第十五話 汝にいずるものは汝に返る(1)
自分のしたことは、いいことも悪いこともすべて自分の身に返ってくる、という意
秋子は、自室にあるチェストの一番上の引き出しを開けた。中で暗緑色の土偶が、ゴトリと身じろぎをする。
この土偶は、佐川崇に頼まれて、佐川の叔母様の家のアトリエで秋子が作ったものだ。粘土をこねて、形を作って、佐川崇の知り合いの窯元で焼いてもらった。ちょっと見には、縄文時代の遮光器土偶に似ているかもしれない。崇に説明された使用目的を何度も何度も頭の中でイメージしたら、こんな形が脳裏に浮かんだのだ。秋子にとってのパーフェクトなフォルム。しかし、それでも秋子は迷う。
――本当にこれで良かったかしら……
秋子にとってはパーフェクトでも、使用目的にマッチしているかどうかを知る術は無い。
作りなおすことはできない。出来上がるまでに一週間かかったのだ。もちろん超特急で作ってだ。本来ならば、秋子が得意としているのは彫刻だったが、佐川が一刻も早く作って欲しいと言うので焼物にした。
「これは、いざとなった時使うことになるはずです」とも、言った。
――いざという時が来たってことなの?
秋子は唇を噛んで土偶を握りしめる。佐川の元に戻ろうと振り向いたところで、秋子ははっとして立ち止まった。
「司さん?」
いつのまにか司が部屋にいたらしい。少しも気づかなかった秋子は動揺する。
「崇と随分親しいんだな」
司の瞳には、いつになく諦観めいた色が浮かんでいて、それが妙に秋子の胸をざわつかせる。
「……佐川のおば様の家で、時々お見かけしただけです。特に親しい訳では……」
土偶を作っていることは、司に内緒にして欲しいと佐川は言った。司に憑いている霊に勘づかれれば、せっかく作った土偶にも、それを作った秋子にも良くない事が起こるかもしれないと言うのだ。秋子は、握っていた土偶をさりげなく背後に隠した。
「そうかな? それだけには見えなかったが……まぁ、いい」
司は、ゆっくりと秋子に歩み寄る。秋子は更に動揺して後ずさった。
「どうした、ひどく動揺しているみたいだな」
窓際まで後ずさった背中が、窓枠にぶつかる。
「あの……崇さんが待っていますよ。早く行かないと……」
司は分かっていると頷く。
「君は、吉田青洲が無事に鈴森いずみを連れて戻って来れると思うか?」
司の思いがけない問いに、秋子は困惑した表情で分からないと首を振る。
――あの二人、鈴森いずみと吉田青洲は、どこに消えてしまったんだろう。
秋子には何もないように見える廊下に、結界があるのだと佐川は言った。司にもそれが見えているようだ。
「司さんには、結界の中の吉田さんや鈴森いずみさんが見えるんですか?」
秋子の問いかけに、今度は司が首を振る。
「いや、見えるのは野いちごの蔓だけだ。二人とも、その中に居るんだろう。中は見えない」
司は更に秋子に歩み寄る。
「……司さん?」
司は指先で秋子の顎をつまんで仰向かせると、何度が軽く口づけを落とす。次いで、深く食むように口づけた。
「んっ、司さん、もう行かなきゃ……」
司は無言のまま、秋子の首筋に光っているシルバーのネックレスの鎖を指で引き揚げた。服の下に隠れていたタリスマンが現れて、光を乱反射する。
――俺はどうだろう。俺は志木家を……そして秋子を守れるだろうか。
司はタリスマンが隠れないように、秋子の服の胸元にそっと置く。
「もし……俺に何かあった時は、どうするか野上に指示してある。相談すれば、崇も助けてくれるはずだ」
そう言い捨てて司は背を向けた。秋子は一瞬固まって後、その背中に駆け寄ると司の上着の裾をつかんだ。
「司さん、私っ」
司が驚いたように振り返る。
「私、自分に何ができるのか分からないですけど、名和家の一人として、あなたを守ります。だから司さんも諦めないで……」
いつになく強い視線で見上げる秋子に、司は一瞬瞠目してから、面白そうに笑った。
「どういう風の吹きまわしなんですかね? あなたに守ってもらえるなんて夢にも思いませんでしたよ、お義母さん」
いつもの意地悪そうな嗤い顔。
――この人が私に突き放した言い方をする時は、危険から遠ざけようとしている時なんだ。そんなことに今頃気づくなんて……
秋子は口を引き結んだ。
「私は諦めませんから。最後まで絶対諦めませんからっ」
秋子のいつにない強い口調に、司はたじろぐ。
「シュウ、何を思いついたのかは知らないが、自分の身の安全を一番に考えろ。俺ばかりか君にまで何かあったら、志木家はどうなる?」
「私、物語を読み始めたら、結末もカラクリも全部知らないと眠れなくなる性質なんです」
秋子は突然きっぱりと言い放つ。
「……」
唐突な秋子の言葉に、司はぽかんとする。
「私はあなたを全力で守ります。その代わりすべてが無事に済んだら、あなたが書いたシナリオの結末もカラクリも全部、いいですか? 全部ですよ? 全部教えてもらいますから」
「……シュウ……」
司の表情が苦しげに歪む。
その時突然、秋子の部屋の中で、何かがスパークするような音が響き渡った。天井で、窓際で、ベッドの上で、サイドテーブルで、秋子の部屋の中のいたるところで、パシッ、パシッと音がする。
『イマイマしい名和が、ナニを企んでイル』
司の耳元で、いつになく感情を滲ませたヒルコの声がする。
「ヒルコ?」
司が息をのむ。
地震でもないのに、ベッドがガタガタと上下に弾み、本棚の本が落下する。ベッド脇の小テーブルに乗っていた小さな観葉植物が落下して、辺りに土を撒き散らした。
「何? 何が起こっているの?」
秋子は悲鳴を上げる。そのとき、小机の上に出したままにしてあった石材加工用の鑿が秋子の手目がけて飛んできた。
「きゃああ」
鑿は、まっすぐ秋子の左手に命中した。左手で隠すように持っていた土偶が、ゴトリと音をたてて落下する。血がボタボタと土偶の上に滴り落ちた。痛む左手を庇ったまま蹲る秋子の上に、更に他の工具が飛んでくる。
「やめろ! ヒルコ!」
秋子を庇う司の肩にも工具が当たるが、それは上着の表面を掠って落ちた。
『イマイマしい、うとまシイ……恨めシイ……』
「ヒルコ、やめろ!」
いつになく強い怨念の色を滲ませたヒルコに、司は戦慄する。所詮、ヒルコとて成仏できなかった霊魂なのだ。業をしょっている。恨む気持ちに火がつけば、手がつけられなくなる。そのことを忘れていた訳ではないが、実際にその禍々しい気配を目の当たりにすると、やはり竦む。更に、今までと異なって、ヒルコが秋子をターゲットにしたことに司は動揺していた。
――どうすればいい?
その時、ドアがパタンと開いて、佐川崇が入ってきた。
「臨 兵 闘 者 皆 陣 列 在 前」
崇が印を結ぶ度に、ヒルコから苦しげな声が漏れる。スパーク音が少しずつ鎮まっていく。最後の印を結んだ時点で、ようやくヒルコは暴走をやめた。しかし、未だに部屋中の空気に怒りが満ちている。
「崇……」
「あんまり遅いんで見に来たんですよ」
崇はいつになく切羽詰まった深刻な顔をしている。
「秋子さん、大丈夫ですか?」
崇は、しゃがみこんでいる秋子の隣に膝をつくと、震えている秋子を覗きこむ。秋子は震えてこそいるものの、毅然とした強い瞳で崇を見つめると、
「ええ、私は大丈夫です」といいながら、隠し持っていた土偶を司の目につかないように手渡した。
「シュウ! 血が!」
少し呆然としていた様子だった司が、秋子の左手を見て息をのんだ。鑿は秋子の手の甲を深々と抉っていたらしい。右手で押えていても尚、ボタボタと血が滴る。
「大丈夫です。私は手当をしてもらってからすぐに参ります。司さんは崇さんと一緒に先に行っていてください」
崇が付いていれば、司は恐らく大丈夫なのだろうと秋子は思う。何の呪文なのかは知らないが、崇の言葉で暴走していた何かが鎮まった。
「しかし……」
「司、先に行きましょう。結界が変化してきているんですよ。もうあまり時間がないようだ」
崇の言葉に、司は眉間にしわを寄せて、そうか、と頷いた。
「シュウ、君は本当に一人で大丈夫なんだな?」
「はい。私もすぐに参りますから……」
心配そうな司に、秋子は小さく微笑んだ。