかむ。
その時、突然大気が激しく振動した。
甲高い、それでいて重厚な泣き声が朗々と響きわたって、それが音叉を叩いた時のように、大気を震わせているのだと、佐川はすぐに気づいた。正確に規則正しく大気を打ち震わせる声に合わせるように、底流に低く静かに穏やかに祓い詞が詠じられる。二つの音が共鳴し合って、大気を震わせ、空間を揺るがし、疾風を生じさせていた。
――一体何が……
佐川は驚愕して振り返る。
そこには、布に包まれた赤ん坊を抱えた老人と、携帯を印籠のように掲げた男がゆっくり歩いて来ているのだった。甲高い声は赤ん坊から、祓い詞は携帯から発せられているようだ。少し遅れて、呆然とした様子の秋子が、その二人の後をついて来ていた。
秋子は司の無事な姿を見つけると、ほっとしたように駆け寄る。
呆然と老人と男を見つめる佐川に、老人が一喝する。
「続けられよっ」
慌てたように頷いて、佐川は再び印を結び始める。
――違う……さっきまでと、印の力が格段に違う……
一つ印を結ぶ度に、激しくスパークする音が鳴り響く。屋敷中が地震にでも遭っているかのようにガタガタと振動した。
「司さん? 大丈夫ですか?」
真っ青になって苦しそうにしている司は、それでも小さく肯いた。離れていろと、秋子を押す。
すべての印を結び終わり、いよいよ秋子が作った土偶の依り代に霊魂を封じ込めようとしたまさにその時、後ろで甲高い声が響き渡った。
「これなのねっ、やっと見つけたわ。この忌々しい絵っ」
華陽だった。
華陽は廊下に置かれていたいずみのスケッチブックを拾い上げると、自分の顔が克明に描かれているページを破りとった。止める間もなく、華陽はそれをビリビリに破く。
華陽が絵を破いた瞬間と、佐川が土偶の依り代に霊魂を封じ込めた瞬間がピタリと重なる。次いで、驚いた様子の秋子の左腕から真っ白なひも状の光が飛び出し、土偶の依り代に蛇がとぐろを巻くように絡みついた。白い光に絡みつかれて、土偶が明滅する。
土偶の明滅に合わせるように、突然、司と華陽が苦悶し始めた。
「司さんっ」
秋子はとっさに司に駆け寄る。司の顔は蒼白で、苦しいのか胸に拳を当てたまま昏倒してしまったようだ。
「司さんっっ」
倒れこんだ司を抱き起した秋子の脳裏に、初めて聞く少女の声が響いた。
少女の声は、冷たく暗く重く……哀しい。
『ワタサヌ オマエなどに ツカサを渡して ナルモノか』
それでも秋子は必死に司に縋りついた。
『お願いやめて! 連れて行かないで』
懇願して聞いてくれる相手ではないと、直感的に分かる。でも、懇願せずにはいられない。
――約束したもの。最後まで諦めない、守るって……約束したもの。
『ハナセ、デキソコないのナワのくせに、ドコデそんな力ヲ手に入れタ?』
ヒルコの纏う空気が、どんどん強い邪気を帯びていく。
『……シュウ、もういいんだ。離してくれないか。俺はヒルコと一緒に行こう。後を頼む』
気を失っているはずの司の声が脳内に響く。
『嫌です! 私は諦めないって、最後まで諦めないって約束しましたよ? 司さんも諦めないでください。司さんがいなければ、私一人で志木家をどうしたらいいんです? 後を頼むなんて、そんな簡単に言わないでください。私一人残されたら、生きていけませんよ。どうやって生きてけばいいか分かりませんよっ、司さんはいつも勝手です。勝手すぎますっ』
泣きじゃくる秋子に司は苦しげに手を伸ばした。
『シュウ……』
その時突然、冷たい空気が凝った。冷たい空気は、手を伸ばしている司の中に滑りこむ。司の表情が豹変した。
『フカンゼンな神器のクセニ、ナマイキナ。オマエも道連れにシテクレル!』
いつもより格段に低く抑揚のない声で、司はそう呟くと、伸ばした手を秋子の首にかけた。そのままぐっと力を込める。
『ううっ』
苦しげにもがく秋子を、司は冷酷に楽しげに見下ろした。




