第十五話 汝にいずるものは汝に返る(2)
結界の前に祭壇を設けた。祭壇と言っても、白い布を掛けただけの小机だ。すべての使用人を一階に退避させたので、二階に居るのは佐川と司だけだ。念のために、聖と華陽の病室も下に移していた。
「……司、確認しておきたいんですが……」
佐川は少し緊張した面持ちで、後ろに控えている司に話しかける。
「なんだ?」
「ヒルコという霊は……司の事をどれくらい浸蝕しているんです?」
「……それを聞いてどうする」
司は口の端を歪めて皮肉そうな顔で笑う。
佐川は都内に戻ってくる前、島に近い本土の街に、少しの間滞在していた。石守夏紀に会う為だ。三十年前の除霊の話を聞く必要があった。石守夏紀は、まだ四十を少し過ぎたくらいの歳なのだが、既に白髪で、歳よりも随分老けて見えた。右の眉から右頬に掛けて、ざっくりと切れた跡が生々しく残っている。右目は眼球自体が無く、左目もほぼ視力がないのだという。
佐川が初めて三十年前の除霊の事を持ち出した時、石守夏紀はひどく取り乱して、佐川を追い返した。佐川の粘り強い説明で、当時の状況を少しばかり聞くことはできたが、一貫して石守夏紀の口は重かった。それだけ心の傷が深かったと言うことなのだろう。
「またしても、志木家はそんような状況に……」
これが、ようやく玄関に入ることを許されて、石守夏紀が呟いたセリフだった。
「なんが悪かったとか、未だに分からんと。名和家に作ってもろうた石像が脆すぎたかもしれんし、名和家もそん場に連れてきておくべきやったかもしれんし、そいか……保が霊に浸蝕され過ぎとったかもしれんし、もしくは、どれもこいも、やり方が違っとったとかもしれん……」
石守夏紀はそう言って、深くしわが刻まれた顔を歪めて涙を流した。
「始めないのか?」
問いに答えず黙りこくったまま考え込む崇に、司は再度問いかける。
野いちごの封印は徐々に力を失っているようで、根元から少しずつ枯れ始めていた。豊かに茂っていた葉は灰緑色に変色して萎れ、花は既に散ってしまっていて、花の散った後が実る準備をしているようだったが、それは実にならぬまま軸ごとボトボトと落下する。
「……秋子さんを待ちましょう」
「いや、すぐに始めてくれ。秋子を巻き込みたくない」
「石守がいないんですよ。いずみさんだって、どうなっているのか分からない。せめて……」
佐川の言葉は司に遮られた。
「崇、これは志木家の問題だ。俺のやりたいように……やってくれないか?」
「しかし……」
佐川は、いつになく思いつめたような司の懇願にたじろぐ。佐川にとって司は、比較的歳が近くて一番身近な親戚だった。佐川には実際の兄もいたが、霊の気配を感じられる存在として、司は兄よりも近しい存在だったのだ。しかし佐川のシャーマン体質を知っているのは、司と佐川の祖母だけだ。そのことを知られれば、恐らく佐川は養子として志木家に迎えられたはずだ。安全牌として、志木聖は一人でも多くの後継者を求めていた。志木家に入れば、依り代としての偏った教育をされる。司は佐川の体質を知った時、隠しておくべきだと忠告した。そして祖母がそれに賛同した。司は秘密の共有者だった。司は佐川を、単なる年下の親戚として可愛がることも、パシリとしてこき使うこともしたが、決してその秘密を振りかざしはしなかった。佐川にとって司は、ある意味兄以上の存在だったのだ。
――だから、躊躇う。
躊躇って沈黙する佐川に、司は続けた。
「崇……ヒルコは俺が初めて依り代として引き受けた霊なんだ。随分長い付き合いになる。しかし、どれくらい浸蝕されているかなど、もうそんなの関係ないんだ。ヒルコは除霊される時には……俺も連れて行くと言ったんだから」
「司っ」
佐川は瞠目する。
「シュウは名和の力に目覚め始めている。おまえ、余計なことを吹きこんだだろう? 彼女がどこまでその力を発揮できるのか分からないが、発揮した場合、霊はその力に応じた迫害を加えてくるだろう。だから、シュウを巻き込みたくないんだ。石守がいないなら、なおさらだ。俺がいなくなった後の志木家の事を頼みたいとも思っているしな」
「名和の彼女に志木家を託すつもりなんですか?」
佐川は呆然と言葉を紡ぐ。
「なに、シュウがいれば、悪い霊も志木家には近づかなくなるだろう。望むところだろ? 崇、頼む。始めてくれ」
司の諦めたような、吹っ切れたような顔に、佐川はすべての言葉を呑みこんで、頷いた。
崇が読み上げる祓い言葉が静かに流れる。祓い言葉が書かれた除霊の本は、島の鈴守家の納屋の隅でようやく見つけたものだ。
「諸々の禍事 罪 穢有らむをば祓い給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと 恐み恐み白す……」
次いで、石守夏紀から直々に聞きだした封印の印を結ぶ。
秋子はイライラした気持ちで、傷口を押えていた。手当をしてくれると買って出たメイドの手際が極めて悪いのだ。消毒薬がないと探し、ガーゼがないと探し、包帯がないと探す。ようやく揃ったと思ったら、消毒薬を秋子のブラウスにぶちまけるし、包帯は転がって再びどこかへ行ってしまう始末だ。
「ねぇ、急いでいるのよ。もうガーゼで縛るだけでいいから早くしてくれない?」
「も~、奥様は見かけによらず短気ですねぇ。ちょっと待ってください。急かされると益々、あら、ガーゼが……」
ガーゼがメイドの手から離れて、まるで風に煽られたかのようにひらひらと宙を舞う。
秋子がガーゼを追って右手を伸ばす。自分でガーゼを拾って縛ってしまおうと思ったのだ。ガーゼはひらひら舞って床に落ちた。それを拾う為に手を伸ばした途端、秋子は左手に激痛を感じて顔を顰めた。メイドが秋子の左手を握っている。
――何?
振り仰いで、秋子は瞠目する。いつも見ているそのメイドとは明らかに違う表情だったからだ。驚いて見上げる秋子に、メイドは昏い瞳で笑んだ。
「アナタはツカサ様の所にイク必要ナドないんですヨ」
そう言いながら、メイドは秋子の左手の傷をぐいっと押し広げた。
「あっっ、痛いっ」
拡げられた傷口から、更に新しい血がボタボタ滴る。慌てて手を振りほどいて後退する秋子を楽しそうに見つめながら、メイドはさっさと部屋から退出した。
――なんだったの? 今のは……
呆然とメイドを見送った秋子は、左手からボタボタ血が滴っているのに気づいて、慌ててガーゼで縛った。
――とりあえずこれでいいわ。
しかし、ドアノブに手を掛けて瞠目する。
――鍵? まさか、このドアには鍵なんて……
しかし、何度ガチャガチャさせても、ドアノブは動く気配がなかった。
「ねぇ、ちょっと! 開けて! 開けなさいっ」
秋子はドアをどんどんと叩く。ここは二階の一室だ。他の使用人も、旦那様も華陽さんも階下に避難している。奥まった部屋なので、司や佐川がいる廊下からは離れていた。
――声が聞こえないのかしら?
そこまで考えて、秋子はようやく自分が置かれた事情を理解した。ここはピアノを置いてある部屋だ。つまり防音になっていると言うこと。あのメイドは、最初からこうするつもりで秋子をここに連れてきたに違いなかった。
秋子はドアをドンドンと叩く。誰も気づいてくれないようだ。徐々にパニックに陥っていく秋子の脳裏に、佐川の声が聞こえた気がした。
『不測の事態が起こって、いざとなった時には、司のことをどうかよろしくお願いします。本人には自力で何とかするようにと言ってはありますが、恐らく司にも僕にも、できることは無いに等しい』
――不測の事態に私が居合わせないように、仕組まれたってことなの?
秋子は気がふれたようにドアを叩いて、叫び続けた。
「開けて! ここから出して! 司さんっ、崇さんっ、誰かぁ、誰か来てぇぇ」
――どうしよう、どうしたらいいの?
ドアに耳を当てても廊下の様子がちっとも伝わって来ない。秋子は、部屋の中をぐるりと見回す。ピアノの向こう側に小さな窓があった。秋子はピアノの椅子を動かすと窓下にくっつけた。窓には、転落防止の柵も手すりもなかった。下を見下ろすと、階下の軒先が少しばかり張り出してはいるが、下手をすれば二階から転落することは間違いなさそうだった。
――何か、何かロープのようなものはないかしら……
しかし、部屋にあるのは電気コードくらいだ。手にしたコードは自分の体重を任せるには、少し頼りなく見える。無いよりはましだと電気コードを腕に巻き付けて、秋子は窓から身を乗り出した。実際に窓の外に踏み出すと、想像していたよりも足場は狭く不安定で高さがある。目がくらむ。足がすくむ。秋子は雨どい沿いに降りようと、用心深く横ばいに歩いた。
――怖い……
秋子は必死に雨どいに手を伸ばす。しかし、掴んだと思った瞬間、強い風か吹いて、秋子が履いていたフレアスカートが巻きあげられた。「あっ」と、とっさにスカートを押えた瞬間、足元がぐらつく。
――きゃぁぁぁぁぁ
真っ逆さまに落下しながら、秋子は司の声を聞いた気がした。
『あなたが、この家で無事にいられるのは、あなたが、素質のない、単なる役立たずだからですよ。出てない杭ならば、打たれない』
――駄目! 私は、まだやらなきゃならないことが! いやぁぁ、誰かっっ!