第十四話 窮すれば通ず(4)
冷たく暗い水晶の粒子にともに引きずり込まれながら、青洲はいずみの手をしっかりと握りしめた。小さな冷たい手。
――もう離さない……
しかし、砂に体中を圧迫されて、次第に息さえできなくなる。
――くそっ、ここまできて……くっ……
やがて青洲は意識を手放した。
雨が降っていた。
しのつく冷たい雨だ。
時折、雨漏りがする粗末な小屋で、子どもは、兄妹たちと寒さをやり過ごそうと身を寄せ合う。
ある日、鎌や鍬を持った大人たちが粗末な小屋にやってきて、身を寄せ合っている彼女を兄妹から引き剥がした。病に伏せっていた母が、大人たちの足に縋って取り返そうとしたが、願いは聞き届けられず、強かに打ち倒されて水たまりに投げ出された。
「おっかさん! おっかさんっ」
彼女は必死に手を伸ばす。最後に見た母は、ずぶぬれの手を突き出したまま顔を歪めて泣いていた。すっかりやつれた青白い顔に、濡れて乱れた髪が貼りついている。
――あんなに濡れちゃあ、おっかさんが死んでしまう。病気なのに……。
彼女は母を失う恐怖に泣きわめいた。誰かが、うるさいと彼女の頬を打つ。
雨が降っていた。
火がついたように泣きわめく彼女の上にも、伏せたまま慟哭する母親の上にも、それに取り縋って泣く兄妹たちの上にも、容赦なく雨は降り続けた。
三年にもわたる冷たい夏があった。
村には、飢餓と伝染病が蔓延していた。
彼女が心配した母よりも、少しだけ早く天に召されることなど、その時彼女は知る由もなかった。
彼女は災異を鎮める為の、神への贄となったのだった。
青洲は目を覚まして、自分が号泣していることに気づく。辺りは一面、白い靄で包まれていて、真っ白な雪片のような花びらが、はらはら はらはら と落ちてくる。身を起こしてみると、傍らにいずみが座って、青洲を見つめていた。少し大人びた穏やかな笑顔を湛えている。
『青洲さん、やっぱり来てくれた。来てくれるって信じてた』
そう言って、いずみは花のようにほほ笑んだ。その笑顔に、青洲は安堵する。
「いずみちゃん、良かった。無事だったんだね」
青洲は、いずみに手を伸ばす。青白い頬はひんやりと冷たい。
『青洲さん、早くここから出ましょう。ぐずぐずしていたら、出られなくなってしまうわ』
焦っている様子のいずみに、青洲は大きく肯いた。
「そうだね。でも、俺、どうやってここから出たらいいのか分からないんだけど……君は分かるかい?」
『もちろんよ。何か願い事を言ってくれる? そうしたら、私がここから連れ出してあげる』
「……願い事?」
幽かな違和感があった。かみ合わせがずれて、軽く空回りする歯車の様な気持の悪い違和感。青洲は眉間にしわを寄せる。
『そう、願い事よ』
「……どんな願い事でもいいのか?」
『うん』
青洲はごくりと唾を飲み込んだ。
――これは、霊との契約に似ていないか? 願うことなど唯一つだ。ここから二人で無事に脱出すること。どんな願い事でもいいとは、どういうことだ?
「君は……誰だ?」
『……』
青洲が問いかけた瞬間、悲しげに顔を歪ませたいずみの輪郭がぼやけていく。青洲が驚愕している目の前で、いずみが、空気に溶け込んでいくように霧消した。
『おい、大丈夫なのか?』
ぼんやりと座り込む青洲の視界に、怪物が大あくびをしながら問いかける。ふと我に返ると、いずみの姿も、白く光っていた物体も消え失せていた。
「いずみちゃんは?」
青洲は慌てて辺りを見回す。
『あれは鈴森いずみではない。結界の中に閉じ込められた霊魂の一つだ。おまえを依り代にして、ここから出ようと考えたらしいが……まぁ、おまえを依り代にするなど、一か八かの賭けだろうな。それだけ、皆、切羽詰まっているのだ』
怪物はくつくつと面白そうに笑った。
「いずみじゃなかったのか……」
青洲は放心したように呟いた。
――それにしても、あの夢が本当の事ならば、なんと悲しい過去を背負った魂なのだろう。あのような悲しい魂達が、ここに閉じ込められているのだとしたら……
青洲の考えを、怪物の野太い声が遮る。
『同情はせんことだ。所詮、成仏できなかった魂だからな。業が深かったのだろう』
「……あんたも、そうなんだろ?」
青洲は怪物を見上げる。
『まぁな。俺もまた、業をしょってる。なんだったか忘れたけどな』
怪物の呑気な返答に、青洲はがくっと肩を落とす。
「忘れるようなことで、さまようなよ」
足元の靄が時折切れる度に、見える大地の色が徐々に赤みを帯びた金色に変わっていく。青洲はいたたまれない心持で、それを眺めた。
「なぁ、この結界の中で、このまま結晶化してしまったら、俺たちはどうなるんだろうな?」
『なんだ、もう諦めたのか?』
「いや、諦めた訳じゃない。結晶化するにしても、絶対いずみだけは探しだすさ。彼女をこんな所で一人ぼっちにしておきたくないからね」
青洲は立ち上がって、ズボンの尻をはたはた叩く。
『おまえが一緒でも、結晶化してしまえば何の意味もないだろう?』
呆れたように言いながら怪物もまた、立ち上がる。
「それでも、傍に居てやりたいんだ」
青洲の返答に、怪物は小さく首を傾げた。少し嬉しそうにほほ笑む。
『ならば、呼んでみろ』
「え?」
『力の限り、名を呼んでみるがいい』
怪物の提案に、青洲は息をのむ。
――どうして今まで気づかなかったんだろう。これはいずみの結界なのだ。ならば、すべてが、いずみのはずではないか。そもそも、いずみの兄姉たちが言っていたではないか。いずみは名前を失っていると。だから思い出させてやって欲しいと……。
青洲は声の限りにいずみの名前を呼んだ。
「いずみーっ、鈴森いずみっ、返事をしろ。鈴森いずみーっ。おまえは鈴森いずみなんだぞっ、この声が聞こえたら返事をしろっ」
何度も何度も名を呼ぶ。力の限り、声の続く限り。
苦しげに体を折り曲げて息を整えている青洲が、再び名を呼ぼうと体を起こした時、突然、重く垂れ込めていた雲が割れ、一筋の光が射し込んだ。射しこんだ光は、金色に輝き始めていた大地に丸い白い染み作りだす。青洲が眩しさのあまり目を細めた次の瞬間、そこにいずみが立っていた。泣きはらした後の様なぼんやりした瞳。憔悴しきった儚げな立ち姿。
「いずみちゃん」
青洲が喜色を湛えて駆け寄ると、いずみは戸惑ったように数歩後ずさった。
「……いずみちゃん? 俺だよ。青洲だ。覚えてないのか?」
「青洲さん……」
いずみは途方に暮れたように、青洲の名を呼んだ。
「良かった。覚えているんだな? 自分の名前も分かるんだな?」
小さく頷くいずみを、青洲は抱きしめた。その温かな頬に指を滑らす。
「青洲さん……どうして青洲さんがここに?」
「探した。君の事をずっと探していた。ずっと会いたかった。帰ろう、吉田に。俺の元に戻っておいで」
青洲の言葉に、いずみは静かに泣き始めた。
「青洲さん、私は……私、もう戻れない。良く覚えていないんだけど、たぶん私、誰かを……あの家の誰かを……殺しちゃったわ。マメ太を……マメ太を殺した……華陽さんが憎かったの。だから華陽さんに会いに行ったの……そうしたら……」
しゃくりあげながら、懸命に説明するいずみを青洲が制止する。
「分かってる。全部分かってるから。でも、君は誰も殺してない。だから心配しなくていいんだ。それに、いいかい、良く聞いてくれ。マメ太は死んでない。無事なんだ。かなり危険な状態だったけど、持ち直した。またマメ太が命を狙われるんじゃないかって心配だったから、白舟と話し合って、君にまで嘘をついた。そんなことをしなければ良かったと、今では後悔している。吉田で、マメ太が待ってる。だから、いずみちゃん、帰ろう吉田に」
「……マメ太が……生きてる……」
「そうだ、ちゃんと生きていて、君が吉田から出ていくまで、君の母乳を飲んで少しずつ元気になっていたんだよ。今ではもう、すっかり元気なんだ」
「良かった……マメ太……マメ太に会いたい」
いずみは泣きじゃくった。
「うん、会いに行こう。ここから出よう」
青洲の言葉に、しかし、いずみは悲しげに体を離した。
「青洲さん……マメ太のことをお願いします」
「何言ってるんだよ、一緒にマメ太に会いに行くんだろ?」
「私は、ここから出られない……ほら、もうこんなになってる」
悲しげないずみの視線の先を追って、青洲は瞠目する。いずみの足は、金色に輝き始めていた大地と溶接されたかのように一体化していた。慌てて、青洲はいずみを抱き上げたが、それはできなかった。力を入れれば入れるだけいずみに苦痛を与えてしまうようで、青洲は一旦断念する。
「どうしたらいいんだっ」
青洲は困惑する。
「……青洲さんはマメ太に必要な人だから、青洲さんだけでもここを出てください。マメ太を、マメ太をどうかよろしくお願いします」
そう言いながら、いずみは青洲の両手をとって自分の首に当てた。
「青洲さん。今ならまだ結界を壊すことはできます。だからお願い……私を殺して」