第十四話 窮すれば通ず(3)
結界となっている野いちごの根元は、じわじわと結晶化を進めている様子だった。それを一瞥してから、意を決したように、青洲は怪物の傍に歩み寄った。
「これをやろう。もう一つ願いをきいてくれ」
青洲はズボンのポケットにつっこんでいた甘酒付きのネクタイを取り出す。ネクタイは絹百%、確認済みだ。
――虫とは言え、生き物が作ったものなら、食っても大丈夫だろう。きっと……
『おまえ、この結界の中に入るつもりなのか?』
怪物は難しい顔をして問う。
「そうするよりほかに、いずみを助けだす方法がなさそうだからね」
青洲は硬い表情で答える。
『おまえなしで、鈴森いずみはどうするのだ? おまえは、鈴森いずみに安心して暮らせる場所を作ってやるんじゃなかったのか?』
「……いずみちゃんは、一人じゃない。生きてさえいれば、俺じゃなくても誰かがそんな場所を作ってくれると思う。彼女は……そうしてあげたくなるような人だから……だから、きっと大丈夫だ」
青洲は苦しげに言葉を絞り出した。
それまで黙って青洲と怪物の会話を聞いていた三兄姉は、首を傾げる。
『ねぇ、おじさん、その話はまだ続くの? 早くしないといずみが……』
「そうだったね、悪かったよ。じゃあ、ひとつ頼むよ」
青洲は苦笑してから、怪物に目で合図する。怪物が、青洲の首をへし折ろうと手を掛けた瞬間、三兄姉たちが悲鳴を上げた。
『きゃぁぁぁ』
『待て待て待て待てっ』
『ストッープ、ストップだよぉぉ』
三兄姉は、怪物のぶっとい腕に取り縋ったり、ペチペチ叩いたり、ごわごわの髪が渦巻いている頭にかぶりついたりしている。
『そんなことをしたらおじさんが死んじゃうだろ?』
『ちょっとー、青洲さんになんてことすんのよぉ』
『二人とも何考えてるんだよぉ、意味不明だぜ』
口々に文句を言う。
「だって、結界の中に入るってことは、魂にならなきゃ入れないってことだろう?」
怪訝そうに問う青洲に、三人が大きなため息をついた。
『そんなことをして、元の世界に戻った時、おじさんがいなかったら、いずみはまた路頭に迷うよ。あれはおじさんが思ってるほど強くないし、賢くないし、器用でもない』
「しかし……じゃあ、どうしろって……」
青洲は困惑して口ごもる。
『青洲さんは、私たちがいずみと同様に、名和の血を継いでいるってことを忘れていない?』
いずみに良く似た女の子が小さく笑んで青洲の手をそっと握った。小さい頃のいずみは、きっとこんなだったに違いないと青洲は思う。
「名和の血……」
「そう。名和は、すなわち縄。縛めるものであると同時に、繋ぎとめるものでもあるんだ。こんな風にね……」
二人の男の子たちが、青洲の両の脚にそれぞれ取り縋る。その上で、女の子がグッと青洲の手を引っ張ると、青洲は、青洲の体からするりとぬけだした。驚いて振り返ると、蝉の抜け殻になったかのような青洲の体が、同じ場所に立ちつくしていて、そこから青洲の本体まで細い糸のような白っぽい縄状のものがつながっている。
『僕たちは、おじさんが戻ってくるまでここで繋ぎとめておくから、必ず、必ず、いずみを連れて戻ってきて』
青洲は、しばし呆然としたまま立ち尽くす。後方で、怪物も目を見張っているのが見えた。
先を促すように手を引く女の子を制止すると、青洲は引き返して、青洲の脚にしがみ付いている男の子二人に、しゃがみこんで、それぞれ腕を回して抱きしめた。戸惑った男の子たちが互いに顔を見合わせる。
「ありがとう。君たちは……この世に生を受けられない辛い運命を背負った子たちなのに……なんて立派な兄姉たちなんだろうね。いずみは何て良い兄姉を持ったんだろう」
涙で声が震える。青洲の言葉を聞いた途端、三人を取り囲んでいた白っぽい光が、急に温かみのある金色の光に明滅する。
『青洲さん……』
後ろから、女の子が青洲の肩にそっと触れる。青洲は振り返って、女の子も抱きしめた。女の子は頬を赤らめて、くすぐったそうに笑うと、青洲をひしっと抱きしめ返す。
「おじさん、思い出したよ。以前お金に困って、消費者金融でお金を借りようとした時、君が、止めてくれたんじゃなかったかい?」
いずみの入院費の前金の為に、お金を引き出そうとした機械の防犯用ミラーに映った女の子の顔が、その女の子に良く似ていることに青洲は気づいた。
『あれ、三人でやったのよ。ばれちゃった?』
女の子は決まり悪そうに笑ったが、他の男の子たちは、やけに嬉しそうに悪戯っぽく破顔した。
「本当に、本当にありがとう」
青洲は何度も何度も、小さな子どもたちの頭を代わる代わるクシャクシャと撫でた。
『じゃあ、青洲さん行きましょ。早くしないと……』
「そうだね」
『ここから入れるわ。でもね、私たちは入れないの。いずみに拒絶されているから』
女の子は悲しげに青洲を振り返る。
「分かった。大丈夫だ。任せておいてくれよ。ちゃんといずみを連れて帰るから」
三人に頷くと、青洲は、先ほど三人が這い出してきた野いちごの結界に開いた穴に、身を屈めて入りこんだ。
結界の中は、粘るような闇が支配していた。
一筋の光も射さない闇の砂漠。空には嵐の前のような暗く渦巻く分厚い雲。しんと底冷えのする大気が這いずる大地。生き物の気配は無く、ただ、静寂と死の匂いが濃密に淀んでいる。
――なんて暗く悲しい場所なんだろう……
青洲は、絶え間なく意味もなく押し寄せる絶望感にさいなまれつつも、なんとか自分を鼓舞して歩き出す。数歩進んでため息をつき、更に数歩進んで、意味もなく慟哭したくなる気持ちを宥める為に蹲る。
――こんな寂しい場所に、いずみはいつから居るんだろう、いや、居たんだろう……
蹲ったまま、歯を食いしばって声を殺して泣く。
『おい、おまえ、青洲という名前なのか?』
蹲っている青洲の頭上から野太い声が響いた。青洲は、驚いて弾かれた様に顔を上げる。あの怪物が付いて来ていた。
「おまえ……付いてきたのか?」
青洲は呆けたように上を見上げる。
『どんな字を書くんだ?』
怪物は相変わらず、もっきゅもっきゅと口を動かしていて、青洲が先ほど渡したネクタイが口の端からはみ出している。青洲は、途方にくれた寂しい世界に突然現れた怪物に、嬉しさのあまり頬ずりしそうになったが、ぐっと思いとどまった。
「青洲の青は色の『青』だ。洲は長州の『州』に三ずいを付けたものだ。それがどうかしたか?」
怪訝そうに問う青洲を無視して、怪物はブツブツと呟く。
『青……鈴森……』
怪物と会話をして、少し気分が落ち着いてきた青洲は、再び立ち上がって歩き出した。振り向くと、怪物もブツブツ呟きながら歩き出す。少し安堵した気持ちで、先ほどよりも格段に軽い足取りで、青洲は歩き続けた。
地平線まで続いているように見える砂の海の上に、ぼんやりと白く光るものを見つけたのは、間もなくのことだった。
「あれは……なんだろう?」
『あれは、霊魂だ。いや、人かな? いや、ありえないか……なんだろうな』
頼りない返答でも返ってくるだけましだ。青洲は力を得た思いで、白い光に駆け寄った。
――そこには、白い光に包まれて横たわるいずみが……居た。
青洲は息をのんでいずみを見つめる。
「いずみっ」
駆け寄る青洲の足元を乾いた砂がすくう。
「いずみっ、いずみっっ」
沼のように沈んでいく砂に、青洲は泳ぐようにもがきながら手を伸ばす。ようやくの思いで、いずみの手に触れた途端、青洲はいずみとともに砂の沼に呑み込まれてしまった。